人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

九里(米教)より甘い十三里(薩摩芋)、スの神で行く

大本教で「ス」の神が説かれてから、多くの方が「ス」の神、「ス」の神と言っておられます。
大本教の出口王仁三郎聖師さんは大本教神諭予告の「九つ花」を紐解かれたのではありません。無論、出口なお開祖さんも然りです。どこから「ス」の神などの理論を引っ張って来られたのでしょうか?。
大本教が出したのは「いろは」歌です。この「いろは」歌の最後は「ス」です。聖書に始めにして終わりの神があります。終わりは「いろは」の「ス」で行けます。だが、「いろは」歌では頭が「イ」です。で、その前にも「ス」があったのだと展開されたわけです。そして、「ス」の神論は広がったのです。
私は既存の神界の師匠と言霊師の師匠の二人を持ちました。そこには圧倒的な差がありました。無論、私が言霊師の様に自在に言霊が使えるではありませんが、言霊の世界とは信じがたい世界だったのです。イエスがイザリに歩けと言ったら、歩いたなどは私は事実であろうと思います。それが出来る世界だったからです。

大本教出口王仁三郎聖師は霊界物語第十三巻において、この大本教に現れた変性女子はニセ者だと発表されました。第十三巻の意味は「ス」なのです。アイウエオ、カキクケコ、サシス です。それは、大本教の「ス」の神はニセ型と言われているわけです。九つ花で369(みろく)の意味を解読すれば、「ラ」音になってしまいます。「ひふみ」で行けば、確かに41位に「ス」は置けますが、九つ花そのものが織れません。
また、いろは歌であろうと、ひふみ歌であろうとも四八音(ヨハネ)の役割から抜けられないわけです。大本教霊界物語本巻72巻に別巻9巻の合計八十一。言霊論である限り、アイウエオの論でしか説けないわけです。

大本教の出口王仁三郎聖師は、日本は主の「米」作り。西洋は副の麦作りで「パン」の教えと書いておられます。
朝鮮に残された予言に、最後の審判前「米」一字の教えが起きる。その教えに従った者は神の罰から逃れることが出来るとありました。「米」は主たる教えです。その朝鮮の予言には後がありまして、審判に入って罰を受けて罪が取れたならば、白十字によって助けられるです。すると、罰は自業自得の結果で有り仕方がないとしても、この「白十字」が一番意味を持つことになります。

私自身、私が米型で紐解いておいて「ラ」神論の良心神は、かなりきついと思います。この良心神で審判されてしまいますと、ほとんどの方は落第です。次は副である「愛」の教えですが、多くのスピリチュアルの方が「愛」の意味を間違えて、何をしても神の愛で許される式のことを説いておられます。これでは、本当の「愛」の教えではありません。それらは自己愛で、他を助ける「愛」で説いておられないのが実状です。本当の愛は、叱ることが出来なければ嘘です。そうなると「愛」でも合格する方は少なくなります。
基本的に魂を腐らせたり、潰したり、ねじ曲げているとその魂は破砕であり、神が愛で救うなどないわけです。
米の「良」心神、パンの「愛」の教えでも難しいとなると、何があるのでしょうか?。私は第十三の「ス」の意味は何だったのかと思考を続けました。この答えは〇十で解るわけです。薩摩で示される意味は、薩摩芋は【栗より甘い十三里】です。九の里たる「米」の「良心神」の教えは難しすぎてダメ。「パン」の「愛」の教えでも実践が出来ておらずにダメともなれば、残るのは「芋」の十三なのです。

スエーデンボルグの霊界探訪でも、大本教霊界物語でも、第一天国・第二天国・第三天国の存在を告げています。スエーデンボルグはその第二天国の訪問者です。以前から宗教霊能者からキリスト教徒は第二天国界で止まっている。何故なのかの疑問が出ていましたが、「愛」の教えは菩薩道だからです。また、主と私達の間には直接に結ばれる直霊(良心神)が存在するのに、「イエス」を主との仲介役として介在させたからです
お釈迦様の菩提樹の下での悟りは、人には良心と呼ばれる神が内在するであったのですが、何時のまにか邪神の働きで「慈悲」に置き換えられてしまっています。ですから、お釈迦様の悟りは弥勒菩薩が現れるまでは、解らないと言われて来たのです。
元々、弥勒菩薩とはお釈迦様の弟子ではありません。ミトラ教の最高神が仏教に取り入れられて、お釈迦様の弟子の弥勒菩薩として造られたものなのです。これらは邪神界に負けた振りして、すべて創造神と呼ばれる神がなされた仕組みの一環に過ぎないのです。

