第三十五話:弟との別れと上洛

[前回までのあらすじ]


鎌倉の世より、謎の女性トモミクによって戦国時代へと誘(いざな)われた源頼朝。

当初は、源氏の血筋である同盟国・武田家を守ることが軍団の目的と聞かされ、織田・徳川両軍と激しく戦っていた。

しかし、軍団に秘められた多くの謎、そして自らの存在意義について少しずつ理解し始めた頼朝は、織田信長を死なせず、多くの武家を滅ぼすことなく安寧の世を目指すという、困難な道を選択。その実現のため、京に上り「惣無事令」を発することを決意した。

近江へ出兵し、織田信長の必死の抵抗や大和の筒井家の援軍にも苦戦を強いられながらも、近江の要衝・長浜城、佐和山城、音羽城、そして織田家の本拠地たる安土城の攻略に、ついに成功。さらに伊勢、越前をも平定し、いよいよ京都の二条城が目前となった。

だが、上洛を目前にして、朝廷からは頼朝を中納言に叙任するとの報せが届き、その真意を測りかねる。

また、筆頭家老・羽柴秀長から、今の頼朝はこの時代における「二人目の頼朝」であり、「先代の頼朝」は秀長自身が誤って殺害してしまったのだ、という衝撃的な事実を聞かされ、頼朝はその場で意識を失ってしまう。

多くの謎と葛藤を抱えながらも、頼朝は上洛への決意を新たにするのであった。


[主な登場人物]


源頼朝: 鎌倉幕府を開く直前にタイムスリップ。価値観の変化に悩みつつ、頼朝軍団を率い「惣無事令」を目指す。

源義経: 平泉で最期を遂げる直前にタイムスリップ。兄・頼朝に献身的に仕える軍略の天才。那加城にて東国の守りを固める。

武田梓: 武田勝頼の娘。義経の妻。武田流軍学に通じ、現在は狙撃部隊の部隊長。清州城代。

源頼光: 平安時代の武将。摂津源氏中興の祖。騎馬隊を率いる。大垣城代。

トモミク: 頼朝を導いた謎の女性。立花宗茂のはるか先の未来の子孫によって生み出された存在。

出雲阿国: 正体は卑弥呼。時を旅する巫女。砲術に優れ、義経隊の副将。頼朝の上洛に同行。

北条早雲: 戦国初期の大名。晩年にタイムスリップ。軍団のご意見番、外交役。安土城にて桜の後見役。

羽柴秀長: 織田家臣・羽柴秀吉の弟。信長を見限り頼朝へ。軍団の筆頭家老、優れた参謀。頼朝(先代)を死なせたことに苦悩する。

羽柴篠: 秀長の娘で頼朝の正室。父譲りの才覚を持つ。頼朝隊の副将。頼朝の上洛に同行。

赤井輝子: 狙撃隊を率いる猛将。譜代衆。長浜城代。

源桜、源里: 頼朝の娘たち。桜は安土城代、里は義経隊副将。

太田牛一: 少し未来の徳川の世からタイムスリップ。二条城代。


[第三十五話 弟との別れと上洛]


天文十六年(1587年)初頭。

頼朝一行が、長年拠点としてきた那加城を発ち、京の二条城へと移る、その出立の準備が、ほぼ整いつつあった。


京への出立を間近に控えたある夜、頼朝は、弟・義経と、二人きりで、別れの盃を交わしていた。

「…いよいよ、出立でござるな、兄上!」

義経が、どこか寂しげに、しかし力強く言った。


「うむ。…だが、義経よ。そなたの妻である梓を引き離し、あまつさえ、そなたの片腕である阿国殿までも、此度は京まで連れて参ることになってしもうた。義経には、まことに、迷惑をかけることになったな」


「いえ、兄上。そのようなことは、お気になさらないでください」

義経は、首を振った。

「里も、近頃はめきめきと腕を上げ、有能な副官となることは、間違いござらぬ。兄上が、どうかご安心なさって、京での政(まつりごと)に専念できるよう、この義経、東国の守りは、必ずや、万全にいたしまするゆえ」


