第三十八話:鬼の鬼退治
[前回までのあらすじ]
鎌倉の世より、謎の女性トモミクによって戦国時代へと誘(いざな)われた源頼朝。
当初は、源氏の血筋である同盟国・武田家を守ることが軍団の目的と聞かされ、織田・徳川両軍と激しく戦っていた。
しかし、軍団に秘められた多くの謎、そして自らの存在意義について少しずつ理解し始めた頼朝は、織田信長を死なせず、多くの武家を滅ぼすことなく安寧の世を目指すという、困難な道を選択。その実現のため、京に上り「惣無事令」を発することを決意した。
近江、伊勢、越前を着実に平定し、ついに京都の二条城をも攻略、上洛を果たした。だが、その直後、京の朝廷から、頼朝を中納言に叙任するという、その力を牽制するかのような使者が訪れる。
さらに、今の頼朝はこの時代における「二人目の頼朝」であり、「先代の頼朝」は秀長自身が誤って殺害してしまったこと、そして頼朝に寄り添っていた出雲阿国の正体が、古代の巫女・卑弥呼であった事、時を超える力を持つのは彼女自身であったことなど、衝撃的な事実を聞かされ、頼朝はその場で意識を失ってしまう。
多くの謎と葛藤を抱えながらも、頼朝は決意を新たに京の二条城へと入り、厳しい現実と向き合い始める。
[主な登場人物]
源頼朝: 鎌倉幕府を開く直前にタイムスリップ。価値観の変化に悩みつつ、頼朝軍団を率い「惣無事令」を目指す。二条城に入る。
源義経: 平泉で最期を遂げる直前にタイムスリップ。兄・頼朝に献身的に仕える軍略の天才。那加城にて東国の守りを固める。
武田梓: 武田勝頼の娘。義経の妻。武田流軍学に通じ、現在は狙撃部隊の部隊長。清州城代。
源頼光: 平安時代の武将。摂津源氏中興の祖。騎馬隊を率いる。大垣城代。
トモミク: 頼朝を導いた謎の女性。立花宗茂のはるか先の未来の子孫によって生み出された存在。
出雲阿国: 正体は卑弥呼。時を旅する巫女。頼朝の側近として上洛に同行。
北条早雲: 戦国初期の大名。晩年にタイムスリップ。軍団のご意見番、外交役。安土城にて桜の後見役。
羽柴秀長: 織田家臣・羽柴秀吉の弟。信長を見限り頼朝へ。軍団の筆頭家老、優れた参謀。頼朝(先代)を死なせたことに苦悩する。
羽柴篠: 秀長の娘で頼朝の正室。父譲りの才覚を持つ。頼朝隊の副将。頼朝の上洛に同行。
赤井輝子: 狙撃隊を率いる猛将。譜代衆。長浜城代。
源桜: 頼朝の娘。北条早雲に師事。安土城代。
源里: 頼朝の娘。武芸に秀で、義経隊の副将。
太田牛一: 少し未来の徳川の世からタイムスリップ。二条城代であり、頼朝の側近・参謀。
[第三十八話 鬼の鬼退治]
天文十六年(1587年)六月。
岡崎城下の、とある街外れの茶屋。
深く編み笠を被った二人の武士が、人目を忍ぶように足早に店内へと入って行った。茶屋の主は、その二人を一瞥(いちべつ)すると、心得たように黙って頷き、用心深く二人を奥の座敷へと通した。
座敷には、すでに一人の男が、くつろいだ様子で静かに座していた。
年の頃は四十前後であろうか、温厚そうな顔立ちで、柔らかな物腰の男である。
男は、入ってきた二人の客人に気づくと、穏やかに微笑み、上座へと座るよう促した。
「お待ちしておりました。…源義経様と、北条早雲様で、いらっしゃいますな」
「いかにも」
編み笠を取った早雲が、短く答えた。
「これはこれは、ようこそお越しくださいました。某(それがし)は、徳川三河守家康(とくがわみかわのかみいえやす)と申しまする。
以後、お見知りおきを」
男――徳川家康は、丁寧に挨拶した。
頼朝軍からの、再三にわたる折衝の甲斐あって、ついに家康が、この極秘の面談に応じることとなったのである。
面談の条件として、家康側からは、岡崎城下で行うことが提示された。
ただし、頼朝軍からの申し出であったため、できる限り公平を期すという意味合いからであろう、徳川領内とはいえ、頼朝軍の拠点である大草城の城下にもほど近い、この国境沿いの茶屋が、会談の場所として設定されたのであった。
北条早雲と義経は、深く被っていた編み笠を外し、改めて家康に対し、深々と頭を下げた。
「此度は、我らの、突然の申し出を、かくも快くお引き受けいただき、心より、お礼申し上げる。
拙者は、北条早雲と申す。以後、よしなにお願いいたす。
そして、こちら、横におりまするは、我が主君・源頼朝の弟君にあたる、源九郎義経でござる」
義経も、続いて丁寧に挨拶を行う。
「源九郎義経にござる。
此度は、徳川家康殿と、こうしてお会いできること、まことに光栄の至りに存じまする」
「いやいや、こちらこそ。
まさか、あの伝説の軍神・源義経様、そして、戦国初期の梟雄(きょうゆう)と謳(うた)われた北条早雲様と、こうして直接お会いできようとは。
それだけでも、家臣への良き土産話になると、この家康、嬉しき限りでございますぞ」
事前に、太田牛一から聞いていた人物評の通り、どこまでも物腰が柔らかく、丁寧な言葉遣いの家康であった。
