Vtuberの曲は僕達の人生を応援してくれない ーー月ノ美兎、星街すいせい、花譜のアルバムをレビューして得た音楽考察
(補足 2025年5月11日追記)
このnoteを投稿してから、「この曲は応援歌じゃないか」というコメントを多くいただきましたので、その曲たちをリストにまとめました。
どれも名曲ばかりだと思いますので是非お聞きください。
個人的には花譜『世惑い子』が「これは確かに熱い応援歌や・・・」となりました(1敗)
また、コメントにてこの記事で言及されている「直球の応援歌」が果たして世界で受け入れられるために必要か疑問だという声がありました。そして、それは確かに私が根拠を用意しきれていません(バイアスがあります)。
その前提でお読みいただけると幸いです。
(補足 2025年5月12日追記)
自分がこの記事でイメージしている投げかけるタイプの応援歌のプレイリストを110曲くらいで作ってみました。奥田民生『息子』のように、いじめられた息子を励ますような、暗いところを見る曲も入ってます。
(補足 2025年5月12日)
花譜さんの曲について追記です。
コメントでもいただきましたように、花譜さんの曲を聴きなおしてみましたところ、特にカンザキイオリがいた2nd~3rdアルバムの頃は確かに応援歌と言える曲(『畢生よ』『世惑い子』あたり)は存在していることは確認できました。
『命に嫌われている』が絶妙に花譜さんの曲ではなかったり、『トウキョウ・シャンディ・ランデヴ』『チューインディスコ』のイメージが強まっていたタイミングで書いていったのが、判断を狂わせたようです。
申し訳ありませんでした。
ひとつ付け加えると、花譜さんはアルバム事にカンザキイオリ期含めてかなり楽曲の陰影が変わっていくところがあるため、人単位でキャラクターをはっきりさせるのが難しいと思います。
この記事のタイトルは強くしすぎたかなあ・・・。
はじめに 2025年上半期Vtuber音楽noteの総括
伊藤)裏を返せば、VTuberが「時間軸を越える魅力をつくる」ということは今後の課題になると思います。実際に視聴者と過ごした時間しかコンテンツにすることができないという課題です。
伊藤)例を挙げると、今をときめく星街すいせいさんの武道館 Liveは演出含め非常に素晴らしく、あの感動はデビュー当初から武道館を目指すと明言していた星街すいせいさんと、そのファンである星詠みの皆さんが長い時間を共に過ごしてきたからこそのものだと思います。しかしながら、何年後かにVTuberを見始めた人がこのライブだけをみても同じ感動を得られないようにも思います。これは良い悪いでなく特性として、純粋なIPとは違う側面があるということだと思います。一方、例えば『鬼滅の刃』を初めて読むワクワクは、恐らく10年後も一定同じだと思うんですよね。
この引用文は、バルス株式会社の執行役員である伊藤氏が、Vtuberの今後の課題について述べた部分の引用である。
大手中心であるが、Vtuberの音楽をレビューしてきた私は、この文章を否定しきれなかった。私が2025年の1~5月のあいだ、Vtuber音楽のnoteを書いてきたのは、実はこの伊藤氏の指摘したような感覚を拭い去りたかったからだった。
ただ、私は月ノ美兎、星街すいせい、花譜をはじめ、にじさんじ・ホロライブ・KAMITSUBAKI STUDIOの曲を一通り聞いてみた。その時に、残念ながらライブではなく音源からであるものの、私も上記の伊藤氏の感じているものを覆せなかった。
私は2025年の3~5月の間に
①『月ノ美兎 2ndアルバム『310PHz』全曲レビュー(音楽編) ーー人はみな一度だけ生きる』
②星街すいせい『星街すいせいの革命論 ーーバーチャル時代のマドンナ誕生』
③花譜『花譜は最初から大人だった ーー『花譜は魂の移植に失敗した』に叛逆する』
という3つのnoteを投稿した。他にもにじさんじを中心に、10枚ほどアルバムをレビューした。ありがたいことにかなり広く読まれたこれらのnoteはどっちかというと、各ライバーのやってきた来歴に寄り添い、その上でそれぞれの音楽がどのような意味があるかを語るものだった。
このnoteでは、一旦、こうしたVtuberファン的な視点をおいておいて、
この三人の作品を中心に、「音楽オタク」として私がVtuberの音楽に
何を感じてしまったのかを書く。
そのため、このnoteがそのまま私の全ての想いだとは思わないでいただけるとありがたい。
