第十八話:京へ
見慣れた、しかし今はどこか違う気配の漂う、岐阜城の一室。
羽柴秀長が、物々しく鎧を身に着け、弓を構えている。だが、その表情は、いつもの温和な秀長とは、まるで異なっていた。苦悩と、決意と、そして深い悲しみが入り混じったような、複雑な色を浮かべている。
弓の切っ先が向けられているのは、トモミク、そして……卑弥呼? いや、その顔は、紛れもなく出雲阿国そのものであった。
秀長は、躊躇(ためら)うことなく、阿国の姿をした卑弥呼へと矢を放った。
だが、矢が卑弥呼に届く、まさにその瞬間。一人の武者が、身を挺して卑弥呼を庇い、秀長の放った矢を、その身に受け、どう、と音を立てて倒れた。
―――その武者は、頼朝自身であった。
射たれた己の体から流れ出す血を見下ろしながら、頼朝は遠のく意識の中で見た。力なく膝をつき、恐れおののく秀長の姿を。そして、駆け寄り、これ以上ないほどの慟哭の声を上げながら、己の名を呼び続けるトモミクの姿を……。
* * *
「………はっ!」
夢であった。
飛び起きた頼朝の額には、びっしりと汗が噴き出していた。寝室の蒸し暑さからだけではない、冷たい汗であった。
先だって岐阜城下で、トモミクと阿国と話をして以来、これから軍団が進むべき道について、ずっと考え、思い悩んでいた。その迷いが、このような悪夢を見せたのだろうか。
「いかがなされましたか、殿。…うなされておいででしたが」
隣で寝ていた篠が、心配そうに声をかけてきた。
「……秀長は、息災か。今、いかがしておる」
「まあ、殿。何を仰せられますか」
篠は、きょとんとした顔をした。
「父上でしたら、北条家からの姫君のお輿入れの件で、それはもう、気が気でないご様子で、城中を走り回っておりますよ」
(そうか……夢、であったか……)
愚問であると知りながらも、あの夢の光景が、あまりにも生々しく脳裏に焼き付いていた頼朝は、秀長の安否を確かめずにはいられなかったのだ。
「…秀長、そして義経、阿国殿にも話がしたい。評定の間に集まるよう、声をかけてはくれぬか。…そなたや、梓にも、同席してもらいたい」
「はい、かしこまりました」
篠は、心得たように頷き、すぐさま身支度を整え始めた。
* * *
那加城の評定の間に、頼朝が信頼を置く、主だった者たちが顔を揃えていた。
まず、出雲阿国が、頼朝の前に進み出た。
「頼朝様。本日は、義経様の隊へ、新たにお加えしたいと思うておる、一人の女将(おんなしょう)を、お連れいたしました」
「ほう、阿国殿。早速に、有能な武人を見つけ出してくれたか」
「はい。是非とも、この場にて、頼朝様にご紹介いたしたく。…里(さと)様、どうぞ、お入りくださいませ」
阿国に促され、一人の、まだ年の若い、しかし、きりりとした顔立ちの女武者が、評定の間へと入ってきた。
「こちら、頼朝様の、お娘(むすめ)御にあたられまする、里様にございます」
「……なに?」
頼朝は、耳を疑った。この時代に来て、桜と、ようやく対面を果たしたばかりだというのに。もう一人、己の娘がいたとは、全くの初耳であった。
阿国は、構わず話を続ける。
「義経様の隊の、新たな副将として、この里様を、任命いたしたく存じます。その射撃の腕前は、まこと、相当なものでございますよ」
「……義経。そなたは、知っておったのか」
頼朝は、隣の弟に問いかけた。
「は、はい……。実は、わたくしが、こちらへ参った時より、ずっとご一緒であった、兄上のお娘御にございます。が、その…よしなに、阿国様にお世話になっておりまして……その……」
義経は、何やら口ごもり、非常に話しにくそうにしている。今は、この場で真相を問い詰めるべきではないだろう。頼朝は、そう判断した。
「もはや、何を聞いても、このわしは驚かぬつもりでおったがな」
頼朝は、娘と名乗る少女に向き直った。
「…里、と申すか。事情の分からぬ、この至らぬ父を、許しておくれ。だが……なにも、そう慌てて、戦に出ることもなかろう。それは、まこと、里自身の望みなのか」
「はい、父上!」
里と名乗る娘は、力強く答えた。