だが、逆に、そのあまりにも温厚な立ち居振る舞いが、彼の心の奥底を、決して人に見せようとしない、分厚い覆いともなっているように、早雲と義経には感じられた。
「それにしても、さすがは、かの源頼朝様でございますな」
家康は、感嘆したように言った。
「この、わずかな期間のうちに、あれほどまでに強大であった信長公を、その広大な領土から、ものの見事に追いだされ、あまつさえ、上洛までも果たされたとは。いやはや、恐れ入りました。
しかも、伝え聞くところによれば、頼朝軍団は、決して捕虜を斬り捨てたりはされぬ、との噂も、すでに日ノ本中に広く伝わっており、その結果、死に物狂いで戦う気力も失せ、いとも簡単に軍門に下る織田方の家臣たちが、続々と現れた、とも聞き及んでおりまする。
また、あれほどまでに、互いに深く憎み合っていたはずの、甲斐・相模・越後の三国同盟までも、頼朝様の手引きによって成し遂げられたように、お聞きしております。
…武力のみならず、内に、そして外に、敵の戦意をも巧みに骨抜きにしてしまうとは……。
まことに、何とも恐ろしき軍団でございますな。
某のような、ただの小心者は、そのお噂を耳にするだけで、日々、その恐ろしさに、ただ震えておるばかりでござるよ」
「がははは! 家康殿は、そのように、我らを見ておったか!」
早雲は、豪快に笑い飛ばした。
「いやいや、それらは全て、偶然の産物に過ぎませぬ。
我が主・頼朝殿は、実のところ、それほど深き計略を持ち合わせておるわけではござらぬ。
ただ……不思議なことに、あの御方のその曇りなき心意気、そして人徳によって、いつの間にか積み重なった力が、時に、我らの想像を遥かに超えて大きくなっておる、というだけのこと。
おそらくは、頼朝殿ご自身もそれに気づいてはおられぬ、それが、我が主の、真の『力』なのでございましょう。
偶然であり、しかし、我が主であるからこその、当然の結果でもある、と、この早雲は見ておりまする」
「ほう……。それは、ますます、伝説の頼朝様ご本人にも、直接お会いし、お話をしてみたくなったものですな」
家康は、興味深そうに言った。
「徳川殿が、もし本当にお望みであれば、いつでも。我が主も、きっとお喜びになりましょう」
「…ふふ。まことに、貴軍団とは、底の知れぬ、恐ろしきお歴々の集まりのようでございますな」
家康は、薄笑いを浮かべた。
「しかし、家康殿」
早雲は、家康の目を、じっと見据えた。
「貴殿は、先ほどからすぐ隣の敵国の話を、どこか他人事のように話されておるように聞こえておるが……。それは、この拙者の、思い違いでございますかな?」
「はっはっは。これは、一本取られましたな」
家康は、あっけらかんと笑った。
「いやはや、お見それいたしました。…さすがは、北条早雲殿。まさに、痩せ我慢(やせがまん)でござったよ」
(…まったく、本心が、どこにあるのか、まるで見えぬ。なんと懐(ふところ)の深い男よ、この徳川家康とは……)
義経は、目の前で繰り広げられる、老獪(ろうかい)な早雲と家康との、腹の探り合いのような会話を耳にしながら、家康のその一挙手一投足、表情の微かな動きまでも、全て目に焼き付けようと、神経を集中させていた。
「ところで、家康殿」
今度は、義経が、率直に切り出した。
「我らは、貴殿と、真の友好の道を模索したく、本日、このようにお時間をいただいた次第。
我が主・頼朝と、共に手を携えて、この乱世を終わらせる道は御座らぬものでしょうか」
「ほう……。頼朝軍には、この徳川の領土を切り取るご意向はおありにはならぬ、と、そう仰せられますか?」
家康は、探るような視線を、義経に向けた。
「我らには、いたずらに領土を広げることへの執着は、もはや、ござらぬ」
義経は、きっぱりと答えた。
「では、お伺いするが」
家康は、さらに問いを重ねる。
「であるならば、これまでの、あの、織田領への怒涛の如き侵攻は、いったい何だったのでござるかな。
もしかして、伝説の英雄・源頼朝様が、この戦国の世に蘇り、織田信長という、日ノ本を乱す『鬼』を、見事に退治なされた、とでも、そのように申されるおつもりか」
その、家康の、皮肉とも挑発とも取れる言葉に対し、今度は、北条早雲が、前面に立った。
「ふむ。まあ、あながち、そのようなものでもあるのかもしれませぬな。
しかし、繰り返しますが、我らに、織田家そのものを完全に滅ぼし尽くそうなどという気は、毛頭ござらぬ。
それは、徳川殿の、この領土に対しても、全く同じことでござる」
「…もし、本当に、我ら徳川との、真の誼(よしみ)をお考えである、と仰せなのであれば」
家康は、静かに、しかし、きっぱりと言った。
「我らが示すべき、その条件は、ただ一つ。
はっきりしておりまするぞ。
甲斐・信濃の武田領、そして関東の北条領、その全てを、この我が徳川の支配下に置くことを、お認めいただく。
…いかがかな? それが、我らの、唯一の条件でござる」
(な、何を……!)
