第十六話:上杉景勝
天文十三年(1584年)三月。
頼朝は、自ら率いた一万五千の軍勢と共に、南信濃の飯田城で上杉家の姫・上杉弓と無事に合流。越後から姫を警護してきた上杉家の屈強な部隊と共に、那加城へと帰還した。
那加城の本丸、評定の間。
上杉家からの新たな姫を迎えるため、頼朝とその妻・篠、筆頭家老の羽柴秀長、頼朝の弟・義経とその妻・梓、そして、この度の婚礼の当事者である婿・坂田金時と、彼が属する源頼光一門の長・源頼光、さらには上杉家との外交に尽力した前田玄以といった、主だった面々が顔を揃え、姫の到着を今か今かと待っていた。
中でも、坂田金時の様子は、尋常ではなかった。
普段、戦場で鬼神のごとき武勇を誇る彼の姿は、そこには無い。まるで、生まれて初めて経験する類の、得体の知れぬ恐怖に全身を震わせている、ただの子倅(こせがれ)のようであった。
その見るに堪えぬ金時の姿に、一門の長である源頼光から、厳しい檄が飛んだ。
「金時! なんとも情けない! それでは、まるで赤子のようではないか! この頼光一門の名折れであるぞ! しっかりいたせ!」
「は、はいっ! し、しかし……。何をどうしても、この震えが止まりませぬ! まことに、面目次第もござらぬ……!」
金時のその返答に、評定の間に詰めていた一同から、どっと笑いが起きた。戦場での、あの鬼神・坂田金時のことを知る頼朝軍の家臣たちにとって、初めて目にする彼のこの姿は、あまりにも滑稽で、愉快でたまらなかったのだ。
* * *
一方、上杉弓が到着し、休息を取っている一室へ、出雲阿国が、迎えに上がっていた。
部屋の前には、弓姫を警護するのであろう、ただならぬ威圧感を放つ二人の武者が、微動だにせず控えている。
「頼朝様が、評定の間にてお待ちでございまする。ささ、姫様、こちらへ。この出雲阿国が、ご案内申し上げます」
「うむ、かたじけない。…しかし、待たれよ。我らも、同席させていただきたい」
阿国*が弓姫を促そうとしたその時、控えていた二人の武者が、静かに、しかし鋭く阿国に詰め寄った。
その、尋常ならざる気配と眼光に、さすがの阿国も、珍しく僅かに動揺した表情を見せた。
「……貴殿たちは……もしや!」
* * *
評定の間で待つ頼朝と家臣団の前に、ややあって、出雲阿国が姿を現した。
「頼朝様、皆様。上杉弓様、お成りでございます」
阿国に導かれ、上杉弓が、静かに評定の間へと入ってくる。そして、その両脇には、先ほどの二人の武者が、警護としてぴったりと付き従っていた。
その二人の武者の顔を見た瞬間、その場にいた者の中で、真っ先に驚きの声を上げたのは、上杉家との外交を担当した、前田玄以であった。
「こ、これはいったい……! ま、まさか……景勝様! そして、兼続様ではございませんか!」
そう。弓姫の警護と称し、供として那加城までやって来たのは、なんと、現上杉家当主・上杉景勝、その人。そして、その傍らに控えるのは、上杉家が誇る「知の将」、筆頭家老・樋口兼続だったのである。
「なんと! 飯田城より、ずっとご一緒であったと申されるか! つゆ知らずとはいえ、これは、とんだご無礼をいたしました!」
頼朝は、驚きながらも、すぐさま居住まいを正した。
「改めまして、私が源頼朝にござる」
「うむ。某が、上杉景勝である」
景勝も、静かに応じた。
「そして、ここに控えるは、樋口兼続。当家の家老を務めておる」
「事前の連絡も無く、このような形で参上したこと、こちらこそ、大変失礼つかまつった」
すかさず、樋口兼続が、柔らかな物腰で口を開いた。
「いやはや、前田玄以殿。その節は、遠路、越後までお越しいただき、まことにご苦労でござった」
そして、頼朝へと向き直る。
「頼朝様。某、上杉家家老、樋口兼続と申しまする。この度は、こうして、頼朝様のご尊顔を、直接拝する機会を得られましたこと、当主・景勝、そして、この臣・兼続にとりましても、まことに光栄の極みにございます」
兼続は、言葉を続けた。