「…そうか。だが、戦(いくさ)のみならず、これからは、そなたを支える者が、さらに必要となるやもしれぬ。もし、何か困ったことがあれば、いつでも申すが良い」


「はっはっは! その時は、いっそのこと、拙者自身が部隊長を解任させていただき、妻・梓が率いる隊の、一介の副将でも願い出るといたしますかな!」

義経は、冗談めかして笑った。


「ほう! 義経ほどの男が、梓の女房役が、それほどまでに望みか! はっはっは!」

頼朝も、声を上げて笑った。


「…いや、実を申せば、兄上。最近の拙者は、どうも戦場でも、以前のようにさえませぬ。先の戦果も、その全てが、梓が傍にいてくれてこそ、のもの。正直、妻には、頭が上がらぬのでございまするよ」

義経は、照れたように言った。

「実は、その件で、一つ、拙者からも兄上にお願いしたき儀が。…先日、当家に臣従された、一色義満殿の娘御、宝(たから)殿のこと…覚えておいででございましょうか。


聞けば、彼女は、射撃の腕前にも定評があり、また、先日少し話した限りでは、なかなかに胆力もある御様子。きっと、我が軍団にとっても、立派な一門衆となるはず。つきましては、彼女を、我が隊の新たな副将として、お迎えすることは、お許しいただけませぬでしょうか」


「ほう、あの宝殿を、か。それは良い考えじゃ」

頼朝は頷いた。

「わしも、あの子には、何か光るものを感じておった。戦場のみならず、あるいは政務においても、きっと、大きな活躍ができそうじゃな! よかろう、義経、そなたに任せる」


「ありがとうございまする、兄上!」

義経は、顔を輝かせた。

「これで、兄上が都へ行かれた後も、兄上の娘御である、里、そして宝殿と、二人の姫君たちを、この那加城にて、わたくしめが、責任を持ってお預かりいたしまするぞ! どうか、ご安心を!」


「…それにしても、兄上」

義経は、ふと、真剣な表情に戻った。

「拙者は、やはり、この後の、都での兄上のことが、気がかりでなりませぬ。先のこともございました。どうか、お体には、くれぐれも障(さわ)ることのなきよう、ご無理だけはなさらないでくださいませ」


「案ずるな、義経。わしが、この程度で、くたばるような男に見えるか」

頼朝は笑った。

「それに、わしにできることなど、もはや限られておる。幸い、京には、大村由己殿、太田牛一殿、前田玄以殿といった、朝廷との交渉に長けた者たちが、すでに向かってくれておる。さらに、阿国殿や、お市殿にも、追って京へ来てもらえるよう、秀長が手配してくれておると聞く。朝廷との、おそらくは一筋縄ではいかぬであろう駆け引きも、そして、これからますます広がるであろう、領国の管理、人事、外交といった、難しい政務も、苦労するのは、彼らの方じゃ。わしへの心配など、全くの無用じゃよ」


「……」

義経は、それでも、どこか納得がいかないような、不安げな表情を浮かべている。


「…しかしのう、義経よ」

頼朝は、弟の気持ちを察し、静かに、しかし、強い決意を込めて言った。

「万が一、ということもある。もし、このわしの身に、何か万一のことがあれば……その時は、この頼朝軍団は、そなた、義経が、責任をもって、まとめ上げてほしい」


「兄上……!?」


「聞け、義経。安土城代となった桜は、確かに、将として、優れた武人へと育っておる。その器量も、もはや申し分ないと言えよう。あの名将・北条早雲殿に、手ずから育てられたのだ。それは、彼女にとって、何物にも代え難い、贅沢な恵みであった。じゃが……」

頼朝は、言葉を切った。

「じゃが、聞けば、桜は、かの地で、あの、上杉景虎殿と、仲睦まじく過ごしておる、とも聞く。…それは、父として、喜ばしいことじゃ。


今の、我が軍団は、この短い間に、あまりにも大きくなり過ぎた。もはや、日ノ本全体に、その影響を及ぼすほどの、巨大な軍団となってしもうた。このような巨大な軍団を、一つにまとめ上げ、率いていくことは、並大抵のことではない。