「桜姉上も、そして、父上のお側におられる篠様も、さらには義経様の奥様である武田梓様も、皆、わたくしよりも、なお若き頃より、戦場にて戦っておられたと伺っております! わたくしも、一日も早く、誰にも負けぬ、強き武人となりたく存じます! そのためにも、義経様、そして阿国様からも、多くを学びとうございます!」
(ほう……)
頼朝は、改めて娘の顔を見た。どこか儚げで、頼りなげに感じられた桜。そして、聡明で、落ち着いた眼差しを向けていた篠。そのどちらとも違う。この里という娘には、その表情に、すでに歴戦の武人のような、強い気迫がみなぎっている。
「……そなたを、危なき目に遭わせたくはないがのう。…まあ、義経と、阿国殿が、傍についていてくれるのであれば、心配は無用か」
「はい! ありがとうございます、父上!」
里は、嬉しそうに顔を輝かせた。
(それにしても……義経も、阿国殿も、里の存在を、これまで知っていながら、なぜ、わしに隠していたのであろうか……)
頼朝の心に、新たな疑問が生まれていた。
気を取り直し、頼朝は、集まった家臣たちに向かって、話を切り出した。
「さて、皆に、話しておきたい儀があり、こうして集まってもらった。
知っての通り、わしは、かつて鎌倉において、ただ『力』によって、武家による日ノ本の一統を成し遂げようと、そう志しておった。だが、この時代へ参り、皆と共に戦い、そして過ごすうちに……正直に申せば、『天下』がどうとか、そのようなことなぞ、もはや、どうでも良くなっていた。
それは、トモミクや阿国殿が、常々、『この軍団は守るためのものだ』と、そう繰り返していたからだけではない。他ならぬ、このわし自身の中に、この時代において、本当に『守りたきもの』が、はっきりと出来たからに他ならぬ。
今の、我が軍団は強い。先の戦で、大垣城、そして長島城までも落としてから、こうして、しばしの間、平穏に過ごすことができておる。だが……いつまでも、あの織田信長が、黙ってこれを見過ごしてはおるまい。奴らは、必ずや、さらに力をつけ、再び、我らに牙を剥いてくるであろう。
あるいは、遠き西国の友軍である、一色家、本願寺家、鈴木家といった者たちが、まず、その標的とされるやもしれぬ。今の我らには、東の友軍(武田、上杉、北条)を守る力はあっても、西の友軍を、直接助ける手立てはないのだ。
また、東の北条、武田、上杉にしても、今は、我らを中心に、かろうじて手を携えてはおるが……時と共に、状況が変わり、いずれかの内に、再び野心を持つ者が現れれば、この同盟など、たちまちにして崩れ去り、再び争いとなるやもしれぬ。
であるならば、我らは、これから、どうすべきであろうか。我らに、いったい何ができるのであろうか」
頼朝は、一呼吸置いた。
「…やはり、我らは武家である以上、この軍団は、今以上に、力をつけることしかできぬのであろう。そして、その力をつけ、いつの日か、京の都に上り……全ての、武家同士の私的な争いを、一切禁じるという号令……すなわち、『惣無事令(そうぶじれい)』を、天下に発布したい。わしは、今、そう考えるに至った。
無論、惣無事令を出したからと申して、全ての争いが、すぐに止むわけではあるまい。だが……」
頼朝の声に、力がこもる。
「その時、我らは、今よりもさらに強き力を備え、他国を『滅ぼす』ためではなく、覇権への野心を『挫く』ため、そして、我らが守るべき武家たちを『守る』ため、その力を行使するのだ。それこそが、今の我らにできる、最善の道ではないか。
…そのためには、かつてのように、源氏による幕府を開いたり、あるいは、わし自身が、再び征夷大将軍となる必要など、どこにもない。わしは、そう思うておる。
…以上が、わしの考えじゃ。皆の、率直な考えを、聞かせてはくれまいか」
頼朝が言い終えるのと、ほぼ同時に、義経が立ち上がった。
「兄上! よくぞ、ご決断くださいました! その、兄上のお考えに、この軍団の家臣の中で、異を唱える者など、ただの一人もおりませぬぞ! 皆、この命を懸けて、兄上と共に、京へ上りましょうぞ!」
「頼朝様。その尊きご決断、この阿国も、心より嬉しく思いまする」
阿国も、深く頷いた。
