人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

神や霊界の存在を否定して迷う

私達はこの世に生きていて、人の力で解決出来ることと解決出来ない物があることを知ります。神と呼ばれる存在に対しては、人の力では解決出来ることを頼むのではなくて、人の力では解決出来ないようなことを頼むのです。のべつ幕無しで神任せで生きることではないのです。
自分は神など信じない。神など頼りにしないで生きられる。実に立派な方です。だが、神など存在していないのだとなったならば、大いなる間違いの中に入ってしまいます。何故ならば、それだと自己の魂の存在否定に入ってしまうからです。
神の存在を否定し、霊界の存在を否定している人が突然死してしまいますと、霊界で生きている自分が解らずに、迷いの世界に入ってしまうからです。霊能者から多くの迷い霊が報告されますが、死後に生きている自分が理解出来ないと、そこで立ち尽くすことになるからです。

私の地方の一級国道に不思議な場所があります。国道の大きなカーブ付近に無数のお地蔵さんが祭られている場所が存在します。側に人家も無く、一見すると異様な光景なのです。どうしてそこに幾体ものお地蔵さんが祭られているのかはっきりしません。しかし、理由があるからお地蔵さんが祭られているわけです。
その大きなカーブは通常車で走っていて危険性を感じる様なカーブではありません。緩いカーブなのです。だが、魔のカーブと呼ばれていたのです。何故だかそのカーブで事故が多発しているそうなのです。死亡事故も出る場所なのです。
そのカーブで大型トレーラーが横転しました。対向車線の軽四輪に乗られていた女性が横転したトレーラーの車体に潰されて亡くなりました。それからしばらくして、幽霊騒ぎが起きたのです。その女性がそのカーブのところにたたずんでおられる姿を地元の多くの人が見たのです。幸い、幽霊騒ぎは一週間ほどで治まりました。行くところに行かれたのでしょう。
国土交通省に言わせれば、危険があるカーブでは無いと言うでしょう。私は霊能者ではないので精査していませんが、カーブが原因ではなくて昔から幾体物ものお地蔵さんが祭られているいわく因縁の場所だからだと見ていました。

人は死ぬ時、お迎えの方が来られると言われています。私の父親は私が9歳の時に亡くなりましたが、まだ39歳の若さでした。死ぬ一週間ほど前、私を病床の枕元に呼び、【私は間もなく死ぬ。天からお迎えの人が来ておられる。羽根がはえた白馬が引く馬車が用意されているから心配しなくてもよい。お迎えの方達を何時までも待たせるわけには行かないから、この世に対しては何の未練も執着も残さない。子供のお前が泣くと、私は旅立てない。私が死んでも泣くな。涙を見せるな。これは男と男の約束だ。約束を守れるな】と言います。
私は父と約束して、父が死んでも泣きませんでした。約束だからです。泣かない私を見て、親戚は父親が死んだ事が解らないだろうと言っていましたが、私はそれから毎日般若心経を唱え続けていたのです。私はそのことを忘れていたのですが、父の檀家の和尚が、子供で般若心経を熱心に唱えている姿が記憶として残っていたそうです。
当時の私は羽根がはえた白馬の意味が解りませんでした。仏教的には解らない話です。今から考えるとペガサス星に行ったのでしょうか?。どうして私の父親はそんな世界に行ったのか?。私の父親は世間から仏様のような人だと言われていました。貧乏なのに、自分より貧しい人に施しをする。まさに世根として他を救う行動をしていたからです。だが、何の財も残さず死なれた母子にとっては悲劇の始まりとなりましたが。

病死で、長期で入院している様な場合はお迎えの方が来られて心の準備が出来ると言われています。しかし、事故などの突然死の場合はお迎えの方が来ておられないので、そこで迷ったりするとも言われています。
私が2番目の師匠の元に居る時、どこどこのお地蔵さんの後ろから女の子が顔を出すという噂が流れていますという人があり、捨ててもおけないだろうとサニワがされた時、出て来たのは江戸時代の女の子です。お迎えの人と一緒に行かなかったのですかと尋ねたところ、お迎えの人は来たけれども知らない顔の人だったので、ついて行かなかったと言います。その後はいろいろな場所に行き。最近はお地蔵さんの像の後ろに居て、お供え物を食べていたと言います。
幼い子の霊ですから、両親も祖父母も健在であっただろうし、迎えに行ったのはこの子が知らない御先祖霊であったのだろう。それでついて行こうとしなかったのだろう。迎えの方も何時までも留まっておられずに帰られたのであろうと結論を出して、土地の氏神様に引き取っていただいたことがあります。お迎えがあっても、無理だったケースです。
しかし、そこにお地蔵様が奉られていて、お供えもされていても、そこには地蔵菩薩の働きがなかったことにもなります。空偶像の拝です。最近は、神社等も御祭神も留守居も居ない空神社が多いようですが。

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