今はまだ、皆が、京へ上り、惣無事令を発するという、同じ方向を向いておるから良い。だが、問題は、この後じゃよ。


ひとたび、外なる脅威が去れば、必ずや、軍団の内にて、様々な諍(いさか)いが、生まれよう。あるいは、権力争いから、暗殺される危険とも、常に隣り合わせとなるやもしれぬ。


…そのような、あまりにも危なきことを、わしは、娘である桜には、決して、させたくはないのだ。


…父としての、身勝手な願いであることは、十分に、分かってはおる。だが、頼む、義経。娘を、ただ守りたい、という、この愚かな兄の願いのために、そなたに、再び、重き荷を背負わせることになるやもしれぬが……。


かつて、鎌倉においても、そして、この時代に来てからも、結局、わしは、そなた、義経を、犠牲にし続けることしかできぬ、まことに、酷き兄よ……」


「はっはっは!」

頼朝の、その、あまりにも率直な言葉に、しかし、義経は、意外にも、声を上げて笑った。

「兄上! それは、違いまするぞ! 今の兄上は、こうして、娘御や、我ら家臣のことを、何よりも大切に思い、そのために、心を砕いておられる。今の兄上には、確かに、温かい人の血が流れておりまするぞ!


かつては、決して人を信じなかった、あの兄上が、今や、有能な家臣たちの言葉に、真摯に耳を傾けておられる。頼るべきところは、素直に頼り、その上で、ご自身でも深く考え、時には、我らも驚くような、勇敢なご決断もなされる。


そして、戦(いくさ)においても、実に強い!」

義経は、兄の目を、真っ直ぐに見据えた。

「いにしえの、周の桓公(かんこう)にも匹敵する、まことの名君であられますぞ、今の兄上は!」


「……義経まで、このわしを買い被るか」

頼朝は、照れたように言った。

「だが、そなたに、そうまで言ってもらえるのは、兄として、まことに、ありがたきことよ。


実はな、義経、わしが言いたかったことは、子煩悩としての父としての話ではない。

義経がわしの事を変わった、と申してくれるが、義経自身こそ、大きく変わった、ということなのじゃよ」


「……え?」


「かつての、ただ猛々しいばかりであった義経であれば、あるいは、わしも、この軍団を、安心しては任せられなかったやもしれぬ。だが、今の、そなたであれば、違う。今の義経であれば、万が一のことがあっても、必ずや、この軍団を、正しく導いてくれるであろうと、わしは、そう、確信しておるのじゃ。


…愚かな、兄ではあるかもしれぬが……。どうか、この兄の言葉を、信じてはくれまいか」


「……兄上が、そこまで仰せられるのであれば……」

義経は、しばし考え込んだ後、静かに、しかし、固い決意を込めて、頷いた。

「…分かりました。その、万が一の時のための、覚悟だけは、しておくといたしましょう。ですが……兄上。決して、その『万が一』などということが、無きように。伏して、伏して、お願い申し上げまする」


「うむ。それを聞いて、安心したぞ、義経」

頼朝は、心からの安堵の表情を浮かべた。

「これで、わしも、心置きなく、京での務めに、力を尽くすことができるというものよ」


今宵は、いったい、どれほどの時を、義経と二人で、こうして盃を交わしたことであろうか。


酒に呑まれる前に、どうしても、これらのことを、義経にだけは、話しておかねばならぬ。なぜか、頼朝は、そのように、強く感じていたのである。

改めて、頼朝は、口を開いた。


「最後に、義経よ。わしが京へ参るにあたり、もう一つだけ、そなたに話しておきたいことがある。


我らの周りには、織田という、巨大で、分かりやすい、共通の敵があったからこそ、あの、一筋縄ではいかぬ、北条、武田、上杉といった者たちを、『対織田包囲網』という、一つの名分の下に、繋ぎ止めておくことができた。だが……」

頼朝の声が、低くなる。

「皮肉なことに、我らが、織田の力を弱めれば弱めるほど、この、かろうじて保たれていた包囲網そのものが、もはや意味のないものとなり、いずれ、瓦解(がかい)する日が来るであろう。


