わざわざ小生のつまらぬ機関車の写真をみてくださるような貴兄なら、ジョン・アレンと、彼が生涯をかけて作り続けたゴーリィ&ディフィーテッド鉄道のことは、とっくにご存知ですよね。写真家でもあった氏のレイアウト写真は、50年代~70年代初めのモデルレイルローダー誌、モデル・レイルロード・クラフトマン誌を飾り、常に全米のモデラーにタメ息をつかせてきました。ジョン・アレンは機芸出版社の山崎主筆の知己でもあり、60年代~70年代初めの「鉄道模型趣味」には、ときおりジョンによる未発表写真が発表され、晩期にはゴージャスなカラーグラフも掲載されました。小生がTMSを買い始めたのは1974年1月号ですので、残念ながらジョン・アレンの記事をリアルタイムで読んだわけではないのですが、当時の日本の諸先輩ファンにとって、あの写真は大きな衝撃だったと思います。その後のアメリカには、マルコム・ファーロウやらジョン・オルソン、デイブ・フレーリーやらジョージ・セリオといった、優れたモデラーが登場しますが、断定形でいってしまうと、ジョン・アレンを超えるモデラーは今だ登場していません。何せ、稀有なアーティスティク・タレントとクリエイティビティを持った人材に、親の残してくれた財産があって、わずらわしい嫁も子供もおらず(あ、表現を不快に思われる方がいたらスミマセン)、朝から晩まで鉄道模型のことだけを考え、地下室のレイアウトを作る時間が与えられたのですから。
さて、鉄道模型界のもう1人の偉人に、リン・ウエスコット氏がいます。氏はモデルレイルローダー誌と46年間かかわり、1961-1977の16年間、編集長を務めました。そのリン・ウエスコット氏が晩年執筆した名著が、Model Railroading with John Allenです。この本は、日本でも機芸出版社を通じて輸入・販売されたので、お持ちの方も多いのではないでしょうか。これまた断言すると、鉄道模型ファンたるもの、常にこの本を手元に置いて、1日に1回は正座して眺めねばなりません。え、お持ちでない? アマゾンをみると、ハードカバーのものは高いですが、ソフトカバーの中古なら、30ドルちょっとで出ています。今すぐポチッするように。
ところで、この本、当然ながら英語で書かれており、写真を眺める分にはいいのですが、読むのには骨が折れます。いつか誰か奇特な方が日本語訳を出してくれないかなあ、と待っていたのですが、その気配がありません。小生、数年前に、よし、自分で訳してやろう、と全訳に取り組み始めたのですが、仕事が多忙なせいか、そのあと飲みに行ってしまうせいか、なかなか作業が進みません。そうしているうちに、グーグル翻訳がえらくパワーアップしてきて、あと数年たてば、全ての英文はこなれた日本語にしてくれそうな気配になってきました。げげげ、これまでの作業が無駄になってしまう。
前置きが長くなったのですが、そういうわけで、この本の最終章の下手な訳を、ここに掲載させていただきます。何度読んでも、泣けちゃうのです。もっとも、わざわざこのサイトをみにくるような皆様は、英語をそのまま読めちゃうような方ばかりですよね。この記事は小生の自分自身のための記録、ということでご容赦下さい。
終章
ジョン・アレンは1973年1月6日の夕方、心臓麻痺で亡くなった。さらに悲惨なことに、ジョンの死から僅か10日後、火事が、シエロ・ビスタ・テラス9番のジョンの家を焼き、彼の素晴らしいゴーリィ&ディフィーテッドを完全に破壊してしまった。
1960年代に少なくとも1度、ひどい心臓麻痺をおこしていたジョンは、1972年の秋、G&Dのメインライン完成に精力的に取り組んではいたものの、体調はすぐれなかった。彼は電話で私に「ゴールデン・スパイク(完成式)」は1973年の4月か5月になるから、そのときはぜひ来て欲しいと言った。1972年10月13日、彼はジム・フィンドレーへの手紙にこう書いている。「グレート・ディバイドからエンジェルズ・キャンプに本線を伸ばしている。線路と橋は完成したが、まだカプラーの解放ランプを設置しなきゃならない。作業のペースはゆっくりで、10年前に比べると、2倍、3倍の時間がかかるようになってしまった。体重は増えも減りもしないが、ひどく簡単に息切れする。夜もよく眠れないが、これは昼寝をしすぎるせいかもしれない」。