「まことに、失礼極まりない登場ではございましたが、先の飯田城には、彼の景虎殿も滞在されておると、事前に伺っておりました。万が一にも、我らの存在が、いらぬ騒ぎを引き起こしてはならぬと考え、あえて名を伏せておった次第。このような無粋な形で参上いたしましたこと、何卒、お許しを願いたく存じます」
「いや、驚きはしたが、上杉景勝殿、そして樋口兼続殿と、こうしてお会いできたことは、この頼朝にとっても、誠に大きな栄誉である」
頼朝は、穏やかに応えた。
「上杉家にとって、かけがえのない大切な姫君である弓姫殿を、我が家へ、そして我が一門へと、お輿入れいただけること、この頼朝、改めて、心より御礼申し上げる」
「いえいえ、頼朝様」
今度は景勝が、静かに、しかし力強く語り始めた。
「これは、我が主、父・謙信公以来の上杉家の悲願であり、そして、この景勝、たっての願いでもあるのです。
かつて、鎌倉に幕府を開かれ、武家の世の礎を築かれた、征夷大将軍・源頼朝公。その、頼朝様のご一門に連なることができるのは、越後の、そして関東管領たる上杉家にとって、これ以上の名誉はございません」
「…景勝殿」
頼朝は、景勝に目を向けた。
「残念ながら、貴殿が今、目の前にしておるこの頼朝は、貴殿が思い描いておられるような、征夷大将軍ではない。聞けば、“この時代に来た後の”わしが、どうやら、そのような大役を、再び拝命することになったらしいがのう。
だが、今、貴殿の前にいるこの頼朝は、かつて、親の仇である平家を討ち果たしただけの、ただの粗暴な坂東武者の棟梁(とうりょう)に過ぎぬ。貴殿のお言葉は、まことに嬉しいが……おそらくは、貴殿は、この拙者を、少々買い被っておられるようだ」
「はっはっは! 頼朝様、ご謙遜を」
兼続は、朗らかに笑った。
「我らも、はじめ、前田殿がお話に参られた時には、『美濃の新興国の使者』と名乗られたゆえ、とりあえずはお会いした、という次第。ですが、その後、頼朝様の家臣である、と耳にした時には、正直、『戯言を申す、とんだ食わせ者めが』と、斬って捨てようかとも、考え申したのでございます」
兼続は、真顔に戻り、続けた。
「ですが、我ら上杉の目に映る、今の頼朝様は、違います。あの、天下に覇を唱えんとする織田軍と、正面から渡り合い、美濃、そして尾張の一部から、これを追い出された。また、武田、北条、上杉、複雑にいがみ合っている我らの間に立ち、見事にとりなしをされ、内乱で乱れきっていた、この越後をお救いくださった。その上で、我らが、とても援軍を出す余裕すらなかった中にあって、武田領へ侵攻してきた、あの徳川軍をも、打ち払われた。
これらは全て、今、我らの目の前におられる、頼朝様ご自身が、成し遂げられた、紛れもない事実にございます。我らが、今、こうして誼(よしみ)を結びたいと願っておるのは、過去の伝説の征夷大将軍ではなく、まさに、この頼朝様、あなた様ご自身なのです。過去の将軍と誼を結んだところで、何の利もございませぬからな」
「…謙信公、そして上杉家の武勇については、わしも、かねてより聞き及んでおった」
頼朝は、景勝に向き直った。
「その、誉れ高き上杉家と、こうして誼を結べることは、この美濃の、まだ小さな国にとっては、この上なく、ありがたきこと。
弓姫殿。改めて、お願い申し上げる」
頼朝は、弓姫へと視線を移した。
「お父上である景勝殿も、そして兼続殿も、どうやら我が国のことを、少々、買い被っておられるようであるが……しかし、そなたが、こうして当家へ来てくれたこと、そして、これによって上杉家と誼を結べたことで、我が国は、さらに強く、そして大きくなれるであろう。心から、感謝する」
頼朝は、評定の間の一番奥で、相変わらず縮こまっている男を指さした。
「…さて。あそこに控えるのが、そなたの夫となる、坂田金時である。このわしにとっても、もはや伝説上の男であったが……今、ここに控える金時は、ご覧の通り、どうにも情けない有様じゃ。
だが、あれでも、戦場(いくさば)に出れば、まさに鬼神のごとき働きをする。どうか、ご寛容に、お願い申し上げる」