その、あまりにも傲慢(ごうまん)な家康の言葉に、義経は、身体の底から、一瞬にして沸騰するような、激しい敵意が湧き上がるのを感じた。だが、それを、必死に、心の奥底へと抑え込んだ。
(いかん、いかん……。ここは、早雲殿に、全てお任せするのだ……)
「…ほう。家康殿こそ、むしろ、領土への強い野心がおありのようにお見受けするが?」
早雲は、冷静に切り返した。
「いやいや、早雲殿。
実のところを申せば、頼朝殿と、このわしとが、本当に考えておるところは、おそらくは、それほど大きな違いはないのではないか、と、わしは推測しておるのだがのう」
家康は、腕を組んだ。
「おそらくは、頼朝殿も、力による支配と、天下静謐との、その微妙な兼ね合いに、日々、苦労されておられることであろう。
それは、この我々も、全く同じこと。
今のままでは、たとえ頼朝殿と形ばかりの誼を結んだとしても、我が徳川がこの領内の民や、家臣たちを、本当に守り切ることなどできはせぬ。
考えてもみよ。
上杉、武田、北条の、あの、かりそめの和平も、結局は信長殿と、信長殿と同盟を結んでおったこの我が徳川という、『共通の敵』が、いわば良き口実となり、
そして、頼朝殿の巧妙な手腕もあって、ようやく、かろうじて成り立っておる、
ただそれだけの、脆(もろ)い小康状態に過ぎぬ。
わしは、そのように見ておるが、いかがかな。
それに、もはや信長殿が頼朝様を力で押し返すだけの力は、残されてはおるまい。
であるならば、この小康状態が、いったいいつまで続くものか。
わしには、到底、そう長く続くとは思えぬがのう。
特に、あの武田家は、覇権を目指すことこそが、父君・信玄公以来の悲願。
信玄公の遺言の『瀬田に御旗をたてよ』は全ての家臣の心に刻まれておる。
今は武田の危機を頼朝様が救っているからこそ、その覇権への道を一時的に諦めさせられておるに過ぎぬ。
だが、武田の家臣たちの多くは、もはや、その現状に満足できず、すでに我ら徳川の調略に、喜んで乗ってきておる。
現当主・勝頼殿の苦労をよそに、多くの家臣たちは、その指導力に失望し、離反寸前じゃ。
甲相越同盟がありながら、上杉景虎を滅ぼしたあの支離滅裂な行動は、武田内の矛盾を露呈しておる。
もし、この先、甲斐・相模・越後の間で、再び大きな争いが起きた時には、我ら徳川もまた、行動を起こさねば、我ら自身が滅びることになる。
今、頼朝殿と誼を結んだとして、その、誼を結んでおるはずの大名同士がもし争い始めたとしたら、頼朝殿は、いったいいかがなさるおつもりか。
また、今、誼を結んでおるそれら武家の意向と、我が徳川の意向が異なれば、我ら徳川の立場は、優先されぬことになるのではあるまいか。
それとも……。何があっても、この我ら徳川を、必ずやお守りくださる、と、そう、お約束いただけるかな?」
「がははは! いやはや、徳川殿! まことに、恐れ入り申した!」
早雲は、大いに笑った。
それはあまりにも早雲にとっても的をえた言葉に触れたからであった。
「まさに、徳川殿の、そのお目は、大空を自由に飛び交う、鷹(たか)のごとく、この世の全てを、どこまでも見通しておられるかのようじゃな!
稀代の名将とは、まさに、貴殿のような御方のことを、申すのであろうよ!
…お見事!」
義経は、家康の、その的確な状況分析に対し、反論できる言葉を何一つ見つけ出すことができなかった。
まさに、今後の上杉、武田、北条の三国間の均衡が、いずれ崩れるであろうことは、頼朝自身も最も現実的な懸念として、常に警戒していたことであったからだ。
しかし、早雲は、家康の視線を真っ直ぐに受け止めながら、不敵な笑みを浮かべ、話を続けた。
「…では、徳川殿。そのような、先見の明をお持ちの貴殿にこそ、一つ、良き考えがござるぞ。
我が軍に、臣従するか。
あるいは……このまま、我が軍に、攻め滅ぼされるか。
その、どちらかを選ばれるが良い。
どちらを選ばれたとしても、三河、遠江、駿河の民、そして、今の家臣たちは、いずれの場合においても、我らがその安泰を、必ずや保証いたそう。」
「…ほう。最後は、この徳川を、脅しにかかられるか」
家康の表情から、笑みが消えた。
「いや、そうではござらぬ」
早雲は、静かに首を振った。
「それだけ、我が主・頼朝は、家康殿との真の誼を、何が何でも模索したいと、そう願っておるのじゃ。
我らが、今、最も頭を抱えておるのは、いかにして、この、大切な武家同士の、無益な争いを無くすことができるか、という一点に尽きる。
我が主は、まさに、その絶望的とも思える問いかけを、この戦国の世に投げかけておるのじゃ。
であるならば、徳川殿。
ただの同盟よりも、さらに一つ深き間柄……すなわち、我らと、同じ源氏の御旗(みはた)のもとに、共に集(つど)い、戦ってはくれまいか。
…形は、あるいは『臣従』ということになるやもしれぬがな」
「むむ……」
さすがの家康も、早雲のあまりにも大胆な提案に、言葉を失っていた。
これまでの、あの温和な表情は、どこにもない。
早雲が、まるで一枚、また一枚と、ゆっくりと、しかし確実に、家康の、の心の奥底に纏(まと)った鎧を、剥ぎ取り続けているかのようであった。
やがて、家康は、重い口を開いた。
「……確かに。今、この徳川が、その総力を挙げて、頼朝殿に戦いを挑んだとしても、万が一にも、勝ち目はあるまい。
あの、忌まわしき大草城の築城を、我らが阻止できなかった、まさにあの時から……あるいは、我らの負けは、すでに決まっておったようなものであったのかもしれぬ。
