冬休みが終わり、三学期が始まった。最終学年である僕達にとっては、もう授業は無く、自習の為に登校する以外は学校が提供する受験対策の補習を受けるくらいのものだ。そのため、中には朝から予備校に行って追い込みをかける人もいたりと三年生は思い思いの過ごし方が許されている。そのせいもあってか、三年生の教室があるエリアはがらんとして物寂しい雰囲気が漂っていた。
「引継ぎが終われば、僕も副会長職とはお別れか」
朝もまだ早い時間、僕は人通りもほとんどない廊下を独り言と共に歩く。目的はもう利用できるのも後僅かな生徒会室。後任の子達への引継ぎは今日からということで、僕は朝から資料でも纏めておこうかとこうして登校していた。
そして目的の生徒会室に辿り着き、扉に手を掛ければあっさりと開く。誰か先に来ていたんだろうか。それにしてもこんなに早い時間に来る人が自分以外にいるとは思わなかったな。
「って思ったら、やっぱり真だったね」
扉を開けた僕の前には、机に突っ伏して寝息を立てている真の姿。今日の引継ぎは僕だけでやる予定だったからわざわざ登校する必要は無かったのに。特に真は昨日までの諸々で疲れているんだから。
僕は真を起こさないようにそっと扉を閉めると、目的の資料を棚から静かに取り出しては机の上に並べていく。今年の会計報告資料や各イベントの準備の進め方だったり、これまで口頭と先人の雑多なメモだけしか残っていなかったのを簡単に手順書に纏めたもの。複数年に跨って生徒会役員を経験した人なら良いものの、初めて生徒会に入るメンバーにはあまりに不親切だった。
机に出したノートをパラパラと捲って内容を確認しつつ、自分と真の分のコーヒーでも用意しようとお湯を沸かす。このインスタントコーヒーを飲む特権も、後少しで終わってしまうと思うと少し寂しいかもしれない。
「ん……」
資料を流し見ながらコーヒーを飲んでいると、コーヒーの匂いか僕が資料を捲る音に気付いたのか、真が眠たげに瞼を持ち上げて僕の方へと視線を向けた。
「おはよう、真。コーヒーでも淹れようか?」
寝起きだからかぼんやりとした表情で僕を見ていた真は、首を横に振る。
「いい……なんでお父さんが学校に……?」
まだ寝惚けていたらしい真の口から漏れたお父さんという言葉に、僕はなんと返したものかと思案を巡らせる。丸喜先生の創り上げた世界で、彼が真の為に用意した救いは何だったか。真はその世界を自身の意志で振り切ったとはいえ、本当に未練が無いかと問われればそうではなかったんじゃないだろうか。
僕がそうして答えあぐねているうちに、真の頭は徐々に寝起きのぼんやりとしたものから現実を認識し始めたらしい。見る見るうちに耳の先まで血行が良くなっていくのが見て取れた。
「お、おはよう、徹」
「おはよう、真。コーヒーは要らなかったかな?」
「……頂くわ」
そう言って真は、再び顔を腕の中に埋めてしまった。それが二度寝の為では無いことは僕にも分かる。何やら不可解な呻き声を上げ始めた真はそっとしておいてあげようと僕はコーヒーの準備を進めた。
「……ありがと」
カップを手渡せば、真は先程よりは幾分か落ち着いた様子でそれを受け取ってくれた。両手でカップを持って僕から目どころか顔ごと逸らしながらコーヒーに口を付ける。
「暖房が効いた部屋にいると眠くなるよね」
「そ、そうね……」
「今日は朝早かったんだね。何かあったっけ?」
「そ、それは!」
先程の一幕に触れないようにしながら会話を進めようとしてみれば、真は急に立ち上がって僕の方をじっと見つめていた。
「あなたが、ちゃんと学校にいるのかって……」
そして尻すぼみに消えていく真の言葉に、彼女の不安に思い至った。真は、僕を恨めしそうな目でジトっと睨みつけている。
「また心配かけちゃったかな」
