この世は魂の修業場と言われ続けて来ました。何故に?。それは【神との契約】があるからです。この世で、自分の魂を磨いて来ますなのです。その証拠として、日本神道で言う【禊】ぎの言葉があるのです。
禊=示契(契約の示し)。
禊ぎの意味そのものは【身削ぎ・身殺ぎ】とも言われ、神社の神主さんが振って下さる大麻で祓ってくださる意味ではないのです。川に浸ったからといって禊ぎではないのです。禊ぎとは自己の魂を祓い浄める意味なのです。魂は自己の肉体の中にあります。その魂を浄めるには自己の肉体を削ぐ殺して出さなければならない存在を意味します。ですから、身削ぎ身殺ぎの意味を持つのです。自分の身を殺しても、汚してはならないのが魂なのです。
通常、契約の契は契(ちぎ)りと言いますね。では、この契りを辞書で紐解きますと、契りとは<前世から定まっている運命。因縁。宿命。>があります。
私達がこの世に降りて来ているのは、魂が積んで来た前世からの因縁。宿命を洗い流すことの契約にあるのです。もし、人の魂に業(カルマ)が存在しないのであれば、別にこの世に産まれ出て来る必要そのものがないのです。
私達が前世を覚えていないのは、魂の修業場でなまじ前世の失敗を記憶していていると魂の更正を阻害するからです。
人は誰しも自分が犯した罪を意識していないものなのです。罪を意識して犯罪を犯すことはほとんどないはずなのです。仮に、一部記憶していても自分が前世で誤った行為をしていたことは意外と覚えておらず、自分は過去には偉い者であったとことだけを思い出すと、そればかりを強調することになりかねません。それだと悔い改めが出来ないのです。
特に過去世で権力の座にあったような魂は、自分を悔い改めるよりも過去世における自分の誇りが頭を持ち上げて、素直に悔い改めることが出来なくなるのです。プライドは誇りですが、埃(ほこり)にもなります。プライドが邪魔をします。
また、貴方は過去世でこれほどの大罪を犯していたのですよ告げてしまいますと、その人があまりの罪の重さにショックで自殺しかねません。だから、過去世の罪は告げない方がいいのです。天の計らいなのです。
だが、その魂が過去世で犯した過った行為によって、その方を恨んでいる霊が成仏出来ずに、この世に生まれ変わった方に無数に付いている場合があります。そうなると、もう霊能者の手には負えません。その人の今生の肉体が、そのカルマを消化するより手だてはないのです。
そうした場合は恨んでいる相手が解らないがありまして、解らない霊に供養を続けて行くことで成仏していただくことでカルマが少しづつ消えて行くものなのです。
霊能者と呼ばれる方達の中には、その人が過去世で高い地位に在ったことは見えていても、その人の魂が過去世で誤った行為をしたことまて見えているわけではないのです。また、霊能者の霊力によって、その罪が帳消しになる物でもないのです。
自分が過去世で犯した罪は、因果の法則。旧約聖書で言う「目には目を、歯には歯を」が形を変えて吹き出すのです。また、自分が播いた種の果実は、自分で刈り取れなのです。
それらの罪汚れを浄化するには、他を救うことなのです。
他を救うことによって、その罪(業)は消えて行くのです。スピリチュアルで神の愛ばかりを言っている方達は、この「カルマ」の原則を無視しておられます。神は【公正】の原則の上に立たなければならないのです。私達の魂は「更生」することによって「後世」の世にとつながっているからです。
多くのスピリチュアルの方達が、三次元世界で散々悪いことをやって来ても、三次元意識を捨てて五次元意識になればいいのですと説いておられます。確かに理屈としては通る論なのです。だが、そこには見落としが存在します。
日月神示に今の世は【三四五(みよいづ)】と説かれています。これは、三次元四次元五次元における自己の魂の心棒(良心神)は同じ心棒なのです。三次元世界で散々やって来た悪の行為(意識)を切り離せたとしても、自己の魂の心棒たる良心神に記録が残っている以上、五次元上昇だけで自分の罪は消せないのです。やはり、その罪分だけは償わないといけないのです。
最後の審判と呼ばれるものは三次元界ではなくて、五次元界で起きて来るのです。
私達の魂と創造神と呼ばれる神との契約は、旧約聖書ではこの神だけを唯一の神として崇めよです。だが、神霊世界を旅して来ると、霊的世界は多神教であることが理解出来ます。その多神教の中で、何が唯一の意味かとなりますと、それは良(ラ)心神となるのです。
人は誰もこの世を一人では生きてはいけません。お米を作る人。野菜を作る人。魚を採る人。家を建てる人。物を作る人。そうした【分かち】の中で分担して支え合って生きていけるのです。お金があるから買えばよいではなくて、支え合って生きているの観念が必要なのです。互いに支え合って生きているのに、自分は偉いなどと思い込むと、間違った道を行くことになりかねません。
イエスの教えに、自分がいと小さき者であると知ることが大切だとありますが、それがまったく理解出来ていない人(神)が存在します。この世でどんな立派な教えを説けたとしても、しょせんは創造神の一介の下僕から抜けきれるものではありません。自分がいと小さき者と知ることこそ、創造神を知ることなのです。
そこに出て来るのが、唯一の神を意味する良(ラ)神に、他を救いて世根(米)となれなのです。それが、魂の過去の汚れを浄化させて、自己の魂を磨き、主の元にと上がって行くことになるのです。
為には、自分を悔い改めるが必要なのです。自分を偉い者だと錯覚していると、悔い改めが出来なくなってしまいます。

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