「この上杉弓、頼朝様のご一門に加えていただけましたこと、そして、上杉家と頼朝様との、固き誼を結ぶ、その証となれましたこと、武門の娘として、これ以上の名誉はございませぬ」
弓姫は、静かに、しかし、はっきりと答えた。その姿は、実に気丈で、凛としている。それと比べて、あまりにも縮み上がっている坂田金時の様子に、さすがの頼朝も、少しばかり恥ずかしさを覚えてしまう。
「これ、金時! いつまでそうしておる! きちんと、ご挨拶をせぬか!」
頼光が、再び檄を飛ばす。
「は、はいっ! さ、坂田金時と、も、申しまする! よ、よろしく、お願い、申し、上げまするっ!」
金時は、もはやしどろもどろである。
そこで、上杉景勝が、ふっと表情を和らげ、口を開いた。
「はっはっは! 武辺者(ぶへんもの)というものは、得てして、女子(おなご)が苦手なものよ。このわしも、実を申せば、得意ではない」
景勝は、金時に向かって、優しく語りかけた。
「坂田殿。そのお気持ち、この景勝、痛いほど、良く理解できる。ゆえに、何も気にされることはない」
景勝は、頼朝へと向き直る。
「…頼朝様。実を申せば、此度、わたくしは、事と次第によっては、この弓を、力づくで連れ戻す覚悟で、参りました。
ですが……この目で見た坂田殿は、まことに好ましき御仁。そして、頼朝様も、想像しておりました通りの、いや、それ以上の器量をお持ちの御方であった」
景勝は、言葉を続けた。
「我ら上杉家は、父・謙信の代より、『義』のためにこそ戦うことを、家訓としております。領土を広げるため、あるいは己の欲を満たすための戦は、決して、いたしませぬ。
貴殿、頼朝様の率いる軍団が、我らと共に、『義』のために戦える相手であるかどうか……まことに失礼ながら、この景勝、それを見極めるために、参ったのでございます。
そして今、確信いたしました。この景勝、心から、頼朝様との、この度の誼を結びたく存じまする」
景勝は、再び金時に目を向けた。
「…ただ、この弓は、わたくしが、やや武人として、厳しく育て過ぎてしまったきらいがございます。坂田殿のお眼鏡に適いますかどうか……それが、少しばかり心配ではありますが。
金時殿。何卒、この武辺者の娘・弓のことを、末永く、お願い申し上げる」
「は、ははっ! め、滅相もございません、景勝様!」
ようやく少し落ち着きを取り戻したのか、金時は、力強く答えた。
「この坂田金時、我が命に代えましても、弓殿を、必ずやお守りいたしまする! それだけは、この場で、固くお約束いたします!」
「いやいや、これは、まことに、めでたきこと!」
樋口兼続が、満面の笑みで手を打った。
「これで、晴れて、上杉家も、頼朝様のご一門に連なることができましたな!」
だが、兼続は、すぐに真顔に戻ると、頼朝に向き直った。
「…そこで、頼朝様。まことに、失礼ついでで、恐縮至極なのでございますが……この場をお借りして、是非とも、頼朝様にお願い申し上げたき儀が、一つ、ございます」
「ほう。拙者にできることであれば、何なりと、申されるがよい」
「はっ。我ら上杉家は、古くは室町幕府より、関東管領(かんとうかんれい)の役職を、代々、拝命してまいりました。それは、我ら上杉家にとっての誇りであり、同時に、関東の安寧と、そこに住まう民を守るための、重き役割であると、心得ておりました。
しかしながら、ご存知の通り、その室町幕府は、かの織田信長によって滅ぼされ、関東管領職も、今や、有名無実のものとなっておりまする」
兼続は、頼朝の目を、真っ直ぐに見据えた。
「そこで、頼朝様。是非とも、お願い申し上げたい。この乱れた戦国の世を、再び終わらせるために……この時代においても、貴殿に、征夷大将軍となっていただき、新たなる幕府を、開いてはいただけませぬでしょうか。
我ら上杉家は、頼朝様のためであれば、力の限りを尽くす所存にございます!」
「はっはっは! 兼続殿、これはまた、ずいぶんと、おかしきことを申されるものよな」
頼朝は、笑って応じた。
