第三十九話:落日の覇者、血戦の果てに見る夢
[前回までのあらすじ]
鎌倉の世より、謎の女性トモミクによって戦国時代へと誘(いざな)われた源頼朝。
当初は、源氏の血筋である同盟国・武田家を守ることが軍団の目的と聞かされ、織田・徳川両軍と激しく戦っていた。
しかし、軍団に秘められた多くの謎、そして自らの存在意義について少しずつ理解し始めた頼朝は、織田信長を死なせず、多くの武家を滅ぼすことなく安寧の世を目指すという、困難な道を選択。その実現のため、京に上り「惣無事令」を発することを決意した。
近江、伊勢、越前を着実に平定し、ついに京都の二条城をも攻略、上洛を果たした。だが、その直後、京の朝廷から、頼朝を中納言に叙任するという、その力を牽制するかのような使者が訪れる。
さらに、今の頼朝はこの時代における「二人目の頼朝」であり、「先代の頼朝」は秀長自身が誤って殺害してしまったこと、そして頼朝に寄り添っていた出雲阿国の正体が、古代の巫女・卑弥呼であった事、時を超える力を持つのは彼女自身であったことなど、衝撃的な事実を聞かされ、頼朝はその場で意識を失ってしまう。
頼朝は決意を新たに京の二条城へと入り、友軍や徳川への対応、朝廷工作に奔走する。その矢先、心労が祟ったのか、再び頼朝は吐血して倒れてしまうのであった。
[主な登場人物]
源頼朝: 鎌倉幕府を開く直前にタイムスリップ。価値観の変化に悩みつつ、頼朝軍団を率い「惣無事令」を目指す。二条城にて病床に伏す。
源義経: 平泉で最期を遂げる直前にタイムスリップ。兄・頼朝に献身的に仕える軍略の天才。那加城にて東国の守りを固める。
武田梓: 武田勝頼の娘。義経の妻。武田流軍学に通じ、現在は狙撃部隊の部隊長。清州城代。
源頼光: 平安時代の武将。摂津源氏中興の祖。騎馬隊を率いる。大垣城代。
トモミク: 頼朝を導いた謎の女性。立花宗茂のはるか先の未来の子孫によって生み出された存在。
出雲阿国: 正体は卑弥呼。時を旅する巫女。頼朝の側近として上洛に同行。
北条早雲: 戦国初期の大名。晩年にタイムスリップ。軍団のご意見番、外交役。安土城にて桜の後見役。
羽柴秀長: 織田家臣・羽柴秀吉の弟。信長を見限り頼朝へ。軍団の筆頭家老、優れた参謀。頼朝(先代)を死なせたことに苦悩する。
羽柴篠: 秀長の娘で頼朝の正室。父譲りの才覚を持つ。頼朝隊の副将。頼朝の看病にあたる。
赤井輝子: 狙撃隊を率いる猛将。譜代衆。長浜城代。
源桜: 頼朝の娘。北条早雲に師事。安土城代。
源里: 頼朝の娘。武芸に秀で、義経隊の副将。
太田牛一: 少し未来の徳川の世からタイムスリップ。二条城代であり、頼朝の側近・参謀。
お市: 織田信長の妹。頼朝軍に加わり、京に滞在中。
[第三十九話 落日の覇者、血戦の果てに見る夢]
天文十六年(1587年)八月。
頼朝が朝廷より大納言(だいなごん)に叙任された頃、頼朝の意識は辛うじて回復していたものの、未だ病床にあり、政務への復帰は叶わずにいた。
頼朝は寝所に、太田牛一、出雲阿国、お市の方、そして羽柴秀長を呼び寄せた。
やつれた姿で横たわる頼朝は、集まった家臣たちの顔を一人ずつ見やり、力なく頷くと、再び視線を虚空に戻して、か細い声で口を開いた。
「…皆、大事な時にこの様な体たらく、面目次第もござらぬ。大納言就任に合わせ、参内も考えておったが…今のこの無様な姿を帝(みかど)の御前(ごぜん)に晒すわけにもいくまい」
頼朝は一度言葉を切り、息を整える。
「太田殿には、引き続き骨を折らせることになるが…大村殿と共に、我らに今できることを模索してはくれぬか。
