──あれから、どれだけ経った?


 目の前のヒトなのか妖怪なのか瘴気なのかも分からないモノから紫鸞しらんを引き抜きながら空を仰ぐ。だが業火の色を映し取った曇天は、まだ時間が経っていないようにも、とうの昔に夕暮れを迎えたようにも見えた。


 時間感覚もなければ、旗下の兵がどれだけ残っているのかも分からない。門を開いて外に飛び出してからずっと、目の前の『敵』をほふることが全てになっていて、他のことが考えられない。


 ──いつまで、こんなこと。


 ふと、心に影が差したような気がした。それでも自分に向かってくる敵影があれば、体は勝手に反応して紫鸞を振るう。黄季おうきに四方八方から飛びかかってくる影は、紫鸞のひと振るいで次々と黒い欠片かけらとなって消えていった。


 ──俺が死ななきゃ、この戦は終わらないっていうのに。


 ならば今にあらがって必死に戦い続けることに、何の意味があるのだろうか。


 ──いっそ己の手で、己の首をねてしまえば、楽になれるのではないか。


 そんな考えが、ゾロリと心の奥底から這い上がる。


 その考えはゾワリと背筋を粟立たせるのに、なぜか酷く甘美にも思えた。


 ──違う、駄目だ、そんなの……っ!!


 一瞬、紫鸞の動きが鈍る。


 だが黄季は必死に己を奮い立たせると再び紫鸞を振り被った。


 ──俺が自害に走れば、ここにいる皆も絶対に後を追う。そんなことはできない……っ!!


 この戦は黄季が死ぬまで終わらない。だが終わりの時はなるべく引き延ばさなければならない。


 ──泉仙省せんせんしょうはこれがただの乱じゃないって気付いてる。今だって対応に飛び回っているはずだ。なるべく時間を稼がないと……っ!!


 歯を食いしばり、四方八方から降りかかる敵意を斬り伏せる。


 もはや自分が斬っているのが人なのか、瘴気なのか、妖怪なのかも関係ない。終わりの時を引き延ばすために、黄季の体は考えることを放棄して紫鸞を振るい続ける。


 それでも息苦しいほどの陰の気と、大火にあぶられた風は、黄季の意識を朦朧と霞ませていった。


 ──ああ、終わらせたい。終わってしまいたい。


 己を雁字搦めにしていた理性が薄れていくと、顔を出すのは絡みつくような希死念慮だ。常に心の奥底にあったそれが、押さえつける意思を失ってゾロゾロと這い上がるように全身を絡め取っていく。


 ──終わってしまえば、楽になれる。


 不意に、紫鸞の刃に映り込む己の顔が見えた。


 血の気を失い、表情も失った己の顔は、自分に飛びかかってくる周囲の亡者と大して変わりがない。


 代わり映えがないというのに、なぜ自分は戦い続けているのだろうか。己こそが討伐されるべき『亡者』なのではないだろうか。


 そう、まさしく亡者だ。


 消し去ったはずである『らん』の幻影を皇帝に見せた亡者こそが、ばん黄季という存在だったのではないだろうか。


 ──ああ、殺さなきゃ。


 不意に、そう思った。


 自分が楽になるため、ではなくて。自分を終わらせるため、でもなくて。


 すでに亡者と化しつつある自分は、殺しておくべきだ。


 不意にそんな考えに、脳を焼かれたような気がした。それがひどく正しいことのように思えた。


 ソヨリと紫鸞の切っ先がそよいで、剣身が己の首筋に添えられる。意識のどこかで『駄目だ』と警鐘が鳴らされているのに、紫鸞を握る己の腕が言うことをきかない。


 ──これで、


 ストンッと、まぶたが落ちた。視界が閉ざされると、心が自然と凪いでいく。


 その静寂に安堵するように息をつきながら、黄季は最後の一打を振るうべく、紫鸞を握る腕に力を込める。


 その、瞬間。


「黄季っ!!」


 ガガガッと刃物が岩を削るような音とともに、苛烈な声が己の意識を叩き起こした。




  ※  ※  ※




 眼下は見渡す限り炎の海だった。


 王城の外壁の上を疾走しながら、涼麗りょうれいは目の前に広がる光景に歯を噛みしめる。


 おおよそ人が走れる場所ではないそこは、都の景色を一望できる場所でもあった。


 王城の内の空気が冷えているのに対し、王城の外はまさしく紅蓮の業火に沈んでいる。蜃気楼に揺らめく景色の向こうに見える影が、人なのか妖怪なのか、はたまた瘴気なのかも分からない。


