AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
8.双子(1)


 扉が激しく叩かれた。ルーラが不機嫌そうに「なんだ」と扉の向こうに声をかける。先程使用人が出て行った、寝室のほうではない。廊下側の扉――そこを幾度も叩くものがいる。
「妃殿下。妃殿下はいらっしゃいますか?」
 切迫した声が扉越しに聞こえた。ルーラは一瞬迷ったようであるが。
「こちらには、いらっしゃらない」
 あっさりと答えた。
 それは、今目の前にいるのがアグネイヤであるから。彼女をクラウディアと認めない、そう宣言したからであろうか。アグネイヤは息を呑んだ。首筋に当てた刃を更に強く皮膚に押し付けようとして。
「……?」
 異変に気付いた。離宮内で、何かが起こったようである。先程まで静まり返っていた邸内が、にわかに騒がしくなってきた。
「やはり、やはりそうでしたか」
 声の主は、驚愕するどころか安堵の溜息を漏らしたようである。ルーラも奇異に思ったのか、アグネイヤの行動を警戒しつつも、扉の前に戻り、視線をこちらに向けたまま詳細を尋ねる。
「どうした、なにがあった?」
「それが」
 声の主は、咄嗟には応えかねるようであった。「わたくしにも、わかりません」と。フィラティノア訛で呟いてから。
「妃殿下が、傷を負われて。いま、こちらにお戻りになられました」
「なに?」
「なんだって?」
 アグネイヤとルーラは同時に声を上げる。
(クラウディアが?)
 傷を負った――負傷して戻ってきた。先程の悪寒は、それを示していたのか。
 愕然とするアグネイヤを前に、ルーラはまだ少し冷静であったらしい。
「……っ?」
 アグネイヤの隙を突き、一気に間合いに入り込んできたのだ。一瞬動きを忘れた彼女は、いとも簡単にルーラに短剣を叩き落されてしまう。それどころか、利き手をねじ上げられ。逆に背後から首を絞められた。
「うっ」
 息苦しさに喘ぐアグネイヤの耳に、ルーラは静かに囁く。
「貴様の身柄、暫く預からせてもらう」
「……くっ」
 言葉と同時に、腕に力が籠められた。背に密着する、硬い胸。その感触にジェリオを思い出し、アグネイヤは悲鳴を上げそうになる。その声を奪い取るように。ルーラは短剣の柄でアグネイヤの鳩尾を抉ったのだ。



「妃殿下、妃殿下」
 侍女たちの悲痛な叫びが廊下に響き渡る。控えていた医師を呼びに走った小間使い――彼女が階下の扉を叩く音が、その声に混じって更に切迫した感を与えた。この、小さな皇女はどれほど愛され、大切にされているのだろう。
「大丈夫だから」
 腕の中で静かに微笑むクラウディアを見下ろし、ジェリオの心はチクリと痛む。
 隣国に嫁いだ姫は、異国でかようにまで慕われているというのに。次期皇帝として母国に残った姫は、供もつれず一人で、孤独な旅を続けていた。アグネイヤに人望が無いのか。それとも、彼女らの故国が冷ややかであるのか。それは、他人であるジェリオの知るところではないが。
「ともかく、お部屋へ。すぐに手当てを致しましょう」
 ヴァーレンティン、とクラウディアに呼ばれた屋敷の責任者らしき紳士は、動揺する使用人たちにてきぱきと指示を出す。こちらはさすがに落ち着き払った女中頭が、それに応えて部屋を整えるもの、治療に必要な湯を沸かすもの、着替えを用意するものと具体的に振り分けて、自ら先頭に立って動き回る。
 クラウディアの部屋は、階上にあるらしく。「こちらへ」と、使用人の一人がジェリオを促し先に階段を駆け上がった。案内された部屋には、驚愕に目を見開いた若い小間使いが佇んでいた。彼女はジェリオの腕に抱えられたクラウディアを見ると、信じられぬといった風に
「妃殿下?」
 心もとない声で、主人を呼ぶ。
「ただいま」
 クラウディアは悪びれず、彼女に笑みさえ向けている。このあたり、やはりアグネイヤとは違うと、ジェリオは思った。アグネイヤであれば、様々なことを考えるあまり、器用に立ち回ることは出来ぬだろう。
