第十五話:民と政(まつりごと)
頼朝軍は、織田家の重要拠点であった清洲城に続き、大垣城、そして長島城をも、立て続けに攻略した。さらに、伊勢国境まで攻め上がってきた織田軍本隊に対し、果敢に逆襲を仕掛け、これを壊滅させるという、目覚ましい戦果を挙げたのである。
さすがの織田軍も、この連敗と、それによって失った領土・兵力の大きさから、すぐには次なる大規模な軍事行動を起こすことはできなかった。頼朝軍には、しばしの、しかし貴重な時間が与えられた。
だが、次なる戦いに備え、この間に為さねばならぬ事は、山ほどあった。
那加城の茶室。羽柴秀長は、今後の軍団運営について相談すべく、主君である頼朝、そして義経と顔を合わせていた。
茶を点(た)ててくれるのは、いつものように、出雲阿国である。彼女の流れるような所作と、茶の香りが、激しい戦いの記憶を、しばし忘れさせてくれる。
「…こうして、落ち着いて阿国様殿の点てた茶をいただけるというのは、何とも、ありがたきことよのう」
頼朝は、湯気の立つ茶碗を手に取り、しみじみと言った。
「このまま、織田も徳川も、しばし鳴りを潜め、武田、上杉、北条といった、我らが盟友たちも、互いに争うことなく……。そんな都合の良いことには、ならぬものかのう」
頼朝は、ふっと息をついた。
「だが、次に織田が攻めて来る時は、おそらくは、これまで以上に、凄まじきものとなるであろう。我らも、今のうちに、備えを固めねばならぬ」
「まことに。兄上の、あの清州を攻めるとのご決断。そして、早雲殿の先を見通す戦略眼。秀長殿の、先の長島城攻略の際の見事な布陣。さらには、赤井殿の、あの勇猛果敢な戦いぶり! まさに、優れた主君と、優れた家臣あってこその、今の、この優雅な一服でございますな」
義経が、兄を称え、諸将の働きを労う。
「しかし、阿国殿。そなたの、あの神業のような鉄砲隊の指揮ぶり、そして、こうして点ててくださる茶の味。いずれも、この義経、まことに恐れ入っておりますぞ!」
「まあ、義経様ったら。そのようなお言葉を賜りますと、わたくし、ますます励みになりまする」
阿国は、優雅に微笑んだ。
「そういえば、此度の伊勢での戦では、実はトモミク様が、それはそれは、大変なご活躍であったそうですよ。あの赤井輝子様も、ほとほと舌を巻いておられたとか」
「ははは! トモミクの戦場での、あの猪突猛進ぶり、そして、赤井殿の、全てを薙ぎ払うかのような猛攻。拙者も、先の戦で、とくと見てきたわい」
義経は、愉快そうに笑った。
「あの、恐るべき二人の女将に、束になって襲われた織田軍の部隊には、さすがに同情を禁じえなんだな」
座が和んだところで、秀長が本題に入った。
「それでは、僭越ながら、某より、いくつかご相談申し上げたき儀がございます。
まず、新たに我らが拠点となった、大垣城、清州城、長島城の、城の修復、そして城下町の整備は、喫緊の課題にございます。幸い、大垣城には早雲殿、清州城には赤井輝子殿が、それぞれ城代として采配を振るっておられ、民も集まり始め、町の復興も順調に進んでおるとのこと。
問題は、長島城でございます。先の戦まで、大草城の整備にご尽力いただいた、飯坂猫様をはじめとする内政官の方々に、引き続き、この長島の開発にも、お願いしたいと考えております」
「…うむ。わしも、一度、大草へ立ち寄り、猫様や、他の内政官たちを、直接労いたいと考えていたのだがな」
頼朝は、少し残念そうに言った。
「だが、長島城を、一刻も早く、西の防衛拠点として機能させるためには、あの、驚くべき手腕を持つ女子(おなご)たちに、頼るしかあるまい。…またしても、あの者たちには、苦労をかけることになるな」
「次に、兵力の再編についてでございます」
秀長は続ける。