…わしは、あの二条関白(にじょうかんぱく)、二条晴良(にじょうはるよし)という男が、どうにも嫌いになれぬのだ。晴良卿は我らを毛嫌いしておるが、立場が違えば、彼こそ忠義の士であろう。味方になれとは申さぬ。しかし、一度は膝を突き合わせ、互いの胸襟(きょうきん)を開く機会を持てるよう、何か手立てを講じてはくれまいか。例えば…そう、静かで趣のある茶会などを開き、阿国殿が点(た)てた一服を差し向ければ、我らに与(くみ)せずとも、我らの真意の一端くらいは伝わるやもしれぬ。
太田殿、阿国殿、面倒をかけるが、何とか晴良卿との誼(よしみ)を結ぶ糸口を探ってくれ」
「はっ!御意にございまする!」
太田牛一が、頼朝の言葉を遮るように即座に力強く応じた。しかし、その声色とは裏腹に、その表情は頼朝の身を案じる色を隠せない。
「されど…我らのことよりも、今はただ、殿の御回復を祈るばかりにございます」
牛一の言葉に、集まった他の者たちも深く頷き、頼朝の衰弱した姿に、誰もが悲痛な面持ちを浮かべていた。
頼朝は、力なくも確かな眼差しを牛一に向けた。
「…心配には及ばぬ。
だが、今わしがこの様に病に伏せっておることは、外部(そと)に漏れぬよう徹底するのは当然として、我が軍の将兵たちにも内密にしてほしい。今は、我が頼朝軍の威勢を天下に知らしめるべき大事な時期。当主が昼寝ばかりしておっては、内外の者どもに足元を見られる。
徳川や、未だ誼を結んでおらぬ武家どもには睨みをきかせ、友軍に対しても、些細な争いを起こさぬよう釘を刺し、そして朝廷にも、我らの覚悟を示さねばならぬ。それこそが、天下静謐(てんかせいひつ)を願う我らが今、成すべきことだ」
頼朝は自嘲するかのように、力なく苦笑を浮かべた。
「…もう後戻りは出来ぬ。覚悟を決めて、せいぜい天下の汚れ役を演じるとしようぞ」
その痛々しい言葉に、秀長が沈痛な面持ちで口を開いた。
「頼朝様、そのような…汚れ役などと仰せられますな。我が領内の多くの家臣や民は、頼朝様の仁政の恩恵を受け、心より感謝しておりまする。頼朝様は、我ら家臣、そして領民すべての誇りであり、心の拠り所でもあります。どうか、ご自身が成されたことへの誇りをお持ちいただき、何よりも我ら家臣、領民のため、お身体を御自愛くださいませ」
「…秀長の言葉、それが真(まこと)であれば、これほど嬉しいことはない」
頼朝は静かに目を伏せた。
そこへ、篠が丹前(たんぜん)と白湯(さゆ)を盆に載せて寝所に入ってきた。
頼朝の肩にそっと丹前をかけ、ゆっくりと上体を起こすのを手伝う。その甲斐甲斐しい姿を、秀長は複雑な思いで見つめていた。ここ数週間というもの、娘の顔には苦悩の色しか浮かんでいなかった。自身の心の呵責(かしゃく)に加え、愛娘の苦しむ姿が、秀長の肩にさらに重くのしかかっていた。
頼朝はお市の方に視線を移し、語りかけた。
「お市殿…実の兄君と敵対することになるのは、さぞお辛かろう。
そのような状況で心苦しいが、是非とも話を聞きたいのだ。新たに我が軍に加わった者たちの様子や、今の織田軍について、何か耳にしたことがあれば教えてはくれぬか」
お市の方は、静かに頷いた。
「は…一部、徳川方に走った者もおりますが、総じて皆、新たな主君の下(もと)、良く励んでおりまする。
加藤清正殿や前田利家殿などは、積極的に旧知の織田家臣に書状を送り、内応を促しておる由。それだけ頼朝様に心服している様子がうかがえます。
幸いにも、我が軍から織田へ戻ろうとする者は、今のところ一人もおりませぬ。…あるいは、我が兄、信長に愛想を尽かしたのかもしれませぬ…」
