日月神示等には【悪の改心】を呼びかける内容と、【善も悪も抱きまいらせそうろう】がありまして、どっちが本当だの声を聞きます。確かに、一見するとかなり矛盾しています。
こうした書は真実も嘘も織り交ぜて降りて来るものなので、中味を吟味する必要があります。
私が子供の頃に臨んだ声は次のような教えをされました。
この世の舞台。誰もが善役のスターになりたいと思うだろう。だが、舞台には悪役も居なければ善役が光らない。悪が悪を見事に演じてこそ、善役も光り、観客も拍手する。
この世の舞台には、善役も悪役も脇役も通行人の役として通り過ぎるだけの者も居る。そうした者が一体となってこの世の舞台は演じられる。
悪役も舞台が終わればその化粧を落として素顔に戻る。
その素顔は、悪役であろうか?。だが、その根性まで悪に染まっていたならば、その者は次の舞台に立たせはしない。今生は悪役であったとしても、善役を引き立てる見事な悪役の演技であれば、次の舞台には善役で主役級にも立たせる。
私達の魂は産まれて死んで、産まれて死んでの繰り返しをしています。それは、今の世は魂の修行場・修学の場だからです。
善と悪があってこそ学びになるのです。その役を演じている者は役者でもあるということなのです。その役者には善役あれば悪役もあるわけです。
どんなドラマでもそうですが、
一つの舞台が終わると、善役も悪役も無いことになります。
これが善も悪も抱きまいらせそうろうとなります。舞台で悪役を演じている人も、その化粧を洗い落として素顔に戻れば(化粧とは魂の表面に付く汚れ)次の舞台があるぞということです。
私達の肉体の死とは、今の舞台において死ぬ役で、今の舞台にはその姿では二度は上がれないわけです。ですが、小さな大衆劇では役者さんが二役もするように、次の舞台の場面には姿を変えて違う役などで出ることが出来たのです。その意味が【輪廻転生】です。
そこに隠された意味は【
罪を憎んでも人を憎むななのです】。相手が役者だとすると、皆さん、その演技の悪を憎むのであって、役者さん個人を恨まないでしょう。
だが、
根性(魂の中の良心神)まで悪に染まっていれば、次の新しい世の舞台には立たせないと言われたのです。
その時、このようにも言われました。この世は神が筋書きを書く舞台ぞ。この舞台が終われば、次の舞台が始まる。回り舞台である。この世の舞台の反対には、次の舞台が拵えてあり、その舞台が回ってくるぞ。
一度、幕が降りて、幕が開くと違う舞台ぞ。これまでは、表に見える舞台だけで演じていたわけです。
この世の舞台は幕が開いてから一度も降りていないのです。舞台が継続していたのです。役者が生まれ変わっていたのです。今度は、舞台その物がこれまでとは違う舞台になるということなのです。
これを図にしますと
この世と呼ばれた舞台は一度閉じます。そして、幕が開くと新しい舞台構成の時代がやって来るのです。新しい舞台には悪役は必要無くなりますで、輪廻転生は終わるのです。
天の岩戸開けの意味には幾つかあるのです。その中の一つとして、この一八十(イワト)も存在するのです。
悪と言っても、善だけでは社会の変革は出来ません。逆に保守的になります。改革には血が流れます。
社会を変革させる時には、どちちかと言えば悪でないと動かせないのです。
織田信長と言えば悪だと言われます。多数の人を殺したのです。比叡山も焼き討ちしたぐらいです。しかし、織田信長が居なければ天下統一は不可能だったと言えます。神が善も悪も利用されていたかと言えば、そうなのかも知れません。しかし、そこにあったのは【大義】なのです。
その人が善か悪かは一概に言えないのです。善をするつもりが結果として悪と判断されることもあるのです。私達はそうしたことを歴史で学んでいるはずです。
だが、新しい世に全ての悪も善も抱きまいらせそうろうかと言いますと、
今度の新しい舞台は全ての役者が化粧落とし(魂を洗い浄める)となります。
例えば殺人、強盗、強姦のようなものは凶悪犯であり、その被害者がその人を許してやって欲しいと言わない限りは、無理な話です。
霊界では何の罪も無い人がそうした被害で何百年と苦しんでおられるがあります。私は少しばかり霊界見聞させて貰いました。心に負われた傷を癒やすのは簡単ではないのです。だが、加害者はそんなこと何とも思っていないわけです。最近の裁判を見ても、どちらかと言うと加害者より被害者が泣いているケースが多いわけです。
神は光で慈愛です。そうやって犯罪加害者を許していれば、何の罪も無い被害者のことはどうするのですか?。加害者はのうのうと生きて、被害者は泣き続けるのですか?。私はそれが神と言うのであれば、私はその神を疑います。
それでは、神の【義】が成り立ちません。旧約聖書では、【義】の者が一人でも居れば、私は人類を滅ぼさないと書かれています。どれだけ「義」が大切かなのです。全人類と一人の「義」の者とを天秤にかけることが出来ると言われているわけです。逆に言えば、愛では人類を滅ぼしてしまうということです。皆さんは、愛ゆえの数々の犯罪を見て来たはずです。異性を愛するがゆえに我が子を餓死させる母親もいたでしょう。会社の金を愛人に貢ぐ為に横領をされた女性もいたでしょう。
愛は人を盲目にする一面があるのです。
愛は善と結びつかないと、良心に勝るものではないのです。愛善の行為をして良心と結びつくのです。神が愛であなたを許されるではなくて、一人一人が愛をもって他の人を助けなさい。人々を社会を愛しなさいなのです。そうすれば、貴方の罪も軽くなる。他動と受動の意味を間違えてはいけないのです。
天の岩戸開けに隠された意味は、私達が見ている太陽の光ではなくて、「米」の字で表す光が存在するのです。これを隠しておられるわけです。
これまで、罪も無いのに心に傷を負っていた魂を救うことも出来る光です。だが、その魂が汚れに汚れている魂では、「米」光は逆に耐えることが出来ない光となるのです。
ですから、悪は悔い改めなさいなのです。
スピリチュアルでは神は愛で在り、何をしても許されますをお題目にされていますが、加害者を許して被害者が苦しんでいるならばそれは出来ない相談でしょう。自分が被害者の立場であれば解るはずです。
だからこそ、
神は悔い改めなさいと言われているのです。本人が悔い改めたならば、被害者も納得してくれるでしょう。その時、許されるのです。
二つの意味が出ていることに、納得出来たでしょうか?。
悔い改めなさい。舞台が回れば、新しい世界。チョンと拍子木が鳴る。

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