「重ねて申し上げるが、兼続殿は、どうやら、この頼朝を、買い被っておられるようだ。拙者は、もはや、将軍の位など、望んではおらぬ。
かつての鎌倉幕府の初代将軍・頼朝が、どのような伝説として、この時代に伝わっておるのか、詳しくは存じ上げぬが……少なくとも、今、ここにいる拙者は、日ノ本の全ての武家を束ねるに、ふさわしき器ではない。
貴殿を失望させてしまうのは、わしの本意ではないが……今の拙者が、何よりも大事にしたいと願うのは、この、わしを信じ、命を懸けて仕えてくれる家臣たちであり、そして、この領地に住まう民たちであるのだ」
頼朝は、言葉を選びながら続けた。
「また、上杉家は、我らにとって、かけがえのない大切な親族となる。もし、今後、上杉家を滅ぼそうなどと企む者が現れれば、この頼朝軍は、総力を挙げて、これを打ち倒す所存。だが……」
頼朝は、きっぱりと言った。
「だが、我が軍団は、決して、他国を滅ぼすための軍団ではない。何より、天下を力で統べるということは、まこと、難しきことよ」
ここで、それまで黙って聞いていた上杉景勝が、再び口を開いた。
「…飯田より、ここまでご一緒させていただいたが、頼朝様の軍は、やはり強い」
景勝は、静かに、しかし、確信を込めて語る。
「我が上杉軍も、決して弱兵ではないと自負しておりまする。父・謙信が遺した、優れた家臣たち、強き越後の兵、そして、父より受け継いだ軍略。幸いにも、我らは、これらに恵まれておる。
「しかし、この目で拝見した頼朝様の行軍は、見事なものであった。あれほどの大軍が、寸分の乱れもなく、整然と行軍する様は、決して弱兵には真似できぬこと。兵たちの武装も、他家の追随を許さぬほどに充実しておる。よほど、優れた家臣たちが、日々、鍛錬と整備に努めておられるのであろう」
景勝は、頼朝に鋭い視線を向けた。
「頼朝様。貴殿さえ、その気になれば、近江の安土城にいる織田信長を追い払い、京の都に上られることなど、おそらくは造作もなきことと、お見受けいたす。
しかし、かの信長も、着々と、その勢力を広げ、力をつけておる。時が経てば経つほど、これを打ち破ることは、ますます難しくなりましょう。
…信長の、あの『天下布武』の流儀に、我ら上杉家が与(くみ)することは、できぬ。おそらくは、他の多くの武家たちも、本心では、従いたくはないはずじゃ。信長は、己に逆らう者、古きものを、全て滅ぼし尽くした、その先に、新たなる世を築こうとしておる。それは、『共存』ではないゆえな。
ですが、頼朝様であれば、多くの武家は、喜んで貴殿に臣従すると、わたくしは存じます。わたくしは、遠い過去の頼朝様のことは、存じ上げぬ。わたくしが見ておるのは、今、目の前におられる、頼朝様、あなた様のこと。
少なくとも、ここまでの頼朝様は、我らを含めた、他の武家との『共存』のためにこそ、戦われておられるように、お見受けする。それこそが、今の頼朝様の、偽らざるお心なのではありませぬか」
景勝は、言葉に力を込めた。
「我ら上杉家は、頼朝様が、再び京都に上られ、天下に号令をかけられることを、強く、強く望んでおりまする。
当家は、まだ、先の御館(おたて)の乱の傷跡が深く残り、国力が完全に回復するには、今少しの時が必要じゃ。ですが、もし、頼朝様のお気持ちが固まられれば、越前方面より、兵を差し向ける覚悟は、すでにできておりまする」
上杉景勝の、この突然の登場、そして、予想だにしなかった、熱のこもった言葉の数々に、頼朝は、ただただ戸惑うばかりであった。
景勝に続き、樋口兼続も、再び口を開く。
「頼朝様。そもそも、将軍の持つべき『力』とは、かの信長が目指すような、他者を『滅ぼすための力』ではないと、わたくしは存じます。
そうではなく、多くの武家が、それぞれの誇りを保ちながらも、一つに力を合わせ、天下の静謐(せいひつ)を成すための力。それこそが、本来の将軍が持つべき力であり、幕府が目指すべき姿であると、当家は考えております。
