なんの脈略もなく、いま、飲んでるお薬の紹介を紹介する。
お風呂の前に、抗アレルギー物質1錠。このお薬自体は、眠くなる副作用を持つ。(わたしは、2歳頃から、アトピー性皮膚炎を発症している)
寝る前に、パキシル10mgを1錠。そして、眠剤は、マイスリー5mgを2錠。これでも、眠れなかったら、頓服として出して頂いただいているサイレース1mgを半錠。それでも駄目なら、残りのもう半錠を飲んでいます。
このほかにも、安定剤として、リーゼ5mgや、レキソタン5mgなどを2錠以上、常時、携帯しています。
わたしの飲んでいる抗鬱剤の量自体は、重篤な鬱病の方からしたか、微々たるもので、飲んでいるのか、飲んでいないのかも分からないくらいの量が、わたしにとっては、とても大事なもので、お薬への依存を減らしていく一環で、これを更に半分に減らしてみた約1ヶ月というのは、とても揺り戻しがきつかったです。ひどいときには、また、もとのように、一日中、臥せった状態で、何か話せば「死にたい」としか言わなかった次期に戻るのではないかというような恐怖さえ覚えました。
とりあえず、眠剤を、これだけ飲んでも、今晩は眠れません。
若干、夜更かしをしているライフスタイルを何故か無意識的に取っているせいもあるのかもしれませんが、父が亡くなってから、接種する眠剤の量は明らかに増えた。今晩は、雨は降ってはいないが、遠くから、地響きのような雷だろうと思われる音が聞こえてきます。気持ち悪い。いや、気持ち悪いというよりも、なにか、不吉なことが起こる前兆のようにもとらえてしまいます。そのせいでしょうか。
しかし、兎に角、今夜は、どうやって寝ようか・・・
寝れないのはつらいことです。いろんなことを思い起こします。本質的なことから、下らないことまで、多種多様に。
それこそ、夢想なところでは下記のような物です。
環境学的に、わたし達のあり方を探るということは、どのようなことであり、また、それに付随するものをどのようなかたちで持つことなのだろうか。
それに、「持続可能な発展」という甘い言葉を受け入れてしまってよいのだろうか。電気店のチラシを見ると、「省エネ」という文字が踊る。「エコ・エフィシェンシー」、つまり、経済性というインセンティブ(誘因)が、わたしたちを手招きをしているのであるが、それは結局、「エコ環境主義」が手練手管で、わたしたちを取り込んでしまうことだ。社会の一部として、そして、生態系の一部として生きるべき、わたしたちが、結局のところ、このままでは、どうあるべきなのかといった議論にまでは到達できない。エコ環境主義は、あきらかに、「西」型の開発主義の延長線上にあるものだ。西型の環境開発が頓挫しているのは、第三世界を見ずとも明らかだ思う。つまり、効率を礼参しても未来は開けるのだろうかという疑問である。このエコ・エフィシェンシーは確かに重要であるとは認識しているものの、結局、いまのままでとは、根本的に何も変わらない。「持続可能な社会」の構築には手が届かないだろう。だらといって、わたしたちは、手にした果実を容易には手放せない。わたしも含めて。なんて言ったって、わたし自身、こうやって、Macに向かっている訳だから。そんなこんなで、歴史的にも記念すべきリオで開催された「地球サミット」の希望は、かき消されてしまっている。そして、そのような事象を抱えるわたしたちに、ブルントラント会議で示された「世代間の公平」を守れるのであろうか。それどころか、日本国内でさえも、格差の広がりが問題となっている。「(世界の)地域間の公平」さえも実現できていない人類に、公平な未来はあるのだろうか。世界の多くの人々が、はじめから、「未来を盗まれて」いる。
その答えにはならないが、今は無理でも、わたしは、誰でも政策にもっと積極的にコミットできるというような社会の構築をひとつの課題としてあげたい。
企業とわたしたちとの関係に話しを移そう。コスト削減のための節もあるが、それでも企業の努力やグリーン購入自体も、その行動自体は賞賛されるべきことだ。しかし、実際、わたしたちが生活しているベースライン、何度も言うようだが、そのものの根本は基本的に変わらない。例をあげるならば、太陽光発電も、あの半導体を作るために、いかに汚染物質を生んでいるのか。第一、物を消費すること自体が、運送と深く関わっており、大気汚染を幇助している。
また話をちょっと変えよう。ユニークな例をまたも挙げるようだが、ある本で読んで妙に感心してしまったので覚えている限りで紹介したい。ミキサーを動かそうと思っても、ミキサーだけでは、ミキサーは動かない。インフラとミキサーを回すという文化と制度が整って、はじめて、ミキサーは本来の機能をする。そのような開発の普遍性に向かう第三世界を見ていると、普遍性の名の下に、多様性は無視されてしまう可能性があるような気もしないでもない。普遍性における、多様性の切り捨ては、京都議定書にも現れているのではないだろうか。日本の温室効果ガスの削減目標が1990年比の6%(2004年度比では14%)であることからも、削減の実現は到底できそうもないが、それでも、議定書が効力を持ったこと自体は非常に喜ばしい。