共通の脅威が去り、そして、それを繋ぎ止めていた名分が無くなれば……おそらくは、再び、北条、武田、上杉の間で、古くからの領土争いが、再燃することになるやもしれぬ。東の徳川や、あるいは北の伊達までもが、介入してくるとなれば、東国は、再び、大乱の時代へと、逆戻りとなりかねぬ。


本当は、京での惣無事令を、もっと早くに発することができれば、良かったのだが……。朝廷の思惑によって、叶いそうもない、と分かった今となっては、我が軍団も、その東国の争いにも、直接、介入していかねばならなくなるやもしれぬ。


その際には、義経、そなたの力が、どうしても必要となるであろう」


「はっ! かしこまってござる、兄上!」

義経は、力強く応えた。

「関八州のことを、誰よりも良く知る、あの太田道灌殿と共に、必ずや、最善を尽くす所存にございまする!」


「そうであったな。あの道灌殿が、義経の傍らにいてくれるのは、まことに心強い限りじゃ。


思えば、西には、あの老獪なる北条早雲殿がおられ、そして、東には、文武両道の太田道灌殿がおる。この、希代の、二人の名将たちが、今、我らと共にある。それだけでも、我が軍団は、まことに盤石と言えよう。本来であれば、我らの方が、彼らに仕えていても、おかしくないほどの、それほどの器量を持つ、ご武人たちじゃからのう」


「兄上、まことに、その通りでございまする!」

義経も、深く頷いた。


京へと旅立つ前に、義経と話しておきたかったことは、これで、全てであった。

頼朝は、安堵感と共に、心地よい酒の酔いに、身を任せた。油断をしたわけではない。だが、盃から、徐々に、しかし確実に、体内に蓄積されてきた心地よき侵入者に対し、もはや正義の軍団も、この時ばかりは一気に無力となっていた。


「…義経よ」

頼朝は、呂律(ろれつ)が怪しくなりながらも、言った。

「まずは、太平の世を、この我ら兄弟で、共に築こうぞ! 我ら、確かに、年を取り、そして、多くの過ちも犯してきたが……。この日ノ本のため、もう一度、ここで、やり直しじゃ! なあ、義経! 我ら二人ならば、きっとできる! 我らこそ、天下無敵の、双璧(そうへき)じゃ!」


頼朝は、そう言うと、残っていた盃の酒を、一気に飲み干した。義経は、すぐさま立ち上がり、頼朝の、その空になった盃を、再び、兄の体内へと忍び寄る、新たな侵入者で、なみなみと満たした。


「はい、兄上! 今宵は、とことん酔いましょうぞ!」

義経もまた、満面の笑みを浮かべていた。

「そして、明日よりは、我ら兄弟の、その真の力を、この戦国の世に、改めて見せつけてやろうではございませんか! 我ら兄弟が揃えば、それこそ、敵など、おらぬのですから!」


義経もまた、自らの盃を一気に呷(あお)り、その酒を、たっぷりと、体の中へと受け入れた。


兄弟、水入らず。

二人の間には、かつての鎌倉時代には、決してあり得なかった、穏やかで、温かい時間が流れていた。


こうして、さらに盃は重ねられ、那加城の夜は更けていった。


* * *


翌日。

「出発(しゅったつ)いたします!」

源桜の、凛とした号令が響き渡る。

京の二条城へ向かう、頼朝一行が、ついに、長年拠点としてきた那加城を、後にする日が来たのである。

かつては、多くの家臣たちで賑わい、頼朝軍団全体の中枢機能を担ってきた、この那加城も、これからは、義経と、そして娘の里、養女の宝(たから)と、彼女たちが率いる部隊を残すのみの、東国の守りのための、一軍事拠点となる。


岐阜城までは、娘の里が、頼朝一行を警護する部隊を率いた。

岐阜城から、次の大垣城までは、トモミクが、自らの部隊を率いて、その任にあたった。

そして、大垣城から、目的地の安土城までは、源頼光と、その妻本願寺悠とが、揃って、その守備隊を率いることとなった。


(以前の頼光隊の副将であった世良田元信は、その優れた手腕を買われ、新たに伊賀上野城の部隊長へと、抜擢されていた。そのため、頼光隊の副将の後任は、頼光殿本人の強い希望もあり、彼の妻となった、本願寺悠が務めることとなったのである)