(……)
夢の後遺症、というわけではないが、頼朝は、どうしても秀長の反応が気になっていた。
「…秀長は、どうじゃ。そなたの考えを聞かせよ」
「はっ!」
秀長は、顔を上げ、決然とした表情で答えた。
「まずは、近江の長浜城、そして、かの安土城を攻略し、京への道を切り開く。しかる後に、都に上り、天下に惣無事令を発布する。まことに、それこそが、我らが進むべき道かと存じまする。この秀長も、力の限りを尽くし、頼朝様と共に、戦い抜く所存にございます!」
「…皆、かたじけない」
頼朝は、家臣たちの力強い言葉に、胸が熱くなるのを感じた。
「だが、そのためには、信長が支配する領国の、その奥深くへと、我らは乗り込んでゆかねばならぬ。それは、これまで以上に、大きな犠牲を伴う、厳しい戦となろう。改めて、皆の力が頼りぞ。
まずは、手始めに、後顧の憂いを断つため、目と鼻の先にある、尾張の那古野城を攻め落とす!」
頼朝は、梓へと視線を向けた。
「梓、そなたには、此度が一軍の将としての初陣となるが、早速、新たに編成される清州城の部隊を率い、この那古野城攻略にあたってもらいたい」
「はいっ! 頼朝様! お任せください!」
梓は、緊張の中にも、誇らしげな表情を浮かべた。
「わたくしが父より受け継いだ、武田の軍略、とくと、頼朝様にも、お目にかけとうございます!」
「うむ、それは楽しみじゃ。存分に手柄を立てて、戻って来るが良い。
那古野城を落とした後、来る十一月には、全軍、近江へ向け、出陣する!。
秀長。上杉景勝殿には、早馬を走らせ、我らが近江へ出兵するのと時を同じくして、越前方面へ兵を出していただくよう、内々に連絡を取れ。それによって、織田の軍勢を、少しでも越前方面へ分散させることができれば良い。ただし、決して無理はせず、いたずらに上杉の兵を犠牲にすることは避けたい、とも申し伝えよ。…新たに、北条の姫を迎え入れる時に、まことに、かたじけないとは思うが、お願いできるか」
「はっ! 承知いたしました! すぐに手配いたします!」
秀長は、力強く応えた。
* * *
数日後。外交交渉の任を終えた北条早雲が、頼朝の娘・桜、そして、北条家からの姫君、すなわち秀長の新たな妻となる、北条都(ほうじょうみやこ)を伴い、那加城へと帰還してきた。
「早雲殿! まことに大義であった! 長きにわたり、上杉、北条との折衝、心より御礼申し上げる。聞けば、上杉景勝殿の姫君・弓殿の輿入れも、つつがなく終わり申したそうだな」
頼朝は、早雲を丁重に出迎えた。
「おお、頼朝殿。それは、何よりでござったな」
早雲は、満足げに頷いた。
「かの、上杉景勝殿は、まこと、なかなかの御仁であったであろう?」
「うむ。早雲殿の申される通りであった。…もっとも、帰り際には、随分と難題を、置き土産として残してゆかれたがな……」
頼朝は、苦笑した。
「がははは! ようござった、ようござった!」
早雲は、豪快に笑った。
「わしも、はじめは北条家の人間として、上杉殿には憎き敵(かたき)、という思いも、正直あった。じゃが、実際に会ってみれば、あの景勝殿という男は、実に肝が据わっておる。決して、軽々しく人を裏切るような男ではあるまい。まことに、信の置ける武将と見たわい。
それに比べれば、こちらの北条氏政には、少々、てこずらされたがな」
早雲は、肩をすくめた。
「だが、幸いにも、武田勝頼殿が、我らのために、わざわざ、自ら軍勢を率いて、甲斐の国境、三増峠(みませとうげ)まで、都姫を迎えに来てくださってな。さすがの氏政殿も、そこまでされては、都姫が武田領内を通ることを、認めぬわけにはいかなかった、というわけじゃ。
あるいは、武田勝頼殿が、上杉景虎を保護していた、という事実も、多少は、氏政の心を和らげていたのかもしれぬがな」
「…うむ。これによって、北条家と武田家との間の、長年のわだかまりが、少しでも解消されるのであれば、それに越したことはないのだが……」
頼朝は、願うように言った。
「ところで、頼朝殿。肝心の婿殿、秀長殿は、どうなされたのじゃ?」
早雲は、辺りを見回した。
