大本教神諭に【世に出ておられる神々の心の持ち方が悪かった】とあります。世に出ておられる神々とは、多くの霊能者がアクセスしている神と呼ばれている霊達のことです。実際問題として各神界のトップクラスの神々は、世の立替を言われますが、トップクラス以外は、立替?。それは何だという有様。創造神と呼ばれる神のことすら理解していないのが現実だと言えるでしょう。
神界はピラミッド方式の様になっていて、数から言えば圧倒的に末端の神達が多いのです。今、立替を言われている方達は上の神界にアクセスをされいる方達だと思われますが、立替のタの字も出さない霊能者やスピリチュアルの方達は、末端も末端にアクセスしておられるのが実態と言えるでしょう。だから、呑気に構えておられるわけです。
日月神示に九十九パーセントは邪神という内容があるようですが、神界の力関係では無くて神霊の数から言えばそうなるのかも知れません。
聖書で【ハルマゲドン】が語られます。これはヘブライ語でメギドの丘という意味なのですが、キリスト教と反キリスト教の戦争の意味ではないのです。メギドの丘での「殺戮の丘」という意味がハルマゲドンと言われているわけです。
主の軍隊、すなわち神軍とケモノ霊に支配された者達との最後の戦いで、神軍がケモノに支配された霊をことごとく抹殺する意味のようです。
大本教の出口王仁三郎聖師は、有名な遺文【みのか尾張の国の中】を霊界物語の第十三巻の信天翁に残されました。この【みのか尾張の国の中】の中の意味は、今では【身の終わり】と解釈されるようになっていますが。
だが、それだけではないのです。もう一度【尾張】を見ましょう。毛物の尸(しかばね)を張るという意味が出て来るでしょう。
人の顔をしていても、その魂はケモノ(毛物・獣)達。魂が毛物と化した霊の存在を悉く天の神軍が殺戮をしてしまう意味が終わりであり尾張なのです。
この神軍、私達の様な人間の心とか感情は保持していません。これが人間として出た存在ならば、いくら戦いでも敵を倒す時は躊躇します。それが人間です。愛があるからです。だが神軍は私達の様な魂を持った人間では無い為に、天の命令に従って動くだけです。しかもその神軍の数は、いくら悪霊達に倒されても倒されても湧き出るので、神軍が悪霊によって敗退することはあり得ないのです。
私はかって無数の黒龍神に襲われたことがあります。その時、天から神軍の降下が起きて、神軍が黒龍神群と立ち向かう光景にびっくりしたことがあります。黒龍神軍団には白龍神軍団が対峙するとばかり思っていたので、意外な光景に驚いたことがあります。
最初から解っている勝負なので、最後の最後に神軍が出て来るのです。
神に愛などというもの期待しても神軍に愛などは通りません。最初から愛が無いのです。あるのは人間として経験を持つ指揮官のみ。
大本教霊界物語に【鏖殺】が出て来ます。この【鏖殺】は皆殺しと言う意味です。最初は誰を対して皆殺しと言っているのか解りませんでしたが、私達の様な人間の魂には良心神が存在します。魂の核となる部分です。この部分が無くなると、核が存在しなくなり「空く間」となります。すなわち、良心神を失った者達が悪魔なのです。自己の魂から良心神を失った存在を悉く抹殺するのが鏖殺なのです。
聖書におけるハルマゲドン(メギドの殺戮の丘)。大本教霊界物語の【鏖殺】。同じ意味を語っています。
俗に、旧約聖書の神は祟りの神と言われ。大本教が出した艮(牛虎)金神も祟りの神と言われて来ました。その同一性が言われて来ましたが同一神です。
元々、日本で天神様と言うのは高天原の神達、または高天原から天降った天津神。あるいは雷神を指したのですが、天の神は祟るとからと怨霊扱いにされ、後に菅原道真公の霊があまりにも祟るので、天神様と一緒にされた経緯があります。それがいつの間にか天神様と言えば菅原道真公になってしまったわけです。
天神様と牛は深い関係がありますが、天神様の牛に関しては菅原道真公以前より天神様の御使いとして祭られていたことが今では判明しています。雷(神鳴り)様は牛頭で虎パンツ。そして、モーゼもまた牛の角で表現されています。
日本の神達の世界に入りますと、これは旧約聖書の世界かと思うところがありまして、何か深い関係があることは確かなのです。但し、それは私達が知る歴史以前のことになって、霊的にしか見ることは出来ないのです。
主の神に対する信仰心と自分の良心神を育てている方は問題は無いでしょうが、
我れさえ好ければそれで好いと多寡を括っている方は魂を汚していますので、悔い改めてください。

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