さらに、大垣城から安土城までの行軍の途中には、長浜城代である赤井輝子も、わざわざ手勢を率いて駆けつけ、頼朝の護衛の任に合流した。


「…桜よ。何も、我が領内を進軍するのに、これほどまでに、大袈裟な守備を敷く必要は、なかろうに」

頼朝は、苦笑しながら、隣を進む娘に言った。


「いいえ、父上」

桜は、きっぱりと答えた。

「秀長様も、そのように、皆様へはお伝えしたそうなのですが、誰も、言うことをお聞きにならなかったそうでございます。これも、ひとえに、父上のご人徳のなせる業かと」

桜は、悪戯っぽく笑った。

「それに、父上。いくら、我らが支配する領内とはいえ、先の戦いで、旧織田家の家臣たちの中には、我らに降伏せず、あるいは、一旦は降ったものの、再び、筒井家や、あるいは徳川家などへ、離反しておる者たちも、少なからずおります。

念には、念を入れるに越したことはございますまい。それに、これだけ錚々(そうそう)たる将たちが、守備を固めておれば、いかなる者であっても、父上に手出しなど、できはしませぬでしょうし」


「わしに人徳、とはのう」

頼朝は、自嘲気味に言った。

「かつての、己が犯した罪を、常に背負うて生きておる、このわしにとっては、どうにも、心地の悪き言葉よ、桜」


「わたくしは、そのようには思いませぬが……」

桜は、父の顔を、じっと見つめた。

「仮に、父上が、鎌倉の世において、どれほどの極悪人であったのだとしても……この時代へお越しになられてから、これまでに為されてきたこと、そして、これから成し遂げられようとしておられること。それらに比べれば……過去の罪など、もはや、何ほどのことも、ございません!」


「……知ったようなことを、抜かすようになったではないか、桜!」

頼朝は、娘をたしなめるように言ったが、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。桜との、このような、他愛のない言葉のやり取りが、今の頼朝にとっては、何よりも嬉しく、そして、心が安らぐ瞬間であった。


(このような、ただの子煩悩な父親としての側面が、己の中で、日に日に強くなっていく。このような甘さで天下静謐を望めるのか、とは言え、元のような暗黒の心で覇権を目指す事もあってはならない。)

頼朝は、己の中の自己矛盾に苦笑していた。


その、頼朝の心の内の、微かな揺らぎを、見透かすかのように。頼朝と桜との、その微笑ましいやりとりを、少し離れた場所から見ていた出雲阿国様が、そっと、優しい眼差しを、頼朝へと投げかけていた。


* * *


「おお! ようこそ参られた、頼朝殿!」

一行が、ついに安土城へと到着すると、北条早雲が、満面の笑みで、頼朝たち一行を出迎えた。

「いやはや、山城は、もう目と鼻の先じゃな! まずは、この安土城にて、しばし長旅の疲れを癒されよ」


秀長が、早雲に対して、口を開いた。

「早雲殿。頼朝様以外は、これより、すぐに京へ向けて、急がねばなりませぬゆえ、どうぞ、お構いなく……」


「こら、秀長! 相変わらず、無粋なことを申すでないわ!」

早雲は、秀長を叱りつけた。

「良いか! この安土城にて、わしの注ぐ酒を飲まなかった者は、たとえ誰であろうと、我らが騎馬隊が一兵卒たりとも、通さぬつもりじゃぞ!

