辞世
壱
自分を取り巻く風は、いつだってきな臭い香りをはらんでいた。
それでも今、自分を取り巻く風以上にきな臭い風を、
──まさか今まで経験してきたどの戦よりも過激な戦いを、こんな都のど真ん中でやることになるなんてなぁ……
大乱勃発から、一夜明けた昼過ぎのことだった。
すでに形勢は皇帝側に不利に傾いている。
五大将軍のうち、
黄季の勘でしかないが、
──
皇帝は案の定、夜明けとともに
『戦じゃ、戦じゃ』と暗く目を輝かせる皇帝は、もはや人の姿をした『何か』にしか黄季には見えなかった。
恐らく皇帝は、もう随分前から『ヒトではない何か』に成り下がっていたのだろう。道理で五大将軍からの進言が一切通らないはずだと、黄季はこの局面になって納得した。
──間違いなく、ここが一番の激戦地になる。
死の気配が、いつになく傍に、目の前にある。
だというのに、黄季の心はいつになく穏やかだった。軽やか、とまで言えるかもしれない。
──今日が最期、か。
それは、きっと。
今まで自分が、この重たい
思えば将に上がってから、黄季はずっとこの瞬間を待ち望んできたのかもしれない。
──さて。
「
状況に似つかない小ささで己を呼んだ声に、黄季は静かに振り返った。戦場にあるに相応しい装備に身を包んだ
「全軍、支度が整いました」
「……分かった」
言葉とは裏腹な感情を視線で訴える安湛に、黄季はあえて気付かないフリをした。そんな黄季の振る舞いに、きっと安湛は気付いている。
それでも安湛が言葉に出して内心を訴えてこないのは、安湛とて黄季が置かれた立場を重々承知しているからだ。承知した上で逃げ場などどこにもないことを、分かっているからだ。
──八年、か。
長いようで短いその時を、血の繋がった家族に代わってずっと傍で見守っていてくれた師兄に、黄季は一瞬だけ笑みをこぼす。
その笑みだけで、黄季は己の心に蓋をした。
安湛を従え、己の配下が整列した広場へ出向く。王城の正門前広場に整列した配下達は、聞き慣れた黄季の足音に気付いたのか、黄季の姿が視界に入るよりも早く姿勢を正した。
──五百……いや、それよりも少ない、か。
揃いの鎧に身を包み、整然と並んだ部隊は、随分とこぢんまりとしていた。
それも当然だ。
今、鸞軍の大半は鳳軍とともに国外に出ている。昨日の朝出立した鳳将軍に、黄季が直前で頼み込んだことだった。
──良かった。鳳将軍の出立が間に合って。
鸞紫藍自身はここで死ななければならない。だが旗下の者をその死に付き合わせるつもりはない。黄季が正直に事情を説明したところで、旗下の者は誰も素直に『はい、そうですか』とは言わないだろう。
ならばどうすれば良いのか。
己の死に場所に、最初から旗下の者を連れていかなければ良いのだ。
──やっぱりお前は考えが甘いね、
鳳将軍は、恐らく最初から亡命ありきで今回の出兵を計画している。だからさり気なく黄季に助力を要請し、混乱に紛れて黄季を国外へ連れ出そうとしてくれた。
その好意に、黄季は部分的に便乗させてもらった。『鸞軍からの応援』という名目の下、旗下の大半を預けるという形で。
今回鸞軍将軍代理に抜擢された遊渠は、大役に胸を弾ませるあまりに黄季の思惑には気付けていないだろう。そういう人間から優先して派兵に回した。
黄季が前々から考えていた『自分の死に旗下は付き合わせない』という計画を、確実に実行するために。
──気が付く人間ほど、俺の思惑を察して居残りを申し出てくるんだもの。
結局、鸞軍の中でも一際忠義に厚い人間ばかりがこの場に残ってしまっている。
黄季の手元に残された兵は、仮にも五大将軍の座にある人間が率いる規模の人数ではない。急な出陣命令で、装備も十分とは言えない状況だ。
だがそんな状況でも、この面々ならば、それなりの時間は稼げるだろう。
常勝不敗。戦場に出た時点で勝利が約束されている。
そう讃えられた黒鸞将軍を支えた力の真髄がここにある。今から演じるのが玉砕前提の負け戦だということが惜しくなるほどに。
──勝機が見えない戦から、どれだけの配下を帰せるかで、将の力量が計れる……だったっけ。
五大将軍に上がったばかりの頃、鳳将軍に教えられた言葉をもう一度噛み締めてから、黄季は最期の戦にまで付き従ってくれる部下達に向き直った。
腰に
その風を深く吸い込み、黄季は真っ直ぐに前を見据えて、凛と声を張った。
「皆、聞け」
チリチリと空気が燃える音さえ聞こえるかのような静寂を切り裂いて、黄季の声は広場中に響く。
今この場でもそんな声が出せたことに、黄季は少しだけ安堵した。
「皆、この場まで私に付き従ってくれたことに礼を言う。こんな年端も行かない未熟者に、皆よく従い、働いてくれた」
この場に並んだ者は皆、黄季とともに戦場で死ぬことを望み、黄季の思惑を跳ねのけた人間ばかりだ。黄季に不満を抱く者も、死が覚悟できない者も、この場には残されていない。
そんな彼らは、黄季が己を卑下する言葉を発しても瞳を揺らすことさえしなかった。黄季が黄季自身をどう評しようとも、自分達は最期まで黄季と生死をともにするという固い覚悟がその眼差しからは
「今から、最期の命を発する」