我らは、頼朝軍が大草城の築城を開始した、との報を耳にし、全軍をもってその奪還、そして破壊をすべく、出撃をした。
しかし、頼朝軍は、それをも見越し、巧妙に武田と手を組み、背後を突かれた我が軍は無念の撤退を余儀なくされた……
もはや、頼朝軍と、直接事を構えることは、その時から、諦めておった。
我らは、せめて南信濃にその全力を注ぎ、攻め入ったのじゃが……。
まさか、あの東美濃の織田軍をものの見事に粉砕しながら、武田への援軍に参るとは、夢にも思わなんだ。
それでも、頼朝軍が、信濃へ多くの軍勢を派遣した、まさにその隙を突き、信長殿に、『今こそ好機到来なり』と、共闘の打診をしたが……。
まさか、あの絶望的な状況から、頼朝軍が、逆に織田軍を追い払うとはな……」
家康は、ため息をついた。
「…もはや、我らに、打つ手無しでござるよ。
まことに、恐るべき軍団が、この日ノ本に現れたものよ。
この某も、心の底から、誠に震えあがっておりまする」
「しかし……」
家康は、言葉を続けた。
「同盟も、臣従も、あるいは、このまま攻め滅ぼされるも……おそらくは、そのいずれも、この徳川家にとっては、結局は『滅びる』道筋しか、見えぬように思う。
頼朝軍が持つ、あの圧倒的な軍備、革新的な築城技術、そして、瞬く間に城下を発展させる、あの恐るべき内政能力……。それらに、今の我らが、太刀打ちできる術(すべ)は、どこにもない。
どうせ、そうであるならば……。
頼朝軍が、いつ攻めてくるか、と、ただそれを怯えながら待つよりも、あるいは、攻めて来るまさにその時までに、もはや領土をただ広げることによってしか、その強さを手に入れることはできぬ。
ただの悪あがき、無駄な延命策に過ぎぬのかもしれぬが……。
当主たるもの、何もせずただ滅びを待つ、というわけにも参らぬ」
家康は、早雲の目を、じっと見据えた。
「どうかな、早雲殿。おそらくは、我ら徳川家には、すでに他の選択肢など、残されてはおらぬのであろう?
いずれ、この戦国の世に、潔く散るのであれば、みすみす臣従するのではなく、この三河武士の、最後の意地を見せ、そして、華々しく散る。
ただそれのみでござる。
それこそが、我ら、徳川家臣団の、長きにわたる生き様でもあり申す。
…あの、忌まわしき大草城が出来上がった、まさにその時から、この家康、覚悟はできておる」
さすがの北条早雲も、家康の、その、あまりにも潔い覚悟を前にしては、これ以上、論争を仕掛ける気はないようであった。
「徳川殿。
本日は、まことに、良いお話ができた!
徳川殿が、それほどまでに、強く、そして深き覚悟をお持ちの御方であると、この早雲、この身をもって、感じ入った次第でござる。
しかし……お互いの妥協点とやらを模索するには、ちと、時が遅すぎたのかもしれぬな……
ただし、これだけは、覚えておいていただきたい。
我らが、徳川殿との、真の誼(よしみ)を結びたい、と、そう考えておる、その気持ちに、一片の偽りもない、ということを」
「…早雲殿。
もし、何か、良きお知恵が浮かばれた際には、いつでも、また、ここへ参られよ。
歓迎いたす」
家康は、静かに言った。
早雲と義経は、徳川家康に深々と頭を下げると、足早に、その茶屋を後にし、頼朝軍の拠点である大草城下へと、馬を向けた。
* * *
北条早雲は、義経と共に、那加城へと入った。
「義経殿、どう、御覧になったかな」
早雲は、まず義経に問いかけた。
「いやはや……。正直、早雲殿がおられねば、この拙者は、手も足も出ず、這(は)う這(ほう)の体(てい)で逃げ帰るか、
あるいは、かっとなって家康殿に斬りかかり、取り返しのつかぬことを仕出かしてしまうか、
そのどちらかでござった……」
義経は、苦笑した。
「まことに、圧倒されました。
…ですが、あの家康殿が、我が軍団を兄上に代わって継ぐにふさわしき器量であるかどうか……。
兄上からのその問いに、今の拙者がお答えするのはあまりにも難しゅうございます。
…早雲殿は、いかがお考えかな?」
「ふむ。あっぱれな、武人の鑑(かがみ)よのう」
早雲は、腕を組んだ。
「徳川殿の、その本心らしきものを、少しなりともこの耳にすることができたのは、大きな成果じゃったと言えよう。
もし、我らの申し出に対し、いとも簡単に臣従を受け入れるような男であれば、そもそも、頼朝殿の後継者として彼を推挙することなど、わしは決してせぬ。
我らへの臣従は、到底考えられぬことであろうな。
であるからといって、頼朝殿の後継者として彼を迎えたい、などとも、わしにもよう言えぬしのう」
早雲は、ため息をついた。
「まこと、良き武人ではある。
じゃが、今の我らとは、あまりにも縁が遠い。
…結局は、全て、徳川殿の申す通りであったのよ。
徳川家康という男には、まことに感じ入ったが……今のところ、彼と誼を結ぶための方策は、残念ながらござらぬな」
「…そうでござるか。
何とか、ならぬものでござりましょうか、早雲殿」
義経は、残念そうに言った。
「もし、徳川殿のあの考えに、何らかの隙(すき)でもあれば、そこを突くこともできたのじゃがのう。
残念ながら、彼の言葉は全て的を射ており、一片の曇りもなかった。
…もはや、打つ手なしじゃよ、義経殿。
ただし……」
早雲は、不敵な笑みを浮かべた。
「ただし、義経殿。我らは武人じゃ。
時には、言葉ではなく、刃(やいば)を交えることによって、はじめて、互いに分かり合える、ということも、また、あるのではござらぬかな?」
「…つまり、早雲殿は……。徳川と、戦う、と……?