それは、まさに、先ほど頼朝様ご自身が、おっしゃられたこと。『滅ぼさぬ、だが、守る』。それこそが、この乱れた戦国の世において、多くの武家が、心の底で望んでおる、新たなる将軍の姿、そして、新たなる幕府のあり様なのではございませぬか。
何卒、頼朝様。我ら上杉の、そして、おそらくは日ノ本の多くの武家たちの願いを、お聞き届けいただきたく、伏してお願い申し上げまする」
上杉景勝が、話を継いだ。
「…突然お目にかかり、いきなりこのようなことを申し上げるのは、無礼千万であると、重々承知はしておりまする。我らも、国の政(まつりごと)が、まだ落ち着かず、一刻も早く越後へ戻らねばなりませぬゆえ、この機を逃さず、一方的にお話をさせていただきました。
ですが、頼朝様。天下の万民のため、是非とも、このこと、深くお考えいただきたく存じまする」
「……ありがたき、そして、重き申し出ではあるが……。今の、この頼朝にとっては、あまりにも難しき問いを、頂戴いたしたな……」
頼朝は、正直な気持ちを吐露するしかなかった。
「まことに、恐縮の極みにございまする!」
景勝は、深々と頭を下げた。
「何はともあれ、これで、両家が、晴れて親族となれましたことは、この景勝、この上ない喜び。重ねて、此度の数々の失礼の段は、平にお許しいただきたい」
「景勝殿。今のお言葉、しかと、この頼朝、受け取り申した」
頼朝は、頷いた。
「ところで……この後、ささやかながら、歓迎の宴を用意したく存ずるが、いかがであろうか」
「ありがたきお申し出なれど、我らは、これより一刻も早く、越後へ戻らねばなりませぬゆえ、残念ながら、これにて失礼いたす」
景勝は、丁重に断った。
「どうか、娘・弓のこと、くれぐれも、よしなにお願い申し上げる」
「そうか……。それは、やむを得まい。国元へ戻られるが、よろしかろう。上杉家も、大変な状況の中、遠路、この美濃までお越しいただき、まことに感謝申し上げる」
上杉弓の警護として、はるばる越後より同行してきた上杉景勝直下の精鋭部隊は、こうして、那加城に到着するや否や、慌ただしく、再び越後への帰路についていった。
* * *
その夜。頼朝は、この時代で得た、かけがえのない「家族」と共に、夕餉(ゆうげ)の膳を囲んでいた。頼朝と妻・篠、弟・義経とその妻・梓、そして、義理の父であり、筆頭家老でもある羽柴秀長。那加城の一室は、穏やかで、温かい空気に満たされていた。
「秀長。そういえば、そなたも、もうすぐ北条家の姫君を、妻として迎えるのであったな。さぞ、待ち遠しいであろう」
頼朝が、からかうように言うと、秀長は慌てて首を振った。
「頼朝様! どうか、おやめくださいませ! もちろん、我が軍団のためには、大変結構なことかと存じますが……北条家の、うら若き姫君が、この、しがない百姓上がりの、しかも初老の男に嫁がねばならぬとは……。まことに、お可哀そうでございますよ。下手をすれば、娘の篠よりも、お若いのではありますまいか……」
「まあ、父上。父上のような、お優しき武人の方は、今の世では、まことに貴重でございますよ。もっと、自信をお持ちになりませませ」
篠が、くすくすと笑いながら言った。
「わたくしへのご教育は、それはそれは、大変厳しゅうございましたが……それでも、母上に対しては、いつも、とてもお優しゅうございましたもの。ふふふ」
「こら、篠まで、何を申すか!」
秀長は、照れくさそうに娘をたしなめた。
「ところで、兄上」
義経が、真剣な面持ちで切り出した。
「先ほどの、景勝殿のお話……兄上は、どのようにお考えになられましたか」
「……わしは、天下も、将軍の位も、望んではおらぬ」
頼朝は、静かに答えた。
「なれど……先の、早雲殿が申しておった通り、あの景勝殿という御仁は、まこと、たいした人物であったな。そして、景勝殿と、あの兼続殿が語っておられた、天下のあり様、この時代の幕府や将軍が進むべき道……あれには、深く考えさせられた。
…わしは、かつて鎌倉では、力をもって、日ノ本を統べること、ただそれのみを考えておった。『新しき世』を創るため、と信じてな。それは、今の、あの織田信長と、何ら変わらぬ考えじゃ」