しかし、それは、「ひとつの地球、宇宙船地球号」を意識的にしろ、無意識的にしろ想定してしまい、それが課す役割は、人間が「ひとつとなって」努力しなければならないということの実践かもしれない。これもそれ自体は大変に歓迎できる面も持つが、今度は、そのために、地域の多様性は取りこぼされうる可能性が出て来る。つまり、一般化された普遍性は、多くのものを取りこぼし、ひとつの価値観や制度を安易に押し付ける可能性がある。そればかりか、京都メカニズムのひとつである排出量取引は、わたしたちが生きている地域や環境を単なる市場にまで貶めてしまう可能性を秘める。グリーン開発メカニズムといったものも、その地域性を無視しかねない行動を推奨しうるかもしれない。
人間は環境を改変せざるおえない生き物だという前提をした場合、それでも、自然界のエンジニアとして、炭素循環の一環としてあり続けるためには、わたしたちはいかに存するべきか。その答えが、里山に隠されているのではないだろうかと、わたしは最近思わなくもない。
とかなんとか偉そうなことを考えつつも、やはり、お風呂場で、シャンプーを泡立てているときは、シャワーを切るといったようなことしか出来ない自分に、非常にジレンマを感じてしまう。しかも、そのお風呂は、ボタンひとつで6時間も湧いていると言う、24時間風呂に近い設計の物だ。ああ、わたしは、一体、どこへ行こうとしているのだろうか。このジレンマは永遠に解消されないのではないだろうかと思うと、大変に頭が痛く、環境ファシストにでもなってやろうかとさえ思えてくる・・・まぁ、これは冗談だが(笑)。
憲法改正論で、環境権の明記を求める動きもある(もうすでに、環境権は現憲法の中で盛り込まれているという論もある)。しかし、やはり、最終的には、最高裁の判断によって、環境というものが判例の中で定義されてしまうのであろう。そう思うと、日本の狭い環境の捉え方が、むなしくさえなる。
このような意味不明なことから、わたしは、あのような大事故(JR宝塚線脱線事故)にあって、生きのびたびたにもか関わらず、父はこのような事故で死んでしまった。生きているって何なんだろう、というような、中高生のようなことまでを改めて考えてしまいます。
実に青臭い。
お薬を飲んで、意識が朦朧としている状態で書いた文章なので、多分に誤字脱字、意味不明な文章的つながり、用語の間違い等々があるかもしれませんが、どうにか、お許しいただきたく存じます。
とりあえず、筆を置き、また、ベットに戻ることとします。もう、空は白みはじめてしまいました。
お風呂の前に、抗アレルギー物質1錠。このお薬自体は、眠くなる副作用を持つ。(わたしは、2歳頃から、アトピー性皮膚炎を発症している)
寝る前に、パキシル10mgを1錠。そして、眠剤は、マイスリー5mgを2錠。これでも、眠れなかったら、頓服として出して頂いただいているサイレース1mgを半錠。それでも駄目なら、残りのもう半錠を飲んでいます。
このほかにも、安定剤として、リーゼ5mgや、レキソタン5mgなどを2錠以上、常時、携帯しています。
わたしの飲んでいる抗鬱剤の量自体は、重篤な鬱病の方からしたか、微々たるもので、飲んでいるのか、飲んでいないのかも分からないくらいの量が、わたしにとっては、とても大事なもので、お薬への依存を減らしていく一環で、これを更に半分に減らしてみた約1ヶ月というのは、とても揺り戻しがきつかったです。ひどいときには、また、もとのように、一日中、臥せった状態で、何か話せば「死にたい」としか言わなかった次期に戻るのではないかというような恐怖さえ覚えました。
とりあえず、眠剤を、これだけ飲んでも、今晩は眠れません。
若干、夜更かしをしているライフスタイルを何故か無意識的に取っているせいもあるのかもしれませんが、父が亡くなってから、接種する眠剤の量は明らかに増えた。今晩は、雨は降ってはいないが、遠くから、地響きのような雷だろうと思われる音が聞こえてきます。気持ち悪い。いや、気持ち悪いというよりも、なにか、不吉なことが起こる前兆のようにもとらえてしまいます。そのせいでしょうか。
しかし、兎に角、今夜は、どうやって寝ようか・・・
寝れないのはつらいことです。いろんなことを思い起こします。本質的なことから、下らないことまで、多種多様に。
それこそ、夢想なところでは下記のような物です。
環境学的に、わたし達のあり方を探るということは、どのようなことであり、また、それに付随するものをどのようなかたちで持つことなのだろうか。
