私が子供の頃、姿無き声は私にある教えをされた。人は死んでは産まれ、また、死んでは産まれるの繰り返しである。
前世のそなたと今世のそなたとでは、その姿や形はまるで違う。また、肉体の親も違う。生まれ出る環境も立場も、そこで知り合う人も違う。されど、前世のそなと今世のそなたは同じ心である。また、来世に続くそなたの心も同じなり。人の性格、その心(魂)は過去世から続くものである。
人がその前世を記憶しないのは、記憶する必要がないからである。今のそなたの心に前世のそなたの心は含まれている以上、自分の前世がどうであったかを知る必要などはない。
自分の前世が何者であったかを知らず、今世の自分が前世の自分の偉業を崇拝することも起きる。
なまじ前世を知り、自分はこうであった。ああであったと誇ることに意味は無い。過去は過去で有る。何故ならば、全て自分の過去世があって今世が創られるからである。
過去世が自分の来世を創るのでは無い。今世の生き方が来世にと続く。
魂の世界の命は永遠に近いもので有る。この世は魂の修学の場で有り、魂の命からすると修学旅行に出たような僅かな時間にしか過ぎない。人はその僅かな時間で何もかも学べない。自分が体験や経験しなかった出来事も、他の人が体験や経験しているものである。自分に足りない体験や経験は他の人から学べばよい。
この世ではいろんなドラマが演じられる。その一つ一つが自分にとって学びになる。
時には犠牲的な痛ましいことも起きるであろう。それらは、全て自分にとっても学びで有り、この社会に起きている出来事を知らないと行けない。それは、尊い犠牲になった者達の心を生かす為でもある。
日本で何が起きているのか?。世界で何が起きているのか?。何も知ろうとしないのは魂の学びにならない。人は社会を通して、何が正しいのか?。何が間違っているのかを学ばないといけない。
人はこの世で魂と魂と触れあい、魂の縁を結ぶ。されど、元の魂の世界に帰れば、二度と出会えるとは限らない。その出会いの縁を大切にしないと行けない。良い思い出を魂の故郷に帰る土産として、悪しき思い出は捨てなさい。
この世は善なる者だけで構成されていない。地獄界と呼ばれるような世界に居た者もこの世に出す。地獄界でいくら学べと言われても、そこには善を教える者がいない。この世に出して貰い
善なる者の行動を見習い、自己の反省心を養い善の道へと向かわせる。
逆に天国界と呼ばれる様な世界に居た者も、そこでは一段と成長が出来ない。この世に出て、悪なる者を反面教師として学び、悪なる者に善の見本として善の行いをして、善へと向かわさせる。そのことによって、さらなる成長をする。
悪も、また教師なり。善なる者も悪なる者も中間の者も、全て交えて魂の成長を図らせる。それがこの世の仕組みである。
この世の僅かな時間で、
刹那(今のことしか考えない)心に犯されてしまうと、自分の魂を腐らせたり潰したりして、永遠の命を失うことになる。この世の瞬間の出来事に自分の心を奪われてはいけない。そう教えられました。
よく、神が存在するならば、どうして【悪】を罰しないのかという疑問が出されます。
この世は魂の修業場で有り、悪なる存在も【悔い改めて善に変わる】機会がある場なので、この世に生きている間は神により罰せられるはないのです。ですから、この世を去った死後に罰せられることになるのです。悪を罰しないから神は存在していないの意見は、この世が魂の修行場であることに気がつかなかったのです。
為に、私達の魂の中には、全ての人に良心神が授けてあるのです。
その良心神を殺すか生かすかは、一人一人のこの世の生き方なのです。
自己に反省心が無ければ、良心神は消えてしまいます。
悔い改めことが出来なければ、それまでです。
最近のスピリチュアルの世界では、あるがままとか今が幸せであればいいのですという教えが盛んです。
確かに、来世があると説いたところで、その証明は不可能です。来世が在るか無いかは死んでみないと解らない。私は観音様やお不動様や稲荷様の存在を見て来ましたので、死後の世界を認識しています。しかし、そうした神霊の存在を見たことが無い人にとっては、死後の世界を認識することは確かに難しいのです。
今が良ければそれでいいやとなります。
だが、コトバの仕組みを見てください。きちんと仕組みがされているのです。それはコトバを創った神が存在しているのです。
刹那の【刹】の字を見ますと、【殺】に似ていることが解ります。この「刹」は「殺」の異字体なのです。仏教用語として「殺」を「刹」にしただけなのです。
私達は単にコトバだけ見ていると、刹が殺だとは解らないわけです。だが、神から刹那心は魂を殺すと聞かされて、同じ意味だと気がつくことでもあるのです。
あなたの大切な魂、来世に生かしましょう!。
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