 ──こんな場所、生身の人間が長くいられる場所ではない。


 黄季が布陣している王城正門前へ行き着くための最短経路が、王城を囲う城壁の上を走るというものだった。


 確かに今の状況で下手に地上を行けば、どこで足止めを喰らうかは分からない。地脈が乱れきっている現状では、涼麗お得意の転送陣も使える状況ではなかった。


 その点、城壁のむねの上ならば、涼麗達の足を止める邪魔者はいない。正門が城壁に備えられている以上、城壁を辿っていれば必ず正門前にも行き着ける。


 ──こんな場所を走ろうなどと考える命知らずも、他にいないだろうしな。


 人一人がようやく立てるかという幅しかない場所を、榮斎えいさいと涼麗は疾駆していた。


 退魔術で足場を確保できる涼麗はまだしも、ただの人でしかない榮斎にとっては足を踏み外せば即死が確定している場所だ。そうでありながら走る速度は涼麗よりも上というのは、さすが鸞軍密偵と言うべきだろうか。


「正門前まで、もうすぐです」


 その榮斎が、チラリと涼麗に視線を投げながら告げる。


 同時に涼麗は、なぜこの瞬間に榮斎が声を上げたのかも理解した。


「……っ!!」


 誰も立つことなどない城壁の上。都の様子と、正門周辺を一望できるであろう場所。


 涼麗達が突っ込もうとしている先に今、予期せず人影があった。


「榮斎」


 吹き上がる熱風に白衣びゃくえが揺れる様は、まるで白い牡丹が花びらを揺らしているかのようだった。傍らに炎で形作られた虎を侍らせ、背に大剣を負ったその人は、口元を笑みの形に吊り上げながら眼下の地獄を眺めている。


「伏せろっ!!」


 その人物に向かって。


 涼麗は足を緩めることなく、一切の容赦なく柳葉飛刀をなげうった。さらに力を込めて棟を蹴りつけ、身を伏せた榮斎を飛び越える形で前へ出る。


 涼麗が投げつけた飛刀は、全て大剣のひと薙ぎで払われた。さらに匕首ひしゅを構えた涼麗の渾身の一撃を一瞥いちべつもくれないまま大剣で受け止めた永膳は、スルリと大剣を動かしただけで涼麗の攻撃をいなしきる。


「っ!!」


 それを予想していた涼麗は、風術を駆使して足場を確保しながら次々と飛刀を擲った。だが風術や氷術を纏った飛刀は、永膳自身が動かずとも永膳に侍る煉虎れんこがことごとく払い落とす。


「いい感じに燃えてるだろ、氷柳ひりゅう


 タンッと軽やかな音とともに着地した涼麗が改めて匕首を構えても、永膳の視線が涼麗に向けられることはなかった。業火に沈む都を見つめる永膳の顔には、満足そうな笑みが変わることなく浮いている。


「これでようやく俺の邪魔をする者が消えた」


 その言葉に、涼麗は答えなかった。永膳の視線の先を追うこともない。


「何を望む、永膳」


 ただ、問いかける。


てい涼麗』という、確固たる意思を持つ存在として。


「お前は何を望んで、こんなことをしでかした」

「己の自由を通すためだ」


 対する永膳は、涼麗の言葉にわずかに目を細めた。


 相変わらず永膳の視線は都の景色に置かれたままだ。涼麗には永膳が何を考えているのか測ることはできない。


 ──否。


 だが涼麗は、そんな永膳の姿を見据えたまま、心の内で否定を呟く。


 ──本当は、ずっと前から分かっていた。


『ヒトの姿をした人外たれ』と永膳は涼麗をしつけた。『己の思考を持たない等身大の生き人形たれ』と永膳は涼麗を定義してきた。その定義にのっとり、涼麗はこれまで意図して考えることを放棄してきた。 