「心配、というより怖かったのよ。あなたともう会えないんじゃないかって」
そう言って真は立ち上がると、僕の隣に席を移した。
「……あなたは、怖くなかったの?」
隣に座った真からそう言われ、僕は頭を振った。怖くなかったと言えば当然嘘になる。友達や家族に二度と会えなくなることが恐ろしくない人間はそういないだろうと思う。
「だけど、丸喜先生を一人にしておけなかった」
あのまま彼を一人あそこに残してしまえば、丸喜先生はもっと頑なになってしまったんじゃないだろうか。僕と言葉を交わすこともしてくれなくなっていたかもしれないと思ってしまった。僕にとっては、丸喜先生も友人の一人だ。
「それで真に怖い思いをさせたのは、ごめんね」
「……ずっと、あの世界でぽっかりと胸に穴が開いたみたいだった。忘れちゃいけないことを忘れていることが辛くて、でも気持ち悪いくらいに心地良くて。……お父さんもいて」
いっそ全て受け入れられたらと思うくらいにと、真は呟いた。
「そのまま忘れてしまおうとは思わなかった? 幸せな世界に浸れたらと」
「ちょっと、思ったかもしれない。でも、それじゃあ駄目だと思った。それに、お父さんなら間違っていることは許さないと思ったから」
その言葉と共に、真の手が僕の右手を取る。
「こんな時に、ちょっとズルいかしら?」
そう言いながらいたずらっぽく見上げる真に、僕は自分の顔がやや熱を帯びていることに気付いた。それと同時に真が可笑しそうに吹き出すものだから、今の僕は相当間の抜けた顔をしていたのだと思う。空いている方の手で顔を覆って真の視線から隠れようとすれば、横でクスクスと真が笑った。
「ようやくあなたから一本取ったわね」
「一応、負い目みたいなところもあったんだけどね」
「それはあなたが負うべきものじゃないもの。私は自分の意思で、今を選んだ。……丸喜先生がやっていることは怪盗団がこれまでやってきたことと同じ。だから私達は丸喜先生と最後はぶつかり合うことしか出来ない」
真の言葉は、恐らく怪盗団の皆も感じていることだった。人の認知をまっさらに戻し、その罪を自覚させる怪盗団と、人の認知を改変し、幸せな夢を見せる丸喜先生。それぞれ目的とするところは違えど、手段は同じだ。それどころか、目的だって殆ど変わらない。どちらも今を苦しむ人を救いたいという気持ち。
「だから、丸喜先生と最後まで対話出来るのはあなたしかいないと思う。私が言えることじゃないかもしれないけど、頑張って」
「……うん、ありがとう真。僕の方が元気づけられちゃったね」
「いつも助けられていたんだもの、これくらいはさせて」
僕の言葉に答えるように、真の手を握る力が少し強くなる。僕なら丸喜先生を言葉で引き戻せるかもしれないと、少なくとも真は信じてくれている。それなら、僕は僕に出来ることを精一杯するだけだ。
「なら、丸喜先生に会う前に僕が話すべき人はもう一人いるね」
「そうなの?」
「うん、少し心配なんだ。それに怪盗団にとっても助けになる、かもしれないし」
そう言った僕の脳裏に浮かんでいたのは、一人の少女の顔だった。
「体調は特に変わりない?」
「はい、副会長さんの方も大丈夫でしたか?」
「僕は特に何も危害を加えられた訳じゃないからね。芳澤さんの方が負担が重かったんじゃないかな」
その言葉に、僕の前に座る芳澤さんは大丈夫だと言うように腕を軽く上げて見せる。芳澤さんの放課後の時間を貰ってこうして話す機会を作ってもらった。彼女も僕と話したいことがあったのか、すんなりと予定を合わせることは出来た。
「それより、今日はリボンしてないんだね」
かつては丸喜先生が居室としていたカウンセリング室。一人掛け用のソファに腰掛けた僕が芳澤さんを見て最初に目についたのは、彼女のトレードマークとも呼ぶべき赤い大きなリボンが彼女の頭に無いことだった。今は髪を下ろし、眼鏡を掛けており、その姿は今まで見ていた彼女の印象とは正反対のものだ。
