人の魂(心・思惟たる意識)は輪廻転生していると言われます。無論、信じない人にとっては無意味な話です。
では、本当に人の魂は輪廻転生しているのでしょうか?。
正確に言うと、魂を腐らせたり捻子(ねじ)曲げてしまえば、その限りではないようです。
そうした魂は、神の手によって破砕されると言われています。
捻子(ねじ)曲がるとは、念で解る様に、今の心が捻子(ねじ)曲がったのです。
他の人に対して俺は偉いのだ式の方は、魂が捻子(ねじ)曲がっています。それを元に戻せない段階まで行くと、もう魂としては価値がなくなるのです。
神社などで護摩焚きなどが行われている時、ボウフラのような小さいものがキラキラと光って飛んでいることがあります。
一瞬、自分の目に異常が起きて、そうしたものが見えるのかと思っていましたところ、ある霊能者から、破砕された魂の残骸が次の命として出して貰えるのを期待して産土(うぶすな)神の社に集まって来る。そうした破砕された魂の残骸がそう見えると言われます。
仏教だけで走っていますと、どうしても産土(うぶすな)神と呼ばれる神の働きが解りません。
私達の魂の鬼籍(死後の戸籍)は、この産土(うぶすな)神界が管轄していると言われています。
故人が霊界のどこに行ったのか?、の問い合わせは、産土(うぶすな)神界に問い合わせた方が早いという話もあります。
現在はそうした産土(うぶすな)神は氏神様に統一されており、その地域を治めるのは氏神とされているわけです。
そうした小さな地域の氏神様を統括しているのが、その地域の総氏神様とされている大きな神社なのです。
西洋のキリスト教などでは、そうした氏神様制度は解らないようですが、その役目はキリスト教会に居る神霊や聖霊が司っていると言われています。教会が神社の役目をこなしているからです。
ですから、一神教だから産土(うぶすな)神が存在しないのではないと言われています。
自分が他の土地に引っ越した時、その土地の氏神様にご挨拶をしておくのが礼儀なのです。
誰でも引っ越しをすれば、新たに住む土地の役所に戸籍を届けるのと同じ意味合いです。
伏見稲荷大社は全国の稲荷神社の総本社ですが、氏神制度で言えば、京都市伏見区深草にある藤森神社の氏子になります。
で、藤森神社の御輿は伏見稲荷大社に不思議かかけ声でやって来て驚いた記憶があります。これを伏見稲荷大社は氏子の立場としてお迎えするのです。
藤森神社の創建は約1800年前ですが、伏見稲荷大社は1300年祭が行われたことで解る様に藤森神社から500年ほど遅いのです。
すなわち産土(うぶすな)神として創建された藤森神社の神が管轄する土地に伏見稲荷大社が創建されたことになります。
神から授けられた魂を腐らせたり捻子(ねじ)曲げて破砕された魂の残骸は、雨で落下して草の命とかボウフラの様な昆虫の命となって輪廻転生を始めると言われています。
だが、人として出して貰えるまでの魂になるまでには一億年ぐらいの月日がかかってしまうと、その時の師匠や他の霊能者からも聞きました。
人として世に出て来るのは、男性の一回の射精に何億匹の精子が発射されて、その精子の一匹が自分で、途方も無いチャンスに恵まれたなどというような論理ではないのです。
元々肉体と魂は別物で、記憶しているしていないは別として、その前世が人で無かったとしても前世を持つからです。
アメリカで眠れる偉大な予言者と言われたエドガー・ケーシーは、自分の前世には魚の時があったと書き残していますが、肉体に宿るそうした命は人として出る存在を羨ましく思っているのです。
羨ましいの「羨」は羊と次と書きます。どんな命でも羊の言である「譱(善)」を積むことで、次に人として出るチャンスが訪れるのです。
だが、人の身ならば善を思い切り積むことも出来ますが、畜生の身だったりすると、善を積むことは簡単ではないのです。だからこそ、羨ましいのです。
その人として出た世で、自分本位、自己勝手で他の人達に迷惑をかけてノウノウとしていれば、その魂は腐ります。
謙虚さを失って威張っていれば、その魂は捻子(ねじ)曲がります。
人として出た世は、次に神の位にも就けるチャンスの時なのです。それは、人間は神に似せられている存在だからです。
そして人の魂には天帝の分魂である良心神(直霊)が入ります。だが、この世を去ればもう魂に天帝の分魂である直霊は存在しなくなります。
愛は動物の世界にも存在します。しかし、良心神は人がこの世で肉体を持っている間だけなのです。
せっかくの人生、神の位に進めるチャンスの時なのです。人として出るまで苦労を積んで来たのです。
神など居ないと言っていると、次の世に人として出して貰えるのか?。かなり怪しくなります。
人は死ねば終わりだと言い張っているのならば、神はそれでもよしと言われるでしょう。
もったいないことをしてはダメなのです。
何故ならば来世を決めるのは神ではなくて、自分が積んで来た行為の結果だからです。
それを判定しているのが、良心神と呼ばれるこの世の閻魔なのです。