 そんな自分でさえ分かる、至極当然の真理。


「これで俺とお前の邪魔をする者はいなくなった」


 かく永膳が望むもの。


 それは『汀涼麗』を囲い込む箱庭だ。誰にも邪魔されることなく、誰にも変えられることなく、『汀涼麗』に執着していられる世界を、郭永膳はずっと求めていた。


「来い、。随分勝手をしたようだが、遊びの時間はもう終わりだ」


 燃え落ちようとする世界から、永膳はようやく涼麗へ向き直った。


 涼麗と揃いの白衣びゃくえをフワリと煉獄の風になびかせ、涼麗と対であることを示す佩玉をシャラリと鳴らしながら、永膳は涼麗へ手を差し伸べる。


「お前もこれで分かっただろう。『お前』を『お前』の定義から外そうとするモノは、全部全部燃えるんだよ」


 この煉獄は全てお前が原因で生まれたのだと、永膳は傲慢にわらった。


 涼麗が永膳から視線をらしたから。涼麗が永膳以外のモノに興味を示したから。『汀涼麗』が、永膳の規定する『汀涼麗』から外れようとしたから。


 だから、全部燃やした。全部壊してやった。


 全ては『汀涼麗』が『汀涼麗』であるために。郭永膳の『お人形』であるために。


「お前は、俺のものだ」


 その、絶対君主が告げる言葉に。


 涼麗は一度、ゆっくりとまばたきをした。


 自分に温かい光を見せてくれた人が、時折そうしていたように。


「……否」


 その上で初めて、『汀涼麗』は郭永膳に否定を返した。


 初めて、己の意思を、はっきりと示した。


「私がるべき場所は、お前の隣ではない」


 涼麗が紡ぐ言葉に、ピクリと永膳の眉が跳ね上がる。笑みは一瞬でかき消され、気味が悪いほどの無表情が涼麗に据えられた。


 それでも今の涼麗は揺るがない。永膳が向けてくる圧に囚われることもない。


「私が在りたい場所は、お前が定義する箱庭の中ではない」


 ひたと永膳を睨みつけ、世界に宣言するように声を張る。


 強く、強く。己に向かって放たれる呪縛の糸を、己の言葉という刃で断ち切るように。


 郭永膳という絶対君主が作り上げる世界を、己の意思と言葉でことごとく上書きしていくかのように。


「私は、私だ。私だけのものだ。私が立つ場所は、私の意思で決める」

「氷柳」

「『氷柳』はもはや、お前のものではない」


 キッパリと言い切った瞬間、永膳が背負う世界がグニャリと歪んだ。永膳を中心に形作られる煉獄に呼応するかのように、永膳の元に侍る煉虎が涼麗に向かって牙を剥く。 


 それでも涼麗の心は、鏡のように凪いでいた。


「お前が描いた地獄を、私は否定する」


 宣言とともに、涼麗は己の足元に飛刀を叩き込んだ。手の中に隠し持っている間にありったけの霊力を込めた飛刀は、突き立てられると同時に白銀の閃光を爆発させる。


「お前の地獄に、私は付き合わないっ!!」

「氷柳っ!!」


 永膳が怒号を上げた瞬間、閃光は周囲の全てを凍てつかせる冷気を炸裂させていた。


 閃光が視界を焼き、さらに熱波とかちあった冷気が周囲の景色を歪める。さしもの永膳も、永膳が使役する煉虎も、涼麗が生み出した姿なき壁をとっさに越えることはできない。


 そのすきに涼麗は宙へ身を躍らせていた。術によって生み出された爆風をうまく捕まえ、さらにそこに風術も加算し、物理的に己の体を正門前の激戦地まで吹き飛ばす。


 きりみする視界の中でも、炎の中で亡者と乱戦を演じる鸞軍兵士の姿は見えていた。


 その最前線で紫鸞を振るい続ける黄季の姿も。その姿が亡者の波に押し潰されそうになっている様も。陰の気に精神を蝕まれた黄季が、ゆっくりと紫鸞の切っ先を己の首筋に沿わせようとしているところも。


「黄季っ!!」


 ──間に合え……っ!!


