本来ならば、この場所をこんな風に走っていたら、無礼討ちにされても文句は言えないのだろう。


 ふとそんなことを考えたのは、人生で初めてと言ってもいいくらい必死に息を切らせて走っているせいで、頭が回っていないからだ。


「……っ!!」


 夜闇に沈んだ瑞雲殿の廊下を、涼麗りょうれいはひたすら疾走していた。幸いなことに人目らしきものがないせいで、涼麗が咎められることはない。


 ──っ、この状況で、これは……っ!!


 今日の昼、都の複数箇所かしょで突如爆炎が噴き上がったのをきっかけに、ついに民は皇帝に向かって決起した。


 今までも暴動自体は度々起きていたが、今回は話が違う。


 今までは個々に起きていた暴動が、今は全て連動している。矛先は皇帝に向けられていて、暴徒は四方八方から王城に向かって押し寄せていた。今は門を閉じ、籠城戦でしのいでいるようだが、それを突破されるのも時間の問題だろう。


 何せこれはただの暴動ではない。呪詛陣によって認識を狂わされた人々が引き起こしている、一種の蠱毒だ。


 たがが外れてしまった人間は、正常な状態の人間では押さえきれない。呪詛に狂わされた人間は、もはや生ける凶器だ。恐らく軍部が対応させられているのだろうが、軍部で押さえきれるものではない。


 ──頼む、そこにいてくれ……!


 今は地脈も乱れきっていて、転送陣で移動することもままならない。


 かく家で発動してしまった呪詛陣は、涼麗の手に負えるものではなかった。


 涼麗にできたことと言えば、郭家の外周に残されていた結界の定義を改変し、あれ以上呪詛が外に広がらないように囲いを設けた上で撤退することだけだった。


 呪詛陣は変わらず瘴気を吐き出し続けており、郭家から放出された高濃度の瘴気は都全体に展開された呪詛式の原動力になっている。涼麗が残した結界の内側は、今や生物が一瞬たりとも存在できない忌地いみちと化していることだろう。


 乱れ狂う地脈を何とか掠め取って転送陣を発動させ、命からがら泉仙省せんせんしょうに帰還した時には、すでに泉仙省の中は天地をひっくり返されたような騒ぎになっていた。


『涼麗、すい家に残されていたのは、御当主様の首だけじゃった』


 そんな中でも、うん長官は涼麗の帰投をギリギリまで待っていたのだろう。


 涼麗が長官室に飛び込んだ瞬間、薀長官は前置きなしに切り出した。


『郭家もか?』


 ──翠家もあれと同じ状況だったならば。


 残りの二家……えん家と家も無事ではないだろう。郭家で見たものと同じ光景が展開されていたはずだ。


 ──四鳥しちょうが落ち、呪詛式の展開基盤にされてしまった。


『涼麗、今晩を逃がせば、もう機会はない』


 次いで涼麗の耳によみがったのは、緊急事態を受けて一度泉仙省に帰投してきた慈雲じうんの声だった。


らん紫藍しらんは必ず暴動鎮圧の最前線に出される。会いに行け。伝えてこい』


 何を、という内容を、慈雲は言葉にしなかった。あるいは自分が、その言葉を聞く前に飛び出してきてしまっただけなのかもしれない。


 伝えなければならないことは、たくさんある。泉仙省と軍部を繋ぐ伝令役を引き受けていた自分は、この大乱の裏に隠された真実をひとつ残らず黄季おうきに伝える義務がある。


 だけど、それ以上に。


「……っ!!」


 ようやく見えた鸞の彫刻も美しい扉を、涼麗は体当たりをするように押し開いた。見た目よりも軽やかに開いた扉の隙間から、涼麗は倒れ込むように室内へ踏み込む。


「……氷柳ひりゅうさん?」


 耳に馴染んだ声に顔を上げれば、執務机についた黄季が目を丸くしていた。常に物静かだった涼麗が、汗だくな上に肩で息をしながら登場したのだ。驚くなという方に無理があるだろう。