それに、「持続可能な発展」という甘い言葉を受け入れてしまってよいのだろうか。電気店のチラシを見ると、「省エネ」という文字が踊る。「エコ・エフィシェンシー」、つまり、経済性というインセンティブ(誘因)が、わたしたちを手招きをしているのであるが、それは結局、「エコ環境主義」が手練手管で、わたしたちを取り込んでしまうことだ。社会の一部として、そして、生態系の一部として生きるべき、わたしたちが、結局のところ、このままでは、どうあるべきなのかといった議論にまでは到達できない。エコ環境主義は、あきらかに、「西」型の開発主義の延長線上にあるものだ。西型の環境開発が頓挫しているのは、第三世界を見ずとも明らかだ思う。つまり、効率を礼参しても未来は開けるのだろうかという疑問である。このエコ・エフィシェンシーは確かに重要であるとは認識しているものの、結局、いまのままでとは、根本的に何も変わらない。「持続可能な社会」の構築には手が届かないだろう。だらといって、わたしたちは、手にした果実を容易には手放せない。わたしも含めて。なんて言ったって、わたし自身、こうやって、Macに向かっている訳だから。そんなこんなで、歴史的にも記念すべきリオで開催された「地球サミット」の希望は、かき消されてしまっている。そして、そのような事象を抱えるわたしたちに、ブルントラント会議で示された「世代間の公平」を守れるのであろうか。それどころか、日本国内でさえも、格差の広がりが問題となっている。「(世界の)地域間の公平」さえも実現できていない人類に、公平な未来はあるのだろうか。世界の多くの人々が、はじめから、「未来を盗まれて」いる。
その答えにはならないが、今は無理でも、わたしは、誰でも政策にもっと積極的にコミットできるというような社会の構築をひとつの課題としてあげたい。
企業とわたしたちとの関係に話しを移そう。コスト削減のための節もあるが、それでも企業の努力やグリーン購入自体も、その行動自体は賞賛されるべきことだ。しかし、実際、わたしたちが生活しているベースライン、何度も言うようだが、そのものの根本は基本的に変わらない。例をあげるならば、太陽光発電も、あの半導体を作るために、いかに汚染物質を生んでいるのか。第一、物を消費すること自体が、運送と深く関わっており、大気汚染を幇助している。
また話をちょっと変えよう。ユニークな例をまたも挙げるようだが、ある本で読んで妙に感心してしまったので覚えている限りで紹介したい。ミキサーを動かそうと思っても、ミキサーだけでは、ミキサーは動かない。インフラとミキサーを回すという文化と制度が整って、はじめて、ミキサーは本来の機能をする。そのような開発の普遍性に向かう第三世界を見ていると、普遍性の名の下に、多様性は無視されてしまう可能性があるような気もしないでもない。普遍性における、多様性の切り捨ては、京都議定書にも現れているのではないだろうか。日本の温室効果ガスの削減目標が1990年比の6%(2004年度比では14%)であることからも、削減の実現は到底できそうもないが、それでも、議定書が効力を持ったこと自体は非常に喜ばしい。しかし、それは、「ひとつの地球、宇宙船地球号」を意識的にしろ、無意識的にしろ想定してしまい、それが課す役割は、人間が「ひとつとなって」努力しなければならないということの実践かもしれない。これもそれ自体は大変に歓迎できる面も持つが、今度は、そのために、地域の多様性は取りこぼされうる可能性が出て来る。つまり、一般化された普遍性は、多くのものを取りこぼし、ひとつの価値観や制度を安易に押し付ける可能性がある。そればかりか、京都メカニズムのひとつである排出量取引は、わたしたちが生きている地域や環境を単なる市場にまで貶めてしまう可能性を秘める。グリーン開発メカニズムといったものも、その地域性を無視しかねない行動を推奨しうるかもしれない。
人間は環境を改変せざるおえない生き物だという前提をした場合、それでも、自然界のエンジニアとして、炭素循環の一環としてあり続けるためには、わたしたちはいかに存するべきか。その答えが、里山に隠されているのではないだろうかと、わたしは最近思わなくもない。
とかなんとか偉そうなことを考えつつも、やはり、お風呂場で、シャンプーを泡立てているときは、シャワーを切るといったようなことしか出来ない自分に、非常にジレンマを感じてしまう。しかも、そのお風呂は、ボタンひとつで6時間も湧いていると言う、24時間風呂に近い設計の物だ。ああ、わたしは、一体、どこへ行こうとしているのだろうか。このジレンマは永遠に解消されないのではないだろうかと思うと、大変に頭が痛く、環境ファシストにでもなってやろうかとさえ思えてくる・・・まぁ、これは冗談だが(笑)。
憲法改正論で、環境権の明記を求める動きもある(もうすでに、環境権は現憲法の中で盛り込まれているという論もある)。しかし、やはり、最終的には、最高裁の判断によって、環境というものが判例の中で定義されてしまうのであろう。そう思うと、日本の狭い環境の捉え方が、むなしくさえなる。
このような意味不明なことから、わたしは、あのような大事故(JR宝塚線脱線事故)にあって、生きのびたびたにもか関わらず、父はこのような事故で死んでしまった。生きているって何なんだろう、というような、中高生のようなことまでを改めて考えてしまいます。
実に青臭い。
お薬を飲んで、意識が朦朧としている状態で書いた文章なので、多分に誤字脱字、意味不明な文章的つながり、用語の間違い等々があるかもしれませんが、どうにか、お許しいただきたく存じます。
とりあえず、筆を置き、また、ベットに戻ることとします。もう、空は白みはじめてしまいました。