 正確に狙いを定めていられる余裕はなかった。ただただ己の直感が命ずるがまま、黄季の周囲を囲むように飛刀を投げつける。


 その上で涼麗は、腹の底から声を張った。


「『これは天の声 天の怒り 天の裁き』」


 あらゆる術は、大地を走る地脈から引き出された力によって行使される。高位にある術式ほど発現に大量の霊気を必要とし、地脈から引き抜いた力が術式発現に足りていなければ、行使者の霊力が術式に喰われることになる。


 総力が術を行使するに足りなければ、術は発動しない。むしろ発動しなければ幸いで、下手に発動してしまうと己の命を対価として載せなければならなくなる。


 今この場の地脈は、乱れに乱れきっている。退魔術の行使のために地脈を利用できるような状況ではない。こんな中で大技を行使すれば、涼麗とて命の保証はないだろう。


「『天土あまつち貫く天剣てんけんの刃を我に下賜し給え』」


 それでも涼麗が口にしたのは、最上位とも言われている雷撃呪だった。


 それぐらいの威力を持つ術でなければ、周囲の陰の気を一掃できないというのもある。涼麗が一番得意とする術式であるというのもある。


 だが、それ以上に。


 ──これは、私の怒りの声だ。


 胸の内で渦巻く怒りと、覚悟と、自分が抱いた感情の全てを叩きつけるように。


『汀涼麗』は、吠えるように結びの呪歌を轟かせた。


「『轟来天吼ごうらいてんこう 雷帝召喚』っ!!」


 一瞬、世界は涼麗の怒号におびえたかのように静まり返る。


 次の瞬間、空から大地に向かって、何もかもを消し飛ばすかのように天剣の刃が叩きつけられた。




  ※  ※  ※




 何が己の手を止めたのか、分からなかった。


 そうでありながらとっさに『体を伏せる』という反応ができたのは、武人として鍛えられた直感が何かを考えるよりも早く体を動かしたからだ。


「……っ!!」


 視界が白くぜる。聴覚を破壊するかのような轟音が鳴り響き、自分という存在がバラバラになりそうなほどの衝撃が体を貫いていく。


 今まで身を置いていた煉獄とは比べ物にならない災厄だ。


 だというのに衝撃が駆け抜けた後の体には、久しぶりに感じる清々しさがあった。パリッと微かな紫電の音を響かせる空気が肺まで落ちれば、いつぶりかと思うほどに深く体に空気が染み渡る。


 ホッ、と、なぜか体から力が抜けた。


 それは己の頭上に、久しぶりに澄んだ青空が覗いたせいなのか。


 あるいは目の前にフワリと、風をまとって降り立った貴人の姿が見えたからなのか。


「ひ、りゅ……さん?」


 死の間際に見る幻覚にしては、やたらと鮮明な姿をしていた。ひたと黄季に据えられた視線はかつてないほどに鋭く、醸し出される空気は神々しいまでに張りつめている。


 ──まるで、退魔の貴仙だ。


 氷の牡丹と称するにはあまりに苛烈で、寒雷の具現と称するにはあまりに優美な。


 世界からくっきりと輪郭を浮き立たせるように、全身から強固な意思を発しながら。


 沙那さな最高位の称号を誇る退魔師が、凛と黄季に対峙していた。


 ──あぁ、やっぱり氷柳さんって、綺麗な人なんだなぁ……


 思わず、そんなほうけたことを思う。


 ここは煉獄のど真ん中だというのに。こんな風にぼんやりしていられる暇など、一瞬たりともないと分かっているのに。


 それでも見惚れずにはいられないほどに、今の涼麗の姿は一際美しく黄季の目に焼きついた。


「お前は、何をしようとしていた?」


 そんな黄季の視線の先で。


 一度唇を開き、引き結んでから、涼麗は再び唇を開いた。


「何を勝手に生きることを諦めている」

「氷柳さ……」

「私に人として生きることを強いておいて、お前は何を責任も取らずに勝手に死のうとしているんだ」


 厳しいまなざしを黄季に据えたまま、涼麗はツカツカと黄季との間合いを詰めた。


 その時になってようやく周りを見渡せば、周囲を埋め尽くしていた黒も赤も、今は黄季から遠ざけられていた。天から叩きつけられた雷撃によって、黄季達がいる周辺にだけぽっかりと澄んだ光が降り注いでいる。


