第七話:軍団の危機

南信濃、飯田城下。

先の戦いで徳川軍を撃退した頼朝軍は、息つく間もなく、美濃への帰還に向けた再出陣の準備を急いでいた。


西の織田本軍がいつ動き出すか。その一抹の不安を抱えながらも、頼朝軍は賭けに出ることを決断した。すなわち、帰路に立ちはだかる東美濃の織田方の城々――苗木、岩村、鳥峰――を制圧し、南信濃と美濃を繋ぐ街道を確保してから、本拠地へ帰還する、と。

急ぎ美濃へ戻りたいのは山々であったが、今後、弱体化した武田家へ必要に応じて援軍を送るためには、この街道の確保が絶対条件であった。どちらにせよ、これらの城は避けて通れぬ道である。


(往路において、迎撃に出てきた東美濃の織田勢は、ことごとく蹴散らした。城に残る兵も、もはや僅かであろう。大軍で包囲すれば、戦わずして降伏に応じるかもしれぬ……)

それは祈りにも似た期待であり、同時に、危険な賭けに臨む覚悟でもあった。


出陣を前に、軍議が開かれ、秀長から作戦計画が提示された。

「皆様ご認識の通り、此度の帰還行は、大きな危険を承知の上で、苗木城、岩村城、鳥峰城の三城を攻略しつつ、美濃を目指すものとなります。今、この三城を落とさねば、今後、武田家を守ることは、ますます困難となりましょう」

秀長は地図を広げ、各城の位置を示す。

「幸い、どの城に残る兵も、現状では少数と推測されます。我らが大軍をもって包囲すれば、早期に降伏するものと期待できます。


まず、苗木城につきましては、ここ飯田よりほぼ一本道であることも考慮し、全軍をもって包囲、降伏を促します。


しかし、苗木城開城の後、岩村城と鳥峰城に対しては、軍を二手に分け、それぞれの城を同時に攻囲いたします。


岩村城へは、先の戦で最も消耗の激しい頼光隊と、ほぼ無傷のトモミク隊。


鳥峰城へは、同じく消耗の激しい赤井隊と、ほぼ無傷の頼朝様、この組み合わせで、攻略にあたっていただきます。これが最も効率的かと愚考いたしますが、いかがでしょう」


「皆の者、秀長の案に異存はないか」

頼朝が問うと、一同は力強く頷いた。

「はっ!」


「よし。では、出陣の準備が整い次第、まずは全軍で苗木城へ向かう。ただし、苗木城攻略においては、ここまで損耗の少ない、わしの部隊とトモミク隊を先陣とする。先の戦で見事な働きを見せてくれた頼光隊と赤井隊は、後詰に徹し、その後の岩村城、鳥峰城攻略に備え、兵を温存せよ」

頼朝は、秀長の案を一部修正し、最終的な指示を下した。


* * *


各部隊が慌ただしく出陣の準備を進める中、頼朝は、飯田城の城壁の改修作業を静かに見つめるトモミクの姿に気が付いた。気のせいか、以前よりも笑顔が少なくなり、時折、ふっと表情が曇る瞬間があるように感じられる。

(未来を知る者には、未来を知る者なりの難しさがあるとは、思わぬか……)

先日、出雲阿国が語った言葉が、頼朝の脳裏をよぎる。


「トモミク」

頼朝は声をかけた。

「阿国殿は申しておった。我が軍団の使命は『守る』ことだ、と。しかし、此度の東美濃攻略は、織田を滅ぼすには遠く及ばぬとはいえ、我らから仕掛ける『攻め』の戦となる。…それは、良いのか」


トモミクは、ゆっくりと頼朝に向き直った。その表情は、やはりどこか翳りを帯びているように見える。

「……頼朝様。わたくしが知る『未来』は、あくまで、頼朝様がこの時代にいらっしゃらなかった場合の、可能性の一つに過ぎません。今は、頼朝様がおいでになり、我々は共に力を尽くしております。ですから……この先、本当はどうなるのか、わたくしにも、もう分からないのです」

彼女は言葉を続けた。

「ただし、『滅ぼしてはならない』という原則は変わりません。織田も、徳川も。そして……我ら自身も、滅んではなりません。頼朝様にも……生きていていただかなくては、ならないのです」