お市の方の声には、微かな寂寥(せきりょう)感が滲んでいた。
頼朝は、お市の複雑な胸中を表情から察したが、かけるべき適切な言葉も見いだせず、そのまま話を進めた。
「…織田軍の動きについては、何か耳にしておらぬか」
「はい。今のところ、大きな動きはございませぬが、いくつかお耳に入れておきたい儀がございます。
まず、河内国(かわちのくに)に新たな城を築城した模様。また、丹波方面(たんばほうめん)では、軍備を増強しておるとの噂が。おそらくは、丹後(たんご)の一色家や但馬(たじま)の山名家への侵攻を準備しておるものかと。
引き続き注視しておりまする」
「…感謝する。信長殿は、まだ羽を降ろしてはおらぬようじゃな。…ところでお市殿、万が一にも、信長殿が我らに臣従するということは…あるまいか」
頼朝は、その答えを半ば予期しつつも、万が一の望みを託すように、お市の反応をうかがった。
お市の方は、力なく微笑み、静かに首を横に振った。
「…やはり、そうか」
頼朝は小さくため息をついた。
「兄が…信長が、頼朝様に仮に臣下の礼をとったとしても、それは殿のお心を煩わせるだけでございましょう。
もとは尾張(おわり)一国の小大名。今は河内、丹波を領する身なれば、しばらくは大人しくしてくれるのが、兄自身のためかと存じまするが…」
お市の方はどこか寂しげな表情を浮かべつつも、努めて微笑み、頼朝を気遣うように言葉を続けた。
「頼朝様、このお市より一つ、お願い申しあげてもよろしゅうございましょうか」
「。。。申してみよ」
「ありがたき幸せ。早雲様が家康様とご会談なさる折、私も同席させて頂けませぬでしょうか。
家康様とは幼少の頃よりの馴染みでございますれば。家康様がよくご存じの旧織田家臣たちが、いかに頼朝様に心服し、忠節を尽くしているか、その一端なりともお伝えできればと存じまする。
家康様が私の話ごときで、お考えを改めることはございますまい。されど、家康様のお耳には入れておきたく存じまする。
戦(いくさ)が早期に終結し、徳川家の家臣を改めて取り立てる段になりましても、何かしらお役に立てることもあろうかと」
「それは願ってもない申し出じゃ、お市殿。早速、早雲殿に早馬を遣わそうぞ」
「お聞き届けいただき、誠にありがとうございまする」
お市の方は深く頭を下げた。
その時、頼朝は軽く咳き込み、起こしていた体を再び横たえた。家臣たちがその様子を案じ、寝所から退出しようとしたが、頼朝はそれを手で制した。
「…皆、聞いてほしいことがある。
…認めたくはないが、万が一の時のことを、はっきりさせておきたいのだ」
「何を仰せられますか、頼朝様!」
秀長が、間髪を入れずに声を上げた。
「まあ、聞け、秀長。万が一のことと申しておろうが。
古(いにしえ)の世においても、この『万が一』を明確にしておかなかったがために、血で血を洗う忌まわしい内乱が起こった悲劇は数知れぬ。
桜か、義経か、あるいは里か…そのようなことで家臣の心が離散することだけは、何としても避けたいのだ。…万が一の折には、秀長、そなたがこれから申すことを、わしの遺志として皆に伝えてほしい」
頼朝は、一度目を閉じ、覚悟を決めたように再び口を開いた。
「まず、この頼朝軍団のことは、義経に引き継がせたい。
今のこの状況で、義経にこの軍団を託すのは断腸の思いだ。しかし、その重責を担うのは義経が適任だと、わしは考える。
義経がその後、軍団をどう導くかは義経の器量に任せるが、適切な時期を見計らい、必ずや後継者に引き継ぐことを願う。