その視線を真正面から受け止めたまま、黄季は言葉を続けた。
「まず、死を恐れる者は、列から外れろ。そのまま後ろへ下がれ」
命を発してからしばらく間を置いても、列から外れようとする者はいなかった。黄季を一心に見つめる彼らは、まるで彫像であるかのように微動だにしない。
──予想通りだったな。
そのことに内心だけで苦笑してから、黄季は次の言葉を発した。
「次に、あの壁の向こうに家族を残している者も、列から外れるように」
続けられた言葉には、サワリとわずかに空気が揺れる。
ここにいる全員が全員、天涯孤独の身であるはずがない。ここに
わずかに動揺を見せながらも、それでも隊列が乱れることはなかった。それを見た黄季は傍らに立つ安湛に視線を向けると、軽く
黄季から無言の指示を受け取った安湛は、自身も無言のまま隊列の中へ分け入った。無言のまま安湛に肩を叩かれた人間達は、悔しそうに、泣きそうに顔を歪めながらも、反発することなく隊列から外れる。
──
鸞軍に所属する者全員の縁者を調べ上げることは、並大抵のことではなかっただろう。そんな大変な仕事を、利用意図が分かった上で粛々とこなしてくれた隠密に、黄季は心の内だけで小さく礼を告げる。
これが、黄季が前々から考えていた『計画』だった。
己が死地に立つ時は、なるべく旗下の数を減らす。家族がある者は、それを理由に戦列から外れてもらう。その上で、最後まで戦列に残った者達は、己の命をかけて生きて帰す。
──最後だけは、どれだけ果たせるか分からないけども。
そんなことを考えている間に、安湛は元いた場所に戻ってきた。
黄季の目の前には、ほぼ二分化された部隊が並んでいた。後方へ下げられた人間の方がわずかに多いか、といった配分だ。
その両方に視線を向けてから、黄季は改めて指示を投げる。
「残された者は、私に従え。外された者は
「なっ!?」
「私の策に従えない者は、この場で即座に任を解く」
反論が上がるよりも先に圧を込めて言葉を重ねれば、安湛は反射的に口をつぐんだ。その一瞬の隙さえあれば、将としての黄季の声は居並ぶ人間の心に染み込んで離れない。
「黄季、お前……っ!」
だが唯一、安湛だけが声を上げた。黄季に詰め寄る安湛は、久しぶりに『采副将』ではなく『采師兄』の顔をしている。
だから黄季は一瞬だけ、ただの『
「安湛さんをここで死なせたら、兄ちゃん達に言い訳が立たない」
「それは俺の台詞……っ!!」
「俺が死ななきゃ、この戦は終わらないよ」
口調だけは、幼い時分と変わらないまま。
ただ安湛に向けた表情だけが、年相応ながらも年相応以上に悟り切ったものだった。
「終わらないんだ」
『全てを諦めたような』と表すには無邪気な顔で黄季は微笑んだ。春の日差しの下で咲きほころぶ野草のような柔らかな微笑みに、安湛が言葉を失ったかのように目を見開く。
「だから、安湛さんだけでも、兄ちゃん達のところに帰ってあげてよ。俺の最期を、伝えてあげてよ」
その表情にふと、昨日の夜、執務室に飛び込んできた佳人の顔が重なって見えた。
『なぜお前だけが、そんな理不尽に従わなければならないんだ』
そう言ってくれた人と、今の安湛は、同じような表情を黄季に向けている。
──本当に、どうしてなんでしょうね?
耳の奥に
自分が『鷭の麒麟児』でなければ良かったのか。
あるいは、自分があの夜、あの佳人と出会わなければ良かったのか。
【あの夜、あなたに出会わなければ良かった】
突きつけたあの言葉は、間違いなく黄季の本心だった。
【そうすれば俺は、死にゆく定めをただ受け入れることができただろうに】
ただ、その後に続いた言葉は、本心などではない。
だって黄季は徹頭徹尾、己の定めを受け入れているから。
ただ今更になって、どうすればこの展開を避けることができたのだろうかと、ふと疑問が胸を
「貴君らにも告げる。これが私の最期の言葉だ。とく胸に刻め」
感情を消すのなんて簡単だ。
ただゆっくりと
「私の死に追従することを、私は誰にも許さない」
ギリッと、紫鸞の
全てを
皮肉なことにきっと、逆風に藍色の外套をなびかせて立つ黄季の今の姿は、どの戦場に立っていた時よりも黄季を『鸞』に相応しい姿に見せていることだろう。
「貴君らは、生きて帰れ。この戦場で死ぬのは私だけでいい。貴君らには、この戦場から生きて帰り、私の最期を陛下に伝える責務がある」
この一戦はきっと、黄季の首が落ちるまで終わらない。ここは黄季のために用意された墓穴だ。
だからこそ、ここで死ぬのは、黄季だけでいい。
「鸞の末代、不肖の黒雛は戦火に散ったと、必ず陛下に申し上げろ。それを貴君らの最後の責務とする」
黄季の声に応えるかのように、壁の向こうから火の粉が舞う。
地の底から響く亡者のような声は、あの壁の向こうにいる暴徒達のものなのだろうか。あるいは瘴気に飲まれた、本物の亡者達のものなのだろうか。
「
そんな妄想を胸中に押し込んで、黄季は右腕を振り抜いた。
「皆の武運を祈る」
黄季に分かることは、ただひとつ。
自分の声に応えて上がった声が、現状に
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