「清州城は、今後、人口も増え、それに伴い徴兵可能な兵数も、大きく増加してくることが予想されます。また、岐阜城も、現状、トモミク様の一部隊のみでの防衛となっており、やや手薄な状況が続いております」
「つきましては、清州城、そして岐阜城に、それぞれ、追加で新たな狙撃隊を配備できれば、と、愚考いたしまする」
「ほう、新たな狙撃隊か。そういえば、阿国殿も、狙撃兵の育成に、力を尽くしてくれておると、聞いておるぞ。まことに感謝申し上げる」
頼朝が言うと、阿国は優雅に微笑んだ。
「もったいなきお言葉、痛み入りまする、頼朝様」
「実は、ちょうど、その新たな狙撃隊を率いるに、まことにふさわしい御方を、二人、見つけることができたのでございます。わたくしの方から、その指揮官に任命したき御仁のお名前を、申し上げても、よろしゅうございますか?」
「おお、阿国殿のお目に適(かな)った者であれば、間違いはあるまい。申してみよ」
「はい。では、遠慮なく」
阿国は、にっこりと微笑んだ。
「お一人は、義経様の奥様、梓様にございます」
「な、何と! 梓が、とな!?」
思わぬ名前に、義経が驚きの声を上げた。
「はい」
阿国は、義経に向き直り、静かに語りかける。
「梓様が、常に義経様をお支えすべく、陰になり日向になり、力を尽くしておられるお姿は、わたくしども、傍らより拝見し、よく存じ上げております。また、義経様ご自身も、梓様の優れた軍略を、深く頼りにしておられることも。
ですが、梓様には、それだけに留まらぬ、将としての器がございます。今の我が軍団において、あの赤井輝子様や、トモミク様と、まさに肩を並べて、一部隊の指揮を、存分に執ることができるのは、わたくしが見る限り、梓様をおいて、他にはおりますまい。
つきましては、清州城に、新たに編成いたしまする狙撃隊は、梓様に率いていただくのが、最もよろしかろうと存じます。清州城と、ここ那加城とは、目と鼻の先にございますし、義経様が、お寂しい思いをなさることも、ございますまい」
阿国は、悪戯っぽく義経に笑いかけた。
「…それとも、義経様は、副将が、この阿国では、少々、物足りなくいらっしゃいますか?」
「…いや、滅相もない!」
義経は、慌てて首を振った。
「…よく分かった。拙者も、梓の将としての力量には、常々、感服しておったゆえ。梓にとっても、一軍を率いることは、またとない名誉であろう。…我が隊のことは、今後とも、阿国殿、よろしくお願いいたす」
「はい、義経様、恐れ入ります。この阿国、微力ながらも、お力添えいたしますね」
阿国は、満足げに頷くと、話を続けた。
「そして、もう一方。岐阜城に配備いたしまする、新たな狙撃隊ですが……こちらは、頼朝様の副将であられる、里見伏様に、お任せするのがよろしいかと存じます。
かの地には、伏様と縁の深い、『犬』の方々も多くおります。彼らは、伏様と共に力を合わせることで、常人には計り知れぬ、不思議なお力を発揮いたします。伏様に、彼らを率いていただければ、岐阜城の守りは、さらに盤石なものとなりましょう。
そして……頼朝様の副将として、伏様が抜けられた後の穴ですが……こちらは、篠様に、お任せしてはいかがかと存じます。篠様の、正確無比な射撃の腕、そして、戦場における冷静な采配ぶりは、先の戦でも証明済み。なかなかのものがございます」
「…うむ。阿国殿の考え、よく分かった。それに従うとしよう」
頼朝は、阿国の提案を受け入れた。
「…秀長は、いかが思うか」
「はっ! 拙者も、阿国殿のご提案された、新たな部隊編成に、異を唱えるものではございません」
秀長は頷いた。
「新たな部隊長が、どなたがよろしいか、ということについては、阿国殿から事前に伺っておりましたが……まさか、娘の篠が、頼朝様の副将とは、今、初めてお聞きし、正直、驚いております。果たして、あの娘に、その大役が務まりますかどうか……」