…いずれこの軍団を、この時代の者に任せたいというわしの意向は、そなたも承知していよう。もし、徳川家康を臣従させることが叶い、義経が家康を後継にふさわしいと判断したならば、家康に軍団を引き継がせよ。…あるいは、義経が後継に桜を選ぶというのであれば、それもまた良い。…以上だ」
「頼朝様のご意向、この羽柴秀長、しかと承りました。しかし、そのような万が一の事態、この秀長、断じて承服いたしかねますぞ!」
秀長の声は震えていた。
「…秀長よ。武士(もののふ)は、常に死に場所を求めて生きるもの。わしもまた、そうだ。
しかし、志半ばで病に倒れるのは無念という他ない。…わしも、今はまだ、死にとうはないのだ」
その言葉を最後に、頼朝は静かに目を閉じた。
篠が皆に目配せをした。その意を汲まぬ者は、誰一人としていなかった。篠を残し、集まった家臣たちは、重い沈黙の中に頼朝の寝所を退出した。
* * *
天文十六年(1587年)九月。
岡崎城下。
かつて北条早雲と源義経が徳川家康と会談を行った茶屋に、この度は、北条早雲とお市の方が、徳川家康と相対していた。
家康は、お市の方との思いがけない再会を素直に喜んでいた。
「これはこれは、お市殿! まさかこのような場所でお会いできるとは、夢にも思いませなんだ! しかも、頼朝殿の使者としてお目にかかるとは……」
「家康様もお変わりなく、何よりでございます」
お市の方も、再会を喜ぶ家康の様子に、まんざらでもない表情を浮かべていた。
しかし、家康は北条早雲に向き直ると、その表情を一変させた。
「早雲殿、再びお目にかかれたな。
この度は、何か良きお知恵でも授けてくださいますのかな」
その言葉には、棘(とげ)があった。
「徳川殿、本日は策も何もござらぬ。ただただ、お願いに参った次第。
何卒、我が軍の傘下にお入りいただき、共に太平の世を築いてまいりたく存ずる。我が主君、頼朝が、今最も手を取り合いたいと願っておるのは、徳川殿、そなた様でござる」
早雲は、静かに、しかし強い意志を込めて語った。
家康は、鼻で笑った。
「…話にならぬわ。
臣下となるくらいならば、一戦交えて潔く滅びる所存。捕虜への配慮など、我が軍には無用!」
「そこを何とかお聞き届け願えまいか。
徳川殿には、どうしても生きていていただかねばならぬのだ。
徳川殿が先日仰せられた通り、甲相越(こうそうえつ)の同盟など、脆くも崩れ去るは必定。そのような状況で徳川殿と盟約を結んだとして、徳川殿には何の利も無いことも申される通りじゃ。我が軍は、特定の武家に肩入れすることはできぬ立場。
ただ、徳川殿だけは、我が軍の同盟国に牙をむく敵として、戦わねばならぬことになる。
そのような事態だけは、何としても避けたく存ずるのだが」
「早雲殿、今からでも攻めてくるが良い。
先日も申し上げた通り、我らはすでに覚悟はできておるわ。華々しく散ることに、何の未練があろうか!」
家康は、頑なだった。
「徳川殿! それは匹夫(ひっぷ)の勇と申すものぞ! 負け戦と知りながら、いたずらに兵を損なうことに、何の意味がござろうか!」
それまで冷静に言葉を継いでいた早雲であったが、この時ばかりは抑えきれぬ激情が、偽りのない怒りとなって迸(ほとばし)った。
「早雲殿。それは、そちらの理屈でござろう」
家康も、一歩も引かない。
「我らの方から、頼朝軍に対し、戦を仕掛けるつもりなど、毛頭ない。
だが、もし、そちらが、どうあっても我らを攻める、というのであれば、こちらも、ただ受けて立つのみ。その覚悟を、申しておるだけのこと」
