第十四話:織田と徳川

天文十二年(1583年)八月、南信濃の治部坂(じぶざか)。


徳川軍の先鋒、渡辺守綱(わたなべもりつな)隊は、頼朝軍の増援を確認し、治部坂方面へと猛然と攻撃を仕掛けてきた。

狭隘な山間の道での戦いは、頼朝軍の先陣を務める岩村城代・犬村大角(いぬむらだいかく)隊と、徳川軍・渡辺守綱隊との、熾烈な正面衝突となった。


徳川十六神将の一人、「槍半蔵(やりはんぞう)」の異名を取る渡辺守綱。その精強な三河武士団の攻撃は、想像以上に激しかった。犬村大角隊は、みるみるうちに押し込まれ、奮戦空しく、間もなく戦線を維持することができなくなった。


「何をしておるか、大角殿は! この親兵衛(しんべえ)が、徳川軍なぞ、物の数ではないことを教えてやるわ! 大角殿、道を開けられよ!」

後方から駆けつけた鳥峰城代・犬江親兵衛(いぬえしんべえ)が叫ぶ。犬村大角隊は、左右に分かれて戦場から離脱。入れ替わるように、犬江親兵衛隊が、無傷の勢いのまま、渡辺守綱隊へと猛然と襲いかかった。


先の犬村隊との激戦で、押し返したとはいえ、渡辺隊も思いのほか兵数を失い、疲弊していた。そこへ、勢いに乗る犬江親兵衛隊の猛攻を受け、今度は逆に、じりじりと後退を始めた。


「ふん、槍半蔵とて、この程度か! 聞けば、渡辺隊の後方には、猛将水野勝成(みずのかつなり)隊、そして徳川家宿老の酒井忠次(さかいただつぐ)隊も控えておるというではないか! よかろう、その徳川自慢の精鋭たちのお手並みも、とくと拝見させてもらおうぞ!」

意気盛んな犬江親兵衛は、さらに攻撃の手を強め、渡辺隊を激しく攻め立てた。


* * *


一方、時を同じくして、伊勢方面。

織田軍再侵攻の報を受け、長島城へと引き返した赤井輝子隊のもとへ、大垣城から渡辺綱(わたなべのつな)隊、そして岐阜城からトモミク隊が、それぞれ救援として到着、合流を果たしていた。


頼朝軍は、再び勢いを増し、長島城へ迫っていた織田軍の先発隊――佐久間盛政(さくまもりまさ)隊、ねね(豊臣秀吉正室)隊をはじめとする、複数の部隊を、立て続けに撃破、壊滅させた。


予想通り、頼朝軍の増援を目の当たりにして、織田軍の攻勢は鈍り、やがて兵を引き上げ始めた。

渡辺綱も、トモミクも、当初は、桑名の地で守りを固め、退却する織田軍の様子を窺う算段であった。だが、猛将・赤井輝子が、それを許さなかった。

「待てぇ! いつまでも、あの織田の奴らを、調子に乗らせておくわけにはいかないよ!」

輝子は、退却を始める織田軍の後衛部隊を目掛けて、叫んだ。

「このまま、無事に、のこのこと帰れると思ったら、大間違いだからね! 鶴姫、太田殿! 全軍、追撃するよ!」


その様子を、後方から見ていたトモミクは、呆れたように呟いた。

「輝子様ったら、もう!我らが引き上げるどころか、逆に、織田軍を追いかけ始めてしまわれましたよ!

仕方ありませんね……。皆様! このまま輝子様だけを行かせるわけにはまいりません! 我らも、輝子様に続いて、追撃を開始します! 渡辺様にも、急ぎ伝令を!」

トモミク隊もまた、赤井隊に続いて、伊勢の街道を進軍していく。


その報を受けた渡辺綱も、やれやれ、といった表情を見せながらも、すぐさま決断を下した。

「…まあ、良い。来月には、もう収穫の時期じゃ。今から多少、深追いしたところで、兵糧に大きな問題はなかろう。…よし! 全軍、赤井殿、トモミク殿に続け! 織田軍を追撃する!」

渡辺綱率いる騎馬隊もまた、織田軍の追撃へと加わった。


* * *


伊勢の地で、赤井隊、トモミク隊、渡辺隊が、敗走する織田軍を追撃していた、まさにその頃。

関東・越後方面へ、外交交渉に赴いていた北条早雲から、那加城の頼朝のもとへ、一通の書状が届けられた。

そこには、上杉家、北条家、両家とも、頼朝軍との婚姻同盟を、正式に承諾する、との旨が記されていた。


「…秀長よ。ついに、上杉とも、北条とも、婚姻関係を結べる運びとなったぞ。これも、そなたや、早雲殿の尽力があってこそじゃ。まことに大義であった」

頼朝は、安堵と喜びの入り混じった表情で、秀長に告げた。

「聞けば、北条氏政殿は、そなたの評判を耳にし、愛娘と、そなたとの婚姻にも、前向きであったそうだぞ」


「はっ……。恐れ多きことにて……」

秀長は、恐縮して頭を下げた。

「娘・篠を、頼朝様に嫁がせることばかりに、必死でございましたが……まさか、その裏で、早雲殿が、このような策まで巡らせておられようとは、思いもよりませなんだ……」


「ふふ。あの早雲殿が、『秀長に』と、強く推してこられたゆえな。断るわけにもいくまい」

頼朝は、笑って言った。

「秀長よ。これからは、そなたも、名実ともに源氏の一門じゃ。源氏の旗を、堂々と掲げ、今後の戦にも臨むがよかろう」


「はっ! その御旗を汚さぬよう、粉骨砕身、励みまする!」

秀長は、決意を新たに、力強く応えた。


「しかし、秀長」

頼朝は、少し申し訳なさそうに付け加えた。

「そなたは、側室は持たぬ、と申しておったな。北条家の姫君を、そなたの妻として迎えさせること……その点については、まことに、すまぬことをした」


「いえ、とんでもございません!」

秀長は、きっぱりと首を振った。

「我が妻も、此度の婚姻が、我らが軍団にとって、いかに重要であるかは、十分に理解してくれております。もともと、このような百姓上がりの拙者が、こうして頼朝様のお側に仕え、源氏の一門として、国政に携わらせていただけること自体、望外の誉れ……」

秀長は、言葉を続けた。

「妻自身も、頼朝様の義母として、そして、源氏一門の妻として、それ相応の覚悟は、すでに決めておるようでございます」


「……そうか。秀長の奥方が、此度の婚礼を、受け入れてくれたこと……この頼朝、生涯忘れぬぞ」

頼朝は、深く頷いた。


「…しかし、秀長よ」

頼朝は、ふと、真剣な表情に戻り、長年抱いていた疑問を口にした。

「わしには、未だに、どうしても腑に落ちぬことがあるのだ。この源氏の血筋、ただそれだけのために、なぜ、皆が、これほどの命懸けの働きを、このわしにしてくれるのか。


わし自身、源氏の末裔として、わが生きた鎌倉の世であっても、あるいは、かの頼光殿が生きた平安の世であっても、そして、この戦国の世であっても、源氏の血統というものを、大切に思う心はある。しかし……それが、果たして、時代を超えてまで、これほどの錚々(そうそう)たる名将や、得難い御仁たちが、この時代に集結してまで、守るべきものなのであろうか。『源氏』とは、それほどの価値を持つものなのか?


…もちろん、わしが知らぬ、何か深い事情があることも、あるいは、知らぬ方が、かえって良いという事情もあるであろうことも、重々、理解はしておるつもりだがのう……」


頼朝の、その率直な問いに対し、秀長は、静かに、しかし、はっきりとした口調で答えた。

「頼朝様には、全ての事情が判らぬ、そのお辛い状況の中にあっても、常に、我らを信じ、正しき道へと、お導きくださっております。家臣一同、頼朝様の、その御心にこそ、深く感じ入り、この命を懸けてお仕えすることに、些かの躊躇もございませぬ」


「…いかがした、秀長。そのような、仰々しい話ではないのだが……」

頼朝は、少し戸惑っていた。


「はっ! ですが、これだけは、お伝えしとうございます!」

秀長は、頼朝の目を真っ直ぐに見据え、力強く言った。

「我ら家臣は、もはや、武田家のためだけに戦っているのではありません! 頼朝様、あなた様のためにこそ、この命を懸けているのでございます! そして、いずれ、源桜様、あるいは、篠様のどちらかに、お子ができ、頼朝様の血筋が未来へと繋がったならば……我ら家臣団、そしてその子孫たちは、未来永劫、頼朝様のその血筋を、必ずや守り抜いてまいる所存にございます!」


「……それは、まことに、ありがたきことであるとは思うが……」

頼朝は、更なる戸惑いを隠せない。

「わしは、まだ、何も成してはおらぬ。そもそも、わしが、本当にこの時代の人間として、生きていて良いのかどうかすら、分からぬのだ。

秀長よ、聞けば、わしは元の時代で、藤原泰衡を滅ぼし、日ノ本の一統を成し遂げ、征夷大将軍にまで、なれたらしいな。…だが、正直に申せば、今のわしには、もはや、そのようなものへの執着は、どこにもないのだ。


鎌倉でのわしは、誰も信じておらなかった。己の保身のためには、実の弟である義経ですら、憎み、排除しようとした。だが……わしが憎んでいた、あの義経は、本当の義経ではなかったのだ。今、この時代で、わしの傍らにいる、この義経こそが、まこと、紛れもない、本当の義経であったのだ。

民のため、日ノ本のための一統……。それは、確かに尊い理想であったのかもしれぬ。しかし、その理想を追い求めるあまり、己の心は曇り、多くの罪なき家臣を、そして、かけがえのない弟すら、亡き者にしようとした。もし、それが、日ノ本一統というものの、真の姿なのであれば……わしは、もはや、そのようなものは望まぬ。

この時代へ来て、ようやく、そのように思うようになっておる。…我ながら、まことに不思議なことよ。

……トモミクが、義経を、あの時、助けてくれたことは、わしにとって、どれほどありがたきことであったか……」


「……いや」

頼朝は、ふっと我に返った。

「すまぬ、秀長。少し、言葉が過ぎたようだ。今の話は、戯言であったと、聞き流してくれ」


「いいえ、頼朝様」

秀長は、穏やかに、しかし、確信に満ちた声で言った。

「我らが、この命を捧げると誓ったのは、まさに、そのようなお心をお持ちの、頼朝様、あなた様にございます。今、頼朝様の、その偽らざるお言葉をお聞かせいただき、この秀長、かえって、恐悦至極に存じまする」


「…しかし、秀長よ」

頼朝は、現実へと立ち返る。

「日ノ本の一統よりも、目の前の、今の武田を守ることの方が、あるいは、はるかに至難の業かもしれぬぞ。そして、あの恐ろしき織田の手から、我らが、このささやかな領土を守り抜くことすら、まことに、難しきことよ」


「はっ。それがしも、全く同感にございます」

秀長も頷いた。

「まずは、伊勢と南信濃、この二方面の守りを固めること。そして、その上で、我が軍団が、この先、進むべき道を、改めて、皆で考えていかねばなりませぬな」


* * *


天文十二年(1583年)九月に入った。

南信濃では、頼朝軍の東美濃衆、犬江親兵衛隊と池田輝政隊が、ついに徳川軍の渡辺守綱隊を撃破、これを潰走させた。一方、武田軍の仁科信盛隊も、徳川軍の猛将・本多忠勝隊と激しく交戦、辛うじてこれを退けることには成功したようであった。


しかし、本多忠勝隊を退けたとはいえ、仁科信盛隊にも、もはや徳川軍と互角に戦えるだけの力は残されておらず、後退を余儀なくされた。

その結果、飯田城へ向け、なおも進軍を続ける徳川軍本隊(酒井忠次隊、水野勝成隊)を、直接迎撃できる武田軍の部隊は、もはや存在しなかった。


幸いにも、頼朝軍の東美濃衆は、先の渡辺守綱隊との戦闘での被害は比較的少なく、すぐさま飯田城へ向かう徳川軍本隊への追撃を開始した。

武田軍の秋山信友隊は、この隙に、どうにか無事に飯田城へと退却することができた。だが、彼らが城門を閉ざすのとほぼ同時に、追撃してきた徳川軍・酒井忠次隊が飯田城へと殺到。城を守るべき守備兵は、その猛攻の前に、あっけなく壊滅してしまった。飯田城は、再び風前の灯火となる。


その時、前線で戦う池田輝政隊のもとへ、武田家からの増援到来を告げる伝令が駆け込んできた。

「申し上げます! 武田軍、馬場信春(ばばのぶはる)隊が、こちらへ向かっております!」


「なに、馬場信春殿が!? それは何より! して、その兵数は、いかほどか!」

池田輝政は、期待を込めて尋ねた。


「はっ……。およそ、千五百騎あまりかと……」


「な、何だと!? たかが千五百だと!? それでは、何の足しにもならぬではないか! これが、今の武田軍の実力というわけか!」

池田輝政も、武田軍の現状を目の当たりにし、ただただ驚き、そして落胆するばかりであった。

「…ええい! 後続の犬江親兵衛隊に伝えよ! もはや、武田の援軍など当てにはできぬ! 我らのみで、前方の徳川軍本隊を蹴散らすぞ、とな!」

「はっ! かしこまりました!」


甲斐の本国で、武田勝頼の居城・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に攻め寄せてきた徳川軍に対しては、武田軍が自力で、何とかこれを撃退することに成功したようであった。だが、その代償は大きく、今の武田軍には、もはや、この南信濃へ、まともな援軍を差し向けるだけの余力は、皆無だったのである。


* * *


一方、伊勢方面。

赤井輝子隊を先頭に、トモミク隊がその後方を援護射撃しながら、敗走する織田軍を、執拗に追撃していた。


「もうすぐ、九月の収穫の季節じゃな! これで、もう兵糧の心配はない! 者ども、思う存分、あの逃げ惑う織田の奴らを蹴散らしてやれ!」

輝子の檄に応え、赤井隊の将兵たちは、もはや自軍の犠牲すら顧みないかのように、さらに進軍速度を速めていく。


追撃される織田軍も、必死であった。何としても、安濃津(あのつ)城までは、頼朝軍を近寄らせまいと、殿(しんがり)部隊が次々と反転し、追撃してくる頼朝軍に、捨て身の波状攻撃を仕掛けてくる。

常に先陣を切る赤井輝子隊は、それらの抵抗をことごとく蹴散らしてはいるものの、当然、織田軍からの反撃も真正面から受けるため、その被害も、決して少なくはなかった。


後方から、その様子を見ていたトモミクは、ついに赤井輝子隊へ伝令を走らせた。

「輝子様! どうか、一旦、後退してください! これ以上は危険です! こちらの隊は、まだ、ほぼ無傷なのですから! 先陣は、このわたくしの隊が代わります!」


だが、輝子は、その伝令を一喝した。

「何を甘っちょろいこと言ってるんだい、空から来た姫! 目の前の、あの逃げ腰の織田軍なんぞ、このあたしの隊だけで、十分すぎるわ! もし、あたしたちの隊に、万が一のことがあった時には、あんたたちは、あたしたちの屍を乗り越えて、前へ進むんだよ! いいね!」

輝子は、振り返り、トモミクのいるであろう後方へ向かって叫んだ。

「あの織田軍に、思い知らせてやるのさ! この伊勢の地に、一歩でも近づいたら、この赤井輝子が、決して承知しないってことをね!」

赤井輝子隊は、トモミクからの伝令など、まるで意に介さぬかのように、織田軍からの攻撃を、その身に受けながらも、一切、進軍の速度を緩めようとはしなかった。


その様子を目にしていたトモミクは、呆れとも、感嘆ともつかぬ、複雑な表情を浮かべた。

「…もうっ! 輝子様の、あの猪突猛進ぶりにも、本当に困りましたね!」

トモミクは、副将の犬山道節に命じた。

「ですが、仕方ありません! あのままでは、輝子様が危ない! 道節様! 遠間からでも構いません! 敵の織田軍が、射程に入り次第、どんどん撃ってください! 輝子様に、このトモミク隊だって、やれるんだってところを、見せてあげましょう! 早く、あの邪魔な織田軍を打ち払って、輝子様を、無事に連れ帰りませんと!」


「ははっ! かしこまりました、トモミク様!」

副将・道節が応える。

「この道節、トモミク様のご命令とあらば、思う存分、敵を討ち払ってご覧にいれましょうぞ!」


トモミク隊の射撃は、苛烈を極めた。まるで、先陣を行く赤井隊を追い越さんばかりの勢いで前進し、敵の攻撃射程内へと、自ら飛び込みながらも、保有する鉄砲の数に物を言わせ、前面の織田軍を、次々となぎ倒しながら進んでいく。

その中で、トモミク自身も、これまでの冷静さをかなぐり捨てるかのように、声高に雄叫びを上げていた。

「私だって、やれるんですっ!!」


「ほお! あの空から来た姫も、なかなか、やるじゃないか! ずいぶんと、強いんだね!」

最前線で戦う輝子も、後方からのトモミク隊の猛烈な援護射撃に、舌を巻いた。

「よし! 我が隊も、負けてられないよ! 者ども! 我が隊が、弾切れで引き上げる、その時まで、撃てるだけ撃ちまくれ! 撃て! 撃て! 撃てぇっ!」

赤井隊の砲撃もまた、さらに苛烈さを極めた。


「いやはや……」

さらに後方から、その凄まじい戦闘を眺めていた渡辺綱は、苦笑しながら呟いた。

「あの、炎のような凄まじき女子(おなご)たち二人で、此度の織田軍は、もう壊滅しそうじゃな。久々に、わしも存分に暴れられるかと思うたが……どうやら、出番は少ないかもしれぬわい」

綱は、槍を握る手に力を込めた。

「だが……射撃隊が、弾を撃ち尽くし、鉄砲を補充する、その僅かな間だけは、我が騎馬隊の恐ろしさを、存分に思い知らせてやらねばなるまいな!」

後方の渡辺綱は、もはや、この戦の勝利を確信していた。


「しかし……」

綱は、自軍の兵糧のことを思った。

「そろそろ、我らが兵糧のことも、気にしておかねばなるまいな。収穫は近いとはいえ、敵の領内深くまで、ちと入り込み過ぎたやもしれぬ。敵地で、兵站線を維持するのは、極めて難しい。となれば、頼れるのは、各部隊が持ち込んだ、手持ちの兵糧のみ。もし、腰兵糧が心許なくなれば……あの、炎の如き女将(おんなしょう)たちを、どうにか無事に、連れ帰らねばならぬな……」


渡辺綱の懸念をよそに、赤井・トモミク両隊の猛攻は止まらなかった。迎撃に出てきた織田軍の部隊は、ことごとく撃ち倒され、ついに頼朝軍は、安濃津(あのつ)城下へと迫った。

安濃津城を守備していた織田軍部隊も、城外での友軍の壊滅を知り、戦意を喪失。頼朝軍が城へと殺到すると、ほとんど抵抗らしい抵抗も見せず、潰走した。


だが、その時。安濃津城の西方より、新たな織田軍の一団が、こちらへ向けて進軍中である、との情報が、斥候よりもたらされた。旗印は、桔梗紋――明智光秀の部隊であった。


赤井輝子の部隊は、ここまでの連戦で、既に出陣時の兵力の半分ほどにまで減少していた。だが、彼女の、そして部隊の士気は、依然として極めて高い。

「…ふん! 望むところじゃないか!」

輝子は、吐き捨てるように言った。

「あの明智ってのも、よっぽど、あたしたちと遊び足りなかった、と見えるね!」

輝子は、すぐさま安濃津城にて、明智光秀隊を迎撃する態勢を取ろうとした。


だが、その輝子の前に、後方から追いついてきた渡辺綱の騎馬隊が、敢然と立ちはだかった。

「赤井殿! もはや、そこまで! 引き際でござる!」

綱が、馬上から、厳しく言い放つ。

「これ以上の深追いは無用! そして、これ以上の犠牲も無用じゃ! 我らが腰兵糧も、もはや、ここから退却する分しか、残されてはおらぬ!」


「…そこをどきなよ、渡辺殿!」

輝子は、綱を睨みつけた。

「此度こそ、あの織田を、完膚なきまでに叩きのめしておかねば、奴らは、またすぐに、懲りずに攻めてくるんだよ!」


「ふん! 安心せい、赤井殿!」

綱は、動じない。

「奴らは、必ずや、また直ぐに、今日以上の大軍で、攻め寄せてくるであろうよ! その時こそ、存分に戦えば良いではないか! …もし、それでも、なお、貴殿が、これ以上戦いたいと申されるのであれば……まずは、この渡辺綱を、倒してからにしていただこうか!」

地響きのような、渡辺綱の、有無を言わさぬ声であった。


「……」

輝子は、しばし綱を睨みつけていたが、やがて、ふっと息を吐き、隣の鶴姫に笑いかけた。

「…鶴姫。どうやら、我が軍にも、なかなか気骨のある漢(おとこ)もいるものじゃないか」

「はい。さすがは、頼光様の四天王のお一人にございますね。…輝子様、ここは、退いてもよろしいかと存じます」

鶴姫も、静かに頷いた。


「…鶴姫も、そう思うかい。あはは! しかたないね!」

輝子は、悪戯っぽく笑うと、綱に向き直った。

「であれば、綱殿に免じて、今回は、引き上げてやるとするか!」

赤井輝子と大祝鶴は、顔を見合わせて、楽しそうに笑った。


「綱殿! そなたに免じて、引き上げてやるよ! 明智光秀! 命拾いしたな!」

輝子は、そう言い放つと、全軍に号令を下した。

「者ども! 全軍、これより、清州城へ帰還する!」

赤井輝子の張りのある声が、伊勢の空に響き渡った。


こうして、織田領深くまで攻め込んだ、頼朝軍の伊勢方面部隊は、明智光秀隊が安濃津城に到着する前に、その地からの撤退を開始した。


* * *


頼朝軍の伊勢方面部隊が、撤退を開始した、ちょうどその頃。

遠く南信濃の地では、武田家からの寡兵な援軍・馬場信春隊と、頼朝軍の東美濃衆(池田隊、犬村隊、犬江隊)とが、徳川軍を挟撃していた。

しかし、間もなく、寡兵であった馬場隊は、徳川軍の猛攻の前に壊滅。戦いは、再び、頼朝軍と徳川軍との直接対決となっていた。


「お初にお目にかかる! 拙者、頼朝軍が一人、犬江親兵衛と申す! いざ尋常に勝負! 噂に聞く、徳川四天王の力とやら、とくと見せていただこう!」

犬江親兵衛が、名乗りを上げて突撃する。


武田軍をほぼ一掃し、勝利を目前にしていた徳川軍であったが、後方から現れた、この頼朝軍の部隊を突破しない限り、もはや安全に退却することもできない。

「ええい、生意気な! そのような小童(こわっぱ)の名など、聞いたこともないわ! 正々堂々、お相手いたす! 戦(いくさ)の何たるか、その身に教えてくれようぞ!」

徳川四天王の一人・酒井忠次、そして猛将・水野勝成も、果敢に応戦する。だが、ここまで大きな損害もなく進軍してきた、池田輝政隊と犬江親兵衛隊の勢いは、凄まじかった。

力みなぎる両隊の突撃の前に、連戦で疲弊していた酒井隊、水野隊は、ついに成す術なく壊滅した。


* * *


池田隊、犬江隊は、勝利の後、飯田城へと入城し、帰路のための兵糧補給を行った。

城では、城主・秋山信友、そして、援軍として駆けつけながらも壊滅してしまった、武田家の老将・馬場信春が、彼らを丁重に出迎えた。

特に秋山信友は、先の籠城戦で負ったのであろう、おびただしい矢傷や刀傷を、その身に刻んだままの姿であった。


「幾たびも、貴殿らのお力添えを賜り……まことに、面目次第もござらぬ……!」

秋山信友が、深く頭を下げる。


「秋山殿! まずは、ご無事で、何よりにございます!」

池田輝政が応えた。

「我らは、織田、徳川と戦う、武田殿とは、固い絆で結ばれた友軍にございます。今後も、何かあれば、この東美濃から、すぐにでも駆けつけまするぞ」


「…心強きお言葉……重ねて、御礼申し上げる……」

歴戦の勇将として名を馳せた、秋山信友と馬場信春が、まだ東美濃の一城代に過ぎぬ、名も知られていない若輩の池田輝政、犬江親兵衛に対し、こうして深々と頭を下げている。その光景は、時代の移り変わりと、武田家の現状を、残酷なまでに示していた。


補給を終えた池田隊と犬江隊は、飯田城を後にし、東美濃への帰路についた。

道中、池田輝政が、隣を馬で並走する犬江親兵衛に、しみじみと語りかけた。

「…親兵衛殿。先の、秋山信友殿、そして馬場信春殿といえば、わしがまだ、ほんの幼き頃から、その名を天下に轟かせていた、あの『最強武田軍』が誇る、猛将中の猛将であったのだぞ。

かつては、武田軍の名を聞けば、周辺諸国は震え上がったものよ。父・信玄公ご存命中は、あの徳川軍ですら、物の数ではなかった。わしの父が、信長様に仕えていた頃も、あの信長様でさえ、武田信玄という存在を、心の底から恐れ慄いておられた、と聞く。

それが……今の、あの秋山殿や馬場殿の、お姿……。幾たびも、我らのような、成り上がりの若輩に、頭を下げねばならぬとは……。さぞかし、お辛いご心中であろうと、お察し申し上げる……」


「ほう! 秋山様、馬場様とは、そのような、ご立派な御仁たちでございましたか!」

犬江親兵衛は、感心したように言った。

「しかし、徳川も、結局は、我らの手にかかれば、大したことはございませんでしたな! はっはっは!」


「…親兵衛殿」

池田輝政は、呆れたように、しかし、どこか諭すように言った。

「そなたが、そのようなことを申しておるから、我らは、いつまでたっても、こんな辺鄙な東美濃の山奥に、押し込められておるのだ。よいか、主力部隊は皆、西の織田に備えておる。このままであれば、我らは修正後備えである。

それに、徳川を侮るでない。気づいておったか、我らが酒井隊、水野隊と戦っておる間、その後方には、常に、徳川家康本人が率いる、大軍が控えておったのだぞ」


「なんと! まことでございますか! この親兵衛、全く気がついておりませんでした!」

犬江親兵衛は、心底、驚いた様子だ。


「もし、あの時、徳川家康が、本気で我らの背後から攻めかかってきておれば、我らなど、まさに一捻り、一巻の終わりであったわ」

「…そんなことが……!」

「はっはっは! まだまだ、修行が足りぬな、親兵衛殿! …もっとも、家康が動けば、那加城の頼朝様が、黙ってはおられぬであろうから、それを恐れて、家康も、結局は軍を進めなかったのであろうがな。もし、頼朝様の援軍が到着する前に、我らを串刺しにするつもりであったならば、赤子の手をひねるよりも、簡単なことであったろうよ」


「いやはや……。この犬江親兵衛、池田様のご慧眼、まことに恐れ入り申し候……」

犬江親兵衛は、改めて、池田輝政という男の、冷静な状況分析能力と、その器の大きさに、感服していた。


天文十二年(1583年)十月。

伊勢方面の織田信長軍、そして南信濃方面の徳川家康軍を、それぞれ完全に追い払い、頼朝軍の各部隊は、ようやくそれぞれの居城へと、凱旋していった。


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