そう、仰せられるのですか」
義経は、息を飲んだ。
「左様。あの、類まれなる器量を持つ徳川家康を、何としても頼朝様の家臣としたい。
そのためならばたとえ力づくであっても、それだけの価値がある男(おとこ)やもしれぬぞ、義経殿!」
「いやはや……。早雲殿も、そして、あの徳川殿も……。
まことに、恐ろしきことを、平然と、しかも笑いながら申される……。
そのお言葉、どこまで額面通りに受け取って良いものか、この拙者には到底判断できませぬぞ」
義経は、困惑した表情を隠せない。
「がははは! 義経殿。
今日の、このわしの言葉は、全て、額面通りに受け取るが良い」
早雲は、高らかに笑った。
「いずれ、必ずや、北条、武田、上杉が、再び交戦状態となる日が来るであろう。
そこに徳川までが戦線に加わってしまっては、もう打つ手なしじゃ。
その前に、まず、徳川を攻め滅ぼし、そして、力づくで、あの家康殿を我らが手中に奪い取るのじゃ。
しかし、攻め取った後は、その領地も、家臣も、全て元通り、彼にお返しすれば良い。
ただ、掲げる御旗(みはた)が、徳川の葵(あおい)から、源氏の旗へと変わる。
ただそれだけのことじゃ」
早雲は、にやりと笑った。
「もっとも……もし、頼朝殿が、家康殿と直接お話をする機会ができたなら、あるいは、彼の心も、少しは変わるやもしれぬがな……」
「…早雲殿。もはや、この拙者にはどうするのが良いのか、全く判断がつきませぬ」
義経は、正直な気持ちを吐露した。
「もし、徳川を攻める、ということになるのであれば……その責は、全てこのわしが負うといたしましょう。
早雲殿は、どうか、兄上や、太田殿と、今後どうすべきか、改めてお話をいただけますかな」
「うむ。それが良かろう」
早雲は頷いた。
「では、義経殿は、そのための準備だけは、怠りなく、進めておいていただきたい。
ただし、決して、徳川方に、こちらの動きが悟られぬよう、くれぐれも、内密にな」
「早雲殿、かしこまった」
義経は、深々と頭を下げた。
(…やれやれ。
この、北条早雲殿だけは、決して、敵には回したくないものよのう……)
* * *
天文十六年(1587年)七月。
京の二条城では、頼朝が、朝廷の最近の動向について、大村由己、太田牛一から、詳しい報告を受けていた。
「頼朝様。内裏の修繕は、間もなく完成の見込みでございます。
また、当家からの援助を受け、屋敷の修繕を終えられた公家の方々も、多くございます」
太田牛一からの報告であった。
「ただ……先の使者であった近衛前久は、やはり帝からの覚えはあまりよろしくはなく、頼朝様をさらに高位の官職に就けることに便乗し、自らの宮中での立場を強くしたい、というような意図が、見え隠れしておりまする。
どうやら、頼朝様の『大納言』へのご叙任は、もはや間近のことかと」
「ふむ。内裏の修繕の完成が早いか、わしの大納言叙任が早いか……。まあ、いずれかを理由として、正式に参内いたすとしよう。
そして、できうるならば、帝ご自身にも、直接、謁見をお願いしたいものじゃ」
頼朝は言った。
「いずれにせよ、我らが目指す『惣無事令』の発布は、まだまだ遠き道のりのようじゃな……」
大村由己が、口を開いた。
「まことに残念ながら、現状におきましては、たとえ帝ご自身がその宣下(せんげ)を下そうとお思いになられたとしても、それを支えるべき公家衆からの信任が、あまりにも少なすぎる状況かと存じます。
おそらくは、かの近衛前久とても、頼朝様を大納言へと叙任させることが、その権力をもってしても精一杯のところなのでございましょう」
まさにその時。城内に、誰かが到着したことを告げる、大きな声が、頼朝がいる一間にも響いてきた。
「おお、どうやら、到着なされたようじゃな。よし、一緒に入っていただこう」
頼朝は、満足げに頷いた。
現れたのは、安土より駆けつけた、北条早雲であった。
「これはこれは、皆様、すでにお揃いでございましたか!」
早雲は、部屋に入るなり、大声で言った。
「して、帝は、ついに『惣無事令』の宣下を、お許しになられたかな!?」
太田牛一が、やれやれ、といった表情で、早雲に顔を向けた。
「…早雲殿も、お人が悪い。そのようなこと、聞かずとも、お分かりであろうに」
「がははは! いや、これは失礼つかまつった!」
早雲は、悪びれる様子もなく、笑った。
「いやいや、ほんの少しばかりは期待をしておったのは、嘘偽りないわしの気持ちじゃぞ、太田殿。
…やはり、まだ動かぬか」
「まことに、無念ながら……。
我らも、最善を尽くし、あらゆる手を模索してはおるのですが、今のところその道筋は全く見えてはおらぬ、というのが実情にございます……」
太田牛一は、肩で大きく息をつきながら、力なく返答した。
「ふむ、さもありなん。
…では、
我らが、あの遠江(とおとうみ)、駿河(するが)といった、徳川方の領国を全て我らが傘下に従えたとしたら、あの煮え切らぬ朝廷は、いかが考えるであろうかのう」
早雲が、不敵な笑みを浮かべた。
「まさか……!
