イキヅライブから見るアイドルコンテンツのあり方について
『イキヅライブ』が公開された。
まず、スクールアイドルが廃れた世界観というのが驚かれている。
しかし、正直、判を押したように大会に出て優勝するというのはもう飽きられているだろうし、かといって大会があるのに、出ないというのも手垢がついているし、人気が拡張し続けるという設定は、コロナ禍以降のコンテンツの停滞もあり、説得力を欠いてきている。
そのため、「廃れた世界観」というのはアリだろうとは思っており、採用されたことは予想の個人的には予想の範囲内であった。
イキヅライブのファーストインプレッション
それよりも一番驚いたことは、何より公野櫻子氏が全面的にテキストを担当することである。
このことはまるで、原点回帰を通り越してアニメ化前のμ’sの方向性に立ち返るかのような印象を抱く。
声優の起用法も、いわゆる声優事務所で固めており、ラブライブ!というよりもアイマスの起用法に近いし、テーマソングもどこかきららアニメのような雰囲気があり、当然ながら全員私服である。
公野櫻子氏という原点どころか、まるで江戸時代に戻ったような人選ありながら、個人的にはシリーズで最もラブライブ!らしさを感じないように思う。
というか、あくまでも本稿を書いている、ファーストインプレッションの範囲では、深夜の萌えアニメとして何処にでもあるような、率直に言っちゃえば「ラブライブ!の冠がなければ誰からも見向きもされず埋もれている作品ではないか」とすら感じてしまうが、良い意味で裏切って欲しいし、裏切ってもらわないと困る。
『ラブライブ!スーパースター!!』がサンライズ(BNFW)主導のアニメ、『蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』がオッドナンバー主導のアプリとするならば、『イキヅライブ』はKADOKAWA主導のXで展開するノベルなのかもしれない。
PVを見ていると、YouTubeはニジガクの生配信でよくある絵付きボイスドラマのような展開があるようだが、公開された今でもまだ、その全貌はいまだ掴めないが、本稿ではイキヅライブをきっかけに改めて「アイドルアニメの描き方」について考察してみたい。
アイドルコンテンツのアイドルは理想化されたアイドルである。
アイドルコンテンツのファンには「実在性」という概念がある。「フィクションでありながら、現実に存在しているかのように感じられるリアリティ」とも言うべき概念であるが、実際のアイドルには偶然性や緊張感。あるいは、同じ時代・同じ空間に生き、1年経てば1歳ずつ加齢するという意味では勝てるものではない。
さて、イキヅライブにも宝塚歌劇団を志望し、挫折したキャラが居るが、日本には宝塚とか歌舞伎のように、役者が異性を演じる芸能があるが、歌舞伎の女形は、女性そのものではなく、「男性が思い描く理想の女性像」を演じているのだという。
同様に宝塚の男役も元トップスターの明日海りおによると「理想の男性像」だと証言しており、お互いに異性から見た理想の異性を描いているのである。つまり、演じているのは「理想」ということであるが、その「理想」とは何なのかと言えば、2代目中村七之助によると「歌舞伎に出て来る女性は、愛する人のためなら死をも厭わない極端な人が多い」と解説しており、 『異性に対しこうあって欲しい』姿を誇張して生まれる姿 なのだと言う。
この「誇張」は決して滑稽や過剰という意味ではなく、むしろ本質を抽出し、研ぎ澄ました象徴であり、それこそが客が歌舞伎や宝塚に対し求める「夢」だとか「芸術」そのものであり、エンターテイメントの本質であると言っても良い。
生身のアイドルも理想を求めている
なぜ、このような話を持ち出したかといえば、アイドルアニメは「理想」を純度100%で描きうる稀有なコンテンツだからである。
昨今、実際のアイドルは三次元もオーディション番組やSNSを通じて物語化される存在となりつつあると言って良い。しかし、あくまでも実在の生身の人間である以上、厳しい制約条件があり、「人間らしさ」「成長」「偶然性」があり、生身の人間であるが故に比較的気軽に会える「距離の近さ」が強みであると私は考えている。
そもそも、実際のアイドルもまた、100%素の人間ではなく、彼女(彼)らのなかにそれぞれの理想のアイドル像があり、その理想を演じている面はあるだろうが、全ての人は「役割」を持っており、それに従って仮面を被り、いわば「自己演出」を自然と行っていることを考えれば生身のアイドルとアイドルコンテンツは衝突しかねない可能性をはらんでいる。
フィクションの強みを追求せよ
実際のアイドルはスキャンダルであったり、加齢やライフステージの変化は避けられない。しかし、フィクションには、「現実ではできないレベルの理想を追求」したり、あるいは「実際のアイドルでは描けないテーマを描くこと」が出来る強みがある。
現実には極めてセンシティブなアイドルの恋愛をテーマに、その恋愛を肯定的に描くことも、不老不死のアイドルといった理想もフィクションでなら可能である。
そして、うっすら気になっていた事だが、声優はアイドルへの憧れを公言したり、元アイドルの人も多く、役を演じるとしても、憧れのアリーナに立ちステージに理想をぶつけている人がほとんどだろうが、スタッフはどれほどアイドルに関心があるのだろうか?