ちなみにヒゲダン、ミセス、Ado、Kendrick Lamar、Creepy Nutsなどのヒット作から、エリオットスミスやミドリカワ書房のようなニッチなのまで聞いてカラオケで毎晩歌う音楽オタクである。
そういう人間が、Vtuber音楽に感じていることを書こう。
星街すいせいが以前、インタビューでこういってたことがある。
「それこそYouTubeチャンネル『THE FIRST TAKE』に出た時にも言われていたことなんですけど・・・バーチャルっていうものを受け入れられない人たち、この活動形態をずるいと思う人たちが結構いるんですよね。あんまり表に出てくんな、みたいな。私はお茶の間にVtuberを浸透させたいって思っているんですけど、そういう発言をすると『いやいや、気持ち悪いからネットに留まっててくれよ』とか『無理だろ』みたいなことを言う人たちがいっぱいいて。でもそういう言葉が増えていくと、逆に燃えたというか。『5年後、見てろよ』っていう気持ちもあるんです。Vtuberとかバーチャルと関係なしに、いちアーティストとして私の曲が聴かれるような未来が来たら、そう言って人たちは謝りに来いよ、みたいな(笑)。」
私は一連のアルバムを聞いて、この太字部分「ずるさ」をかんじるのは、
Vtuberという活動形態に対しても確かにあるのかもしれないが、何より「曲の歌詞そのものからも」ずるいと思われてしまう要素が存在すると感じた。
念のために言えば、私はVtuberの存在にずるさを感じない(というかむしろかなりの努力をしていると思っている)ため、歌詞の見せ方の問題だと思う。
ここでは、その「ずるさ」にフォーカスを当てようと思う。
くり返し言うが、私はこれまで3つ、V側に寄り添ったnoteを書いた。そしてそこで書いたように、文脈を知る人にとってそれらのアルバムは素晴らしいもので間違いがない。
しかし、文脈を知らない人にとっては、何の話かわからない上に、下手すると「Vtuberの世界って、アニメとは違ってこんなに殺伐としているの!?」となりえる曲だったのも、同時に感じてしまったのだ。
短い文章だが、私が感じたものを言葉にしてみよう。
個人的な疑問:なぜVtuber楽曲には本格的な応援歌が少ないのか
ゆずは『栄光の架橋』『虹』で、平らではない道のりを歩んできた人に
「その壁の先を超える」ための歌を贈った。彼等の効く人全てに届くよう、研ぎ澄まされた言葉は、時間を超え、特にアスリートの方に愛され続けている。
椎名林檎は『虚言症』や『ありあまる富』、『キラーチューン』で、どこまでも傷ついてしまった子たちに、(届かないと半分覚悟しながらも)大丈夫だと、あなたは誰にも奪えないものを持っているんだと歌った。
彼らは、確かに歌を聞いている僕らの知り合いではない。
それでも、その人の孤独を、ギリギリの言葉で応援しようとしていた。
こういわれると、例えばホロライブファンからはいやいや、「Say!ファンファーレ!」や宝鐘マリン「Ahoy!! 我ら宝鐘海賊団☆」、にじさんじファンからは月ノ美兎「人ってただの筒じゃないですか」、緑仙「WE ARE YOU」や全体曲「Virtual to live」「Hurrah!!」、るんちょまの曲たち、ぼっちぼろまる『タンタカタンタンメン』『天使と悪魔』があるじゃないかと言われるかもしれない。
確かに、これらの曲は応援歌として成立している。
ただしこれらの曲は、「どうしようもない日々を一緒に過ごそう(Virtual to live)」「私と一緒に苦難を乗り越えよう」という推しと一緒に暮らす日々に着目するニュアンスの方が強い。
私がここで考えたい応援歌は、聞いている人のどうしようもない絶望や孤独に触れ、それでもそれぞれの言い方でエールを送ろうとしている曲の事である。
加えて、私の想定している応援歌は中島みゆき『ファイト!』やMr.Children『終わりなき旅』のように、苦しみと孤独を直視したうえで、しかも「ファイト!」とその人に投げかける言葉を贈ろうとしていた。
Vtuberでも確かに、その人の孤独に向き合う曲はある。月ノ美兎の『人ってただの筒じゃないですか』はまさにそういった一曲である。しかし、それらの曲はある種の奥ゆかしさによって、非常にぼかされて作られていることが多かった。(もちろん、それもまた大きな良さなのだが・・・)
なぜVtuberは自分の苦しみばかり歌うのか
私が非常に不思議がっているのは、こうした曲はミセス、緑黄色社会、ヒゲダンといったトップアーティストでも歌っている非常にありふれたものであるのにもかかわらず、何故かVtuberはあくまで内省的で、かつ「僕達と一緒に頑張ろう」という歌が多いのだ。