「これほど、長旅を経て、ようやく姫君がたどり着かれたというのに、その婿殿が出迎えぬとは、何と不届きな輩(やから)じゃ!」
「いや、早雲殿、どうかお許しくだされ」
頼朝は、苦笑しながら説明した。
「秀長は、わしの無理を聞き届け、都姫をお迎えする準備で、ただでさえ忙しいところに、さらに、近江出兵の準備も重なり、今、文字通り、城中を走り回っておる。すべては、このわしの責任じゃ」
頼朝は、早雲の後ろに控える、美しい姫君へと向き直った。
「…都殿、であったな。遠路、まことにご苦労であった。夫となる男が、このような無粋な出迎えとなり、申し訳ない。だが、どうか、ご寛容にお願い申す。この源氏の一門へ嫁いでくださったからには、決して悪いようにはせぬゆえ、どうか、お許し願いたい」
「はい、頼朝様。恐れ入ります」
都姫は、静かに、しかし、はっきりとした声で答えた。
「わたくし、これよりは、源氏の一門となれましたこと、まことに、嬉しゅうございます」
まさにその時。秀長が、文字通り、評定の間へと慌てて飛び込んできた。
「も、申し訳ございません! 遅れて、まことに申し訳ございませぬ!」
秀長は、息を切らしながら、わざとらしく咳払いをした。
「…式部卿(しきぶきょう)、源(みなもと)の、秀長にございまする!」
普段、決して名乗ることのない、大仰な官位や、源氏の姓まで名乗り出す始末。その必死な様子に、頼朝と早雲は、思わず笑いをこらえていた。
「北条が娘、都にございまする。秀長様。以後、何卒、よろしゅうお願い申し上げまする」
都姫が、優雅に一礼する。
その、あまりにも美しい姫の姿を、初めて間近に目にした秀長は、ただただ、あっけにとられていた。
「……お、おお……。お、お美し……い……」
「がははは!」
早雲が、腹を抱えて笑う。
「秀長殿よ! 何を呆けておるか! この早雲の、血筋じゃぞ! 美しいのは、当たり前であろうが!」
「い、いや……。だからこそ、驚いておりまする……」
秀長は、しどろもどろでありながらも早雲に痛烈な一撃を加えていた。
「こら! 何を言うか、秀長!」
早雲の叱責が飛ぶ。
頼朝も、内心、苦笑していた。己の娘たちや、周りにいる姫君たちが、戦働きを第一とするような、勇ましい女将(おんなしょう)が多い中にあって、この北条都には、それとは全く異なる、古風で、奥ゆかしい、おやかな佇まいがあった。
いつもながら、秀長は、必死に体面を取り繕い、北条都に対し、これ以上ないほど丁寧に、平伏して答える。
「こ、こちらこそ……! 何卒、末永く、よろしくお願い申し上げまする……!」
* * *
その夜。頼朝は、はるばる外交の任を果たし戻ってきた、北条早雲と、そして、それに同行していた娘の桜と、那加城にて、ささやかながら、労いの夕餉を共にしていた。
酌を持って、その傍らに控えるのは、やはり出雲阿国であった。
しばらく見ぬ間に、桜の容貌は、また一段と、大人びて見えた。
二年前に、稲葉山の麓の屋敷で、初めて会った時の、あの、どこか頼りなげで、不憫に見えた少女の面影は、もはやどこにもない。先ほど会った、異母妹にあたる里に、勝るとも劣らないほどの、強い意志と、武人としての気骨を感じさせる、立派な女将へと、確かに成長していた。
幾多の戦場を経験し、常に北条早雲という偉大な師の傍らで多くを学び、そして此度の、越後、相模への、困難な外交の旅にも、最後まで付き従ってきたのだ。その経験が、彼女を、これほどまでに、逞しくさせたのであろう。
「桜。此度は、長い旅路、まことに疲れたであろう。今宵は、何も気にせず、ゆっくりといたすがよい」
「はい、父上! ありがとうございます!」
桜は、嬉しそうに頷いた。
「父上も、そして早雲様も、以前、仰せられておりましたね。『戦いは、戦場(いくさば)のみにあらず』、と。此度の旅で、わたくし、外交というものの、その大切さ、そして、その難しさを、身をもって学ぶことができました」
「ほう、それは祝着であるぞ、桜!」
早雲が、満足げに頷く。
「頼朝殿。実を申せば、都姫の、あの長い道中の随行に、この桜殿がおってくれて、わしは、どれほど助かったか分かりませぬぞ。