「死ぬな」


 その光の中を進んできた涼麗は、黄季の前で足を止めるとフワリと膝をついて黄季と視線を合わせた。


 その上で涼麗は、そっと黄季の右手に己の左手を重ねる。ハッと視線を落とせば、地面に投げ出されてもなお、黄季の手はいまだに紫鸞しらんをガッチリと握り込んでいた。


「お前が死ぬのは、嫌だ」


 涼麗から向けられる声に、黄季はおずおずと涼麗へ視線を向け直す。


 真っすぐに黄季を見据えた涼麗の表情は、相変わらず無表情に近い。だがなぜか黄季には、その表情が泣き出す直前の子供の顔のように思えた。


 ──そういえば、執務室に来てくれた時も。


 涼麗はほとんど表情を変えないまま泣いていた。それでいてグチャグチャな内心が分かるような顔を、あの時の涼麗はしていた。


「……でも」

「お前が死んでも、この大乱は終わらない」


 黄季の唇からは、無意識のうちに涼麗の言葉を退ける言葉がこぼれていく。


 だが今回の涼麗は、黄季に全てを口にする隙を与えなかった。


「お前は知っているはずだ。この大乱は、呪詛師によって生み出された、大きな呪詛なのだということを。お前が死んでも、呪詛は止まらない。お前の死に損だ」

「でも、だって」

「お前に鸞であることをいる皇帝は、もういない」


 ──もう、いない?


 涼麗の言葉の意味が理解できた瞬間、黄季は思わず息を呑む。


 ──そうだ、皇帝陛下の、あの姿……


 黄季の目には、もうすでに皇帝の姿はヒトのものとして映っていなかった。瘴気の塊の底からふたつの眼光を光らせて鈍く笑う様は、妖魔奇怪の類だった。


 それなのに黄季はずっと、疑うことなくそれを皇帝だと認識し続けた。むしろ以前よりもより強固に『従わなければならない』と、無意識下で思い込んでいた。


 そう、まさに今の黄季は、『無くても有ると思う』ものに縛られている。


 ──まさかこの思い込みも、呪詛の一部だった……!?


「皇帝はすでに呪詛陣を起動させるための呪具と成り果てた。生きたまま、呪詛陣に取り込まれたんだ。あれはもはや、現状を打破するために撃破しなければならない、ただの標的物だ」


 そんな黄季の考えを肯定するかのように涼麗は言葉を続けた。震える視線を涼麗に向ければ、黄季の手に重ねられた涼麗の指先にキュッと力が込められる。


「都を救うために、皇帝を撃破する。同時に私は、お前を縛る全ても断ち切る」


 その指先が、温かいと思えた。


 さっきまで煉獄の中で、散々炎にあぶられていたというのに。明らかにそれとは違う温もりが、冷え切っていた黄季の体を温めていく。


「お前が戦わなくてもいい世界を、私が切り開いてやる」


 力強い声が、自分に重く絡みついていたしがらみの糸を、全て断ち切っていくような心地がした。


 ──体が、……心が、軽い。あったかい。


 その感触に、涙腺が緩む。軍部に仕官を強いられていた八年間、泣きたくなっても涙なんて一粒も流れなかったというのに。


「だから私に力を貸せ。この煉獄を吹き飛ばすには、お前の力が必要だ」

「……っ!」


 涼麗の言葉にグッと奥歯を噛み締めた黄季は、涙腺を引き締めてから顔を上げた。決意とともに涼麗を見上げれば、涼麗は強い光を湛えた瞳を変わることなく黄季に据えている。


「俺は、何をすれば?」


 その瞳が黄季の言葉を受けた一瞬、スッと笑みに細められる。


 だが笑みの気配は、本当に一瞬だけでかき消えた。


「これを」


 涼麗は背に負っていた弓を外すと黄季へ差し出した。黄季が戦場で使っている弓とよく似た長弓は、程よい重さを黄季の腕に伝えてくる。


「……確かに『死の託宣』は外れないと言われています」


 それだけで、具体的な指示がなくても涼麗が何を求めているのかは理解できた。チラリと視線を落とせば、涼麗の腰には微かに燐光を帯びた矢も見える。何かしらの術式が込められた特別製の矢なのだろう。


『ここから皇帝を狙え』と涼麗は言外に言っている。


 確かにここが戦場ならば、らん紫藍しらんの『死の託宣』は何よりも有効だ。皇帝がおわします紫龍殿はここからかなり距離があるが、常の『死の託宣』に加えて退魔術の助けもあるならば、その部分は問題にならない。