「ふふ。秀長様が、ご自身で、あれほどまでに厳しく、篠様に軍略や槍術を教え込まれたではございませんか。それに、先の小牧山での戦ぶりは、まことに見事なものでございましたよ。篠様は、城内においても、そして戦場においても、必ずや、頼朝様を、しっかりとお支えできるはずでございます」
阿国は、太鼓判を押した。
「兄上、秀長殿」
義経も、同意する。
「篠殿の、あの戦場での凛々しきお姿は、拙者も、この目で見ておりました。兄上の副将として、まことに申し分ないかと存じます。この義経も、阿国殿の考えに、賛成でござる」
「…そうか。皆が、そこまで申すのであれば、決まりだな」
頼朝は、秀長に向き直った。
「秀長よ。これからは、そなたと、そして娘の篠とで、この至らぬわしを、しっかりと支えてほしい」
「はっ! かしこまりました! 親子共々、身命を賭して!」
秀長は、感激した様子で、深々と頭を下げた。
* * *
「次に、外交についてのご報告がございます」
秀長は、話題を変えた。
「上杉家、北条家、両家との婚姻同盟の準備も、早雲殿が精力的に動かれ、粗相なく進められております。しかし……北条家の現当主・氏政様は、やはり、武田勝頼様への、積年の怒りが、未だに収まらぬご様子。武田領内を通過することすら、強い嫌悪感を示されており、関東から美濃までの、姫君の輿入れの経路が、なかなか定まらぬ状況にございます……。これについては、引き続き、北条早雲殿が、氏政様と直接、ご相談されておるとのこと……」
「…そうか。やはり、一筋縄ではいかぬか……」
頼朝は、ため息をついた。
「ですが、頼朝様!」
秀長は、明るい声で続けた。
「一方で、大変、喜ばしき知らせも、ございました! かねてより案じておりました、上杉景虎様の助命についてでございます! 義経様の奥様である梓様から、武田勝頼様へ、粘り強く、書状を送り続けていただいておりましたが……その甲斐あってか、景虎様は、しばらくの間、行方知れずではありましたが、此度、武田領内の飯田城にて、秋山信友様のもとで、無事に保護されておられることが、ついに確認できました!」
「なにっ! 景虎殿が、ご存命であったか!」
頼朝は、思わず立ち上がった。
「それは、まことか、秀長! でかしたぞ! それは、本当に良かった! これで、かの早雲殿も、そして北条氏政殿も、さぞかし喜ばれよう! …そして、これによって、武田と上杉、北条との間の、忌まわしき軋轢(あつれき)も、多少なりとも、和らぐことができれば、何よりなのだが……」
「はい。つきましては、武田勝頼様に、当家への景虎様のお身柄の引き渡しを、正式にお願いしたいと考えております。そして、北条家には、当家を仲介する形で、まずは、上杉景虎様のご無事をご報告申し上げ、その上で、今後の処遇について、穏便にお話を進めることができれば、と、愚考いたします」
上杉景虎は、上杉景勝に、家督争いの末に追われ、頼った先の武田勝頼にも裏切られ、滅ぼされた――そう思われていた。その景虎を、武田勝頼が、実は殺害せず、保護していた。この事実は、今後の、複雑に絡み合った同盟関係に、大きな、そして良い影響を与えるであろう、誠に大きな朗報であった。
「…逆に、上杉家からは、武田領内を通過して、弓姫様を、こちらへ輿入れさせたい、との、正式な打診がございました」
「ほう、それは、ありがたきこと。だが……」
頼朝は、懸念を口にした。
「武田領内を通るということは、すなわち、信濃を経由する、ということであろう。もし、その輿入れの道中で、またしても徳川が、飯田城あたりへ攻め込んできたら、一大事となりかねぬ。…そうじゃ! 飯田城まで、こちらから軍を差し向け、上杉の姫君を、丁重にお迎えに上がる、というのはいかがか。