「そう、ですね。あれは
僕の指摘に、芳澤さんは自身の頭にそっと手をやると伏し目がちにそう答えた。あのリボンを身に付けることが、彼女が芳澤かすみであるために必要な儀式だったのだろう。
「それに、私はもうかすみにはならない、なれません……」
私自身がそう決めたから。そう言った芳澤さんの表情は、しかしその言葉とは裏腹に不安に満ちたものだった。
「自分で決めたはずなのに、不安で堪らないんです。これから私はどうすれば良いのか分からない。時間が経てば経つほど、自分で要らないと捨てようとしたすみれでいることが、怖いんです……」
芳澤さんはそう言って両腕で自身の身体を抱く。微かに震えているのは、部屋が寒いからというわけではない。今、芳澤さんは否定していた自分を再び受け入れようとしている。今まで丸喜先生の治療によって自身を芳澤かすみと思い込み、芳澤すみれとしての人格を捨てようとしていた彼女が。けれどそれは彼女にとって苦しい選択だ。丸喜先生の言葉の通り、彼女は芳澤かすみのままでいた方が苦しまなくて済んだのかもしれないと思えるほどに。
「誰も、自分自身ですら、私を認めていないと思うんです……。おかしいですよね、私が選んだのに。……ごめんなさい、副会長さんと話したかったのに、話そうと思ったらあんまり纏まらなくて」
「大丈夫。言いたいことがあれば全部吐き出しちゃおう。僕は丸喜先生ほど聞き上手じゃないかもしれないけどね」
重くなってしまった空気を和らげようと冗談めかして言えば、芳澤さんはキョトンとしたような顔をしたかと思うと、僅かに表情を緩めた。
「そんなことないです。副会長さんだから聞いてほしいと思ったんです。不安だけど、それでも私がすみれでいようと思えたのは副会長さんの言葉があったからなんですから」
「選んだのも、選び続けられているのも、芳澤さん自身の強さがあるからだよ。そのきっかけになれていたのなら、嬉しいけどね」
「……副会長さんは私が強いって言いますけど、私はまだ自分をそこまで信じられないんです。私は結局、自分の為にかすみになろうとした。すみれでいることから逃げたんです。もしかしたら、また逃げようとするかもしれない。もう、戻らないと決めたのに」
そう口にする芳澤さんの顔は、また見る見るうちに強張っていってしまう。今の彼女に、そんなことはないと慰めの言葉を掛けることが正しいのか、あるいは別の言葉を掛けるべきなのか、考えるよりも前に、僕の口が勝手に動いた気がした。
「芳澤すみれになることを選んだからと言って、今までの芳澤かすみとして生きてきた道を否定する必要なんか無いと思うよ」
「え……?」
「芳澤かすみが芳澤すみれを目指した、その過程は消そうと思っても消せるものじゃない。きっと、今の芳澤さんの中にはどっちもいるんじゃないかな。芳澤かすみと芳澤すみれが。だったら、どっちも連れて行ってあげれば良い、芳澤さんの目指す場所に」
「私の中に、かすみが……」
ポツリと呟きながら、芳澤さんは自分の胸に手を当てて黙りこくってしまう。言われて気が付いた、というような表情で。
「副会長さん、私の名前を呼んでくれませんか?」
「名前を?」
「はい、今度こそ選んだから、あなたに呼んで欲しいんです」
そう言って顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見つめる芳澤さんの目は、最初のときのように迷いで揺れてはいなかった。スタートの合図を待つかのように、じっと僕の言葉を待っていた。
「芳澤すみれ」
「はい……! 私は、芳澤すみれです。かすみになるんじゃない。私は私のまま、私の中のかすみと一緒に、私の夢を目指します!」