 真新しい敷布が敷かれた寝台にクラウディアを横たえると、彼女は幽かにうめき声を上げた。身内の元に戻って、気が抜けたのだろうか。
「ありがとうございました」
 後から彼らを追ってきた女中頭が、慇懃に頭を下げる。
「妃殿下のお召し替えを致します。外にいらしてください」
 否とは言わせぬ勢いである。今更クラウディアの肌を見たところで、なんと言うことは無い。彼女と寸分たがわぬ双子の姉妹の身体を、何度も彼は見ているのだ。ただ一箇所。背に残る醜い傷跡以外は、二人はまるで同じ。その肌の滑らかさも、乳房の柔らかさも。全て二人は変わらぬだろう。
「ありがとう」
 退出するジェリオの背に、クラウディアが呼びかける。それを振り返らずに軽く手を振って、ジェリオは廊下へと踏み出した。と、入れ違いに長身の女性が寝室へと駆け込んでいく。
「……?」
 その横顔に、見覚えがあった。
「ルナリア?」
 王太子の、側室。オリアそのものが姿をとったといわれる、美しき女性。クラウディアの健康美とは真逆の、血の通わぬ人形めいた妖しさが、ルナリアには備わっていた。そして、その雰囲気は――ジェリオの知る、別の女性にとてもよく似ていたのだ。
「……」
 彼女はジェリオには気付かぬ様子であった。
「妃殿下」
 冷徹な表情には似つかわしくない、僅かに震えた声でクラウディアを呼ぶと、傍らに駆け寄っていく。それを待っていたかのように、ゆっくりと扉が閉められた。ひとり、廊下に残されたジェリオは、所在無げに壁に背を預ける。
 アグネイヤが先にこの館に到着していたはずだが。肝心の彼女はどこにいるのだろう。部屋にいないことは確かではあるが、ならば、どこに? とジェリオは考える。館の連中が、いやにあっさりとクラウディアを認めたことにも嫌な感じがした。
(アグネイヤ?)
 彼女は、どこかに捕らえられているのではないか。ふと、そんな思いが胸を過ぎる。だとしたら、この広大な屋敷のどこにいるのだろうか。定石であれば、地下もしくは屋根裏となるが。古い貴族の館には、お約束のように地下牢があることを思い出し、ジェリオは静かにその場を離れる。今、家人の目はクラウディアに向けられているのだ。誰に咎められることなく、屋内を探ることができるのは、この時間だけである。
 彼は毛足の長い絨毯の上を滑るように歩き、人気のない薄暗い階段を一息に駆け下りた。



「妃殿下」
 声に視線をめぐらせると、そこに懐かしい面影があった。
「ルーラ」
 クラウディアは、安堵の息と共に、彼女の名を呼ぶ。別れたのは夕刻のことだというのに、もう随分長いことあっていないような気がする。ルーラは、青い瞳に後悔の念と自責の念を揺らしながら、クラウディアの傍らに跪いた。
「申し訳ありません、妃殿下。私が、到らなかったばかりに」
 それは、心からの言葉であった。ひとときたりともクラウディアの側を離れるべきではなかった、と。ルーラは今激しく自身を責めているのだろう。ルーラがひとり席を立って、神殿に行ったから。クラウディアが刺客にとらわれたのだと彼女は思っているに違いない。
「気にすることは無いわ。無事に戻れたから、いいでしょう?」
 微笑には、しかしルーラはかぶりを振って。
「これが、ご無事といえますか?」
 湿布に覆われた身体に一瞬だけ視線を向ける。
 幸いなことに、骨折はなく。全て打撲であるとの医師の診断に、ルーラを初めとする使用人たちは、胸をなでおろしたものだ。しかし、一国の王太子妃の身に傷を負わせたことは事実である。
「責任は、全て私にあります」
 ルーラが深々とこうべを垂れる。
 クラウディアは、つと、手を伸ばし彼女の髪にそっと触れた。弾かれたように顔を上げるルーラに向けて、クラウディアはもう一度。静かに微笑む。
「だったら、もう、私から離れないこと」
「妃殿下」
「それから。こちらのほうが大切なお願いかしらね」