いつもながら、核心をはぐらかすような物言いだ。だが、「頼朝様にも生きていていただかなくては」という言葉を発した瞬間、トモミクの表情が、確かに曇ったように頼朝には見えた。

(この女もまた、何か重いものを背負っておるのか……)

しかし、少なくとも、トモミクはこの東美濃攻略に、異を唱えてはいない。今はそれで十分だ、と頼朝は思った。


「…そうか。ならば、早く美濃へ戻るとしよう。義経たちが、待っていよう」

「はい、頼朝様」

頼朝がそう言うと、トモミクは、いつもの、あの掴みどころのない笑顔に戻っていた。


* * *


八月の終わり、頼朝軍は飯田城を発ち、東美濃へと進軍を開始した。

九月に入る頃には、苗木城を完全に包囲。城兵は、頼朝軍の大軍勢を目の当たりにして戦意を喪失し、ほどなくして降伏、城を明け渡した。


軍議の決定通り、頼朝軍はここで二手に分かれた。トモミク隊と頼光隊が岩村城へ、頼朝隊と赤井隊が鳥峰城へと、それぞれ向かう。

だが、部隊が二手に分かれ、別々に行軍を開始して、間もなくのことだった。

西方より、緊急の伝令が駆け込んできた。

「申し上げます! 三万を超える織田の大軍が、犬山城を目指し、進軍中との由!」


「……やはり、来たか!」

頼朝は呻いた。織田軍の新たな軍事行動は警戒していたが、これほど早いとは。

先の戦いで、あれほど完膚なきまでに叩きのめしたはずだ。当分は大規模な軍事行動など起こせまい。そう高を括っていた、希望的観測があったことは否めない。

(敗戦から一年足らずで、これほどの大軍を再び動員できるとは……織田信長の国力、そして組織力、まこと底が知れぬわ)

斥候が報告した三万という兵力も、おそらくは先遣隊に過ぎず、後方からはさらに増援が続々と送られてくるに違いない。


「…秀長よ。やはり、そう簡単にはいかぬものだな」

「はっ……」

秀長も、苦渋の表情を浮かべている。

「頼朝様、こうなっては、もはや西の守りは、義経様と早雲殿、道灌殿に託すしかございません。我々は、ただひたすら、一刻も早く東美濃の二城を落とし、義経様たちと合流することを目指すのみにございます!」


(義経……早雲殿……道灌殿……頼むぞ……!)

頼朝は、西の空を睨んだ。彼らならば、きっと何とかしてくれるはずだ。そう信じたい。

だが、その思いとは裏腹に、甲冑の下を、じっとりと不快な汗が流れていくのを感じた。

(我ながら、らしくない……)

かつて、鎌倉幕府のため、己の信じる大義のためには、実の弟や、我が子に対してすら、冷酷な決断を下してきたはずだ。この軍団を率いる棟梁としての責務も、忘れたことは一度もない。

だが、今はどうだ。義経や、新たに妻となった篠の安否を気遣うだけでなく、つい先日、己の腕の中で嗚咽を繰り返していた娘・桜の姿が、どうしても頭から離れない。

軍を率いる将として、決して乱されてはならぬはずの、心の内の景色。頼朝は、今、それと必死に向き合っていた。


「……全軍に告ぐ! 一刻も早く、眼前の鳥峰城を攻め落とす! 遅れる兵は構うな! 捨ててでも前に進め!」

いつも以上に、部隊へ飛ばす檄に、力がこもっていた。


* * *


その頃、那加城の義経のもとへ、岐阜城の北条早雲から早馬が届いていた。

『近江方面からも、織田勢の進軍を確認。残念ながら、この岐阜城を離れるわけにはいかなくなった。犬山城方面への織田の攻撃、何とか義経殿にて凌いでいただきたい』


「拙者に、あの織田の大軍を止めよ、とはな。早雲殿にも、随分と頼りにされたものよ!」

義経は、書状を読み終えると、自嘲気味に笑った。

有事の際は、北条早雲と連携して事に当たれれば、これほど心強いことはなかった。だが、岐阜城もまた、西からの織田の侵攻を防ぐ最重要拠点。早雲隊が身動きを取れないというのも、想像に難くないことであった。


(前回の戦のように、こちらから打って出て敵を殲滅することは、もはや不可能……美濃に残る兵力が、あまりにも少なすぎる)

