言い古されたことなのですが、良心神の実践として憎しみを捨てるがあります。私達はこの世に生きていますと、どうしても人間関係で摩擦を起こしてしまいます。自分は摩擦を起こす気がなくても、周囲にトラブルメーカー的な人が存在しますと、どうしても巻き込まれてしまいます。
イエスの教えとして、新約聖書マタイ伝に【目には目を、歯には歯を】と言われていることは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。
悪人に手向かうな。もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬も向けてやりなさい。という有名な教えがあります。
しかし、誰かがあなたの右頬を打つた時、反対の頬を差し出したならば、たぶん100人中95~96人ぐらいは、そうか。そうか。それならば遠慮せずに打つてやろうと打たれるでしょう。それが現実なのです。
まず、【目には目を、歯には歯を】は、この世で自分が受けた被害を相手に対して仕打ちして、五分五分で解消しなくてもいいのです。仏教で【因果応報】を説きます。この世で自分がした行いは、肉体を失ったとしても「因果応報」として「来世」等にその本人自身に吹き出しますので、【復讐】せよと説いている意味ではないのです。
自分が積んだ罪状と同じ分だけは、必ず報いを受けますよ。という意味なのです。ですから「因果応報」が解っていれば、神は愛で何でも許しますと言っている教えは、何の根拠にも基づいていないことが解るのです。
それよりもイエスが言う【悪人に手向かうな】なのです。それは「悪人を許す」という意味ではないのです。
言葉で説くと、意味を理解出来ない人がおられますので、図解します。

トラブルメーカーと言われるような方からの被害は、あなた一人ではありません。他にもおられるのです。そのトラブルメーカーたる人に対して憎しみを発しますと、他にも被害を受けている方の憎しみも集合させて、より大きな憎しみとなります。そうした時、その中で一番強い憎しみを発している者が代表して、その集合想念を受けてしまいます。さほどのことでもなかったのに、相手を殺してやりたいほど感情がたかぶることにとなります。
それで、その者に仕返ししたとしても、結局は自分の魂が墜ちるだけなのです。
まして、相手が悪人ともなれば、その者は死後の世界で自分が犯した罪によって、自分で墜ちて行くのです。イエスは、そのことを言っているのです。そんな存在に対して、やり返すを考えてはいけないと説いているのです。
強い憎しみを持ったが為に、死後の世界で蛇霊となった者達もいます。そうした時、何時までも憎んでいても仕方がないじゃないですか。モウ忘れなさいと説いてあげることで憎しみを捨てられた時、その蛇霊は浄化されて元の姿に復帰するなどがあります。悔い改められたのです。
許すという意味は、神は愛だから何もかも許すではないのです。自分自身の魂を堕としてまで、相手に復讐するメリットがありますかと尋ねているのです。被害者が許すと言ったから、加害者の罪が消えるのではないのです。輪廻転生の中で、その償いはキチンとされるようになっているのです。
神が愛でなんでもかんでも許すというスピリチュアルは、何も学んでいないのです。神々に聞いていても、過去の因縁という言葉が出て来ます。因縁と呼ばれるものはたいへん恐ろしいものなのです。
憎しみは、曽と心です。これは「層」の漢字の意味が一番解り易いのです。ずっその心が続きますよという意味なのです。ですから何代も何代も、それが続くのです。増すの「増」は積み重なるの意味です。
憎しみを捨てるは、自分の為なのです。

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