そこへ、出雲阿国が、次なる料理と酒を運び入れ、頼朝たちの酌を持って、傍らに控えた。
「阿国殿。そなたは、もはや、そのような酌などせずとも良いのだぞ。そなたは、この頼朝軍の、筆頭家臣の一人であるのだから」
「いいえ、頼朝様」
阿国は、優雅に微笑んだ。
「わたくしは、武人である前に、ただの阿国でございますれば。舞を舞い、こうして皆様にお酌をすることこそが、何よりの喜びなのでございます」
「…ふむ。確かに、そうかもしれぬな。あるいは、このような阿国殿に、鉄砲を持たせて戦場へ出すことの方が、よほど間違っておるのかもしれぬ。…これは、全て、義経、そなたの責任じゃのう」
「おおっと、兄上! そのように申されるのであれば、先ほどの、梓の新たな部隊の話は、全て無しにしていただき、梓を、再び我が隊へとお戻しくださいませ! さすれば、きっと、舞を舞う、雅(みやび)な日々を、阿国殿にお戻しできることでしょう!」
「まあ、義経様ったら!」
阿国は、拗ねたような表情を作った。
「やはり、本当は、梓様の方がよろしくて、このわたくしでは、頼りない、と、そうお思いなのでございますね?」
「あ、いや、滅相もない! すまぬ、阿国殿! まことに、恐れ入った! さすがの、この義経も、阿国殿には敵いませぬな!」
皆が、どっと笑う。
(……)
かつての鎌倉では、決してあり得なかった光景。血を分けた弟、忠実な家臣、そして「家族」と呼べる者たちと、こうして心穏やかに、笑い合いながら過ごす時間。頼朝は、この、かけがえのないひと時を、心の底から堪能していた。
ふと、頼朝の隣で酌をしていた出雲阿国が、真剣な表情で口を開いた。
「頼朝様」
「ん? いかがした、阿国殿」
「先ほど、上杉景勝様がお話しされておられたこと……わたくしにも、少々、思うところがございました」【
「つきましては、一度、頼朝様と共に、トモミク様のところへ、お話に伺いたく存じます。…ご一緒、願えますでしょうか」
「ほう…、トモミク殿にか」
頼朝は、少し意外に思いながらも、頷いた。
「分かった。では、早々に、岐阜へ参るとしよう」
「義経。わしが留守の間、もし有事の際には、那加城の軍勢は、そなたが全軍を率いよ。その際は、秀長と、そして篠を、副将として使うが良い」
「はっ! 兄上、どうぞ、ご安心を」
義経は、力強く応えた。
「…兄上。拙者も、先ほどの景勝殿の話を聞き、思うところがございました。
兄上に、今一度、考えていただきたいのです。この軍団を、これからどうされるおつもりか。そして、この時代で、何を成そうとしておられるのか」
義経は、兄の目を真っ直ぐに見据えた。
「今の兄上は、もはや、かつての鎌倉におられた頃の兄上では、ございません。どうぞ、兄上の、今のお心のままに、お進みください。我らは、ただ、どこまでも、それについて参るのみでございますゆえ」
(……義経……)
頼朝は、胸が熱くなるのを感じた。
この時代に来てから、かつて鎌倉で、己が成し遂げようとしていたことの、その危うさ、そして、はかなさを、身をもって知ることとなった。
鎌倉にいた頃、常に猜疑と恐怖の目で見ていた、家臣たち、そして、この血を分けた家族。それらが、今となっては、何よりも、かけがえのない大切な存在となっている。
(もし……もし、再び、日ノ本を統べるという、あの野心に、己が取り憑かれてしまったら……)
頼朝は、自問する。
(再び、あの、冷徹な己が、この心の奥底から、眠りより覚め、そして、その『大義』のために、今、目の前にいる、この、かけがえのない者たちを、かつてのように、犠牲とすべき存在として、切り捨ててしまうのではないか……?)
今、頼朝が、心の底から一番恐れているのは、弟・義経ではない。
『大義』のためと称し、その義経を、平然と犠牲にしようとする、かつての己自身が、再び、この心の中に目覚めてしまうこと。それこそが、今の頼朝にとって、最大の恐怖であった。
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