死に至る心臓発作の可能性を意識していたのか、手紙はこう続く。「家とレイアウトをどうしたらいいのかわからない。キミが家とレイアウトの面倒をみてくれる唯一の人かもしれないが、キミはそれを望んでいるだろうか。レイアウトをどう扱うのかわざわざ学ぶ気もないような人に、これを託すのはありえないし、自分自身が必要な多くのことを忘れ始めている。せめてあと2、3年あれば、昔のように体は動かなくても、メインラインを完成させ、短い時間でも19年前に考えたような運転ができるのだが」。
ジョンが亡くなったとき、ちょうどジム・フィンドレーが訪問中で、彼はジョンの死後も数日、家に留まった。アンドリュー・アレン(訳者注:ジョンの兄弟)とその奥方は、毎日家を訪れ、遺品を確認し、遺言を探した。G&Dの運転仲間は、今後レイアウトを維持する様々な方法をディスカションしたし、遺族はその助言に従おうとした。アール・フローズは回顧する。「ジョンが望んだのは、運転仲間の我々がレイアウトをいつでも運転できる状態に保つことだった。ジョンは誰かにレイアウトを生きた状態に保ってもらいたかったんだ」。ビル・コルサが付け加える。「われわれも皆、力を貸したいと思っていた」。ジョー・ケインはジョンの家を買ってもいいと思っていたし、ジム・フィンドレーは私に、あの家に住んでもいいと言っていた。ダレル・ハービンは独身だから、レイアウトの面倒をみることも可能だった。火事が、こういった可能性を全て奪い去った。
G&Dの運転仲間は、遺族に対してとても協力的だったし、遺族のアンドリューも、火曜の夜が定例運転会だったから、1973年1月16日の火曜日、彼らを呼び寄せ、運転会が催された。夜11時前にセッションが終了し、その夜は家に誰も残らなくなるので、クルー達はレイアウトと照明の電源をすべてオフにし、ガスヒーターを切った。そしてレイアウトを乾燥した状態に保つため、床暖房のサーモスタットを摂氏18度にセットした。
夜半、近所の人が、ジョンの家から火花と煙があがるのに気付き、モンタレー消防署に連絡した。すぐに消防隊がやってきたが、レイアウトを救うには遅すぎた。初期の調査では「鉄道模型の配線」が火事の原因とされたが、アンドリュー・アレンが依頼した私立調査員は後日、ヘレンゴン・ギャップ(訳者注:レイアウト上の地名)の奥にあるガス床暖房が原因であると結論づけた。ジョンはほとんどこの暖房を使わなかった。これは彼が家を冷えた状態に保つのを好んだためだと思うが、ひょっとすると彼は、この暖房が外にうまく排気されないのを知っていたのかもしれない。
1974年、アンドリュー・アレンは私に、モンタレーにきてレイアウトが何らかの形で救えないか見て欲しい、と言ってきた。例えレイアウトの一部でもいいから、博物館に移せないか? 一部だけでも再建できないか? 私は喜んで協力したいと考えたし、もしジョンの写真が燃えていないなら、せめて彼に関する本をつくることが出来ないかと思い始めた。
われわれが家に着くと、レイアウトがレストアできる状態にないことはすぐに判った。火事は多くのエリアを完全に焼き尽くしていたし、場所がわかる僅かな部分も、黒焦げになって、往時の美しさは消え去っていた。あの有名なフレンチ・ガルヒのセクションを救い出そうと、われわれは2時間汗まみれになって鋸を引いたが、セクションは壁から外すと同時に、崩れ落ちてしまった。
私は暗室でジョンのネガを、そして上の階で、彼の手紙のやりとりのファイル、図面、そして発表済と未発表の原稿を含む、プランニングのためのノートをみつけた。これらの素材とジョンのカラースライド(その前に救い出されてアンドリュー・アレンが持っていた)によって、この本が出来上がった。私は、将来にわたってずっと、大勢の鉄道模型ファンが、ジョン・アレンについて知ることを楽しんで欲しいと思う。おそらく彼こそが、これまでも、そしてこれからも、この趣味が持ちうる最も偉大な思想家なのだから。
ジョン、君に会いたい。
(リン・ウエスコット著 Model Railroading with JohnAllenの最終章”Epilogue”より引用)
著者略歴
リン・ウエスコット(1913-1980)
モデルレイルローダー誌と46年間かかわり、1961-1977の16年間、編集長を務めた。ジョン・アレンと親交が深く、晩年、ジョン・アレン本の執筆に取り組んだが1980年9月、最終準備中に亡くなった。本は1981年4月に出版された。
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