星街すいせいの『Stellar Stellar』ですらそうだ。この曲は、確かに「迎えに行くヒーローになるんだ」という覚悟を決めている。しかし、この曲の歌詞は、僕達に言葉を投げかけることはしない。あくまでその叫びは内省で終わる。
『AWAKE』も、「痛みや破壊があっても革命を起こしたい」という意気は間違いなく感じられても、あくまで目指しているビジョンはぼかされていた。
花譜の「何者」は、Vtuberの存在を知っているかどうかで、楽しめるかどうかが非常に変わってくる曲である。花譜は、ご存じの通り、その成立過程において「バーチャル存在」としての自分を問われることが多かった。
「何者」が歌っているのは、そうしたVtuber特有の苦しみである。
しかし、これはかなりハイコンテクストな話であって、果たしてVtuberに詳しくない人がどこまでついていけるのかは不明である。
月ノ美兎の『人ってただの筒じゃないですか』『ルナティックウォーズ』
星街すいせいの『ビーナスバグ』や『Caramel Pain』、『AWAKE』(古くは『TEMPLATE』)
花譜の『何者』『アポカリプスより』『ゲシュタルト』
この辺りの曲は、曲の内部に暗いものが込められている曲である。ちなみに月ノ美兎の曲は、確かに明るい曲が多いのだが、noteの感想を色々みたところ、私と同じく、どこか暗さを感じている人が多かったことは補足しよう。
これらの曲は、「自分が苦しいこと」を起点に歌が始まっている。
そして、特に星街さんの曲は、等身大の若者が抱える不安に共感できるように作られていて、単にVtuberとしての悩みのレベルは、サードアルバムで超えているようにも見える。
しかし、くり返しになるが彼等の曲は、他者への投げかけが弱い。あっても、かなりそれはおしとやかな形で伝えられる。
これは、一歩間違えると曲とリスナーの距離の遠さとして捉えられる。
そして、バーチャル世界やインターネット世界の苦しみを歌い続ける弱点はもう一つある。それは、「そんなにつらい世界なら、Vtuberなんてない方がいいんじゃ・・・」と思わせてしまうことである。
「(輝夜月がV活動を)やめたいです」って言われたときも基本的に止めたいと思わなかったんですね。いろいろ刺されましたけれども。
でもその時にこの二人にも話していたのが、アバターって何かの可能性を拡大させる装置であって何かを閉じ込めるものであってほしくないって思いがあるんですよ。
』での、「輝夜月」発案者・田中良典氏のことば
このように、あまりに「Vtuberが苦しい」ことを、物語の核として曲にすると、確かにファンの共感を得ることができる反面、「アバター文化はこれだけ暗く、人の誹謗中傷に巻き込まれる世界なのか・・・」ともなってしまう。
Vtuberが自分の人生ややりたいことを強調するのは、もしかするとアンチの攻撃やファンの期待ではなく、自分のやりたいことを優先したいという決断の現れかもしれない。しかし、そこに「ファンとアンチの外」にいる人への
目線はまだ感じることはできなかった。
まとめ
まとめよう。ここから導かれてしまう「ずるさ」はこうである。
Vtuberは僕達の孤独に寄り添うことはしてくれた。
「私達も辛いよ」という言う形で寄り添うことはしてくれた。
この「寄り添う力」に関しては、他のジャンルで見られないほど
強力なのは間違いない。
しかし、Vtuberは一般人の僕達が、受験や仕事で苦しい時に、最後の瞬間
曲の中で背中を押してくれない。私達の1回しかない人生の苦しみには
向き合ってくれない。
しかも、寄り添ってくれたVtuberの推したちはやろうと思えば顔も形も変えて「卒業」や「転生」できてしまうじゃないか。
いくらでも交換可能じゃないか。逃げれてしまうじゃないか。
彼らはギバーではなく、テイカーでしかなかった。
これが、私が曲からも感じてしまったVtuberの「ずるさ」である。
そして、これが冒頭、バルス伊藤氏に述べた「10年後に同じライブを見ても感動できると思えない」という言葉につながる。
Vtuberが、1回の人生しかない僕らリスナーの心と勝負してないように聞こえるからだ。だとすれば、その曲たちは歌い手であるVtuberが卒業している可能性も高い10年後に再び聞いても、同じように感動できるかは怪しい。
(繰り返し言うが、あくまでこれは私がわざとVtuberファンだった記憶を消した時にこう思うだろうというシュミレーションであることを忘れないでほしい)
