邂逅
壱
全てが炎に巻かれて、大雨に押し流されて、悪夢から目が覚めて。
古い皇帝の首が落とされ、新しい皇帝の名前はまだ庶民には分からない。
そんな隙間の時間が、ひと月過ぎた。
※ ※ ※
微かに空気が揺れたような気がして振り向くと、五番目の弟がスルリと道場に姿を現した。
その答えに、紅兎は気落ちした心境を隠せずに視線を伏せた。紅兎と一緒に萌牙の帰宅を待っていた他の兄弟達も、それぞれ視線を手元に落とすと深く息をつく。
──
ポツリと胸中にこぼれたのは、行方が分からなくなっている末弟の名前だった。
都のほぼ全域が火の海と化したあの大乱から、ひと月が過ぎようとしている。
幸いなことに
屋敷を始めとした家財も、屋敷が都の外れに位置していたおかげで無事だった。周囲の状況を鑑みれば、自分達はこの上なく運が良かったと言えるだろう。
だからこそ、その『幸運』の代償となってしまった末弟のことを思うと、やるせなさが募る。
──
暴徒を最前線で押さえていたのが、鸞
混乱する人波の中を毎日のようにかき分け、やっと分かったのはそんなことだけだった。
それ以上の情報は、どう頑張っても集まらない。密偵や情報収集を得意としている萌牙でさえお手上げな状態だった。
死んだという話もなければ、生きているという話もなかった。黄季の傍には自分達の師兄にあたる
だがあの状況の中で、さらに『一番の激戦地』と言われる場所に黄季はいたのだ。どう楽観的に見積もっても無事だとは思えない。
──死んでいる、可能性も……
そろそろ真剣に、向き合わなければならない。むしろ自分達はいつまで『可能性』なんていう生半可な言葉に甘えていられるのだろうか。
『じゃあね、みんな。行ってきます』
最後に食事をともにした、あの時。
以前よりもグッと背が伸びた末弟は、幼い頃から変わらない笑顔を残して、闇の中に消えていった。それが自分達の見た、末弟の最後の姿だった。
さよならと、絶対に口にしなかった。それでも黄季はいつだって、『これが最期だ』という覚悟を
──……認めたくない。
その才を、国に見つけられてしまったせいで、苦しい思いをたくさんさせてしまった。自分達が非才であったせいで、あの子の代わりになれなかったせいで、あの子だけが苦しむ結果になってしまった。どうにかしたい、何かしてやりたいと思っても、行動することさえ許されなかった。
今更悔やんでみたところで、結果は何も変わらない。あの子が苦しんだ過去も、失われてしまった命も戻ってこない。
だけど。
紅兎はグッと両手を握りしめる。そんな紅兎の様子に、誰かが
だが結局、その誰かが声を上げることはなかった。
カタリ、と小さく音が響いて、道場に差し込む光がわずかに揺れる。
「……!」
『自分の感覚に触れることなくここまで接近できた人物がいた』という事実に、紅兎はまず驚いた。そのことを思った時には、すでに傍らに置いてあった棒を手にした体が音の出どころに向き直っている。
次いで紅兎は、そこに立つ人物が誰であるかを認めて言葉を失った。
「あっ……」
紅兎と視線を合わせたその人物は、一度驚いたように目を丸くしてから、気まずそうに視線を
その頃には他の兄弟もそこにいるのが誰かを理解し、弾かれたように、あるいは信じられないものを見たかのように腰を浮かせている。
「あ、あの、えっと……」
皆の視線を一身に集めた黄季は、……軍部に取られていた紅兎達の末弟は、おずおずと扉の陰から姿を現すと、気まずそうにポリポリと頬をかいた。
「帰って、きちゃった」
最終的に『テヘッ』と笑ってみせた黄季は、照れたように紅兎達へ視線を巡らせる。当人もまだこの状況にどんな顔をしたらいいのか分かっていないのか、その視線はどこともつかない宙をウロウロとさまよっていた。
「あの、混乱に乗じて、安湛さんが俺を密かに除隊してくれてさ。戦死、とはちょっと違うんだけど、……まぁ、存在を抹殺したというか、何というか」
『実は俺自身も、どうやったのかよく分かんないまま軍部から放り出されてて……』としどろもどろに説明を試みた黄季は、結局中途半端なまま言葉を止めてしまった。
そんな黄季がようやく、視線を紅兎に据えて、ぎこちなく笑う。
「えっと、俺……」
そんな黄季を見たら、もういても立ってもいられなかった。
「……っ!!」
カランッと、己の手から滑り落ちた棒が音を立てた時には、紅兎は黄季を抱きしめていた。駆け寄った勢いのままぶつかるように抱きしめられた黄季は、大きく目を見開いたまま固まっている。
「お帰りっ!!」
「お帰りっ、黄季っ!!」
「よく帰ってきたなぁ、黄季っ!!」
「ずっと、待っていた」
そんな二人の様子に、他の兄弟達も次々と黄季に駆け寄ってくる。
それでも紅兎は、きつく抱きしめた黄季の体を離そうとしなかった。
「ちょっ、……
「よく、帰った」
八年ぶりに真正面から抱きしめた末弟の体は、記憶にあるよりもずっとたくましくなっていた。
だがその体は今、八年前と同じように小さく震えている。
「本当に、よく帰ってきてくれた……っ!!」
紅兎は黄季を抱きしめたまま泣いていた。
それが顔を見ずとも分かったのだろう。おずおずと伸びた黄季の手が、控えめに紅兎の衣を掴む。
「ただ、いま」
紅兎が黄季を抱きしめる腕を緩めずにいると、やがてその手はすがりつくように紅兎の衣を握りしめる。
一度フルリと大きく震えた黄季は、次いでボロボロと大粒の涙を目からあふれさせた。
「ただいま、ただいま……っ、うわぁぁぁぁっ!!」
八年前の出立の時、黄季は泣かなかった。震えながらも、笑顔だけを皆に残して、軍部に向かった。以降もわずかに許された顔出しの時間、黄季はずっと笑みだけを家族に残していった。
それはきっと、自分が消えてしまった後、家族の中に残される記憶を、笑顔だけで埋めておきたかったからなのだろう。
その必要がなくなった今だからこそ、黄季はここまで泣くことができる。
その事実にも涙を流しながら、紅兎はようやく家に戻ってきた末弟を懐深くに抱き込んだのだった。
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