大本教が日本神道の立場でありながら、仏教のみろく菩薩を前面に出したのは、国常立尊(牛頭天王)様の謀(はかりごと)と言えるでしょう。仏教の祇園精舎の守護神牛頭天王(牛虎)とは牛虎(ウシトラ)金神・国常立尊様でもあるのです。
ですから、自分の罪を悔いて閻羅(エンラ)大王の閻魔庁に来られた方は、来世を授ける「羅城門」を通って、自己の罪を償ってこの世の来世を貰われて来たわけです。その来世門の番卒が牛頭で虎パンツの「牛虎」の意味ですが、これを節分で「鬼は外」として炒り豆をぶつけておられるわけです。今でも警察官が巡回することを警邏と言い、羅の道です。明治時代は警察官のことを羅卒と言ったのです。
悪を取り締まる警察官に対して、炒り豆をぶつけているのが「鬼は外」なのです。悪の権力者達が地獄から迎えに来る鬼の存在を畏れての行事です。そこにあるのは、自分の罪を悔い改められない者が始めた行為なのです

邪神に魅入られている方達は、神は愛だから、自分の罪を悔いる行為を捨てなさいと良心を捨てる教えをしておられます。イエスにしてもヨハネにしても、まず、悔い改めなさい。悔い改めたならば神の愛で許されますと説いていることは聖書を読めば解ることなのですが、そうした人達は聖書も読まないから、愛の教えの肝心要の悔い改めなさいの部分を言わないのです
そうした方が、必ず言われることは自分の直感を信じるなのです。自分も憑依されていることの理解が足りておられないのです。だいたいが蛇や狐や狸に憑依されての直感なのです。いくら、人が好さそうな感じでも、その魂は汚れで毛物が生えているものなのです。

ですから、正しい魂の人達は魂を磨きなさいと教え、獣の神に魅入られた人達は魂磨きを言われられないわけです。霊能者・ヒーラーと呼称していても、自分が邪神界に関わっていることすら認識出来ない方が大多数なのです。
私は伏見稲荷山で修行して来ましたので解るのですが、稲荷神界でも半分は主に従わない神達です。解ろうとしない神達です。で、既存の神界も創造神の大掃除の対象に入るのです。それは時間の問題にしか過ぎないのです。既存の神社仏閣に存在される御神霊と言えども、正しい神達は邪神に押し込められており、邪神が何食わぬ顔で鎮座していたりするものです。最終的にはそうした存在は創造神によって立替られてしまうでしょう。
立替の時に既存の神社に救いを求めても、その御神霊自身が天に向かってお許しくださいと言われる立場の可能性も充分にあるのです。

これをまとめますと。
①第一天国、「米」の教えである良心神を理解するには、奇魂(如来の学び)がないと難しいのです。
②第二天国、「パン」の教えである愛の実践は、何をしても神に許されるではありません。自分が他の方に愛で奉仕することです。悔い改めることで神に許されるを知る人達です。
③第三天国、良心神の学びでも愛の実践でもなく、【素(ス)直】に主の存在を信じて敬える心です。ここに「ス」の神の意味が来るのです。ですから、「米」でも「パン」でもなく「芋」の教えなのです。

巷で、「ラ」神論と「ス」神論の両方が言われていますので、少々こんがらかって頭を悩まされた方もあるでしょう。別に敵対している教えではないのです。既存の第一天国・第二天国でも進むにはかなり難しい面がありますので、大勢の人が進める第三天国、「ス」の神論は一般大衆向けでいいのです。
私は解説者として立場がありましたので、「ラ」神論を解説しておく必要があっただけです。
スの神論で大切なことは「素戔嗚尊様」の存在になります。私達は、素戔嗚尊とは日本神話の中で天照大御神を天の岩戸隠した暴れん坊のような存在とか、出雲神話の中の素戔嗚尊と思っていますと勘違いを起こします。
私が子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声が、日本神話は事実話では無い。神の仕組みの為に、この私が創作させたのであると告げられました。私が師匠とした方も、日本神話は事実の話しでは無いと言われていました。この日本神話をどのように紐解くかなのです。今から5000年前のエジプトにおいては、既に王朝が有り、太陽神は「ラ(Ra)」として信仰されているのです。今から2000年ほど前に日本に出られたであろう実在の人のことを指しているのではないのです。
それには、天文学の記号を見るといいのです。月だけは天文学の記号では解りづらいので三日月で表現しました。



太陽は「ア」から「ラ」までで「アラー」の神。「41」です。
地球は「ア」から「ス」までの「アース」となります。「13」です。
素戔嗚尊の文字を分解してみましょう。素は主の糸(意図)です。戔(盞)は少ないの意味です。鳴は鳥が口でその存在を告げること。スの神に関しては、主の意図を告げる必要は少ないということなのです。取り立てて、その論理を話す必要もないのです。芋で神の仕組みを説けと言われても、説きようがありません。
ただ、創造神を信じる方をお救いするだけの話しなのです。朝鮮に残された予言は白十字となっていましたが、〇十字が正解だったのでしょう。

ただ、この「十三」は非常に重要で、説かなければならない面があります。
ご参考にhttp://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=41十三山が逃げ場ですよ。だが、スの神を言われる方達は解っておられると思いますが、そうでないと簡単に意味は解りませんよ。

精神世界

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