人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

五六七(みろく)世に進む人に対して



人は「肉体」と霊界用の肉体である「霊体」と「魂」の三部構成になっています。肉体はこの世を去るにあたっては、当然に肉体を捨てますので「霊体」と「魂」の二部構成になります。で、「霊魂」と称するわけです。
幽体離脱を体験した方ならば、全ての幽体離脱のケースに該当しないでしょうが、肉体から抜けて行く霊体(幽体)の自分を上空から見ている自分を体験された方もあるかと思います。上から見ている自分とは【意識】です。その意識の塊を「魂」と呼ぶわけです。肉体の意識ならば脳と言えますが、魂の意識は魂の中にあり、肉体の脳とは「想」で結ばれるのです。
魂が「鬼が云う」の漢字になっていますのは、牛虎(ウシトラ)の意味を解らせる為の神様の御仕組みの一環で、「玉思惟」と言った方が解り易いわけです。意識(思惟)が玉型になっているのが「タマシイ」なのです。
玉思惟(魂)は肉体とは別に霊界での単独行動が出来ます。俗に、魂を飛ばすとは魂のみを神界などに飛ばして見て来ることです。この世の範疇だけで魂を飛ばして見聞しているのが「千里眼」になります。魂は丸い玉だけで目鼻が無いと思っていると、どうして映像を送って来られるのかが理解しづらくなります。

大本教の出口王仁三郎聖師が亀岡に居られる頃、現在は福知山市の大江の元伊勢に参拝せよとの命を受けて、当時は鉄道の無い時代で、徒歩での旅の道中に園部の旅館に逗留していたところ、その魂が元伊勢に参拝しに来たので、肉体は参拝しに来なくてもよいと神示が降りて、肉体の参拝を中止したとの記述があります。肉体は何もしていなくても、魂は神界の御用をしているわけです。
さて、通常の霊界に渡った時は霊体はこの世の肉体と同じ姿をしています。そのままの状態で人に見られた時は幽霊(霊体)等と呼称されるわけです。この霊体を使用しているのは一般霊界です。霊能者が死者と話ししているのは、この世に生きていた人と同じ姿をしている霊がほとんどなので一般霊界です。

さらに次元を上げるには、その霊界の肉体である霊体すら捨てなければなりません。すると、魂のみになってしまいます。で、神に姿が有ると言うと、姿があるのは低次元で蛇や狐の霊に騙されているのだと騒ぐ方があります。
ヒンズー教で【アートマン】が言われます。日本語で「真我」と訳されます。意識(魂)の深層にある根源を意味するのですが、二元性を越えているということで、スピリチュアル系の方はその辺だけ学んで二元性を否定して、善悪は無い。何でも自由なのだの論理をなされるようです。
どちらかと言いますと、スピリチュアルを標榜する方達は西洋の神智主義者の著本の知識だけを吸収されており、西洋の神智主義の知識ではアーマントは霊体を脱いだ状態の魂だけを言っている節があり、魂だけだとそこに人の様な姿は存在しないことになります。すると姿が見えるとか、その存在が人によっては光としか見えていなくても、姿で見えるということが理解出来なくなります。この世の光を見ているわけではないので、そうした光ですら段階があるのです。

私はある時、それが誰なのかは解りませんでしたが、明らかに神霊だと解る魂が二つ飛んで来て、それを観察していると魂の中に顔が見えて来たので首を捻っていると、玉から人の姿が出て来たのです。言うなれば桃太郎みたいなもので、桃の実を割ったら桃太郎が出て来たなのです。その人の姿は一瞬に大きくなり、赤と白の連獅子の舞を始めたのです。
私はそうした幾つかの体験で、神界の自分の霊体は一般霊界の自分の姿とは別物であることを確認したしだいです。
神界に進むと、その姿がこの世の自分の姿から一変するとは言われています。男性だと30歳ぐらいで女性だと20歳ぐらいの姿と言われていますが、この世の自分は老いていても神界の自分は若いのです。
神人合一が言われていますが、神界の自分とは、この世の自分の姿ではありません。でも、それが自分であることは体験すれば解ります。それは同一の心だからです。この世を去れば自分の意識を神界の自分の意識に合一させるだけのことなのです。

大本教の出口王仁三郎聖師は、国常立尊様や神達の姿を絵に描いておられます。もし神に姿が無いのであれば、当然に描けません。出口王仁三郎聖師が山師であるということならば、デタラメを描いたことになりますが、それならばあれほどの予言の数々を当てることなど出来ないはずなのです。
いくら自分は凄い霊能者だと自称されても、出口王仁三郎聖師が予言者という立場にあったとしても、昭和17年の段階と言われていたと思いますが、広島や長崎はダメだ。新型爆弾が墜ちて火の雨が降る。その後に黒い雨が降るなど事前に予告出来ることではありません。
神としての姿が見えるのは蛇や狐の神と言われるのであれば、蛇や狐にはそこまで予言が出来ることになります。だが、蛇や狐でそこまで予言したなど、どこにもありません。そうした霊の予言は人々が喜ぶ世俗的な予言で、目先の御利益の話しです。
見える者には神も見えるのであって、自分に見えないからと言って否定すべき話しでもないのです。

五六七(みろく)の世とは、当然に次元が違います。それを三次元世界でみろくの世に立て替わるのだと考えてしまいますと、今の肉体を体質変化させなければならないとなってしまいます。現状のシステムでも、五次元界に進むのに体質変化をする必要はどこにもありません。今の肉体を脱いで魂となって、霊界用の肉体を神界用の衣服に着替えればいいことなのです。今の神界でも、この世の肉体の命と比べたら遙かに長いのです。立替そのものの必要がないのです。
肉食ばかりしていると、その動物の想念を受けやすいという問題は発生しますが、基本論ではありません。肉食より菜食の方が魂の想念を汚さないという話しで、想念論に関して語るべき話になります。いくら菜食主義にしていても、自己勝手で生きていれば、死後の世界で四次元界に留まってしまいます。

精神世界

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。
この記事のトラックバックURL
トラックバック機能は終了しました。

» この記事へのトラックバックを見る

このブログの人気記事ランキング

JUGEMおすすめブログ

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< May 2025 >>