がははは!」


「そ、早雲殿……」

秀長は、困り果てた表情だ。


「秀長よ。この後、京での務めは、まことに大変であろう。

であれば、せめて今宵くらいは、ゆっくりと休むが良い」

頼朝が、助け舟を出す。早雲の横には、すでに、桜の夫となった上杉景虎、そして、秀長の側室、北条都がにこやかに控えていた。 秀長も、その美しい北条都と目が合うと、もはや、何も言えなくなってしまったようであった。


「早雲殿、久しぶりじゃな」

頼朝は、改めて早雲殿に近づき、声をかけた。


「もう、お身体の方は、大丈夫でござるか」


「うむ、心配ない。あれは、おそらくは、ただの知恵熱のようなものであったのであろうよ」


「くれぐれも、大事になされよ。この老体よりも先に逝くようなことがあれば、この早雲、決して許しませぬぞ」


「はっはっは! ご健勝な早雲殿よりも、長生きできる自信など、このわしには、とてもござらぬぞ。

しかし、今はもう大丈夫じゃ。ご心配をおかけしたな」


「頼朝殿」

早雲の声の調子が、少しだけ、真剣なものに変わった。

「先代の頼朝殿の件は……おそらくは、すでにお聞き及びになられたそうじゃの、

頼朝殿、今の貴殿に、もし万が一のことがあれば、残された多くの家臣たちは、おそらくは、二度目の、そして今度こそ、立ち直ることのできぬほどの、深い絶望の淵へと、突き落とされかねませぬぞ。どうか、皆のためにも、くれぐれも、ご自愛くだされ」


そこに、出雲阿国が、そっと割って入ってきた。

「まあ、早雲様ったら」

阿国様は、早雲殿を、たしなめるように言った。

「そのように早雲様が、頼朝様を凄(すご)まれますと、治るはずの病も、かえって治らなくなってしまいまする。どうか、程々にしてさしあげてくださいませ」


「なんと! わしは、それほどまでに、頼朝殿に対し、凄んでおったか! いやはや、これは失礼つかまつった! がははは!!」

早雲殿は、悪びれる様子もなく、豪快に笑った。


源桜が、頼朝に話しかけた。

「父上。まずは、道中のお疲れを癒していただき、その後、もしよろしければ、是非とも、この安土城の天守へ、いらしてくださいませ。


かの織田信長が、なぜ、この地に、これほどまでの壮大な城を築き上げたのか……。きっと、父上にも、お分かりいただけると存じます」


「そうか、桜。では、後ほど、城内の案内を頼む」


「はい!」


* * *


すでに、日は落ち、冬の夕暮れが迫っていた。だが、安土城の天守閣から望む景色は、それを補って余りあるほどに、初めて見る者を、例外なく感嘆させる、壮大で、そして美しいものであった。


この城が、近江国、ひいては天下を制する上での、極めて重要な戦略的要衝であることは、頼朝も、これまでの戦いの中で、十分に理解していたつもりであった。


だが、実際に、こうして天守から、眼下に広がる景色を目の当たりにすると、この城がいかに軍事上、そして政治上、重きをなしていたのか、ということを、改めて具体的に実感することができた。


高く、天を突くように築かれた、五層七階の壮麗な天守。

そこからは、西は遥か大津の先の山城国境まで、北東は琵琶湖の対岸、近江一円、さらには、その先の美濃国の入り口までをも、文字通り、一望の下に見渡すことができたのである。


頼朝から、思わず、感嘆の言葉が漏れ出た。

「…なるほどな。この城がある限り、東から、京の都へ攻め込むことは、まことに至難の業じゃ。もし、わしが、近江へ出兵する前に、この天守へ登っておったなら……あるいは、近江攻略など、恐ろしくて、言い出せなかったやもしれぬわい。


これでは、敵の進軍は、手に取るように分かるであろうし、また、京の都の動向も、常に、ここから窺うことができる。

必要に応じて、兵を京へと派遣することも、いとも容易(たやす)いことであろう。…まことに、恐るべき城よな。


織田軍は、我らが大垣城、そして長浜城を攻略する際にも、常に我らの動きを把握し、その先手を打つことができたのは、この城があったらからこそであろうな。…そして、我らが、この安土城へ攻めかかったのは……今にして思えば、まさに、『知らぬが仏』であった、というわけか」