早雲殿、あの徳川殿が、ついに臣従する気にでもなられたと仰せか!」
牛一が、驚いて聞き返す。
「いやいや、太田殿」
早雲は、首を振った。
「もし、あの徳川家康という男が、そう簡単にこちらへ臣従するような、そんな腑抜けな輩(やから)であったならば、このわしが、彼を頼朝殿の家臣として迎え入れようなどとは考えもいたしますまい。
わしは、あの徳川家康という男を、まことに気に入り申したぞ。
先の、上杉景勝殿も、まことにたいした御仁ではござったが、この徳川家康は、太田殿の申す通り、あるいは、稀代まれなる武人であるやもしれぬ。
であるからこそ……!
むしろ、徳川を攻めるが良かろう、と、そう思うておるのじゃ」
さすがの頼朝も、早雲の、そのあまりにも突飛な発言の意図を、すぐには理解できずにいた。
「…早雲殿。
すまぬが、もう少しそなたの考えを、詳しく聞かせてもらえぬだろうか」
「おお、これは失礼つかまつった」
早雲は、改めて、頼朝に向き直った。
「頼朝殿。
おそらくは、家康殿とただ同盟を結ぶ、という道は、この先必ずや起きるであろう、甲・相・越、三国間の争いを視野に入れれば、もはや実効性のない、意味のないものとなるであろう、と、彼はすでに見抜いておりました。
さりとて、今、この状況で、頼朝殿に、あっさりと臣従することも、彼の立場上、受け入れることはできぬ。
あの徳川家康は、とっくの昔に、我らとの決戦の覚悟を決めてござったのですよ。
たとえ、それが、決して勝つことが出来ぬ戦(いくさ)であると、百も承知の上で、な」
「…であるから、攻め込む、と?
それは、ちと、早計ではあるまいか」
頼朝は、訝しげに尋ねる。
「頼朝殿。確かに、ここからは、ある種の『賭け』でござる」
早雲は、真剣な眼差しで言った。
「武人たるもの、時には言葉ではなく、刃(やいば)を交えることによってこそ、はじめて互いに分かり合える、ということも、あるのではござりませぬかな。
先の、加藤清正殿が、義経殿と安土の城下にて相まみえ、そして、我らに臣従する道を選ばれたように。
同盟も、臣従も、今の家康殿にはない。
であるならば、あの、稀代の将・徳川家康を、我らが家臣として迎え入れる唯一の道は……」
早雲の声に、力がこもる。
「まず、彼の領国を、ことごとく攻め取り、
そして、頼朝殿の、その源氏の御旗(みはた)のもと、
全ての領土と家臣とを、改めて、全てを元通り、徳川家康に返すのじゃ。
さすれば、家康殿の家臣たちは、主君である家康殿のその見事な戦う姿を目にすると同時に、
我ら頼朝軍とは、到底戦っても叶わぬことを、その身をもって思い知るであろう。
三河武士の、その意地や心意気だけでは、決して戦には勝てぬことを骨身に染みて理解させ、その上で、全てを元通りに戻してやるのじゃ。
武人らしく、正々堂々と戦い、そして、敗れたとはいえ、優れた武人を最大限の敬意をもって、丁重に迎える。
わしは、これしか、あの家康殿を、我らが陣営に引き入れる道はない、と、そう愚考いたしまする。
…少々、手荒で、乱暴なやり方に聞こえるやもしれませぬが、他の、どのような策も、あの徳川家康という男には通じますまい。
あの男に、小細工は一切、利きませぬぞ」
「…義経は、その策に対し何か申しておったか」
頼朝が尋ねる。
「はっはっは!