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では、本当に人の魂は輪廻転生しているのでしょうか?。
正確に言うと、魂を腐らせたり捻子(ねじ)曲げてしまえば、その限りではないようです。
そうした魂は、神の手によって破砕されると言われています。
捻子(ねじ)曲がるとは、念で解る様に、今の心が捻子(ねじ)曲がったのです。
他の人に対して俺は偉いのだ式の方は、魂が捻子(ねじ)曲がっています。それを元に戻せない段階まで行くと、もう魂としては価値がなくなるのです。
神社などで護摩焚きなどが行われている時、ボウフラのような小さいものがキラキラと光って飛んでいることがあります。
一瞬、自分の目に異常が起きて、そうしたものが見えるのかと思っていましたところ、ある霊能者から、破砕された魂の残骸が次の命として出して貰えるのを期待して産土(うぶすな)神の社に集まって来る。そうした破砕された魂の残骸がそう見えると言われます。
仏教だけで走っていますと、どうしても産土(うぶすな)神と呼ばれる神の働きが解りません。
私達の魂の鬼籍(死後の戸籍)は、この産土(うぶすな)神界が管轄していると言われています。
故人が霊界のどこに行ったのか?、の問い合わせは、産土(うぶすな)神界に問い合わせた方が早いという話もあります。
現在はそうした産土(うぶすな)神は氏神様に統一されており、その地域を治めるのは氏神とされているわけです。
そうした小さな地域の氏神様を統括しているのが、その地域の総氏神様とされている大きな神社なのです。
西洋のキリスト教などでは、そうした氏神様制度は解らないようですが、その役目はキリスト教会に居る神霊や聖霊が司っていると言われています。教会が神社の役目をこなしているからです。
ですから、一神教だから産土(うぶすな)神が存在しないのではないと言われています。
自分が他の土地に引っ越した時、その土地の氏神様にご挨拶をしておくのが礼儀なのです。
誰でも引っ越しをすれば、新たに住む土地の役所に戸籍を届けるのと同じ意味合いです。
伏見稲荷大社は全国の稲荷神社の総本社ですが、氏神制度で言えば、京都市伏見区深草にある藤森神社の氏子になります。
で、藤森神社の御輿は伏見稲荷大社に不思議かかけ声でやって来て驚いた記憶があります。これを伏見稲荷大社は氏子の立場としてお迎えするのです。
藤森神社の創建は約1800年前ですが、伏見稲荷大社は1300年祭が行われたことで解る様に藤森神社から500年ほど遅いのです。
すなわち産土(うぶすな)神として創建された藤森神社の神が管轄する土地に伏見稲荷大社が創建されたことになります。
神から授けられた魂を腐らせたり捻子(ねじ)曲げて破砕された魂の残骸は、雨で落下して草の命とかボウフラの様な昆虫の命となって輪廻転生を始めると言われています。
だが、人として出して貰えるまでの魂になるまでには一億年ぐらいの月日がかかってしまうと、その時の師匠や他の霊能者からも聞きました。
人として世に出て来るのは、男性の一回の射精に何億匹の精子が発射されて、その精子の一匹が自分で、途方も無いチャンスに恵まれたなどというような論理ではないのです。
元々肉体と魂は別物で、記憶しているしていないは別として、その前世が人で無かったとしても前世を持つからです。
アメリカで眠れる偉大な予言者と言われたエドガー・ケーシーは、自分の前世には魚の時があったと書き残していますが、肉体に宿るそうした命は人として出る存在を羨ましく思っているのです。
羨ましいの「羨」は羊と次と書きます。どんな命でも羊の言である「譱(善)」を積むことで、次に人として出るチャンスが訪れるのです。
だが、人の身ならば善を思い切り積むことも出来ますが、畜生の身だったりすると、善を積むことは簡単ではないのです。だからこそ、羨ましいのです。
その人として出た世で、自分本位、自己勝手で他の人達に迷惑をかけてノウノウとしていれば、その魂は腐ります。
謙虚さを失って威張っていれば、その魂は捻子(ねじ)曲がります。
人として出た世は、次に神の位にも就けるチャンスの時なのです。それは、人間は神に似せられている存在だからです。
そして人の魂には天帝の分魂である良心神(直霊)が入ります。だが、この世を去ればもう魂に天帝の分魂である直霊は存在しなくなります。
愛は動物の世界にも存在します。しかし、良心神は人がこの世で肉体を持っている間だけなのです。
せっかくの人生、神の位に進めるチャンスの時なのです。人として出るまで苦労を積んで来たのです。
神など居ないと言っていると、次の世に人として出して貰えるのか?。かなり怪しくなります。
人は死ねば終わりだと言い張っているのならば、神はそれでもよしと言われるでしょう。
もったいないことをしてはダメなのです。
何故ならば来世を決めるのは神ではなくて、自分が積んで来た行為の結果だからです。
それを判定しているのが、良心神と呼ばれるこの世の閻魔なのです。
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