「徳川殿。この厳しい戦国の世においては、戦の負け、あるいは他家への臣従というものは、すなわち、お家の断絶、一族郎党の破滅を意味する。であるからこそ、皆、死に物狂いで、お家を守るため、ただ命を懸けて戦う。それが、これまでの習いであった。
しかし、我が主・頼朝は、そのような、ただ滅ぼし合うだけの世を、終わらせたいと、そう願っておる。我らに、そのお心は、毛頭ない。ただ……ただ、そなたが掲げるその『旗』の色を、変えていただくだけで良いのじゃよ、家康殿」
早雲は、必死に説得を試みる。
そこで、それまで黙って話を聞いていた、お市が、静かに口を開いた。
「…家康様。今、我が頼朝軍に、かつては、我が兄・信長を見限り、そして、今は、頼朝様に、心からの忠節を尽くしておる者たちが、いったい、どれほど多くいるか、ご存知でございますか」
家康は眉をひそめた。
「ふむ……。少なくとも、先の南信濃においては、池田恒興殿のご子息である、池田輝政殿が、我ら徳川と、勇猛に戦っておった、と記憶しておりまする。ですが、まさか、あの池田恒興殿ご本人が、信長殿を見捨て、頼朝軍に降ったなどとは、到底、思えませぬがな……」
家康は、訝しげに言った。
「その、まさか、なのでございますよ、家康様」
お市は、微笑んだ。
「池田恒興様は、織田家の誰よりも早く、最も古くから、頼朝様に対し、臣下の礼を取られた、家臣の一人でございます。その他にも、柴田勝家様、前田利家様、加藤清正様、福島正則様、そして、わたくしの義弟にあたる羽柴秀長様など……。彼らは皆、一度は頼朝軍と刃を交え、そして敗れましたが、その後、頼朝様の、そのお人柄と、目指される世界の大きさに触れ、自らの意思で、頼朝様の家臣となっておりまする。
この、わたくしとて、かつては捕虜となり、そして縄を解かれましたが、ゆえあって、兄・信長の元へは戻りませんでした」
家康は、驚きを隠せない様子だった。
「…臆病風に吹かれた者どもが、頼朝軍の温情にすがり、命惜しさに降ったものとばかり考えておった。
しかし、今挙げられた者たちは、信長公のためには命をも惜しまぬ猛者ばかりではないか。…にわかには信じられぬ話だ。
それとも、信長公ご自身が変わってしまわれたのか…」
「…いいえ。おそらくは、みな、それぞれに、考えは異なるとは存じます」
お市は、静かに言った。
「ですが、かつての織田の家臣たちは、皆、兄・信長が目指した『天下布武』という、大きな夢に自らの夢を重ね合わせ、その実現を信じ、付き従うておりました。ですが……」
お市は、頼朝のいるであろう、遥か北の空を見上げた。
「ですが、今、頼朝様が目指しておられるという、『天下静謐』……。その大きく、そして尊き理想を知れば知るほどに、多くの者たちが、今度は頼朝様を、心からお支えしたい、と、そう願うようになるのでございます。
頼朝様は、兄・信長が、かつて歩んだ、その血塗られた道のさらに一歩先を、今、歩まれ、そして、我らには想像もできぬほどの深い苦悩を抱えながら、次なる、新たなる高みへと、ただひたすらに模索しておられる……。わたくしには、そう思われてなりませぬ」
家康は、お市の方の言葉に静かに耳を傾け、ややあって落ち着いた表情に戻った。
「…それは、まことに、興味深い話じゃのう。
だが……。わしが、直接、頼朝殿とお会いし、お話をすることがなかったのは、あるいは、このわしにとっては、むしろ幸いであったのかもしれぬな」
家康は、お市に対し、きっぱりと言った。
「お市殿。もう、遅いのじゃ。