あの、どこまでも清廉な武人であらせられる義経殿は、このような、まるで狐と狸の化かし合いのような、腹黒いやり取りには、もはや、ほとほと疲れ果てておいでであったわい! がははは!」
早雲は、豪快に笑った。
「徳川家康が、この頼朝軍団を継ぐにふさわしき器量の持ち主であるかどうか、それは、まだ分からぬ。
じゃが、少なくとも、頼朝殿の片腕たる重臣として、その働きを見ることは、是非とも実現したい、と、義経殿も、そう申しておりましたぞ」
「早雲殿……」
頼朝は、しばし腕を組み、深く考え込んだ。
「…そなたの申すこと、確かに、一理あるやもしれぬ。
だが、それは、あまりにも、大きな賭けではないか。
直ちに決断を下すには、あまりにも重き問いであるな……。
…牛一殿、そなたは、いかが思うかな」
「はっ、頼朝様」
太田牛一は、静かに答えた。
「確かに、早雲殿の、今のご提案には、正直面食らいました。
ですが、確かに、かの家康様は、よほどの理と、そして利が無ければ、決して他者と安易に誼を結ぶような御方ではございませぬ。
我が軍団が存在しなかった、本来の歴史の流れにおいては、家康様は、あの羽柴秀吉に臣従する際にも、随分と長い時間をかけ、時には戦い、万策尽きた、まさにその最後の最後に、ようやく臣従されました。
早雲殿の、今のお考えが、最も現実的で、かつ最善の道なのかもしれませぬ」
牛一は、言葉を続けた。
「無論、戦は思い通りには参りませぬ。
戦に勝てたとしても、家康様が頑として、臣下の礼をお取りにならないやもしれませぬ。
ですが……今のまま、何の策も無く、いずれ必ずや起こるであろう、甲・相・越の、三国間の大乱が実際に起きてしまってからでは、もはや、全てが手遅れとなるやもしれませぬ」
頼朝は、なおも、しばらくの間、腕を組んだまま、深く考え込んでいた。
(…ここまでして、この、今の世の者たちに、この軍団を任せるということに、果たして、それほどの価値が、本当にあるのであろうか……)
(あるいは、やはり、我が軍団の中から、次なる後継者を出すことの方が、よほど自然な流れなのでは、ないであろうか……)
(……いや、そうか……!)
ふと、頼朝の脳裏に、一つの考えが閃いた。
己自身が発した問いかけに、己自身が答えるかのように、頼朝は、一同に対し、はっきりとした口調で、口を開いた。
「…答えの無き、未来。
であるならば、我らは、ただ、その時々において最善と思われる道を進む。
ただそれだけのことよ。
もし、皆が、今、徳川を攻めることが、最善である、と申すのであれば、そのようにいたそう。
徳川家康が、果たして我らが家臣となるかどうか、そして、家臣となったとして、この軍団の後を継ぐにふさわしき器量の持ち主であるかどうか……。
それは、今のわしには、まだ、答えを持ち合わせてはおらぬ。
しかしちょうど良い。
朝廷に対しても、もはや万策尽きておる、という状況じゃ。
であるならば、言葉は悪いが、この際、三河、遠江、駿河の三国を、朝廷への『土産』として、加えてやろうではないか!」
その頼朝の言葉に、北条早雲が、深く頭を下げた。
「頼朝殿! そのご決断、恐れ入り申した!
この早雲、一度、具申したからには、必ずや、その責任は持ちまするぞ!」
「いや、早雲殿。
貴殿のその具申がなければ、この軍団の誰もが、このような大胆なことを考えつくことすらなかったであろう」
「ありがたき幸せにございます!
…そういえば、頼朝殿。一つ、面白きことを、かの徳川家康が申しておりましたぞ」
「ほう、それは、是非とも聞いてみたいのう」
「我らは、領土への野望は、もはや無い、と、先の会見で、義経殿が申し上げたところ、徳川家康は、こう返してきたそうでございます。『ほう。では、かの伝説の頼朝軍は、この日ノ本を騒がす、鬼・織田信長を、ただ退治するためにだけ、現れたと、そうでも申されるおつもりか』と」
頼朝は、それを聞き、思わず苦笑していた。
「…ふっ。どうやら、それは義経の一本負けじゃったようじゃのう」
「はっ! まことに」
早雲も、笑った。
「であるならば、此度もまた、堂々と、かの『鬼・徳川家康』を、退治しに参ろうではございませんか!
