私が子供の頃、私に臨んだ声は言いました。私は私で在る。アブラハムの神で有り、そなたの神で有る。旧約聖書の神で有る。
この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国で在る。この私の教えを学ぶのに宗教書は要らない。私の教えは日本昔話や民話に入れてある。そなたはそうした日本昔話や民話を読んで私の教えを学びなさい。
私はそなた一人だけに私の仕組みを見せよう。そなたはその仕組みを知り、それを人々に告げなさい。そなたが歩く道はそなたが初めての者で有り、そなたの後にそなたと同じ道を歩く者はでない。
人の一生は短い。その人の人生で、全てを学ぶことは出来ない。自分が知らないことも他の人が知っている。他の人の体験を否定してはいけない。その人は体験したのである。他の人が体験したことを自分の体験として学びなさい。
当時の私は子供なので、その旧約聖書の神と名乗った存在がなんたるかを知ることもありませんでした。
私が伏見稲荷山に上がった時、師匠を通じて、豊受の神は貴方のコトバによる教えは天帝の詔と同じ意味を持ち、如何なる神も貴方のコトバによる教えに従えないと言うのであれば、如何なる神も終わりの時に天帝によって滅ぼされるでしょうと言われます。が、コトバによる教えとは何だろうと疑問が走りました。
神霊界に修業に入って、鍾馗神の案内で中国で創造神とも天子とも言われる磐古大神に拝謁。大本教の出口王仁三郎さんの霊が私の家に出て来られて、大きな「漢字」の文字が入った浴衣を着用されています。だが、無言。
大本教霊界物語に、磐古大神から国祖国常立尊様に神界の大政奉還の文がありまして。そうか、日本の国に常に立つ御言(ミコト)は日本語で、コトバを漢字で紐解くことかと理解したわけです。
子供の時に聞いた、この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国で在るの意味は、日本語のことだったのです。日本語ならば日本国中に溢れています。その日本語による仕組みが解ればいいことなのです。
私達は誰でも意識の中で【想像】することが出来ます。想像は「想いの像」です。が、それは絵であってデッサンです。その絵を伝えることが絵伝(エデン)なのですが、その絵に命を吹き込まないと想いの像は動きません。その命のことを【ミコト】と言います。
ミコトとは漢字で「御言」と書きます。聖書、神はコトバで森羅万象を創られたのコトバは、御言(命)の意味だと知る必要があるのです。この御言(命)は想像神の息吹なのです。命(いのち)とは、辞書を紐解けば「息(い)の霊(ち)」の意味かとなっています。想像神の「息の霊」がコトバなのです。これを理解しないと神はコトバが永遠に解りません。
この想像神の「息の霊」の働きはエネルギーで「流神」なのです。日月神示で言霊が出て来ますが、どなたもお解りにはならなかったようです。言霊神とは想像神の息吹である「流神」のことなのです。これを「言霊」と称するのです。その働きから創造が行われて、その創造の中心と成った存在を天帝とお呼びするのです。
大本教から「イロハ」が説かれました。日月神示では「ヒフミ」が説かれました。これはどちらも48音(ヨハネ)と言うことなのです。その後は飯屋(メシヤ)でないと行けないのです。
大本教神諭、【この神は煮ても焼いても食べられるぞ】。とあります。飯屋(メシヤ)の看板ならば、米は炊飯にも焼き飯にもなります。
が、宇宙創造に関わった存在は「八十一」音あったのです。この八十一の言霊を仏で表すと、曼荼羅が出来るのです。だが、言霊の概念が仏教では起きなかったのです。ただ、宇宙を表現するのに八十一仏の曼荼羅が描かれたのです。
イエスは40日間荒野をさまよい、41日目で神の御子になったと言います。
モーゼは40年間荒野を旅して、41年目にイスラエルに入りました。
この「41」の数字の意味は、聖書では解らないのです。
大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸。81音の九つ花を大本教神諭の【煮ても焼いても食べられる】の飯屋(メシヤ)の「米」型で紐解くことで、三六九(みろく)が出来ます。
その中心となるのが「41」なのです。
朝鮮に残された予言に最後の審判前に「米」一字の教えが出る。その教えに従った者達は神の罰から逃れられるがありました。すなわち、飯屋(メシヤ)の「米」型の教えに従えば、最後の審判の神の罰から逃れることが出来るわけです。
この41は、言霊で言う時はイロハでもヒフミでもなく、アイウエオの41番目の「ラ」なのですが、漢字で表すと「良」の字なのです。
お釈迦様は、人には良心と呼ばれる神が内在すると悟られました。しかし、何時しかそれは慈愛だと書き換えられてしまったのです。
ですから、みろく(369)が出るまでは、お釈迦様の悟りが人に内在する良心神だったとは解らなかったわけです。
私は単に良心神を説いているのではありません。皆さんが知る良心とは、単なる良い心の概念なのです。
私は皆さんが言う神とは違う、こうした仕組みを創って来た神の存在を説いているのです。創造神と呼ばれる存在です。
大本教はこの仕組みに3000年かかったと記しています。モーゼから3000年ぐらいのところでしょうか。後悔(紅海)を渡って神の御国に入る。
モーゼ、お釈迦様、イエス。全て神の仕組みの元に動いたのです。
これでも、創造神様の存在を認めることが出来ませんか?。
私は単にコトバの仕組みを解説する神の下僕。
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