頼朝の本隊が戻られるまで、何としても、この義経隊と、犬山の太田道灌隊、この二部隊だけで、織田軍本隊の進撃を防ぎきらねばならない。


「全軍、ただちに小牧山の砦へ向かう! 犬山へ早馬を! 太田道灌殿に、至急、小牧山への出撃をお願いしてまいれ!」

義経が指示を飛ばした、その時。

羽柴秀長の娘であり、頼朝の妻となったばかりの少女、篠が、義経の前に進み出て、凛とした声で言った。

「義経様! わたくしも、どうか、お供させてくださいませ!」


「篠殿!? そなたまで、何を……! 兄上と、父君がお留守の間に、もしそなたの身に何かあれば、この義経、お二人に顔向けができませぬ! 拙者が必ずや敵を追い払いますゆえ、どうか、城にてお待ちいただきたい!」

義経は必死に止めようとした。


「いいえ!」

篠は、きっぱりと首を振る。

「今は、一人でも多くの兵が必要です! わずかでも、わたくしがお役に立てるのであれば……!」

まだ十二歳とはいえ、さすがは秀長の娘。状況の厳しさを、ある程度は理解しているのだろう。


「篠殿、そのお心意気、この義経、感服いたしました。しかし、それでも、ここはどうか、義経にお任せを……」

義経がなおも説得しようとした、その時。本来であれば頼朝隊の副将であるはずの、櫛橋光(くしはしみつ)が進み出た。

「義経様。わたくしが、別隊を率いて、篠様と共に出陣いたします。この光、何があっても、必ずや篠様をお守りしてみせます。そして、我が隊も、必ずや義経様のお役に立ってみせましょうぞ」


今回の南信濃への遠征に、副将であるはずの櫛橋光は、頼朝隊に同行していなかった。彼女は、部隊全体の防御力を高める特殊な用兵術に長けており、守勢に回らざるを得ない戦いにおいては、その能力が非常に重宝される。おそらく、秀長が、万一の事態に備え、あえて彼女を那加城に残していたのであろう。


「篠様の護衛には、武勇の誉れ高い亀田高綱(かめだたかつな)殿をお連れいたします。これで、ご安心いただけませぬか」


(複数の射撃部隊で挟撃するのと、一部隊で正面から敵を受け止めるのとでは、戦況は大きく異なる……)

義経は迷った。織田軍の襲来は予想以上であり、想定外の事態に陥る可能性も否定できない。そのような危険な戦場に、まだ幼い篠を連れて行くわけには……。


そこへ、義経の副将である出雲阿国も言葉を添えた。

「光殿が一軍を率いてくだされば、これほど心強いことはございません。しかも、亀田殿が護衛につかれるのであれば、篠様のご身も案ずるには及ばぬかと。我らの役目は、時間を稼ぐこと。そのためには、少しでも多くの兵力が、今、必要でございます。義経様、わたくしからも、お願い申し上げます」


「……むぅ。皆が、それほどまでに申すのであれば、致し方あるまい」

義経は、ついに頷いた。

「櫛橋殿、その働き、頼りにさせていただく。しかし、重ねて申す。何としても、篠殿をお守りくだされよ」

「はっ! この命に代えましても!」

光は力強く応えた。


「では、時を移さず! 我が隊と櫛橋隊は、これより小牧山へ向け、出陣する!」


櫛橋隊は、那加城に残っていた義経隊以外の兵士と、開発が進む大草城から急遽かき集めた兵士とを合わせ、なんとか総勢七千程度の部隊として編成された。しかし、その実態は、寄せ集めの即席部隊である。義経の不安は、拭えなかった。


* * *


犬山城から、太田道灌率いる第三突撃隊が、小牧山の砦へと急行する。だが、ほぼ時を同じくして、織田軍の先鋒・滝川一益隊もまた、猛然と小牧山へと迫っていた。

まさに間一髪。滝川隊が砦に突入する寸前に、太田隊が駆け込み、辛うじてこれを押し戻すことに成功した。

その直後、義経隊と櫛橋隊も砦に到着し、太田隊と合流した。


しかし、先ほどの戦闘で、砦の城門は大きく破壊されてしまっていた。

「梓。城門がこれほどまでに壊されていては、先の戦のように、敵が狭い門から突入してくるところを狙い撃ちにする、という戦法は、もはや取れぬな。もし、敵の主力が、兵力の劣る櫛橋隊に集中攻撃を仕掛けてきたら……篠殿のご身が危うい」