秀長、上杉の姫君は、いつ頃、こちらへ参られる予定か」
「はっ。伺ったところでは、来年の春、三月頃、とのことだそうでございます」
「よし、決めた。来春、わし自らが、軍を率いて飯田城へ赴き、弓姫殿を、迎えに上がろう。上杉景勝殿には、そのように申し伝えよ」
「ははっ! 御意!」
「最後に、もう一点」
秀長は付け加えた。
「かねてより、当家へ臣従の意を示しておりました、丹後の一色家からですが、此度、改めて、『姫君を、頼朝様の養女として、差し上げたい』との、正式な打診がございました」
「ほう、それもまた、ありがたき話であるな。承知した。丁重にお迎えするよう、手配せよ」
* * *
年が明け、天文十三年(1584年)初頭。
頼朝は、居城である那加城を離れ、伊勢の長島城を訪れていた。
本来であれば、まず、目覚ましい発展を遂げたという大草城を、自らの目で視察し、その開発に尽力してくれた飯坂猫をはじめとする、内政官たちを労いたいと考えていた。
しかし、彼女たちは、大草城の整備を終えるや否や、休む間もなく、今度はこの長島城へと転属させられ、その復興と開発にあたっている、と聞いていたのだ。
長島城は、先の織田軍による猛攻を撃退したばかりであり、頼朝が訪れた時には、まだ戦いの傷跡が生々しく残っているのではないか、と想像していた。だが、城内へと足を踏み入れた頼朝は、その予想が良い意味で裏切られたことに、驚きを隠せなかった。
城は、すでに隅々まで良く整備され、城下町の区画整理も、驚くべき速度で進められていたのである。
内政官たちが待ち受ける一室へと通される。頼朝は、改めて周囲を見渡し、息を飲んだ。この長島城の復興開発にあたっている内政官たちは、飯坂猫を筆頭に、その全てが、なんと女官たちであったのだ。
「殿! ようこそ! はるばる、こんな海の近くの長島まで、お越しくださりまして、誠にありがとうございます!」
飯坂猫が、満面の笑みで頼朝を迎えた。
「この猫はじめ、ここにいる皆、頼朝様が、いつおいでになるかと、それこそ、首を長~くして、お待ちしておりましたんですよ!」
「…いや、皆の働き、まことに見事であるな。この頼朝、心より感謝申し上げる」
頼朝は、彼女たちの働きぶりに、素直に感嘆の声を漏らした。
「そなたたちの、この懸命な働き、そして類まれなる力添えがあってこそ、我が軍団は、ここまで戦い抜いてくることができたのだ」
「まあ! それをお聞きできて、わたくしたちも、本当に嬉しく存じます!」
猫は、嬉しそうに頬を染めた。だが、すぐに悪戯っぽい表情になる。
「それにしても、秀長様って、本当にご無体なことばかり、わたくしたちにおっしゃるんですよ! この前、大草では、『とにかく街を作れ、商いを盛んにしろ』と仰せられたかと思えば、今度は、ここ長島で、『一面を田んぼにせよ』だなんて!」
確かに、当初は、政策維持費を捻出するために、商業の発展が最優先とされた。だが、今は、度重なる大規模な軍事行動を支えるため、兵糧の確保が、何よりも重要な課題となっているのだ。
「…うむ。それについては、この頼朝も、まことに心苦しく思うておる。…この通りじゃ」
頼朝は、彼女たちに対し、深々と頭を下げた。
「なれど、頼む。この頼朝からも、改めて、お願い申し上げる。どうか、秋の収穫量を、少しでも上げてもらえるよう、皆の力を、貸してはくれまいか」
「はいっ! 頼朝様、お任かせください!」
猫は、元気よく胸を叩いた。
「秀長様からは、いつも『我が軍は、兵糧だ、兵糧が足りぬのだ』と、それこそ、耳にタコができるほど、口うるさく言われておりますから! そのくらい、よーく分かっておりますとも!」
猫は、にこにこと笑いながら、しかし、少しだけ悪戯っぽい視線を、周りに控える女官たちに向けた。