それに、かの越後の景勝殿も、この桜殿のことを、いたくお気に入りであった。…あるいは、あの武芸達者な弓姫と、この桜殿との、女武者同士の一騎打ちなどを、密かに期待しておられたのかもしれぬがな! がははは!」
「まあ! 早雲様ったら!」
桜が、頬を赤らめる。
「はっはっは! 弓姫殿と、坂田金時殿とは、なかなかに、お似合いの夫婦(めおと)となるであろうよ。桜も、いずれ、あの弓姫殿と共に、戦場で力を合わせて戦う日が来るのも、そう遠くはあるまい」
頼朝が言うと、桜は、きっぱりとした表情で答えた。
「はい! 弓殿と力を合わせ、父上のおんため、この桜、力の限り、戦いまする!」
「…まことに、立派になったものよのう、桜」
桜の、その風貌ばかりか、発言や、その堂々とした佇まいからも、かつての弱々しさは、もはや微塵も感じられない。我が娘ながら、なんと頼もしく成長してくれたことか。頼朝は、思わず破顔していた。
「ところで、頼朝殿」
早雲が、酒を一口飲み、真剣な表情で切り出した。
「先ほど、秀長殿より、伺いましたぞ。頼朝殿が、ついに、大きなご決断をなされた、と」
「…ああ。早雲殿は、どう思われるかな。あの織田信長のことであり、あるいは、かの北条家の、遠い未来における運命、さらには、我らが知らぬ、この先の時代の、様々なこと……貴殿は、トモミクから、いったい、どこまで、ご存知であったのか?
正直、わしは、未だに、頭の中の整理がついてはおらぬ。だが……少なくとも、この先、我らが進むべき道として、京へ上り、天下に号令をかけることを、決め申した。
…我ながら、おかしな話ではあるがな。あるいは、この頼朝の、昔の『征夷大将軍』という看板も、この時代においては、まだ、何かの役に立つやもしれぬ」
「頼朝殿」
早雲は、静かに頷いた。
「わしも、過去やら、未来やら、色々と、トモミク殿からは、断片的に聞き及んではおりまするが……いやはや、年を取ると、どうにも、難しいことを、あれこれと理解するのは、難儀なものでござるよ。
じゃが、わしは、初めから、そう申しておったはず。この岐阜、那加、犬山の、たった三つの城だけで、天下の事が、どうにかなるほど、この戦国の世は、甘くはない、と。
かと言って、自らが、京へ上り、天下を差配しようなどと考えるほどの器量は、残念ながら、この早雲にはござらぬ。しかし、頼朝殿であれば、必ずや、それが成せるであろう、と。わしは、そう信じておりまする。この早雲、どこまでも、頼朝殿についてまいりまするぞ」
「…しかし、早雲殿」
頼朝は、悪戯っぽく笑った。
「正直に申せ。先日、わしに将軍となれ、と熱心に勧めてきた、あの景勝殿を、裏で焚きつけたのは、他ならぬ、早雲殿ではあるまいな?」
「がっはっはっは! さすがは頼朝殿! 全て、お見通しでござったか!」
早雲は、腹を抱えて笑い出した。
「いやいや、これは失礼つかまつった! しかし、頼朝殿。景勝殿が、偽りを申しておったわけでも、決してありませぬぞ。あの御仁は、まこと、父君である謙信公の『義』の思いを、強く受け継いでおられる。そして、本気で、この乱世を憂い、正しき道を模索しておる。わしは、ただ、その景勝殿と、そして兼続殿とに、頼朝殿という御方が、いかに素晴らしいか、という話を、ほんの少し、お伝えしただけでござるよ! がははは!」
「…まったく。早雲殿には、恐れ入るわい」
頼朝も、つられて笑った。
「だが、景勝殿の、あの熱意ある言葉によって、この頼朝の心が、大きく動かされたことも、また事実。そして……景勝殿の言葉によって、心動かされた者が、実は、もう一人、ここにおるのだがな」
頼朝は、そう言って、傍らで静かに酌をしている、出雲阿国へと、目線を移した。
「はい」
阿国は、にっこりと微笑んだ。
「まことに、わたくしも、あの早雲様の、見事な計略に、まんまと乗せられてしまいましたようでございますね」
出雲阿国は、そう言いながら、立ち上がり、今度は早雲の盃に、恭しく酒を注いだ。
「それは、ようござった、ようござった!」
早雲は、満足げに頷いた。
「阿国殿も、ついに、ご決断をなされたか! それは何よりじゃ!