おそらくは、義経殿もまた、すでに鬼退治のご覚悟を決めておられるご様子でございますぞ」
「そうか、義経とも、すでに話がついておるのじゃな」
頼朝は頷いた。
「では、早雲殿。
すまぬが、あと一度だけ、徳川家康に臣従の勧告を、早雲殿自ら使者として出向いてもらえぬか。
そこまで、早雲殿と話をしておるのであれば、あるいは、万に一つ、彼の心も変わるやもしれぬ。
…ただ、まあ、十中八九、臣従はせぬであろうな。
その際は、もはや、躊躇(ためら)うことはない。
正々堂々と、宣戦布告をしていただきたい。
そして、できる限り、少しでも、我らが『義』を貫き、この戦に臨みたいものじゃ。
…お願いできるかな」
「ははっ! 頼朝殿の、そのお考え、まことに、良きお考えと存じまする!」
早雲は、力強く応えた。
「よろしくお願いいたす」
頼朝は、大村由己、太田牛一へと、向き直った。
「大村殿、太田殿は、引き続き、朝廷への働きかけを、お願いする。
もはや、押せるところまで、押してみることとしようぞ。
わしが、正式に参内する際には、これ見よがしに仰々しく、御所の正門の前まで我が軍団の部隊を引き連れて参る。
いや、いっそのこと、わしが参内する際には、御所そのものを我が軍勢で取り囲んでしまうこととしよう。
なに、鎌倉武士とは、もともと、そのような粗暴な者たちなのじゃ。
はっはっは!」
「はっ!」
由己と牛一は、頼朝の、その冗談とも本気ともつかぬ言葉に、ただ、苦笑しながらも、深々と頭を下げるしかなかった。
退出していく、優れた家臣たちの背中を見送りながら、頼朝は己の中に、また新たな、そして確かな変化が、生まれつつあるのを意識せずにはいられなかった。
(織田との戦に追われていた時は、ただ、己の目指す理想の世界のためだけに、いかに辛くとも脇目も振らず、ただ一本の道をがむしゃらに駆け抜けていた……)
(だが、この京の都へ来てからは、それだけでは、どうにもならぬことを、思い知らされた。常に、目に見えぬ策謀と、そして、人の、複雑怪奇な思惑の中で、この巨大な軍団を率いて、また日ノ本や未来のために出来ることを考え、軍団を率いていかねばならぬのだ……)
(分かっては、いた。分かってはいたはずなのじゃが……。人を殺めずに、ただ、前に進むということは、これほどまでに難しきことよのう……)
(いや、待て……。これは、どういうことじゃ……?)
頼朝は、ふと、己の心の内の恐ろしき一面に気が付いた。
(戦場にて、多くの敵の命を奪い去ること。それが、今のわしにとっては、『己が進みやすき道』である、とでもいうのか……?
そして、人を殺めずに、人の思惑の中で前に進もうとすることは、『難しき道』である、と……? まさか……!)
突然、頼朝は、思わず、一人、声を上げて笑い出した。
(結局、このわしは……!
あの、徳川家康を無理やりにでも家臣とするために、朝廷に"平和への道筋"を無理強いするため、何の罪もない兵たちの命を散らすことを選択したのか!)
(そして、御所を我が軍勢で取り囲む、などということも……。それもまた、結局は脅し、つまりは命をただ『秤(はかり)』にかけさせた冷酷な考えに他ならないではないか!)
(結局、わしは……わしは、今も、『鬼』のままなのか……!)
(あるいは……。『鬼』とならねば、この乱世において、『天下静謐』などという、大それたことなど、到底、望むべくもない、ということなのであろうか……!)
(わしが、心の底から願う細やかなる幸せの道と、そして、この天下国家を背負うということは……。やはり、どうしても、相容(あいい)れぬものなのであろうか……!)
(『天下静謐』が成った、その暁(あかつき)には……この軍団を誰かに譲り、そして、遠き故郷鎌倉にて、家族や……あるいは、あの阿国殿と、ただ静かに暮らす……などと……)
(そのような事は、あの、天上の『神』とやらが、この鬼などに許すはずもあるまい……!!)
その瞬間であった。
突然、頼朝は、激しく咳き込み始めた。
(…どうしたというのだ。己の、あまりにも甘き考えに、我ながら、呆れ果て、その衝撃で、胸でも、押しつぶされたとでもいうのか……)
はじめは、その程度に考えていた。
だが、その咳は、尋常ではない。まるで、肺腑(はいふ)の奥底から、絞り出すかのような、激しい咳き込みであった。
気が付くと、咳と共に、口元を押さえていた、自らの衣(きぬ)に、点々と、しかし、はっきりと、鮮血が付着していた。
その、ただならぬ頼朝の咳き込み方、そして、微かに聞こえてくる、苦しげな呻き声に、隣室にいたのであろう、妻の篠が、慌てて廊下を走ってくる、その足音が、頼朝の耳にも、聞こえてきた。
「頼朝様! いかがなされましたか! 大丈夫でございますか!」
「…な、何事もない……。心配は、いらぬ……」
頼朝は、かろうじて、そう答えた。
篠が、勢いよく、部屋の戸を開けようとする気配がした。
「何事もない、と申しておるであろう! ……開けるでない!」
頼朝は、初めて、篠に対しこれほどまでに強く、怒鳴ってしまっていた。
(…やはり、そうか。阿国殿がいう、あの『神』とやらは……。このわしを、許さぬ、というわけか……)
(それこそが……このわしを、この時代へわざわざ呼んだ、本当の理由であったとでも、いうのか……!)
(……)
そのまま、頼朝は、意識を手放し、床へと崩れ落ちてしまった。
篠は、「入るな」と、あれほど強く言われていたにも関わらず、頼朝しかいないはずの部屋の中から聞こえてきた、人が倒れる、その大きな物音に、もはや、ためらってはいられなかった。
篠は、涙目で、震える手で、勢いよく、目の前の戸を開け放った。
「頼朝様! 殿! ……誰か! 誰かあるか!」
篠の、悲痛な叫び声が、二条城の奥深くへと、響き渡った。
天文十六年(1587年)八月。
源頼朝は、京の朝廷より、正式に大納言(だいなごん)の官位を叙任される。
しかし、内裏(だいり)へと参内する、頼朝の姿は無かった。
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