オーイシマサヨシが歌った「虚構」への祈り
なぜここまで私がここまで言うのか。
それは、月ノ美兎と星街すいせいと共演経験のあるオーイシマサヨシが
アニメソングという形で、誰よりも孤独を持つ少年少女のために
曲を書いてきた歌手だったからだ。
彼は優しいから、Vtuberたちのことも大事にしてくれる。しかし、彼の前で
月ノさんがVtuberは「秘密主義だから」といったり、星街すいせいがよいしょされているのを見て、これまで書いてきたようなVtuber音楽への印象も
あって複雑な気持ちもあった。
アニメみたいな恰好をした人が、アニメソングのシンガーよりも暗いというのは妙な感じもしたからだ。
オーイシマサヨシは2017年ごろから『けものフレンズ』の主題歌をはじめ、数多くの主題歌を歌ってきた。彼の作品は、確かにアニメに寄り添い、その作品を象徴するために作られる職業音楽的側面も大きい。
しかし、彼のモットーはアニメソングであっても嘘をつかないことだった。そのため、『主人公になろう! feat.鈴木愛理』『世界が君を必要とする時が来たんだ』といった楽曲は、そのアニメの力を引き立てる89秒ルールを守りながらも、聞いている人の背中を思いっきり励ます曲になっていた。
そして、アニメ『SSSS GRIDMAN』のために書き下ろしたOxtの『UNION』、オーイシマサヨシ名義の『インパーフェクト』『uni-verse』はどの曲も、アニメの世界のキャラクターたちを愛してしまった人たちへの
力強い応援歌になっている。
「君を退屈から救いに来たんだ!」
大人になれば、アニメの中にあるめちゃくちゃな設定の物語も、
ほんとうはないと嫌でも思い知らされてしまう。
そこにオーイシマサヨシは、「あの時代に思い描いたヒーローは胸の中で生きている」とはっきり歌った。
Vtuberもアニメも、虚構で嘘で、いつか忘れてしまうものかもしれない
(星街すいせい『Caramel Pain』)。
そう落ち込んでいる人に、彼は「顔を上げてよ」とはっきり言ったのだ。
彼の音楽は、どんな曲でもアニメという虚構を愛する人に捧げられている。
オーイシマサヨシの音楽人生は、必ずしも順風満帆なものではなかった。
それでも人の為に歌が歌えていることを忘れなかった彼の周りには、
いつのまにか1万人の観客がうまれていた。
エンターテイナーとなった彼は、今日もふさぎ込んだ日常を溶かす曲を
歌い続ける。
おわりに@星街すいせい ーー椎名林檎が歌った「綺麗事」
終わりのまとめは、星街すいせいさんに届けよう。
星街すいせいと花譜は、2023年のインタビューで、タイトルにもあるように「誰かを救うために歌うんじゃない」と語っていた。KAI-YOUの記事なので、多くは語れないが、歌はあくまで感情表現であり、自分の想いを形にするものであり、「結果として」人を救うこともある。そんなニュアンスの記事だった。
つまり、私の文章はこの二人に対する逆張りだった。
ここまではっきり「人を救うために歌うのではない」と言われると、
この記事のタイトルもはっきりと「Vtuberの曲は僕達を応援してくれない」としようと決めた。
この記事を書いたのは、星街すいせいが初めて自分で作詞作曲した『綺麗事』を聞いたからだった。星街すいせいは、この曲の中で昔から遊んでいた友達が、「きれいごと」を言いながらどんどんいろんなことに諦めていく様子を見たところから、何かを言いたくなるが、その言葉が「きれいごと」であるから、ただ歌うんだと決断する曲になっている。
この曲は、実は星街さんが『革命を起こす』と言い続けたのに反して、
非常に諦めの色が濃い曲に聞こえてしまった。
彼女は、優しさからか、その友達に「遊びにいこうよ」と言えなかった。
これは星街すいせいという存在にかかった呪いでもあるような気がした。
なぜなら、星街さんが「これは自分のための曲だ」とか「自分のために生きなきゃ」「やりたいことのために生きなきゃ」と言えば言うほど、
彼女が他の人の人生に口を出すことは、「自分本位」で生きていない証拠になってしまうからだ。
『Stellar Stellar』を歌っていたころから、様々な事件を経て彼女も、他人のために歌っている場合じゃない、となったのかもしれない。
でも、さらに言えばこの呪いは、星街すいせいだけではなく、
推し活をやっているファンたちに囲まれて、ずっと「自分らしさ」を
求められ、炎上しないようにひたすらラインを考えているバーチャルユーチューバーにかけられている呪いでもあるのかもしれない。