「そうなのです、父上」

桜も、頷いた。

「我ら、あれほどまでに先の近江攻略において、苦戦を強いられたのも、

そして、

落城した後、あれほどまでに戦力を枯渇させていたはずの信長が、それでもなお、この城を奪い返しに来たのも、

この天守に登り、この景色を目にして、ようやく、その理由が、わたくしにもよく分かりました。


それに、父上。この城の、複雑かつ堅牢な縄張り、そして、それを実現することを可能とした築城技術もまた、相当なものでございます。

父や早雲様も絶賛しておられた、あの岐阜城も、まことに立派な城ではございましたが、この安土城は、それをも、遥かに凌駕(りょうが)しておりまする」


「…これは、まことに、恐れ入った」

頼朝は、改めて、安土城という存在の、その巨大さと、そして、それを築き上げた織田信長という男の、底知れぬ器量、さらに安土という要衝の持つ戦略的意義、感嘆せざるを得なかった。

「外から眺めても、あれほどまでに恐ろしかったと、義経からも聞いておったが……。実際に、この中から、外を眺めてみると、さらに、その恐ろしきまでの戦略的重要性が、よく分かるわい。

今になって、改めて思う。この安土城を、我らが攻略できたかどうかは、まさに、我らが、この先、京へ上れるかどうかの、大きな試金石であったのだ、と。


我ら、軍団が誇る精鋭部隊が、束になってかかり、そして、多大な犠牲を払いながらも、ようやく、この近江を落とすことができたのは……あるいは、まことに幸運であった、と言うべきなのかもしれぬな」


「父上」

桜は、力強く言った。

「この、天下無双の安土城を、今や、我が軍が手に入れた、ということもまた、大きな意味を持つはず! これよりは、京よりも東の、全ての街道、全ての交通網、そして情報網の整備を進め、それらの往来を、我らが管理下に置くことも可能となりましょう。

そうなれば、軍事、経済、情報、あらゆる側面から見て、我が軍団にとって、それは、計り知れないほどの、大きな力となるはずです。


東国と西国とを結ぶ、この要衝を、我らが完全に抑えることができれば、敵国からの忍びの活動なども、相当に抑え込むことが可能になるかと。」


頼朝は、安土城の天守から見える、眼下に広がる、その新しい世界に、ただただ驚嘆するばかりであった。同時に、これだけの戦略的な思考を淀みなく語る、我が娘・桜の、その成長ぶりにもまた、驚きを禁じ得なかった。


そのような頼朝の心情を、正確に理解してか、隣にいた北条早雲が、満足げに、頼朝に口を開いた。

「がははは! 頼朝殿、いかがかな!

最近の桜殿は、もはや、この、わしなどが、余計な口を挟むまでもなく、この安土城の、立派な城主として、実に、よう、ものが見えておりまするぞ!」


「…すべては、早雲殿の、日頃からの、熱心なご指導のお陰じゃ。まことに、感謝申し上げる。

我が軍に、この安土城と、そして、それを守る早雲殿がおられる限り、この先も、安心じゃな」


* * *


その夜。安土城の本丸御殿では、頼朝一行の到着を歓迎し、北条早雲をはじめとする、安土城の家臣団が用意した、盛大な宴が催されていた。


宴席には、出雲阿国も招かれ、皆の前で、その優美な、そしてどこか神秘的な舞を披露した。

見慣れぬ、しかし、見る者の心を、不思議と惹きつけてやまない、その独特の踊り。宴に参加した面々は、誰もが、しばし、日頃の戦の疲れを忘れ、一様に歓声を上げながら、出雲阿国様の舞を、心ゆくまで楽しんでいた。


(平和の祈りを、神に奏上するための踊り……か)

頼朝は、かつて、阿国自身から、そう聞いたことを思い出していた。

(これほどまでに、人々の心に、深く、強く響く、このような踊りであるからこそ、あるいは、天上の神々にまでも、その祈りが伝わる、ということなのであろうか……)


まさに、その時であった。それまで、満足げに舞を眺めていたはずの北条早雲が、突如として、叫んだ。

「…そこじゃ!」


その、鋭い一声に、一座の者は、皆、はっと息を呑んだ。直ちに、舞を中断した出雲阿国様が、北条早雲殿の前へと進み出て、恭しく対応した。


「…申し訳ございませぬ、早雲様」

阿国は、恥じ入るように言った。

「実は、先ほど、ふと、かつて義経様と、この安土城を攻略した際には、この天守にて、義経様に、この舞を披露させていただこう、と、そうお話をしていたことを、思い出してしまいまして……。