スタッフのアイドル観こそが作品の理想像を決定づける。だからこそ制作チーム内でビジョンの共有が不可欠であるのに、アイドルに対して興味も無いし、観察もしないまま手癖で作っていないだろうか?歌舞伎の女形や宝塚の男役にしても「理想を演じる」というのはまず演じる対象への憧れから始まって研究・模倣をして、新しい形を作るという「守・破・離」のプロセスを取るということである。
アニメにしてもゲームにしても集団作業なのだから、題材について温度差はあるのは仕方ないことである。
しかし、作品作りの音頭取りする人は、きちんとアイドルについて理想を持ち、実際のアイドルについて丹念な研究・観察し、その結果やビジョンをスタッフと共有しないといけないはずであるが、そのあたりへの興味を欠いて、ただ漫然と作っている作品があまりに多すぎやしないだろうか。
フィクションの深化とマス性の両立というジレンマ
フィクションとして物語性を強化すればするほど、そこには「理想のアイドル像」を提示するという責務が生まれる。しかし、それは同時に、間口の広さを犠牲にしかねない。理想を描くとは、抽象度を上げることでもあり、結果として高いコンテクスト理解を要求する「ハイコンテクスト」な作品になっていく。
たとえば、『ラブライブ!』シリーズが大きく認知された契機は、物語そのものの評価よりも、無印スクフェスがいち早くスマホ向けゲームアプリを出した先駆性や、『愛♡スクリ~ム!』のような楽曲のキャッチーさといった「誰でもすぐに楽しめる接点」すなわち、ローコンテクストの存在による部分が大きかった。つまり、物語だけでは、必ずしもコンテンツは広がらないということである。
この状況は、アイドルコンテンツのあり方について一石を投じる。二次元における理想の追求と、誰でも楽しめる間口の広さの両立は、もはや奇跡的なシチュエーションでしか成立し得ないように思えてならない。
理想のアップデートを怠るな!
「理想を描く」ことと「誰でも受け入れられる」ことという方向性は相反するというのであれば、コンテンツの生い立ちからしたら、自ずとフィクション性を強め、間口の広さよりも、よりハイコンテクストで、理想を提示する方向に向かっていくのだろうと思うし、『イキヅライブ』が、公野櫻子を復帰させガンダムシリーズで言えば『GQuuuuuuX』や『水星の魔女』のようなファンを広げる路線よりも、内向き路線を強化しようとしているように見えるのはその象徴かもしれない。
しかし、フィクションが提示すべき「理想」というものは常に変化しているものであり、現代やアイドルシーンを常に観察・研究し、2025年にあった理想像を提示していかないといけないし、μ’sの時代いまだに金科玉条のように信奉しているだけでは、フィクションとしての鮮度は失われる。
時代にあった理想を提示できないコンテンツは死あるのみである。だからこそ、コンテンツが生き残るためには、理想の変化を敏感にとらえ、それを提示できる事が求められるのだ。


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