「自分のため」を歌い続けた代償は、他人の人生に入り込めないことだった。『新星目録』を聞いた時に感じた孤独は、おそらくこういうところが原因なのだろう。
この時、私は椎名林檎のことを思い出さずにいられなかった。
椎名林檎は、初期からギリギリの言葉を紡いできた。
例えば、『虚言症』という曲では、新聞に載っていた線路に寝転んで自殺してしまった子のことを想って作られた歌だった。
この曲が「虚言症(英語ではI am a liar)」とつけられているのは、「死なないでくれ」という言葉は、確かに死にたがっている他人から見たら綺麗事にすぎないからだった。
でも椎名林檎は、それでも「線路上に寝転んだりしないで 大丈夫」と歌った。この時の「大丈夫」に根拠はない。それでも彼女はギリギリの言葉で
それを歌った。
同じように、『ありあまる富』では「言葉は嘘を含んでいる」と歌いながら、彼女は「あなたには絶対に奪われない富があるんだ」と力強く歌っていた。
『虚言症』『ありあまる富』は、どちらも応援歌として取れる。しかし、
彼女はどちらの曲でも「これは嘘である」と言っている。
死にたい人の前では、「大丈夫」という言葉が「綺麗事」にすぎないことを彼女はよく知っていた。それでも、彼女は人を励ますことをやめなかった。
さらに『人生は夢だらけ』、東京事変の『緑酒』といった曲で、毎日大人として、苦しい現実を噛みしめながら毎日を生きる人たちへも言葉を贈り続けた。
『キラーチューン』『女の子は誰でも』では、欲張りであることをどこまでも肯定した。
彼女自身は、インタビューでよく「自分のやっていることはエンターテインメントですから」と言っている。しかし、彼女の美しく作られた言葉と音楽の世界の中には、確かに他の人をたすけるための言葉が含まれていた。
・・・私がこの文章を書いてみたのは、星街すいせいや月ノ美兎、花譜が人の人生を応援しているところを見てみたくなったからだ。
だからこれは私のわがままである。
「バーチャルユーチューバーの存在で世界を変えたい!」(星街すいせい)と言っている人が、友達が諦めている様子を見て背中をたたいてあげられないのも、不思議な感じがしたからだ。
だから、悪意を込めてこう言ってみよう。
どうかこんな失礼で、Vtuberに対して暗いことを言う奴の頭をぶん殴る、
とんでもない曲を作ってくれませんか。
星街さんに背中を押してほしい子は、間違いなくたくさんいると思うよ。



コメント
74ありがとうございます。確かに野球讃歌の方は内容が野球極振りですけどよく考えるとそうですね……w
ビューティーMyジンセイは、主語が私と君を被せて応援してるタイプなきがします。(若干よりそい?)
『オラ東京さいぐだ』じゃないですけど、自分の文脈をアクロバティックに使って曲を作っちゃうのもありなのかなと野球讃歌が出てきて思いました。
ちなみに「ビューティーMyジンセイ!」はドラマのタイアップ曲で、歌詞はドラマのストーリーにかなり寄せています。なので寄り添い型だったとしてもV特有のものではないと思います。
まぁ全体的に見れば、でろーんは元々は歌に文脈を乗せるのが得意な人で、まさに寄り添い型の応援歌ばかり歌ってたイメージはあります。
面白く拝読しました。
すいちゃんの場合、どこかに「夜」のモチーフがあるのが直球の応援感が薄い原因かもしれません。陽に振れるとそもそもコンセプトがぶれるというか。
Andromedaなんかは私にとってはかなりの応援歌なのですが、まさに「寄り添い型」ですね。
ただ、生きてていいんだよ系の「寄り添い型」って
直接的な応援の虚構性と強権性をメタ化して共感に落とし込んだみたいなところがあると思うので、(それでもなおファイト!というのがファイトなので超名曲なのですが)
そういう読み方が好きな層にリーチしているだけで、そのコンテクスト読解が必要なことと
歌い手がVTuberであることの文脈が多重に存在していて、そこに錯誤がないかな?という気はします。
『直接的な応援の虚構性』は、おそらく、「頑張れ!」って言うときにその言葉の嘘くささを歌い手/リスナーが感じてしまうことだと思うのですが、ブルーハーツの『人にやさしく』とか中島みゆき『ファイト!』のような、言葉と音楽としての間合いの力で納得させる力は要りそうな気が確かにします。
なのでここのコメントにもあったように、『インターネットにいるやつは応援なんか求めてない』みたいな方も間違いなくいて、その人たちに寄添い型が向いているのはわかりますね……
こことVtuberの文脈が絡まってるかどうかは、かなり個別の議論(人による)になってきそうです