 現状で一番の問題は、ここがだ。


「でも相手が建物の中にいる場合は」


 あくまで黄季が放つのは普通の矢だ。建物をすり抜けて宮殿の奥深くまで矢を射掛けることはできない。


 ここから矢を放っても、障害物に阻まれて目の前の正門さえ越えられるかどうかは怪しい。


「問題ない」


 だが涼麗は力強く断言した。


 同時に、涼麗の視線が正門の向こうへ投げられる。


「破壊と整地の専門家が動いている」

「え?」


 その瞬間、まるで涼麗の声が聞こえていたかのように、正門の向こうから轟音が轟いた。


「えっ!?」

「安心しろ。お前の配下は事前に避難させられたはずだ」

「えっ!? えっ!?」


 わけが分からないまま、黄季は戸惑いの声を上げる。


 その瞬間、


「撤退っ!! 各自己の安全を確保しつつ、撤退ーっ!!」


 安湛あんじんの撤退指示が、瓦礫と化した正門が崩れ落ちる轟音にかき消されていく。


 その音さえ叩き斬るかのように、崩落の中に閃光が走った。その軌跡を無意識のうちに追っていた黄季は、そこで展開されていた戦いに目を見開く。


「よぉ、永膳! 随分なオイタをしてくれたなぁ、テメェはよぉっ!!」

「……っ!!」


 割り砕かれ、破片と化した瓦礫を足場に宙を跳び回りながら、慈雲じうんが偃月刀を振るっていた。その斬撃を永膳が大剣を掲げて凌いでいる。


 だがその攻防は明らかに永膳が劣勢だった。上から叩き込まれる重い斬撃をいなしきれず、永膳の体は勢いよく落下していく。


「よーやくそのツラ叩き潰せると思ったら、ワクワクしちゃうなぁ、僕はっ!!」


 慈雲の傍らには貴陽きようも控えていた。


 呪扇を縦横無尽に振るって慈雲と自分の足場を次々と作り出していく貴陽は、その片手間に煉虎の攻撃をも無効化しているらしい。


 永膳は次々と煉虎を召喚しては慈雲に向かってけしかけているが、その全てがことごとく貴陽の結界に阻まれ、慈雲の髪先さえ掠め取れないまま紅の燐光に還っていく。


「永膳の足止めも、二人に任せておけば問題ない」


 さらにその二人に加勢する形で榮斎えいさいの姿まであることに気付いた黄季は、こみ上げる感情を押さえ込むためにグッと奥歯を噛み締める。


「あの二人がここまで来たということは、無事に道が開いたということだ」


 その上で涼麗の言葉を聞いた黄季は、決意とともに膝を上げた。弓を握った左腕をユルリと上げれば、涼麗が腰から抜き取った矢を黄季へ差し出してくれる。


「やれるな? 


 その、確信が込められた言葉に。


 黄季はスッと一度深く息を吸い込んで腹の底まで落としてから、凛と声を張った。


「はいっ!!」


 スルリと右手が涼麗の手から矢を持ち上げ、流れるような所作で弦が引き絞られる。


 初めて握った弓だったが、問題はない。


ばんの麒麟児』


 そう呼ばれた自分にとって、武芸は見た瞬間から己のものだった。触れた武具はその瞬間から己の手足だった。


 緊張はない。心はいつになく凪いでいる。


 見えない的を狙っていても、外れるという可能性は不思議と浮かばなかった。キリキリと限界まで引き絞られた弓が上げる微かな悲鳴に溶かし込むかのように、己が呼吸する音が微かに響く。