義経は、傍らの妻に懸念を打ち明けた。


「義経様。私も、この麓の砦で戦うのは得策ではないと存じます」

梓は冷静に答えた。

「ですが、ご覧ください。山頂にある物見櫓(ものみやぐら)の城門は、まだ健在です。いったん、あの櫓まで兵を引き、そこを拠点として敵を迎え撃つというのは、いかがでしょう」

「…なるほど。それしかあるまいな。梓の言う通りだ」

梓は、武田家伝来の軍略にも通じており、常に義経の参謀として的確な助言を与えてくれる。


「全軍に伝令! 山頂の櫓まで後退し、そこで敵を迎撃する! 急ぎ、陣形を整えよ!」

義経は、山頂の櫓を指差し、檄を飛ばした。


頼朝隊が東美濃で織田軍を圧倒したという報は、周辺地域にも伝わっていた。それに勇気づけられたのか、美濃太田の国人衆たちが、この不利な戦に、頼朝軍への援軍として駆けつけてくれた。数は少なくとも、貴重な戦力である。


「梓、見てみよ。眼下に迫る織田軍……福島正則の部隊も見えるが、その後詰の兵数が、先の戦とは比較にならぬほど増えておる」

櫓から下界を見下ろし、義経は呟いた。


「はい。織田の力も、日に日に増しているようです。この規模の軍勢に、繰り返し攻め寄せられれば、我らにとっても、相当に厳しい戦いとなるでしょう。……ですが、義経様と、ここにいる精鋭たちがいれば、大丈夫です。しばらくの間は、局地的に見れば、我らが数的優位を保てることは、間違いございませんから」

梓は、夫を励ますように、力強く言った。


「…心強いぞ、梓」

義経は頷いた。だが、梓もまた、理解しているはずだ。『しばらくは』、という言葉の、重い意味を。


* * *


福島正則隊が、前回の敗戦の屈辱を晴らすかのように、山頂の櫓の城門へと猛攻を仕掛けてきた。

義経軍も、美濃太田の国人衆の援軍を得て、鉄砲隊で必死に応戦する。だが、先の戦のように、鉄砲の数に物を言わせて敵を圧倒することはできない。ついに、福島隊によって櫓の城門は破壊され、敵兵の突入を許してしまう。


なだれ込んできた福島隊の兵士によって、奮戦していた美濃太田の国人衆が壊滅。いよいよ織田軍の刃が、義経軍本隊へと迫る。

「うろたえるな! 我が隊と櫛橋隊は、後先を考えず、撃ち尽くせ!」

義経は、隣にいるはずの篠の身を案じながらも、必死に檄を飛ばす。

「頃合いを見て、太田道灌隊は突撃を敢行! 櫓に侵入した敵兵を、斜面から突き落とせ!」

ここから、もはや後退できる場所はない。背後は、切り立った山の斜面なのだ。


* * *


その頃、東美濃を進む頼朝軍本隊は、必死の進撃を続けていた。

(義経……! 持ちこたえてくれ……!)

一刻も早く、眼前の東美濃の織田勢力を降伏させ、義経隊と合流したい。頼朝の焦りは、募るばかりであった。


トモミク隊と頼光隊は、岩村城まであと少しという地点で、再び立ちはだかった織田の前田利家隊と交戦していた。

「トモミク殿! 前田隊を蹴散らした後、岩村城など素通りし、このまま一気に義経隊の救援へと向かわずとも、よろしいのか!?」

源頼光が、不安げにトモミクに問いかける。


「頼光様。ここで岩村城を素通りしてしまえば、織田本隊が大規模な軍事行動を起こしているという情報が、岩村城、そして鳥峰城にも伝わりましょう。そうなれば、彼らは勢いづき、我々の背後から襲いかかってくるやもしれません」

トモミクは冷静に答えた。

「そうなれば、我が軍ほぼ全軍が、西の織田本隊と、東の岩村・鳥峰の軍勢とに挟撃される形となります。もし、そこに南から徳川軍まで再び現れれば……少々、面倒なことになりかねませぬ」

「今は、義経様、早雲様、道灌様を信じ、一刻も早く、この岩村城を落とすこと。それが、結果的に、義経様たちを助ける最も確実な道です。ここは、我が軍団にとって、まさに勝負所と言えましょう、頼光様!」


「……むぅ。そうであるか……委細承知! 目の前の敵を、少しでも早く蹴散らすことに専念しようぞ!」

頼光は、再び闘志を燃え上がらせた。最も消耗していたはずの頼光隊であったが、その勢いは全く衰えず、前田利家隊へと猛然と突撃を繰り返す。

「邪魔だ、利家! 我らが進む道を開けよ!」

頼光隊の鬼神の如き突撃の前に、前田利家隊は抗することができず、壊滅。利家自身も、頼朝軍の捕虜となった。


* * *


福島隊の猛攻を、辛うじて撃退した義経であったが、山頂の櫓の損傷は激しく、もはや拠点としての機能は失われつつあった。

義経は、副将の武田梓、出雲阿国、そして部隊長の太田道灌、櫛橋光を集め、急ぎ軍議を開く。

「皆、聞いてくれ。この櫓でこれ以上敵を迎え撃つのは困難だ。高台から敵の動きを見通せる利点はあるが、城門を失った今、ここは退路すら断たれた死地となりかねぬ。…これより全軍、山を下り、麓の街道沿いに新たな陣を敷き、敵を迎撃したいと考えている。皆の意見を聞かせてほしい」


それに対し、太田道灌が進み出た。

「義経様。街道での平地戦となれば、敵の大軍に対し、我らの寡兵ではあまりにも不利。ここは一時、小牧山を放棄し、犬山城まで退き、籠城されてはいかがでしょう。犬山城であれば、遥かに時間を稼げるかと存じます」


「…道灌殿の申される通り、犬山城に籠もれば、兄上が戻られるまで、落城することはないであろう」

義経は頷いた。

「しかし、もし我らがこの小牧山から兵を引けば、それは同時に、大草城への道を、敵に開け渡すことにもなる。今、あの大草城を奪われてしまえば、我が軍は、その経済基盤の大部分を失うことになってしまうのだ。小国である我らが、これだけの兵力を維持できているのは、ひとえに大草の経済力のおかげ。…であるならば、この小牧山は、我らにとって最後の砦。何としても死守し、織田軍のこれ以上の侵入を、断固として防がねばならぬ!」


「はっ!…畏れ入りました! 義経様のお覚悟、しかと拝見いたしました。この太田道灌、頼朝軍の盾となり、力の限り戦い抜く所存!」

道灌は、義経の決意に深く感銘を受けた様子で、力強く応えた。


「道灌殿、感謝申し上げる。…よし、決まった! 各隊、急ぎこの櫓を放棄し、麓の街道沿いに布陣せよ! 支度を急げ!」


街道での迎撃。それは、義経にとって、できれば避けたい、苦渋の選択肢であった。


太田道灌と櫛橋光が、それぞれの部隊へと戻った後、義経は、傍らに残った武田梓と出雲阿国に、秘めていた不安を漏らした。

「…先の戦の最後も、この街道沿いに釘付けにされ、苦戦を強いられた。此度は、あの時よりも更に少ない戦力で、後詰もない。逆に、織田軍の戦力は、明らかに増強されておる。…楽な戦にならぬとは覚悟していたが、正面から敵の大軍を受け止めるというのは、もはや軍略も策略もあったものではないな……それでも、兄上が戻られるまで、我らはここを死守せねばならぬ」

軍略の天才と謳われた義経であったが、圧倒的な物量で迫りくる織田軍に対し、果たしてどこまで持ちこたえられるのか、彼自身にも、確かな見通しは立っていなかった。


「義経様は、ここまで、常に最善の選択をなされてまいりました。自信をお持ちくださいませ」

「はい、わたくしも、そう思います。義経様のお側には、わたくしたちもおりますゆえ」

武田梓も、出雲阿国も、このような状況にあっても、変わらぬ平静さと、柔らかな笑顔を崩さない。


「…梓。そなたの父・勝頼殿は、かの信玄公より、直々に軍略を授けられたと聞く。信玄公は、この戦国の世において、最も軍略に長けた御仁であったとか。…もし、信玄公であったなら、このような時、どうされたであろうな」

義経は、ふと問いかけた。


すると、阿国が静かに口を開いた。

「武田信玄公も、宿敵であった上杉謙信公と度々刃を交えられましたが、時には策略が裏目に出て、軍が壊滅の危機に瀕されたこともあった、と伺っております。そのような時は、もはや軍略も策もなく、ただひたすら、味方の援軍の到着を待つしかなかった、と。


まさにそのような、圧倒的に不利な状況の中で、目前に迫る謙信公の猛攻から信玄公を守るため、実の弟君である信繁(のぶしげ)様が、その身を盾とし、命を落とされたのだとか。


いかに軍略に優れた信玄公であっても、全てが思い通りにいくわけではなく、ただ耐え忍ぶことを余儀なくされることも、あったのでございます」


義経は、苦笑を浮かべた。

「…弟君が、兄である信玄公を守るために、命を落とした、と申すか」

「はい。信玄公のお嘆きは、それはそれは、大変なものであったとお聞きしております。しかし、その弟君・信繁様の、文字通り命を賭した働きがあったからこそ、今日の武田家があるのだと、伝えられております」


「そうであったか……。わしも、兄上のためであれば、この命など、決して惜しくはないがのう」

「いいえ」

阿国は、きっぱりと言った。

「この阿国がいる限り、義経様がお命を落とされるようなことは、決してございませぬ。ですから、どうぞ、存分にお働きくださいませ」

この出雲阿国という女性は、どこまでも懐が深く、捉えどころがない。だが、その静かな言葉には、不思議な説得力と、安心感を与える力があった。


「…阿国殿、そして梓。そなたたちが傍にいてくれるならば、わしは、たとえ鬼となりても、兄上をお守りできるであろう」

義経は、決意を新たに、街道へと続く道を見据えた。

義経隊は、太田道灌隊、櫛橋光隊に先んじて、街道へと布陣した。


* * *


織田軍の猛将の一人、稲葉一鉄(いなばいってつ)隊が、山を下りてきた義経の一団に、猛然と攻撃を仕掛けてきた、まさにその時であった。

斥候が、再び血相を変えて駆け込んできた。

「火急! 滝川一益隊、犬山城方面へ向け、急速に進軍中! このままでは、犬山方面から、我が軍の背後に回り込まれる恐れがございます!」


「なに!? いつ滝川勢が、我らが領内深くに侵入したのだ! 滝川隊は、先ほど、道灌殿が追い払ったのではなかったのか!」

義経は愕然とした。


「はっ! 太田隊と接触した後、敵は急速に北へ転進! 黒田方面から大きく迂回し、我が軍の背後を突く動きを見せておりまする!」

「…兵は、いかほどじゃ」

「少なくとも五千! おそらく、先の戦闘での損害は、ほとんど無いものと!」

「…滝川隊、ほぼ無傷であったか! しかも、何という行軍の速さよ!」


義経は、隣に控える妻・梓に、まるで自らの考えを整理するかのように、低い声で話しかけた。

「…梓よ。どうやら、本当の戦いは、これから、ということらしいな。目前の稲葉一鉄、そして背後から迫る滝川一益。この二隊に挟撃されたならば……さすがの我らも、苦しい戦となるぞ」

「はい……」

梓も、厳しい表情で頷く。

「ですが、義経様。我らが今、為すべきことは、ただ一つ。決まっております。…覚悟を決めて、踏ん張りましょうぞ」


「…そうであったな」

義経は、梓の言葉に、迷いを振り払った。

「我らは、兄上が到着されるまで、ここを一歩も動かぬ。勝負だな、梓」

「はい! この梓も、力の限り、働きまする!」


義経は、意を決したように、各部隊に新たな指示を飛ばした。

「道灌殿! 目前の稲葉隊を、今しばらく足止め願いたい! 我が隊との距離を保っていただければ、必ずや鉄砲隊で仕留めてみせる!」

「はっ、承知! この太田道灌、稲葉一鉄ごとき、蹴散らしてくれるわ!」

道灌は、力強く応じ、再び前面の敵へと向かっていく。


「阿国殿! 道灌殿が時を稼いでくださる間に、我が鉄砲隊を三段に構えさせよ! わしの合図と共に、間断なき斉射を浴びせる! よいな!」

「お任せくださいませ、義経様」


「櫛橋殿! そなたには、背後から迫る滝川隊への備えを、全て任せる! 犬山方面へ向け、鉄砲隊を集中配備し、滝川隊を食い止めよ! そなたの、その鉄壁の守りを、頼みにしておるぞ! …そして、篠殿のことは、くれぐれも……!」

「はい、義経様! 前の織田勢との戦に、どうぞご集中ください! 滝川隊のことは、この光に、お任せあれ! …ここまでの、篠殿の戦いぶりも、実に立派なものでございます。どうぞ、ご安心を!」

光は、頼もしく微笑んだ。


(我が隊の女将たちは、まこと……)

このような危機的状況にあっても、決して冷静さを失わず、それどころか笑顔さえ絶やさずに、迅速かつ適切な対応ができる。頼もしい限りではある。だが、それ故に、もし自分自身の采配を誤れば、彼女たちの命までも危うくしてしまうのだ。義経は、一層、気を引き締めた。


「…これで、よろしいかと。今、我らに出来ることは、全てやったかと存じまする、義経様」

傍らの梓が、静かに言った。最も頼りになるこの妻もまた、誰よりも今の危機的状況が見えているはずなのに、変わらぬ笑顔で、共に采配を振るってくれている。


* * *


その頃、岐阜城の北条早雲は、近江方面から迫る織田軍の動きを警戒し、動けずにいた。

だが、義経隊の背後に、滝川隊が回り込もうとしている、との急報が、早雲のもとへも届いた。

早雲は、即座に副将の谷衛友と、頼朝の娘・桜を呼び寄せた。

「聞いた通りじゃ! 今、義経殿は、小牧山にて、織田の大軍を相手に、孤軍奮闘しておる! さすがの義経殿も、背後から滝川隊に襲われれば、ひとたまりもあるまい!。


しかし、今、我が軍団には、この岐阜城を守る我ら以外、動かせる兵はどこにもおらぬ! …であるならば、答えは一つ! この我らが打って出て、全速力で滝川隊の背後を突く!」


「早雲殿! それでは、この岐阜城が手薄に! この谷が、岐阜に残り、織田の備えといたします!」


「谷殿、その申し出、ありがたい! なれど、今は一刻を争う! 滝川隊が犬山城下に到達する前に、これを捕捉し、殲滅せねばならんのだ!」

早雲は決断した。

「こちらも、動かせる全ての騎馬を出す! 谷殿の武勇も、今こそ必要じゃ!」

「…はっ! かしこまりました! それでは、お供いたします!」


「よし、決まった! 急ぎ、出陣の準備をいたせ! 此度は、速さが命ぞ! 力の限り馬に鞭を打ち、滝川隊を捉える! 鉄砲隊は足手まといじゃ、構うな、置いてゆく!」

北条早雲率いる精鋭騎馬隊が、岐阜城から鬨の声を上げ、土煙を巻き上げながら出陣。一路、犬山を目指し、滝川隊を追撃していった。


* * *


一方、東美濃。

前田利家隊を壊滅させた後、岩村城の守備隊は、戦わずして城を頼朝軍に明け渡した。

「頼光様! 急ぎましょう!」

トモミク隊と頼光隊は、休む間もなく岩村城を発ち、犬山への帰路を急いだ。


ほぼ時を同じくして、頼朝隊、赤井隊が包囲していた鳥峰城も降伏した。

「…秀長。織田の本軍が出陣したという報せは、まだ、この鳥峰にも、岩村にも、届いてはいなかったようだな」

頼朝は、安堵の息をつきながら言った。


「はっ! もし、城兵たちがその事実を知っておれば、士気も上がり、こうも容易くは降伏しなかったでしょう。まことに、綱渡りのような状況でございました」

「…まったくだな、秀長」

「…誠に。しかし、此度のこの体たらく、ひとえに某の読みの甘さ、至らぬ故にございます。面目次第もございません」

秀長は、自らを責めるように言った。


「何を申すか、秀長」

頼朝は、秀長の肩を叩いた。

「ここまでの、そなたの一つ一つの判断に、間違いはなかった。武田軍の予想外の敗戦と、それによる急な救援要請が、我らにとって重すぎたのだ。武田領への進軍に、大きな危険が伴うことも、初めから覚悟の上であったはず。


義経のことだ。必ずや、まだ踏みこたえてくれておるはず。…秀長よ、しかし、ここからは、もはや軍略も策略も通用せぬかもしれぬ。ただひたすら前を向き、立ちふさがる敵を討つ。それだけよ。余計なことを考えている暇はない。今こそ、正念場ぞ!」


「はっ! 恐れ入ります! ただちに犬山へ向け、進発いたしましょう!」


(義経よ……! どうか、無事でいてくれ……!)


「全軍に告ぐ! これより、全速力で犬山へ向かう! 途中で敵に遭遇した場合は、各々の判断で、これを薙ぎ払いながら進め!」

頼朝の檄が、東美濃の山々にこだました。


* * *


岐阜城から、嵐のように駆け抜けてきた北条早雲隊は、尋常ならざる行軍速度で、ついに犬山の手前で、織田軍の滝川一益隊を捕捉することに成功した。

滝川隊もまた、迅速な行軍で、まさに犬山城下へと差し掛かろうとしていたところであったが、突如として背後に現れた、土煙を濛々と巻き上げながら突進してくる騎馬武者の大集団に、度肝を抜かれた。


「な、何やつ!? ええい、 反転して迎え撃て!」

滝川一益は、義経隊への挟撃どころではなくなった。

凄まじい地響きと共に迫りくる騎馬武者の勢いは、尋常ではない。どれほどの規模の軍勢なのか、滝川隊の誰もが、正確に把握することすらできない。


「者ども! 我らが武威、見せるは今ぞ! この一駆けに、我が隊の全ての力を懸ける! かかれぇぇーーーっ!!」

北条早雲隊の槍部隊(歩兵)は、騎馬隊の神速の行軍に、到底追いつくことはできなかった。だが、早雲は構わなかった。騎馬隊のみを率い、その勢いのまま、滝川隊の後衛へと、猛然と突撃していったのである。


まさに、その時であった。

「おおっ! 桜殿! あれを見よ! あの旗印は! 源氏の旗! 頼朝様じゃ!」

早雲隊の兵士の一人が、前方に現れた新たな軍勢を指差し、歓声を上げた。

「父上……!」

桜もまた、その旗を目にし、声を詰まらせた。


頼朝隊、赤井隊を先頭とする、東美濃攻略からの帰還部隊が、ようやく犬山城下へと差し掛かろうとしていたのだ。

遠くに、犬山城が、変わらずに堂々と、源氏の旗を掲げている姿が見える。

「おお……! 無事であったか! 間に合ったのか!」

頼朝は、思わず歓喜の声を上げずにはいられなかった。


その頼朝の目に、北条早雲隊の突撃によって中央を突破され、散り散りとなって敗走を始めている織田軍・滝川隊の姿が飛び込んできた。

「…なぜ、犬山城下に、織田の軍勢が? しかも、敗走しておるとは……?」

「頼朝様! 前方に見えまするは、北条早雲様の騎馬隊にございます! どうやら、早雲殿が、この敵部隊を撃ち破られた模様!」

秀長が状況を即座に判断し、報告する。


「…事情は分からぬが、好機! 目の前の織田軍を、これより殲滅する! 全軍、攻撃用意!」

急ぎの行軍で縦に長く伸びきっていた頼朝隊は、隊列が十分に整わぬままではあったが、敗走中の滝川隊に対し、一斉に鉄砲の射撃を加えた。

もはや組織的な抵抗力を失っていた滝川隊を壊滅させるには、それで十分であった。


義経隊の背後を突くべく回り込んできた滝川一益隊であったが、結果的に、背後から現れた北条早雲隊と、正面から帰還してきた頼朝軍主力とに、頼朝軍の領内深くで挟撃される形となり、どこへ逃げて良いのかも分からぬまま、文字通り、散り散りとなって壊滅、敗走していった。


「秀長、急ぎ、状況を確認させよ」

犬山城に、織田軍本隊の侵入を許していないということは、義経は、おそらく無事であろう。また、犬山城に守備隊がいないということは、残る兵力の全てを率いて、小牧山で防戦しているに違いない。

(一刻も早く、義経のもとへ、増援に向かわねば……!)


そこへ、新たな早馬が到着した。北条家との交渉にあたっていた、犬坂毛野からの報告であった。

「申し上げます! 犬坂様より書状が届きました! 北条家当主・北条氏政公、我らが呼びかける『対信長包囲網』への加盟に、同意した、とのことにございます!」


「なんと! まことか! それは大義であったぞ!」

頼朝は、思わず声を上げた。

(これで……武田も、何とか持ちこたえてくれるかもしれぬな……)

事態は、確実に好転している。だが、まだ、目の前の織田軍本隊を完全に退けるまでは、決して安心はできない。

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