その瞬間、舞に込めるべき『気』が、一瞬、乱れてしまいました。…踊り手として、まことに、有るまじきこと。その、心の隙を、早雲様には、見抜かれてしまいましたようでございますね」


「いやいや、阿国殿! こちらこそ、申し訳ない!」

早雲は、慌てて手を振った。

「あまりにも、貴殿の舞が、素晴らしかったゆえ、この早雲としたことが、つい、時を忘れ、見入ってしもうておったわい! まさに、一点の隙もなき、完璧なる舞は武芸にも通ずるものじゃ。じゃが、その中に、ほんの一瞬だけ、わずかなる『揺らぎ』が見えたゆえ……思わず、騒いでしもうた! いやはや、これは、わしの不徳じゃ! まことに、申し訳ない!」


一瞬、凍り付いたかに見えた宴の席も、互いの芸道を極めた、二人の達人同士による、この、常人には計り知れぬほどに高い次元でのやり取りを耳にし、かえって、場は、さらに大きな盛り上がりを見せたのであった。


やがて、酒に酔い、興が乗じて、阿国と共に、見よう見まねで踊り出す者たちも、次々と現れ始めた。


(……)

那加城での、義経との、あの別れの夜も、そして、今宵の、この安土城での夜も……。かつての鎌倉時代には、決して味わうことのなかった、自分自身を、完全に無防備にして、ただ、心の底から、素直に楽しむことができる、温かい夜。頼朝は、この、かけがえのないひと時を、静かに堪能していた。


ふと、周りに目を向けると、若く、そして美しい側室となった、北条都に、甲斐甲斐しく酌を持たれ、完全に鼻の下を伸ばしきっている、義父・秀長の姿が、目に入った。

(ふふ……。あの秀長が、あのような顔をするとはな……)

秀長が、これまでに背負ってきたであろう、数々の苦労を思うと、このような、彼の、心からの笑顔を目にすることもまた、今の頼朝にとっては、何よりも喜ばしいことであった。


だが、頼朝は、同時に、その父の姿を、どこか複雑な表情で、じっと眺めている、我が妻・篠の姿にも、気が付いていた。

「…篠。少し、こちらへ来て、わしに酒を注いではくれまいか」

頼朝が、そっと声をかけると、篠は、はっとしたように顔を上げ、頼朝の傍らへと寄ってきた。


「はい、頼朝様」

篠が、頼朝の盃に酒を注ぐ。


「…篠よ。あの、父御の姿……。やはり、そなたには、あまり、気分の良いものでは、ないかな」

頼朝が、静かに尋ねる。


「……いいえ。…ただ……」

篠は、少しだけ、俯いた。

「…正直、申し上げまして、複雑な思いでございます。あれほどまでに、母には厳格であった父が、母以外の女性に対し、あのように、まるで腑抜けたかのような、だらしないお顔をされておられるのは……。ですが……」

篠は、顔を上げた。

「ですが、日頃の、父の、あの、身を粉にしての働きぶり、そして、その苦労も、娘である、わたくしは、誰よりも見ておりまするゆえ……。頭では、あれもまた、父にとっては、良きことなのだ、と、そう思うようには、努めておるのでございますが……」


「…そうか」

頼朝は、優しく頷いた。

「わしも、あのような秀長を見るのは、初めてじゃ。だが、今晩は、わしにとっても、まことに特別に、楽しく、そして心安らぐ夜じゃ。であるならば、秀長もまた、しばし、その心の重荷を下ろし、ただ、楽しく過ごしてくれていたのであれば、わしは、それが何よりじゃと思う」

頼朝は、篠の肩に、そっと手を置いた。

「どうか、父上を、許してやってはくれまいか」


「……はい。頼朝様。…わたくしも、精一杯、努力いたしまする」

篠は、小さく、しかし、はっきりと頷いた。

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