 矢を放つ瞬間は、いつも世界が教えてくれる。


「……鸞の風に従わざる物」


 自分と世界の輪郭が溶け合って、等張に還る。


 その瞬間スルリと、祈りの言葉は落ちた。その言葉を吸い上げたかのように、矢が纏っていた白銀の燐光の中に琥珀の光が混じる。


「この世にぞなき」


 キュインッ、と、全てを蹴散らすかのように、矢は黄季の手元から飛び立っていった。軌跡に光を撒き散らしながら空を割いた矢は、真っすぐに空の中に消えていく。


 しばらく、世界は無音だった。


 やがてその静寂の中にパキンッと微かな音が響く。


 その瞬間、世界がグニャリと歪んだ。


「っ!?」


 グラグラと世界が揺れているかのような感覚に、思わず黄季はその場でたたらを踏む。


 そんな黄季の背中を支えてくれたのは、傍らから伸ばされた涼麗の腕だった。黄季を抱き込むように片腕で支えた涼麗は、懐から水晶玉を取り出すとグッと握りしめる。


 その手から白銀の燐光が舞う様を見た黄季は、考えるよりも早く己の手をそこに添えていた。


 黄季の手元からこぼれ落ちた琥珀の燐光が白銀の中に混ざり込み、水晶玉の中に黄金の光が散る。


「『これは炎を水と化し 水を炎と化す』っ!!」


 まばゆい光に焼かれた視界はもはや役目を果たさない。酷い耳鳴りの向こうから響く呪歌を誰が紡いでいるのかも分からない。


「『白龍の導きをもってここにこうげいを招かん』っ!!」


 ただ背中を支えてくれる腕の温もりだけが、『確かにここにある』と確信できる唯一のものだった。


 それだけがあれば、十分だった。


「『反転せよ 炎水えんすい白虹びゃっこう大反転陣』っ!!」


 光の向こうで、耳鳴りの向こうで、呪歌が結ばれる。


 その言葉を受けた世界は、一瞬沈黙した。


 だが次の瞬間、音が上がるよりも早く炸裂した光が地中をほとばしり、全てを消し飛ばしながら広がっていく。


 陰から陽に反転した力が、地上に折り重なった瘴気も亡者も全てまとめて浄化していく様が、退魔師ではない黄季にも感覚を通して伝わった。


「……っ!!」


 その強烈な感覚に、黄季は思わず固く目を閉じて頭をかばうように腕を上げる。衝撃をいなしきれていないのは涼麗も同じなのか、黄季を支える涼麗の腕も強張っているのが分かった。


 どれだけそうやって衝撃に耐えていたのだろうか。


「……?」


 黄季がユルリと目を開いたのは、衝撃が過ぎ去ったと思った瞬間、空気が変わった気がしたからだった。


 フッ、と空気の緊張が緩む。


 そう思った次の瞬間、空からは桶をひっくり返したかのような雨が降り注いでいた。


「っ!?」


 まるで天下の全てに無理やり頭を下げさせるかのような大雨に、黄季も涼麗も思わず雨から顔を庇うべく頭を下げる。


 その瞬間に、虹蜺の先触れである雨龍は、黄季達の頭上を過ぎ去っていったらしい。


「……あ」


 唐突に降り注いだ大雨は、降り止むのも唐突だった。


 スッと雨が遠のいていく気配に頭を上げた黄季は、目の前に広がっていた光景に小さく声をこぼす。


「空、が」


 もはや紅蓮の炎も、漆黒の亡者も、どこにもなかった。


 瓦礫の山と化した王城を背景に、ポカンとした顔で空を見上げている兵の様子が見て取れた。


 振り返って眼下の都へ視線を投げれば、スッキリと憑き物が落ちたように爽やかな空が広がる下に、燃え落ちた都が静かに佇んでいる。


 その景色の中にいる民も、まるで悪い夢から今目覚めたと言わんばかりにポカンと空を見上げては、キョロキョロと周囲を見回していた。


 暴乱の気配は、もはやどこにもない。空気はスッキリとしていて軽く、明るい光が都の隅々まで行き渡っているのが分かる。


「……終わっ、た?」

「ああ」


 無意識のうちに呟いていた言葉に、応えがあった。


「終わったな」


 その声に黄季は、己の傍らを見上げる。


 視線の先にいる涼麗は、黄季の視線に気付くと、ユルリと顔に笑みを広げた。


「全部、終わった」


 まるで、牡丹が花開くような。あでやかで、それでいて穏やかな笑顔に、黄季は思わず息を詰める。


 黄季から都へ視線を移した涼麗は、ついっと空を見上げた。


 その視線の先を追えば、はるか上空を舞う鳥影が見える。二羽が連なって飛んでいるのか、影は形を変えながら、悠々と青空の中を進んでいった。


 こんな空を舞う鳥は、さぞかし気持ちがいいだろう。


 いつも羨望ばかりを向けていた空に今日はこぼれ落ちる笑みを向けて、黄季はいつまでも涼麗とともに澄み渡る空を見上げていた。

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