「…しかし、頼朝様、どうぞ、ご覧くださいませ。ここに控える、この、か弱くも美しき姫君たちを。こんな彼女たちに、来る日も来る日も、泥んこまみれになるような畑仕事をさせるだなんて……。まったく、あの秀長様の、お考えになることは、わたくしには、さっぱり分かりませぬわ」
飯坂猫は、口では不満を漏らしているものの、その表情からは、今の任務に対する反感など、微塵も感じられない。思ったことを、そのまま屈託なく口にしながらも、不思議と、その場の空気を明るく和ませてしまう。そんな、稀有な才を持つ女将なのであろう。
「頼朝様」
猫は、頼朝に満面の笑みを向けた。
「この伊勢長島は、水にも恵まれ、海の幸、山の幸にも、それはそれは恵まれた、まことに豊かな土地でございますよ。本日は、わたくしどもが、腕によりをかけて、この土地ならではの選りすぐりのお食事と、美味しいお酒を、たーっぷりとご用意しております。どうぞ、今宵は、この美しくも、ちょっぴり土の香りが漂う(?)姫たちと、存分にお楽しみくださいませね!」
「はっはっは! それは、まことに楽しみじゃな!」
頼朝も、つられて声を上げて笑った。
* * *
翌日、頼朝は、飯坂猫と、もう一人、先の戦で面識のあった斎藤福(さいとうふく)に案内され、長島城の領内を視察して回った。
「頼朝様、ご覧くださいませ」
猫が、広大な水田地帯を指し示しながら説明する。
「この伊勢長島は、木曽三川の河口に位置し、水利にも大変恵まれております。水田の隅々まで、水が良く行き渡りますので、今年の秋の収穫では、きっと、多くの米が期待できますよ。それに、海も山も、すぐ近くにございます。昨日、お楽しみいただきましたように、新鮮な海の幸、山の幸にも恵まれ、日々の食には、事欠きませぬ。
それに、この地は、南を伊勢湾と険しい山々に囲まれておりますので、もし、南から敵が侵攻してきた際にも、いち早くその動きを発見できますし、また、守るにも、非常に有利な地形でございます」
飯坂猫は、単に内政に明るいだけでなく、軍事や戦略に関しても、深い造詣を持っているようであった。
「…しかし、頼朝様」
猫の声の調子が、ふと、翳りを帯びた。
「この美しい地は、同時に、大変な悲劇に見舞われた土地でもあるのです。
この長島城は、かつては、石山本願寺と同じ、一向宗の門徒たちが治める、一大拠点でありました。ですが……かの織田信長による、あまりにも残虐な、根切りの大虐殺によって……それはそれは、数えきれぬほどの、民たちの尊い命が、ここで失われたのでございます……」
「…長島とは、そのような場所であったか……」
頼朝は、絶句した。
「だが、信長は、天下の静謐を、その旗印としておると、聞いておったが……。民を、それほどまでに虐殺するとは……」
「はい……。民とは申しましても、彼らは同時に、熱心な一向宗の門徒でもありました。頼朝様が、鎌倉にいらっしゃった頃に興った、浄土真宗の流れを汲む宗派でございます」
猫は、静かに語り続けた。
「ただひたすらに、『南無阿弥陀仏』と唱え、戦で死ねば、必ずや極楽浄土へ行ける……。それを、心の底から信じた多くの民たちが、一向宗徒として、武器を取り、あの、当時、天下最強と謳われた精強な信長軍に、果敢に挑んでいったのだ、と聞いております。
……虐殺を行った信長軍が、非難されるべきは、当然のこと。ですが……」
猫は、頼朝の目を、じっと見つめた。
「ですが、わたくしには、疑問に思うのです。そうやって、多くの無辜(むこ)の民たちを、狂信させ、死地へと、無理矢理に駆り立てる必要が、果たして、あったのであろうか、と……」
(……)
明るく、賢い女将だと思っていた飯坂猫が、突然投げかけてきた、重い問い。武家による統治とは何か、民の幸福とは何か。それは、頼朝自身にも、未だ答えが出せぬ問いであった。猫は、まさに、その核心を突いてきたのだ。