頼朝殿も、これまで何も知らされぬまま、さぞかし、お苦しかったことであろう。…もっとも、知ったとて、それはそれで、さらに、お苦しいことなのかもしれぬがな。
しかし、それでも、よくぞ、ご決断くだされた。この早雲、改めて、この命、頼朝殿のために、尽くさせていただきますぞ!」
「まことに、恐れ入る、早雲殿」
頼朝は、深く頭を下げた。
「だが、近江を落とすことは、決して容易ではあるまい。おそらくは、これまで以上の、大きな犠牲も覚悟せねばなるまい。…それでも、近江を抑えねば、その先の、京へは進めぬ」
「近江を攻められる際は、是非とも、この早雲に、先陣をお申し付けくだされ」
早雲は、きっぱりと言った。
「おそらくは、信長も、これまでに無く、必死の抵抗を見せましょう。この老骨の、我が隊が、どこまで踏みとどまれるかは分かりませぬが、必ずや、織田の主力を、食い止めてご覧にいれまする。その間に、頼朝殿は、手薄となった長浜城を、一気に落とされよ」
「…奇しくも、わしも、早雲殿と、全く同じことを考えておった」
頼朝は頷いた。
「近江攻めの先陣は、是非とも、早雲殿に、お願い申し上げる」
「ははっ! 承知つかまつった! 頼朝殿、この早雲、桜殿と共に、必ずや、最善を尽くしてまいりますぞ!」
「だが、早雲殿。先は、まだ長い。此度の近江攻めで、決して無理はなさるな。もし危うくなられたら、躊躇(ためら)うことなく、直ちに軍を退いていただきたい。
此度、近江を落とせずとも、いずれ必ず、落とせる機会は来る。わしは、そう踏んでおる。…桜も、よう心得ておくのだぞ。片意地を張って、命を危うくしてまで、戦場に残り続けるでない」
「はい、父上!」
桜は、力強く頷いた。
「ですが、わたくしたちは、決して負けませぬゆえ、どうぞ、ご心配には及びませぬ!」
「…頼もしいことよのう、桜」
頼朝は、微笑んだ。
「しかしな、桜。『決して負けぬ』、その気持ちこそが、時として、最も危ういこともあるのだ。戦に、負けることは、決して恥ではない。この父などは、それこそ、幾たびも負けてきたが……その度に、命を拾うことができたからこそ、今日、こうやって、桜と、再び夕餉を楽しむことができておるのだからな」
「がははは!」
早雲が、快活に笑った。
「頼朝殿、どうぞ、ご心配なさらずとも、大丈夫! このわしは、桜殿が危なくなったら、それこそ、一目散に退きまするわい!
頼朝殿が、こうして、新たなる道へと進むことを、ご決意されたのです。その道のりを、この目で、最後まで見届けぬうちに、近江ごときで、落とすような、安き命とは、したくありませぬのでな!」
「…それを聞いて、安堵いたした」
頼朝も、笑顔で応えた。
「わしが、この先、京へ、そして、その先へと進むためには、早雲殿、そなたの力が、どうしても必要じゃ」
* * *
天文十三年(1584年)九月。
まずは、後顧の憂いを断つため、頼朝軍は、尾張の那古野城へと、総攻撃を開始した。
清州城、そして犬山城から、総勢六万あまりの軍勢が出陣する。
孤立し、援軍の当てもない那古野城攻略に、これほどの大軍は、本来であれば必要ない。だが、これは、近江攻略へ向けた、前哨戦でもある。可能な限り、迅速に那古野城を落とし、すぐさま近江攻略へと、駒を進める必要があった。
清州城からは、二つの狙撃隊。赤井輝子隊、そして、此度が初陣となる武田梓隊。
犬山城からは、二つの突撃隊。太田道灌隊、そして犬塚信乃隊。
これら四つの精鋭部隊が、那古野城へと殺到した。
那古野城からは、織田軍の若き精鋭、加藤清正、福島正則らが、必死の防戦を試みた。
しかし、清州城と犬山城からの、大軍による挟撃、そして何よりも、赤井輝子隊による、猛烈極まりない攻撃の前に、那古野城は、ひと月と経たずに、ついに開城した。
京へ。
いよいよ、頼朝軍が、本格的に動き出す時が、迫っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます