霊学において【霊子(たまのこ)線】が説かれます。日本における霊学は大本教が最初のようなもので、それ以前の宗教の世界においてはこの「霊子線」の存在は説かれていないでしょう。大本教霊界物語と日月神示には「霊子(たまのこ)線」と記載されますが、詳しい内容は説明されていません。
一方、スピリチュアルの世界では【シルバー・コード】として書かれている存在がこれに当たります。この「シルバー・コード」の方が名が通っています。だが、私が見た人の中では【金色の綱】の女性が存在しましたので、シルバー(銀色)の線と限定してはまずいと思います。ここは【霊子(たまのこ)線】がいいのだと思います。
今日までの既存の古い宗教は、この存在に触れていませんので、その教えに不備が生じています。あまり古い教えだけが絶対だと入り込むと、真理からは離れてしまい、宗教戦争みたいなことをしなければならなくなります。
この【霊子(たまのこ)線】は私達の肉体の頭上から上に向かっています。その線がどこに向かっているかは定かではありません。ただ、言えることは、
幽体離脱とか魂を飛ばしても、この【霊子(たまのこ)線】が切れない限り、人は死なないということなのです。肉体に戻れます。すると、魂と肉体を結ぶ線となります。
ただ、私達の肉体の中にある魂には限りがあり、霊界に存在する自分の魂とは、人によってまるで違いますが、そんなに小さなものでありません。御神霊と呼ばれる存在は人の魂と比べるとピンキリですがピンは巨大なのです。この論理はコップ一杯の水とスポイトの一滴として語られるもので、人の魂はスポイトの一滴のようなものなのです。で、神人合一ともなれば、その人の背後に巨大な魂が見えるが起きたりします。
この世ではあんなおばちゃんと思っていたような人が、霊界に戻れば高貴な神であったのかとひれ伏すことにもなりかねません。この世で親しくしていても、霊界に帰ればその人は二度と出会うことも出来ない高貴な神様であったり。この世が魂の修業場であるが故に、そうしたことが起きます。
お釈迦様やイエスやモーゼやマホメットや弘法さんや日蓮さんの様な方は、自分と同じ人間だったと思うと間違えているのです。確かに食を喰らい糞もするでしょう。が、霊止(人)と呼ばれる肉体をまとった神達なのです。
されど、
人は誰しも神と成れる魂を授けて貰っているにも関わらず、神に成ろうとしていないのです。
逆に、この【霊子(たまのこ)線】が切られてしまいますと、人は早い人で30分ぐらいで死に至ると言われています。病名としては心臓発作や原因不明になるようです。もう肉体に戻りたいと思っても戻れないのです。そうすれば、否が応でも霊界に旅立つより道はありません。
御神霊の神域を犯して突然死するようなことがあり、神罰を受けた等と言われることがありますが、この【霊子(たまのこ)線】を神霊の権限で切られてしまうことで起きます。
事例を上げますと、ヤクザが神前の前でピストルを抜いた。家に帰って突然死。
神官で有りながら酒に酔って神前で刀を振り回したことで、自分の子を持っていかれた。後で平謝りに謝ったら、一度命を取った子なれど、再度この世に出そう。男の子であったが今度は女の子で出す。その証拠として、その女の赤子の手に石を握らせて産まれ出させる。直ぐに奥さんが妊娠して産まれた子は女の赤子で、手に何か握っている。その手を開くと、石を握っていたのです。事実話です。
憑依と呼ばれるようなものは霊が肉体に付いてしまう話であり、浄霊とか除霊と言われるの憑依した霊を肉体から離す話です。
【霊子(たまのこ)線】「シルバー・コード」の存在に関しては、知る方もあるでしょう。だが、
もう一本違う霊子線が存在します。この存在に関しては大本教霊界物語にも日月神示にも触れられていません。私達の肉体の臍から出ている霊線です。無論、私一人だけがこの霊線を見たのではありません。この霊線を見られた方は少数で、臍から出る霊線を見た人でも解らないの返事ばかりが返って来ます。
某大宗教の自称仏陀さんの著本にも、臍からの霊子線は描かれていますが、頭上に結んでおられる。これは、臍からの霊子線を見た者からすると結ばれている先が違うぞとなります。
ある女性が大本教に参拝して霊相談を受けた後、その方の元に大本教の出口日出麿さんの霊が現れて、その方を枕元から見つめて、違うのではないかと呟かれていたそうです。日出麿さんの霊は、その女性が出口王仁三郎さんが予言された【みのか終わりの国の中、誠の女子が現れたならば、もう大本教はダメだろう】の女性かどうかの確認に、その女性の元を訪れられたようです。
確かに、この女性の霊能力はダントツだったのです。通常の霊能者では太刀打ち出来なかったようです。で、もしかと思われたのでしょう。
出口日出麿さんの霊は、その女性に
臍からの霊子線は【分かちの国】に繋がつていると教えられたと言われます。
分かちの国とは、一つの物も分け合って暮らす世界と言う意味ですが、
神の子宮(しきゅう)に繋がる意味でもあるのです。私達の肉体は母親の子宮と臍で繋がっているように、神の子宮と繋がつている意味なのです。【神の子宮】なのですが、【神の子・宮】でもあるのです。神の子達が神の宮たる世界に戻る霊線です。
神は父なる神だけではありません。
母なる神も存在されているのです。
一つの物を皆で分け合いましょう。それは、母神の教えです。
私の大叔父は、私が友達を連れて遊びに行った時、私だけでなく友達にも同じ額のお小遣いをくれました。その大叔父は信仰に篤く、自分はボロ家に住んでいても地域の氏神様に石の鳥居を寄進するほどでした。誰隔てなく接する人でした。人の為ならば自分を惜しまない。
大叔父は霊界のどこに行ったのか?。そこで大叔父が住んでいた氏神たる神霊に調べて貰ったところ、こちらでは解らない高い世界に行かれていますとのこと。で、サニワをしたところ、龍宮からの迎え船で高い高い世界に行っていました。
愛!愛!愛!。目連尊者の母親は、目連尊者が子供の時、目連尊者を愛していたのです。だが、行った先は?。この話を知らない人は居ないでしょう。自分の子供だけが大切は、お釈迦様の十大弟子の目連尊者の母親の道。分かちの心がなかったのです。
子は神からの預かり者と言います。だが、他のお子さんも神からの預かり者なのです。
昔の長屋生活などは、長屋の子供は長屋の皆さんにとって、皆、我が子の様に接したでしょう。その心を忘れたのではありませんか?。
本当の天国の住人は【分かちの心】を持つ故に、天国と成るのであって、人は死ねば天国ではないのです。
どこかの宗教を信じたから天国ではないのです。お釈迦様やイエスやマホメットを拝んだからではないのです。
良心神が無ければ、分かちの心は育たないのです。
我さえよければそれでよい。その反対は分かちなり。
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