私が神界修行に入って間もない頃、三つも目がある憤怒相をした青黒の仏さんが姿を現されたことがあります。その時に私の脳裏には大黒天様だと走りました。日本では密教の大黒天さんは出雲の大国主命様だと言われています。
歴史を見ますとヒンズー教のマハーカーラ(大黒天)が出雲神話の大国主命様とするのは無理筋だと思っていましたが、実際に神的世界に関わっていると、そうなのだとなってしまいます。
伏見稲荷山に田中社があります。この田中社は稲荷名としては権太夫さんの名で親しまれていますが、この御太夫さんが出て来られる時は花咲爺さんの様な出で立ちをされています。だが、通常は大国主命様と言われていて、この田中社で大黒様としても出て来られるのですが、恵比寿さんを伴って出て来られる時があるようです。すると、恵比寿さんは事代主様の可能性が大きいわけです。そうしたことは民間信仰で言われていても、学者からすると何を混同しているだとなります。
歴史的に見ていると辻褄が合わないように見受けられるのですが、過去に人類は幾度か滅びたと言われています。私達は残された歴史書に囚われている為に、今の人類の歴史しか解らない面があります。霊的な面で言えば、太古も太古の時代が出て来ますので、その存在が如何なる輪廻転生を辿ったのかさえまだ解明出来ていない面があります。
一部には日本の神がインドに渡って仏になったという説まで存在します。幾度か滅びたとされる人類の歴史が解らないと、解決がつかない話しなのかも知れません。
私が注目したのは、その三つの目なのです。現代の人類では無い滅びた古代の人類には三つの目の時があったという説があります。その目が退化して必要無くなり、その部分を頭蓋骨が塞いだという説です。
頭蓋骨だけで言っても、前期エジプト王の頭蓋骨は現代人の頭蓋骨とはかなり違っていることが解っています。現代の人種とは思えない面があります。
一見すると突拍子も無い話しの様に思うのですが、御仏達の額にはホクロなどと言いますが、本当は「白毫(びゃくごう)」と言わる光明を放つ白い毛のことを指しているわけです。そこで彫刻仏像などでは、その部分に「ダイヤ」とか「宝石」をあしらっているわけです。この白毫(びゃくごう)は、三つの目の頃の名残を言っているのではないかとも言われているわけです。
今は目が存在しなくなり、頭蓋骨で覆われてしまったとしても、そこには霊的な存在を見る神経が通っていて、第三の目とも言われるわけです。この第三の目を称して「心眼」等と呼ばれるているのです。その部位で霊的な事物を見ているからです。ヨガでは第六チャクラとする場所と同じです。
霊的事物は目を開けていようが、目を瞑っていようが関係無く見ることが可能です。私がかってヤフーの輪廻転生の板で論陣を張っていた時、盲目の霊能者の話をしたところ、そんなことはあり得ないと否定論の嵐でしたが、私の最初の師匠の祖母さんは盲目の霊能者で知られた方でしたし、私の母親も盲目の尼さんが降ろされる弘法大師さんのお灸で助けて貰った時、その尼さんにどうして盲目でも解るのですかと質問したら、盲目でも弘法様から光でお灸を降ろす場所を教えて貰えると言われます。見ている光の世界が違うだけなのです。

この第三の目は「額」で一括されていますが、額の「頁」は人間の頭。それに「客」を迎え入れる場所の意味でもあるのです。
客神をお迎えする場合は、額から受け入れるのです。
神前でも仏前でもお祈りしていると、そこに霊的存在があるとしたならば、額に光や熱を感じることが出来るのです。前世が古代マヤのシャーマンと思われる方は、神社で出すお札に光があるかないか見分ける能力をお持ちでした。やはり、額で光とか熱を感じておられるのです。私も疲れた時などは、神前や仏壇からそうした光を受け取ることがママあります。
伊勢神宮の天照大御神様ではなく、真性の太陽神(ラー)を受け入れるには、額を太陽に向けてお祈りされればいいのです。その時、目は閉じておかないと網膜が焼けてしまいます。太陽が直視出来るという方もあるでしょうが、それは無数の霊に憑依されている状態なのです。危険ですから、太陽の直視はしないようにしてください。どこまでも額に太陽の熱を受け入れるのです。
真性の太陽神(ラー)に対しても、太陽に向かっての場合は天照大御神様、カンナガラタマチハエマセでいいのです。全ては天帝と呼ばれる神が仕組んで来られたことなのです。
天の中心として天之御中主様(ラ)を置き。大地の国常立尊様は閻羅(閻魔)大王で「ラ・羅」で表し、太陽神も「ラ」で示し、私達の魂の柱は「良(ラ)心」神として表します。そして、私達の「今」は、ラに漢字の部首名たるやね(屋根)を被せてあるのです。
今の字(時)から、漢字の部首名のやね(屋根)を取ると、「ラ」のみとなってしまいます。一度、今の世を終わらせないと「ラ」の時代はやって来ません。
で、最後の審判は各自の良(ラ)心神が判定されると天人達は噂をしていると聞くわけです。
大本教神諭予告。【九つ花に咲く、たった一輪の言霊の経綸】。
九分九厘まで行っても、たった一厘は誠がなければ紐解けなかったでしょう。
朝鮮に残された予言には、最後の審判前に救世の為に「米」一字の教えが起きる。その教えに従った者達は罰を受けずに済むとあります。
それは、天之御中主様と国常立尊様は天と地に別れていても同一神で、皆さんの魂の中には良心神が在るということなのです。
その神に従えるのか従えないのか。
それは自分が決めることです。
この神の存在を無視して、アセンションを言っても意味が無く。宇宙だ宇宙だと言っても意味が無いのです。
神社におられる神々も誰もこんな仕組みを御存じもなく、紐解けず、宇宙人も知っていないでしょう。
再度、大本教神諭が予告した九つ花を掲げておきましょう。誠(言葉で成る)をもってすれば解けるわけです。


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