西暦1892年節分、丹波の片田舎の綾部に住む「出口なお」さんという老婆にウシトラ金神と呼ぶ神懸かりがおきました。「出口なお」さんは、最初はこの存在がよく解らずに、金光教の取次の看板の時もあったようです。エッー、どうしてウシトラ金神が金光教さんとなるでしょうが、大本教神諭に
妙霊、黒住、金光、天理の先走りとあるように神界の仕組みの一環であったからです。
どうしてそれが言えるかと言います、妙霊→黒住→金光→天理→大本とは、各宗教の教えそのものではなくて、その宗教名に並びがあることを語っているのです。
宇宙の初発には何も無かったのです。そこに「妙」で語る「霊」が起きたのです。が、それは闇で「黒」の世界です。そして「闇」から音である言が「光」を放って来たのです。それは「天の理」の発祥です。天の「法」が定まって「大本」となったとなります。言葉の並びにそうした教えが隠れているのです。ですから、この神は宇宙創造に関わった神となるでしょう。
私は修業に入った頃、豊受様からこの立替に関して聞かせて貰いましたが、その時期は解らないが、立替そのものは間違いなく起きると言われていました。ここまで仕組んである以上、時期は解らないが立替は起きるのだと思っています。
その大本教からは、「節分の炒り豆には花が咲く」が宣伝されました。ウシトラ金神には、「艮」と「牛虎」と「宇志採羅」の三つが存在します。大本教から出されたのは「艮」と「牛虎」です。霊界物語と日月神示だけを見ていますと、この「牛虎」がないようです。この「牛虎」は大本教神諭に、「艮」だけでなく「牛虎」もあるぞと書かれていますので、日月神示だけを見ている人には「節分の炒り豆に花が咲く」が理解出来ないことになります。
為に、日月神示では「魂」論が出て来ませんと言うよりも、出す土壌が存在しないのでしょう。
残る「宇志採羅」は大本教ではなくて、同じ綾部の綾部藩主であり紀州熊野の熊野本宮別当家であった「九鬼神道」に「宇志採羅」根真があるのです。当時は、大本教は綾部藩の九鬼神道の「宇志採羅」根真の漢字を「艮」に名を変えただけだとの酷評もあったのです。ひどい説になると、出口なおさんのご主人が腕のよい大工さんで綾部藩邸に出入り出来たことで、綾部藩主の九鬼神道の秘密を盗んだのだという説もあったほどなのです。
確かに、出口なおさんが九鬼家の守護神である「本興稲荷」さんを篤く信仰されていて、お参りされていた事実はあるようですが、九鬼藩から秘密である文献を盗んだは言いがかりとしか言えないでしょう。元々本興稲荷は藩邸内にあり、藩主が明治維新で男爵となって東京に移った為に菩提寺に移されてからのお参りで、その時には既に藩は存在していないのです。
この綾部の九鬼藩では、「鬼は内、福は外」と、皆さんが節分の夜に鬼に炒り豆をぶつけているのとは逆の行為をしていたのです。
鬼(魂)は内で有り、福(肉体たる服)は外なのです。無論、そこまで理解されていたのかどうかは解りませんが。
今日の夜で、大本教の出口なおさんにウシトラ金神の神懸かりが起きて、大本教が開教されて120年間となり、立替予告宣伝期間が終了します。これからが、本番と言えるでしょう。
では、本番では何が起きるかと言いますと、三千世界一度に開く梅の花、開いて散りて実を結ぶと宣伝されたことがおきます。但し、その時期は何時なの解らないので明言は出来ません。立替期に入ったなのです。神々に聞いても、その時は誰も解りません。ただ、天に兆候が現れるはずなのです。
私達の魂の中には、天帝の分魂である直霊(良心神)が存在します。このことを、梅の実(肉体)の種(魂)の中には天神様(良心神)が眠っていると言われて来たことです。この天の分魂が一斉に芽を吹くことが、節分の炒り豆にも花が咲くと言うのです。
牛虎金神。牛頭で虎パンツの鬼が云う【魂】の仕組みなのです。
もし私達に「魂」が無いのであれば、意識(玉思惟)も存在しないのです。意識が存在しない「無」とは、それは自己が存在しないことを意味するのです。ですから喜怒哀楽もないのです。生も無ければ死も無いのです。それが、理想だと言われれば、そうですかとしか言いようがないのです。自分たる個が消えるからです。無は無のままでしかないのです。無は創造もしないのです。ですから、その行き先は「主」と呼ばれる存在の世界でも無いのです。高天原でもないのです。
逆に意識があるということは、魂(玉思惟)があるのです。どんなに高次元に進もうと、宇宙の果てに向かうとも、玉思惟(魂)の存在無くしてはあり得ないのです。太陽でも月でも地球でも全て魂と同様に「球体」なのです。このことを、一人一人が星だとも言うのです。創造は「識」があって始めて為されるものなのです。
ですから、魂が「識」だと理解する必要があります。識は「言と音」。スピリチュアルの世界で〇〇〇〇×××と呼ばれるものがあります。私は師匠筋から、ここは非常に危険な思想だと教えて貰いました。別に邪神信仰をしているのではないのですが、ここの教えを信じて精神をおかしくした人達があるので、危険だと言われているのです。自分達は宇宙に行ったつもりでも、幻想の中での体験になるからです。それは、高次元だと言って「無」の世界を目指しているからです。この教えを学ぶと、言葉など無い。辞書など必要無いとなります。「無」の世界に入るからです。しかし、それは肉体を失ってからの行き先は魂の消滅です。道理で考えても「無」になったら高次元も低次元も関係無いはずなのですが?。無の世界ですから、当然に「識」は無いのです。
仏典を読んでいて間違えてしまうのが「無意識界」の捉え方なのです。完全無意識では覚醒しません。この無意識は一時的に肉体の思考を停止させて「本我・真我」を知ることです。悟ることです。
悟は心と吾(われ)で、自分(吾)の心(魂)を見つめることなのです。自己の魂の「本我・真我」に目覚めることですが、その「本我・真我」には識はあるのです。哲学者が議論しても意味が無いと思います。体験・経験でそうしたことは解ることです。しかし、言葉はきちんと悟りは吾(自分)の心だと示しているでしょう。
それを解ろうとしない人は、御本人の自我が強いのです。自分は悟っているぞなのです。
ともかく、この節分迄に要点だけを述べておきました。
問題は、誰がこんなことを仕組まれたのか?。ここまで言葉で組み立てるには大本教神諭には3000年の月日を要したとあります。それは、日月神示に言霊神と呼ばれる存在が出て来ますが、言霊神と呼ばれる宇宙創造に関わった神の世界でしょう。
誰が考えても、言葉にこんな仕組みがしてあるなど、自然に成り立った話しではないのです。長い月日を掛けて仕組みに仕組んで来られた存在があるわけです。そうでないと出来るはずがないことぐらい、解るはずなのですが?。
鬼は内。福は内です。

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