「頼朝様が、先日、聖徳寺にて執り行われたという、戦没者への、あの盛大な鎮魂の儀のこと……殿の、民への深い慈しみの御心は、遠く、この伊勢の地の民たちへも、伝わっていたようでございますよ」
猫は、再び、柔らかな表情に戻った。
「そのおかげもあってか、我らが、この長島の新たな領主となってから、この地から逃げ出したという者は、ほとんどおりませんでした。
わたくしたち内政官が、殿のお役に立つためには、民の力添えが、不可欠でございます。そして、民の力を得るためには、殿に対する、民たちの、深い信頼の心が、なくてはなりませぬ」
「……猫殿。そなたと話ができて、良かった」
頼朝は、静かに言った。
「わしも、『民のための戦い』であると、信じて、ここまで来たつもりだ。だが、それが、本当に民のためになっているのかどうか……わしには、まだ、確かな答えがない。民のために戦う、そのつもりが、結果として、多くの民の命を奪い、悲しませている。そのような、矛盾の繰り返しじゃ。
だが……そなたのように、常に民と向き合いながら、優れた政(まつりごと)を為そうと努めてくれる家臣がおることは、このわしにとって、何物にも代え難い、幸いである。
これからも、頼む。時折、こうして、民の声を、わしに教えてはくれまいか」
「はいっ! 喜んで!」
猫は、満面の笑みで頷いた。
「あ、その時には、この伊勢の、とーっても美味しいお料理も、那加城まで、たーっぷりお持ちいたしますからね!」
* * *
天文十三年(1584年)二月。
頼朝は、約束通り、自ら一万五千の大軍を率いて、武田領である南信濃の飯田城へと、出陣した。頼朝軍へ嫁入りする、上杉景勝の娘・弓姫を、丁重に迎え入れるためである。
飯田城には、越後からはるばる到着した上杉弓姫と、そして、彼女を警護するために同行してきたのであろう、屈強そうな上杉家の武者たちが、頼朝の到着を待っていた。
「私が、源頼朝である。姫君には、遠路、ようこそ参られた」
頼朝は、馬上から、丁重に声をかけた。
「これより、美濃までの道中は、我が軍が、責任をもって、無事にお送り届けるゆえ、どうか、ご安心くだされ」
「上杉が娘、弓にございまする。この度は、お迎え、まことに痛み入りまする。道中、何卒、よろしくお願い申し上げまする」
弓姫は、静かに、しかし、凛とした声で応え、深々と頭を下げた。
(ほう……)
頼朝は、内心で感嘆した。北条早雲が、「武芸に秀でている」と評しただけのことはある。その、上杉武士としての誇りと、揺るぎない強さに裏打ちされたかのような、静かな語り口と、澄んだ声、そして、何よりも、その穏やかながらも、真っ直ぐにこちらを見据える眼差し。並の姫君ではない。
弓姫を警護する上杉の武者たちの中に、一人、特に鋭い眼光で、頼朝の率いてきた軍勢を、値踏みするように眺めている者がいた。
「…ふむ。さすがは、あの織田を、幾度も退けた軍よな。部隊の装備も、実によく整っておる。これだけの大軍でありながら、その行軍にも、一切の乱れがない。なるほど、噂は、まことであったか」
隣の者に、低い声で、そう呟いているのが聞こえた。
「うむ」と、隣の者も頷いている。
その頃、徳川軍は、南信濃の国境付近まで、再び兵を進めてきていた。おそらくは、頼朝軍が大軍を率いて南信濃へ入った、という報せを受け、慌てて戦闘態勢を整えたのであろう。
しかし、頼朝の軍勢が、上杉弓姫を伴い、整然と美濃へと引き上げていくのを見届けると、徳川軍も、それ以上、事を構えることなく、静かに兵を引き上げていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます