第十一話:民の悲しみ

大垣城攻略は、多くの犠牲を伴う、あまりにも過酷な戦いであった。

あの激戦で、一体どれほどの兵(つわもの)たちが、異郷の土と化したのであろうか。

一つ指揮を誤れば、名将・太田道灌、さらには坂田金時、柳生兵庫といった、かけがえのない将までをも失いかねなかった。

大垣城という戦略的要衝を手にすることはできた。だが、那加城への帰還の途についた頼朝の足取りは、勝利の喜びよりも、失ったものの重さに、鉛のように沈んでいた。


* * *


城門で頼朝を出迎えたのは、弟の義経、その妻である武田梓、そして頼朝自身の妻となったばかりの羽柴篠であった。

「兄上! ご無事にて……! よくぞ、よくぞお戻りくださいました!」

義経が、感極まった様子で駆け寄ってくる。


「……義経。この様な、あまりにも多くの血を流す戦、二度と繰り返したくはないものじゃ」

頼朝は、馬上から力なく応えた。

「もし、そなたの軍略が、あの場にあれば……このような無様なことには、ならなかったのかもしれぬな」


「兄上、何を仰せられます」

義経は、静かに首を振った。

「守るも、そして攻めるも、戦とは、常に容易からぬもの。大垣城は、まさに『今』でなくては、落とすことは難しかったはず。そして、あの大垣城なくしては、この先、我らは更に苦しい戦いを強いられていたことでしょう。全ては、兄上のご決断、ご采配あってこその勝利にございまするよ」

義経は、疲れ切った兄を気遣うように、言葉を続けた。

「それよりも兄上、今はどうか、お休みくださいませ。万一、何か異変があれば、この義経が必ずやお守りいたしますゆえ。今晩は、どうぞ、お心安らかにお過ごしください」


「……それは、頼もしい限りじゃ」

頼朝は、弟の顔を見つめた。この時代で、この近くにいる弟・義経こそ、今、最も信の置ける武人であるのかもしれない。

(だが……)

頼朝の脳裏に、かつての苦い記憶が蘇る。

(どんなに固い絆であっても、ほんの小さな綻びが、やがては取り返しのつかぬ、大きな争いへと繋がることもあるのだ……)

鎌倉での、あの悪夢のような兄弟の対立を、決して繰り返してはならない。頼朝は、心に強く誓った。


* * *


翌日、頼朝は那加城内の主だった家臣団を集め、評定を開いた。

頼朝隊からは、羽柴秀長、里見伏。

義経隊からは、義経、武田梓、出雲阿国。

そして、頼朝の妻、羽柴篠も、末席ながら同席を許されていた。

頼朝隊のもう一人の副将である櫛橋光は、内政にも明るいことを見込まれ、先の任命通り、城代となった赤井輝子を補佐すべく、急遽、清州城へと派遣されていた。


秀長は、此度の戦で頼朝本陣に肉薄してきた織田軍に対し、自ら刀を振るって奮戦した際に、肩に矢傷を負っていた。痛々しい姿である。

しかし、最も矢面に立って頼朝を守護していたはずの里見伏には、不思議なことに、傷一つ見当たらなかった。


「おのおの方、此度の戦、まことに大義であった」

頼朝は、集まった者たちの顔を見渡し、静かに語り始めた。

「多くの犠牲を払い、我らはついに大垣城を落とした。からには、この城が、西からの脅威に対する、我らが軍団の強き盾となれるよう、力を尽くさねばならぬ。そうでなくては、この戦で散っていった、多くの将兵たちに申し訳が立たぬ。

まずは、部隊や家臣の再配置、捕虜の扱い、そして、大垣城、清州城下の復興と整備。急ぎ、取り掛からねばならぬことが山積しておる」


「はっ! この秀長、直ちに草案を準備いたしまする!」

秀長が、傷の痛みも忘れたかのように応じる。


「いや、秀長。そなたは、まずは傷の養生に専念せよ。…義経、阿国殿、申し訳ないが、秀長に力を貸してやってはくれまいか」

「ははっ! このような怪我、何ほどのこともございませぬ!」

秀長は強がるが、その顔色はまだ優れない。


「秀長殿、兄上。仰せの通り、いつも秀長殿ばかりにご負担をおかけしております。此度は、この義経、そして阿国殿も、共に今後の策を考えましょうぞ」

「義経殿、阿国殿、かたじけない。よろしく頼む」

秀長は、安堵したように頷いた。


だが、頼朝の表情は、まだ晴れなかった。戦場から戻ったばかりの彼は、まだ素直に戦勝を祝うような心境には、到底なれずにいた。

「……大垣城を落とすのは、今をおいて他に無し、と考え、無理に兵を進めた。だが、その結果、あまりにも多くの、かけがえのない将兵たちの命が失われることとなった……。城下の民たちも、戦勝の喜びに沸くどころか、むしろ、戦で家族を亡くした悲しみに、今も暮れておるに違いない。民のための戦いが、かえって民を深く悲しませる……いつの世も、なんと難しきことか。…しかし、それでも、此度の大きな犠牲は、やはり、このわしの、采配の誤り、落ち度であったのかもしれぬ……」


「頼朝様!」

秀長が、傷を押さえながらも、頼朝の前に平伏した。

「決して、頼朝様の落ち度などではございません! 責められるべきは、参謀でありながら、敵の策を見抜けず、有効な手を打てなかった、この秀長にございます!」


その秀長に対し、義経が静かに語りかけた。

「秀長殿も、よくお分かりのはず。織田信長という敵は、それほどまでに、一筋縄ではいかぬ、難しき相手なのです。わしも、もしあの場に参戦できていれば、とは思いますが、この那加城には、それを可能とするだけの兵力は、残されておりませんでした。多くの犠牲が出たことは、誠に痛ましい。ですが、あの状況下では、ただひたすら、前に進むしか道はなかったのだと、わたくしは存じまする」

秀長を庇う、義経の言葉はありがたかった。だが、頼朝自身が、あの絶望的な戦場で、義経の軍略、その存在を、どれほど渇望したことか。


「……わしは、此度の戦で散っていった将兵たちのために、供養を行いたいと思う。何か、良き案はないものか」

頼朝が問いかけると、平伏したままの秀長に代わり、それまで黙って話を聞いていた羽柴篠が、おずおずと、しかしはっきりとした口調で提案した。


「あの……頼朝様。亡くなられた兵の方々のご供養ですが、この近くの聖徳寺(しょうとくじ)にて、城下の民たちも参列できるような、大きな法要を営まれてはいかがでしょうか。聖徳寺は、父も、そしてわたくしも、以前より懇意にさせていただいております。また、私たちの親族ともなった、本願寺顕如様と同じ、浄土真宗のお寺でもございます。頼光様に嫁がれた、本願寺の悠様を通じて、お話を通していただければ、きっと、快くお引き受けくださるかと存じます」


「ほう、聖徳寺か……。それは、良い考えじゃ」

頼朝は頷いた。

「よし、聖徳寺にて、盛大に供養を行い、鎮魂の儀を執り行おう。篠、早速、本願寺の悠殿と話を進めてはもらえぬか」

「はい! かしこまりました!」

篠は、嬉しそうに、力強く返事をした。


* * *


数日後、軍団の主だった者たちを集めた、正式な評定が、稲葉山城(岐阜城)で開かれた。大垣城は、まだ戦の爪痕が生々しく残っており、万が一にも、織田軍が再び大垣城を襲ってきた場合に備え、頼朝は、動かせる兵力を率いて、岐阜城まで赴いていたのである。


「おのおの方、此度の大垣城攻略、まことに大義であった!」

頼朝は、上座から居並ぶ家臣たちを見渡し、改めて労いの言葉をかけた。

「北条早雲殿の慧眼、そして太田道灌殿、トモミク殿の獅子奮迅の働き。そなたたちの力がなくば、あの大垣城を、我らが手にすることは、決して叶わなかったであろう」


「め、滅相もございません!」

太田道灌が、感極まったように声を上げた。

「むしろ、拙者の浅慮、猪突が招いた失態! 多くの兵を死なせ、あまつさえ殿ご自身をも危険に晒(さら)してしまいました! この太田道灌、一生の不覚にございます! 何とお詫びを申し上げてよいか……!」

道灌は、床に額を擦り付けんばかりに頭を下げた。


「道灌殿、何を申される」

頼朝は、道灌の肩に手を置いた。

「そなたが、傷を負いながらも、命懸けで敵陣に切り込んでくれたからこそ、我らは勝機を見出すことができたのだ。織田軍の巧妙な待ち伏せを、見抜けなかったのは、このわしの責でもある。世に名高き太田道灌殿の命を、危うく落としかねない失態を犯したわしこそ、罪深い」

「 殿からの、その温情溢れるお言葉、この道灌、一生忘れませぬ!」

道灌は、涙ながらに頭を下げた。


(トモミクは、この太田道灌を、いかにして説き伏せ、この時代へと連れてきたのであろうか……)

頼朝は思った。太田道灌は、卓越した軍事的才能だけでなく、優れた政治手腕、当時最先端の築城技術、そして和歌にも通じた文化人として、数えきれないほどの功績で、主家である扇谷(おおぎがやつ)上杉氏を支えてきた。それにも関わらず、最後は、あろうことか、その主君であった上杉定正(うえすぎさだまさ)によって、謀殺されたと伝え聞く。まさに、文武両道を絵に描いたような武人であった、と、この時代の者たちからも、しばしば耳にする。

東美濃攻略戦の際には、美濃に残り、義経をよく補佐し、本隊が帰還するまで、織田の猛攻から見事に領土を守り抜いた。義経と道灌、二人の天才的な軍略がかみ合ったからこそ、織田の更なる美濃への侵攻を許さなかったのだ。道灌が城代を務める犬山城の民たちも、彼の統治を称賛しており、隣接する大草城の発展にも、大きく貢献していると聞く。

頼朝の目から見ても、太田道灌は、紛れもなく、稀代の名将であった。


「トモミクも、よくぞ、あの窮地を救ってくれた」

頼朝は、隣に控えるトモミクにも声をかけた。

「しかし、そなたは、いつも戦場で無茶が過ぎるぞ。そなたにもし万一のことがあれば、この軍団は成り立たぬ。くれぐれも、無理は禁物じゃ」


「ありがとうございます、頼朝様」

トモミクは、いつもの淡々とした口調で答えた。

「でも、頼朝様のお命は、この軍団にとって、何よりも大切なのですから。頼朝様が危なくなられたら、わたくしが、必ずお救いいたします」

その笑顔は、やはり、どこか全てを見通しているかのようだった。


「それから!」

頼朝は、声を張り上げた。

「此度の勝利は、直接、槍働きをしてくれた者たちだけでなく、後方にて、大草城の発展に力を注いでくれた、飯坂猫殿をはじめとする、内政官たちの働きがあってこそでもある! 彼らに、十分な褒美を取らせたいと思う!

大草城の、あの目覚ましい発展なくしては、我らは、これほどの規模の軍事行動を起こすことすら、できなかったであろう。東美濃の平定も、清州城、大垣城の攻略どころか、あるいは、先の織田軍の猛攻を、ただ撃退する力すら、持てなかったかもしれぬのだ」


その言葉に、末席に控えていた飯坂猫が、ぱっと顔を輝かせた。

「まあ! 頼朝様、まことにありがたいお言葉! この猫はじめ、大草城の家臣一同、殿のお心遣いに、心より御礼申し上げまする!」

猫は、ぺこりと頭を下げた。

「あ、それと、この場をお借りして、ご報告がございます! 大草城下の整備が、このほど、全て完了いたしました! あとは、もっともっと沢山の民が、大草に移り住んでくれたら、街は、ますます、もーっと発展いたしますよ!」

「おお、それは誠に大義であった、猫殿!」

「頼朝様にも、ぜひぜひ、新しくなった城下町を見ていただきたいです! 大草の家臣一同、首を長ーくして、お待ち申し上げておりますからね!」

猫は、満面の笑みで言った。

「うむ、それは楽しみじゃな」

頼朝も、自然と笑みがこぼれた。


頼朝は、改めて、評定の間に集う、筆頭家臣団を見渡した。

「…右も左もわからぬ、この頼朝のもと、皆、よくぞ辛抱し、ここまで力を尽くしてくれた。まことに、恐れ入る」

「この短い間に、我らは幾度となく、強大な織田軍や徳川軍をはねのけ、東美濃を平定し、さらには清州城、大垣城までも、我らが手にすることができた。気が付けば、我らが領土も、周辺の大大名と、肩を並べられるまでに至ったのだ。

まこと、優れた家臣は、国の宝じゃ。わしは、これからも、皆を頼りにしておるぞ」


その言葉を聞きながら、義経は、隣に立つ兄の姿を、感慨深く見つめていた。鎌倉の頃の、猜疑心に満ち、常に孤独であった兄とは、まるで違う。今の兄は、家臣を信じ、その働きに心から感謝し、そして、その信頼に応えようと必死に努めている。

(武田信玄公は、『人は石垣、人は城』という言葉を残し、家臣との間に、強い結束力を築き上げたという……)

義経は、妻・梓から度々聞かされていた、武田信玄の逸話を思い出していた。

(今の兄上であれば、きっと、我ら家臣団も、信玄公の家臣団のように、さらに結束を深めることができるであろう。この義経自身もまた、今の兄上のためであれば、喜んで、この命を捧げることができる……)

(しかし……)

義経の心に、一抹の影が差す。

(兄上は、我ら家臣団の忠節が、本当はどこから来ているのか、ご存知ない。今の兄上が、この軍団にとって、『二人目の兄』であることを、知る由もないのだ……)


* * *


「それでは、引き続き、この秀長より、今後の家臣の皆様の配置について、申し上げます」

秀長が、改めて口を開き、新たな軍団の布陣について説明を始めた。


「まず、西方の守りについて。かねてよりお話があった通り、新たに攻略した大垣城には、早々に早雲殿を城代とし、頼光隊(第二突撃)、渡辺隊(第四突撃)の、二つの突撃隊を配属いたします。これにより、大垣城は、西からの脅威に対する、我が軍の最大の拠点となります」

「狙撃隊につきましては、引き続き、岐阜城にトモミク隊(第二狙撃)、そして清州城に赤井隊(第四狙撃)を配属。これら、大垣・岐阜・清州の三城、計五部隊をもって、西からの織田の侵攻を、完全に抑え込んでいただきたいと存じます」


「次に、東方の守りについて。那加城には、頼朝様(第一狙撃)、義経様(第三狙撃)の両狙撃隊。犬山城には、太田隊(第三突撃)、大内隊(第五突撃)、犬塚隊(第六突撃)の、三つの突撃隊が、引き続き駐屯いたします。これら、那加・犬山の二城、計五部隊をもって、東からの徳川の侵攻に備え、また、有事の際の、武田家への援軍派遣を、東美濃衆と連携して、担っていただきたいと存じます」


「さらに……」

秀長は続けた。

「岐阜城は、もともと兵力収容能力が高く、また、清州城も、今後の発展により、多くの民が集まり、結果として多くの兵を集めることが可能になると考えられます。つきましては、これら二城には、将来的に、新たな狙撃隊を配属することを視野に入れ、準備を進めます。家臣の中から、狙撃隊の指揮官として有望な者を選りすぐり、その育成・鍛錬を、出雲阿国殿にお願いしたいと考えております。それまでの間、もし必要が生じた際には、赤井隊の副将である大祝鶴(おおほうりつる)殿に、一時的に、一軍の指揮を執っていただくことも、考えておりまする」


「以上が、今後の基本的な配置となりますが、おのおの方、ご異存はございませぬか」

「「「ははっ!」」」

家臣一同が、頭を下げる。


「最後に……」

秀長は付け加えた。

「此度の戦で捕虜とした織田方の家臣についてですが、何名かは、我らに力を尽くしてくれる、との誓いを立ててくれました。これまで、東美濃の三城には、城代をお助けできるだけの、十分な家臣を配属できずにおりましたが、新たに我らに加わった者たちを、東美濃へ配属し、かの地の統治と国力の向上に、力を尽くしていただくことといたします」

「また、前田利家様には、当面の間、赤井殿を助け、清州城下の復興と発展にご尽力いただき、いずれは、一部隊を率いていただくことも考えております。…それでは、おのおの方、それぞれの持ち場にて、何卒、よろしくお願い申し上げまする」


秀長の報告が終わると、頼朝が、改めて一同に語りかけた。

「皆も知る通り、此度の戦では、あまりにも大きな犠牲が出た。多くの民が、今も深い悲しみに暮れておることだろう。ひとえに、この頼朝の不徳の致すところである。…せめてもの償いとして、この軍団を挙げて、聖徳寺にて、盛大に供養、鎮魂の儀を執り行いたいと思う。一門衆、譜代衆、新参衆には、万障繰り合わせの上、必ず参列をお願いしたい」


「おお! それは、まことに良きお考えと存ずる!」

誰よりも早く、北条早雲が、頼朝の考えに賛同の意を示した。他の者たちも、次々と頷く。


「それから……最後に、長島城のことであるが……」

頼朝は、早雲に視線を向けた。

「早雲殿の言う通り、あの地を抑える意義は大きい。だが、今の我が軍団に、もはや、長島城を攻略する力は残っておらぬ。…しかし、諦めたわけではない。時が来れば、必ずや、長島城をも我が傘下に入れる。そう考えておる。そのためにも、今は、力を蓄える時じゃ。おのおの方、それぞれの城へ戻り、民を慈しみ、国力を高め、次なる戦に備えよ!」

「「「ははっ!!」」」

頼朝の言葉に、諸将は力強く応えた。


* * *


評定が終わり、諸将が退出した後、頼朝は、トモミク、そして北条早雲と共に、岐阜城の天守閣へと登った。

眼下には、尾張、美濃の広大な平野が一望できる。


「…早雲殿」

頼朝は、西の方角を見つめながら言った。

「此度、早雲殿から、あの大垣城攻略の提案がなければ、おそらく、当分、あの城を落とすことは叶わなかったであろうな。あれほど損耗していたはずの織田軍を相手にしてすら、我らはあれほど難儀したのだ。もし、織田が十分に力を蓄えた後であったなら、もはや落とすことは不可能であったやもしれぬ。…こうして、高き所から見ると、大垣城が、西の守りにとっていかに大切な城か、まことに、一目瞭然じゃのう」

西に目を向ければ、関ヶ原を挟む山々の間から、遠く琵琶湖の湖面までが見える。今や、織田軍が西からまとまった部隊で美濃へ侵攻するためには、この狭い関ヶ原を通過するしかない。そして、その手前には、大垣城と、この岐阜城が、二つの巨大な門のように、大きく立ちはだかっているのが、よく分かった。


「はっはっは。頼朝様、拙者は、この景色を、毎日、飽きもせず眺めておりましたゆえな」

早雲は笑った。

「頼朝様は、東の徳川や、南信濃の武田家のことに、心を砕かれておりましたし、那加城からは、この稲葉山が邪魔となって、西の地勢は、よう見えてはおられなかったでしょう」

「うむ、まことに、その通りじゃな。目の前の戦に追われ、大局を見失うところであった。…改めて、感謝いたすぞ、早雲殿」


今度は、トモミクが、南西の方角を指差しながら、話を続けた。

「頼朝様、あちらをご覧遊ばせ。霞んで見えまするが、あれが、伊勢の長島城にございます。早雲様が仰せられたように、もし、あの長島城を抑えることができましたなら、織田軍が、この美濃・尾張より東へ進むことは、ほぼ不可能となりましょう」


「…確かに、そうじゃな」

頼朝は頷いた。

「大垣城と、そして長島城を抑え、西からの脅威を完全に取り除くことができれば、我らが将兵たちの命も、そして、同盟国である武田も、守ることができる。それが叶えば、何よりじゃ」

「はい!頼朝様!」

トモミクが、力強く応えた。

かつては、他国への侵攻に、どちらかといえば後ろ向きであったはずのトモミク。それが、清州城攻略を皮切りに、大垣城攻略にも積極的に力を尽くし、さらに、この長島城攻略の重要性までも、はっきりと口にするようになっている。彼女の中で、何かが変わりつつあるのだろうか。


トモミクは、次に東南の、徳川領の方角を指差した。

「伊勢の長島、そして近江の道を、我らが抑え、織田軍の侵入を完全に防ぐことができたなら……徳川家と織田家とは、完全に分断されます。そうなれば、頼朝様も、ようやく、少しは、この時代での暮らしを、お楽に過ごしていただけるのではないかと……トモミクは、そう考えております!」


(長島城を攻略し、織田と徳川を分断する……)

そうなれば、織田軍の脅威は、大きく減退するだろう。東の徳川も、織田との連携を断たれれば、単独で大きな動きは取れなくなる。その東には、今や頼朝軍と同盟を結んだ北条と、そして武田が控えているのだ。西からは頼朝軍、東からは北条軍、北からは武田軍が睨みを利かせていれば、徳川家康とて、容易には動けまい。

(もし、そこまで事が運べば……この軍団に課せられたという『目的』も、あるいは、叶うことになるのであろうか……)


頼朝は、今度は東の、東美濃の方角へと目を向けた。あの険しい山々の先に、武田の領国がある。自軍を大きな危機に晒しながらも、東美濃を制圧し、確保した、武田への援軍路。岐阜城のこの天守から改めて一望すると、かつて飯田城で秀長が必死に説いた、東美濃攻略の戦略的重要性が、今更ながらによく理解できた。

(まこと、優れた家臣たちの、的確な進言と、そして命懸けの働きがあったからこそ、ここまで来れたのだ……)


「…早雲殿、トモミク。重ね重ね、感謝申し上げる」

頼朝は、二人に深く頭を下げた。

「しかし、トモミクよ。…そろそろ、教えてはもらえぬものか。まだ、わしには分からぬのだ。なぜ、わしが、この時代におるのか。なぜ、貴殿は、わしを、この時代へ呼んだのか。そして……この軍団が、本当に目指すべき『目的』とは、武田を守ること、ただそれだけでは、あるまい?」


「……頼朝様。申し訳ございません。どうか、今しばらく、お待ちくださいませ」

トモミクは、困ったように微笑んだ。

「ですが、これだけは、お伝えできます。この軍団には、頼朝様、貴方様でなくては、ならなかったのです。それに……今、全ては、とても良い方向へ向かっております! いずれ、必ずや、全てのことをお分かりになる日が参ります。ですから、頼朝様……」


「……知らぬ方が良いこともある。それは、阿国殿から話を聞き、少しは理解したつもりだ」

頼朝は、ため息をついた。

「これだけ、命を懸けて尽くしてくれる家臣たちに対し、棟梁として、ただただ感謝するばかりで、その真の目的すら示せぬ、己の不甲斐なさよ……。しかし……」

頼朝は、顔を上げた。

「いや。いずれ、分かる日が来るというのであれば、今は、それで良しとしよう」


「頼朝殿」

それまで黙って聞いていた早雲が、頼朝の肩を叩いた。

「この早雲も、どこまでも、頼朝殿について参りますぞ。今の殿は、まことに、ご立派であられる。

実を申せば、わしも、かつては何度も、トモミク殿には食って掛かっておりましたわい。先日の、上杉との同盟の折にも、お恥ずかしいところをお見せしてしもうた」

早雲は、苦笑した。

「しかし、それ以上に難儀いたしましたのが、あの太田道灌殿との対面でござった。

「ほう、道灌殿と、早雲殿との間に、何か?」

「…わしは、かつて、道灌殿の仇(かたき)である扇谷上杉氏とも、戦ったことがござる。いや、それどころか、道灌殿のご子息とは、直接、戦場で干戈(かんか)を交え、わしが江戸城から追い出した、という因縁まである。…そのような話を、わしの口から、道灌殿に、どう切り出せと?

ただ、救いであったのは、わしの可愛い孫・氏康が、後に道灌殿の仇を坂東から追い払い、道灌殿のご子孫を、北条家の家臣として、大切に遇しておる、ということじゃ。まこと、氏康さまさまじゃよ。がはは!

…いやはや、何とも、このトモミク殿は、難しき縁(えにし)で、我らを巻き込んでくれることよ」

早雲は、再び頼朝に向き直った。

「頼朝殿。どうか、今のまま、貴方様の信じるままに、我らをお導きくだされ。わしにできることであれば、この老骨、何でもいたしますゆえ。トモミク殿は、まことに不思議な女子(おなご)ではございますが、彼女なりに、辛抱しながら、懸命に尽力しておりますぞ」


「…早雲殿が、そこまで申されるのであれば、心強い限りじゃ」

頼朝は頷いた。

「それにしても、道灌殿と早雲殿との間に、そのような深い因縁があったとは、露ほども存じ上げなんだ。

…トモミクよ。無理を申して、すまなんだ。今の問いは、戯言であったと、聞き流してくれ」


「いいえ、頼朝様」

トモミクは、静かに首を振った。

「頼朝様のためにこそ、このトモミクは、ここにおります。どうか、それだけは、お忘れなく」

やはり、多くを知ることはできなかった。だが、過去の、あるいは未来の人間の、その複雑な因縁を知り、それでも彼らを導かねばならぬトモミクという存在の、その立ち位置の難しさは、早雲の話からも、骨身にしみて感じることができた。


「ところで、頼朝殿」

早雲が、ふと思い出したように言った。

「先日、大垣城での戦の様子を、わしは、ここから桜殿と共に眺めておりました。頼朝殿が、苦戦を強いられておられた時、桜殿は、いてもたってもいられず、『自らが出陣する』と、わしに懇願なされましたぞ。正直、わしも、どうやってあの子を止めればよいか、困っておりましたが……折しも、トモミク隊が、見事に頼朝殿の救援に間に合われました。それで、ようやく桜殿を押し止めることができ、正直、助かりましたわい。

まこと、父思いの、良き娘御ではありませぬか、頼朝殿!」


「……そうでありましたか」

頼朝は、目頭が熱くなるのを感じた。

「…まことに、不憫な娘ではあるが……それでも、この時代で、あの子に会えたことは、わしにとって、幸いであった。そして、何よりも、早雲殿のような御方に、師事し、学んでおることが、桜にとっては、勿体なきほどの幸運。…心より、感謝申し上げる」


「がはは! これもまた、トモミク殿の、粋な計らい、ということでござろうよ」

早雲は、豪快に笑った。


「そうであったか……。諸々、感謝の言葉もない」

頼朝は、改めて、この不思議な軍団と、それを率いる者たちへの、深い感謝の念を抱いた。

「しかし……この岐阜城を、織田から奪い取るのも、さぞや、大変なことであったであろうな。こうして見ると、実に堅固な、良い城じゃ。敵の動きも、手に取るように見える」


「……此度の、大垣城の比ではございませんでした」

早雲は、ふっと表情を曇らせ、遠い目をした。

「まことに……大変な、犠牲が出ました……」

それ以上、早雲は何も語らなかった。岐阜城の攻略には、何か、特別な事情があったのかもしれない。


だが、頼朝は、今はそれを詮索すまい、と思った。

この老将・北条早雲、そして、謎多き女性・トモミク。この二人の存在は、間違いなく、この先の、困難な道を進むための、大きな支えとなるであろう。

そして、傍らには、絶対の信頼を置ける弟・義経がいる。太田道灌のような、稀代の名将もいる。その他、数えきれぬほどの、偉大なる者たちが、家臣として、己に忠節を尽くしてくれる。


先の戦で、己の心に生じた、大きな迷い。それは、まだ完全には消え去ってはいない。だが、頼朝は、改めて、この異世界で、この者たちと共に生きていく覚悟を、固めつつあった。

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