 ひとつ、息を吐いて。クラウディアはまっすぐにルーラの双眸を見詰める。
「あの子には手を出さないで頂戴」
「妃殿下」
 それは、とルーラが何か言いかけたが。クラウディアは視線で彼女の言葉を封じた。
「いるんでしょう? ここに?」
 問いかけにルーラは迷った風であったが。観念したのか、小さく頷いた。いらっしゃいます、と。小声で付け加えて。
「そう」
 クラウディアは吐息と共に言葉を吐き出した。ゆっくりと目を閉じ、寝台に深く身を預ける。
 アグネイヤが、ここに、同じ館に存在している。それは、気配でわかった。感覚を研ぎ澄ませば、片翼がどこにいるのか。大体知ることができる。それは、なにも特殊な能力などではない。ひとつになるはずの魂が、ふたつに分けられた結果。呼び合っているのだ、互いに。おそらく、アグネイヤもクラウディアの帰還を知っているであろう。知っているのに、彼女の前に現れないということは。
 とらわれている可能性がある。
 フィラティノアにとっては、これ以上ない収穫であろう。次期アルメニア皇帝の身柄を、労せずして得ることが出来た。ここでアグネイヤを殺害して、その首をアルメニアに届ければ。戦わずしてかの国を手にいれることが出来る。継承権を失っているとはいえ、クラウディアはまごうかたなきアルメニア皇女であり、皇太子の姉である。これほど正しい継承者が、他に存在するだろうか。
「あの子がいなくなっても、私に継承権は移らないわ」
 半ばうわごとのように呟く。傍らで、ルーラの気配が僅かに揺れた。
「叔父がいるもの。従兄でもある叔父がいるもの。彼に継承権は移っていくわ」
「それは」
「彼のほうが、アルメニアの皇帝には相応しいかもしれない。少なくともミアルシァは、彼を強く推すでしょう」
 叔父の母は、双子の母たるリドルゲーニャの、異母姉にあたる。ミアルシァ国王が侍女に産ませた子であるために、その身分は低く、アルメニア先帝の側室として迎え入れられた存在ではあるが。正妃であるアマリア王女・ウェルフェミネよりも寵愛されていたと聞く。
 とはいえ、皇女のひとりを嫁がせなければならなくなった、フィラティノアとの同盟。その発端はこのウェルフェミネ皇后の存在だった。彼女の母国であるアマリアが、隣国アダルバードの攻撃を受けた際、アルメニアに援軍を求めたのである。財政的には豊かではあるけれども、兵力を持たぬアルメニアには、皇后の故国を救う術はない。そこで、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのあったフィラティノアに同盟を持ちかけたのだ。
 アルメニアとフィラティノアの接近を快く思わぬミアルシァは、ひとつの策を練る。皇太子の妃としてリドルゲーニャが嫁ぐことは決まっていた。それ以上の絆を得るためには、もうひとり。生贄たる王族の娘が必要だ。目をつけられたのが、国王の落胤・アイリアナ。彼女をアルメニア皇帝の側室に、と。リドルゲーニャの輿入れに先立ち、送りつけたのである。
 姉は国王の側室となり、妹は皇太子の正妃となった。
 ふたりの心境は、いかなるものであろう。
 先帝は、幼い側室を心から慈しんだというが、父と同じような年頃の男性に嫁いだ娘が果たして幸せになれるのだろうか。互いに思いあっての婚姻ならばいざ知らず。これではまさしく生贄でしかないのだ。
 伯母の気持ちを考えれば、従兄こそが皇帝として即位すべきだとクラウディアは考えるのだが。
「うまく、いかないものね」
 ポツリと漏らせば、
「申し訳ございません」
 何を思ったのか。ルーラが詫びた。
 クラウディアは目を開き、ルーラを見上げる。
「あの子が何を言ったかは知らないけれど。クラウディアは、私よ。私が、クラウディアになった。事実は、覆せないから」
「御意」
 ルーラが頷いた。僅かに拳を震わせて。


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