いかに、頼朝殿が、正しき道を歩まれておられたとて、今の、この徳川の領土を得るために、どれだけ多くの我が家臣たちの、血と汗と涙が流されてきたことか。それを、当主であるこのわしが、今更、おめおめと頼朝殿に献上することなどできはせぬ。
頼朝殿の家臣たちが、頼朝殿のために、ここまで必死となって尽くされてきたであろう。しかし、わしの家臣たちもまた、このような頼りないわしのために、その命を捧げ、そして、ここまで支え続けてきてくれたのだ。その、彼らの忠義を、このわしが、無下(むげ)にすることなど、到底、できはせぬ」
北条早雲が、再び重々しく口を開いた。
「…重ね重ね残念なことだ。徳川殿の言葉は、いちいちもっともでござる。
だからこそ、どうにもならぬ。
だからこそ、こうしてお願いに参ったのだ。
しかし、それを受け入れられぬという徳川殿の言葉もまた、道理。…実に残念じゃ」
早雲は、常には見せぬほど深く息を吸い込み、言葉を慎重に選びながら家康に告げた。
「…重ね重ね、まことに残念ではあるが……。
我らには、関東の、あの複雑怪奇な情勢が、再び乱れる前に、どうしても、この駿河の地を、抑えておかねばならぬ、という、こちら勝手の、しかし、切実な事情がござる。
…………であるからして、我らは近いうちに、徳川殿に対し、戦を仕掛けることになろう。そのための備え、怠りなくなされよ。無論、我らとて、武田や北条への、援軍要請などは、一切、いたさぬつもりじゃ」
家康は、静かに頷いた。
「…我が軍は頼朝軍に及ばぬかもしれぬ。されど、決して侮るな。油断なされぬよう」
お市の方は、力なく肩を落とした。
「家康様……」その声は、かき消えそうだった。
「…では、次は戦場(いくさば)でお会いしようぞ」
家康はそう言い残し、茶屋を後にした。
北条早雲と、お市は、岡崎城下の、その寂れた茶屋を、言葉少なに出た。大草城へと戻る、二人の足取りは、鉛のように重かった。
* * *
天文十六年(1587年)十月。
頼朝の体調は、ようやく回復の兆しを見せていた。以前に比べれば、二条城内で家臣たちに顔を見せる頻度も格段に増えていた。しかし、いまだ病み上がりであり、長時間にわたる政務をこなせるまでには回復していなかった。
そのような折、太田牛一が血相を変え、火急の知らせを手に頼朝のもとへ駆け込んできた。
「頼朝様! 丹波の織田軍が、突如として、我らに従属しておる、丹後の一色家領内へ向け、進軍を開始した、との報せにございます!」
頼朝の表情が険しくなる。
「なに、信長めが、この期に及んで、またしても仕掛けてきたというのか! それは、まことに由々しき事態じゃ!」
「はっ! 残念ながら、寡兵の一色軍は、織田の猛攻の前に、すでに苦戦を強いられており、極めて危機的な状況にある、とのこと……」
「…信長め…! 直ちに近江方面より出陣の触れを出せ!」
頼朝の声に、
病み上がりとは思えぬ覇気が戻った。
「まず、一色家の居城である建部山城(たけべやまじょう)へは、後瀬山城を抜ける道が最も近い。長浜城代の赤井輝子殿に、ただちに兵を率い、直接、救援へと向かわせよ!
丹波に点在する、織田軍の諸城に対しては、安土城の早雲殿、音羽城の里見伏殿、そして伊賀上野城の世良田元信殿、この三部隊を、同時に派遣し、それぞれの城を、完全に包囲せよ!
おそらくは、信長も、自らの本拠地がこのように多方面から攻撃を受ければ、慌てて、軍を一色領から引き揚げさせるであろう。そして、織田軍が、それぞれの城へと戻った、まさにそのところを、叩き、殲滅せよ!」
頼朝の号令が、二条城に響き渡った。
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