「どうして、あなたがここに……」


 慌てて席を立った黄季は、執務机を迂回しながら涼麗に歩み寄る。頼りない灯火だけが光源になっている部屋の中でも、黄季が涼麗を案じている様子は手に取るように分かった。


 そのあまりにもいつも通りな黄季の姿に、ザワリと心の奥底が揺れる。


「理由を説明している暇はない」


 背筋を正した涼麗は、躊躇ためらいを振り切って自分からも距離を詰めると黄季の腕を掴んだ。涼麗らしくない手荒い仕草に、黄季が目を丸くする。


「えっ、氷柳さ……」

「逃げろ、黄季。この大乱は、都を灰燼かいじんに帰すまで止まらない」


 涼麗が端的に告げた言葉に、黄季の喉がヒュッと音を立てたのが分かった。驚愕に体が固まり、掴んだ腕からスッと体温が消えていく。


「直接的な武力で止められるものではない。お前は今すぐに国を出ろ」


 涼麗を見上げたまま固まった黄季を真っ向から見据えて、涼麗は言葉を突き付けた。黄季の腕を取った手に無意識のうちに力が籠もったのか、黄季の瞳がわずかに揺れる。


 その様子に、涼麗の心にジワリと焦燥がにじんだ。


 一退魔師と一将軍という立場になって考えれば、真に伝えなければならないのはこんなことではない。大乱解決のために役立つ情報を的確に伝え、効果的な対処方法と今後の協力体制について協議をするべきだ。


 だがそれが分かっていても、涼麗が真っ先に伝えたかったことは『逃げろ』という一言だった。


 ──巻き込まれてほしくない。生きていてほしい。


 つい最近まで『お人形』と揶揄やゆされてきた自分が、今は叫び出したいほどに痛切な願いを抱えている。


 その一念を伝えるためだけに、涼麗はここまで来た。 


「氷柳さん……」


 そんな涼麗の今の姿を、どう感じたのだろうか。ポツリと力なく涼麗を呼んだ黄季は、一度ユルリとまばたきをする。


 呼吸ひとつ分の間を置いて再び涼麗に据えられた瞳は、もう揺れてはいなかった。それどころか静謐な光を宿した瞳は、どこまでも穏やかに笑みを湛えている。


 その静けさに、ヒヤリと寒気が走った。


「ええ」


 対して黄季の唇からこぼれ落ちる声は、場違いなくらいに柔らかい。


「知っています」

「……っ」


 その言葉に、今度は涼麗が声を詰まらせる番だった。


 同時に、あれだけの力で涼麗が腕を引いていたというのに、黄季が涼麗との距離を詰めるどころか、よろけることさえしていなかったことに今更気付く。


 まるで堅固に己の立ち位置を示すかのように。自分は、涼麗の隣へ歩み寄ることなどないのだと、その心を表すかのように。


「これでも、五大将軍の末席に座している身です。今、この都が置かれた状況くらいは、見えているつもりです」


 愕然がくぜんと目を見開く涼麗の顔が、この暗がりの中でも見えているのだろう。涼麗を真っ直ぐに見上げたまま、黄季は少しだけ困ったように眉尻を下げた。


「あと俺、実はちょこっとだけ、霊力? って言うんですかね? 退魔師としての素質が、あるそうで」


 さらに付け加えられた言葉に、涼麗は無言のまま目を見開いた。


 ──聞いて、いない。


 ただ、納得できる部分もあった。


 あの『死の託宣』と呼ばれている、人力でなしているとは思えない長距離射撃。


 あれが卓抜した弓の腕と、無自覚に発動されていた退魔術……探索呪や追尾呪によってなされていたものだとすれば。鸞紫藍の用兵術が、退魔師としての感覚からもたらされる予感を組み込んだものであったとするならば。


そうであるならば、あの戦果にも納得ができるのではないだろうか。


「俺達が都の治安維持に投下されるようになった辺りから、何か都の空気がおかしいなって、嫌な予感がしていたんです。俺の勘って、昔からよく当たるから。だから泉仙省に協力を依頼することを思いついたりもしたんですよ」


 苦笑を浮かべたまま言葉を続けた黄季は、スッと笑みをかき消すと涼麗を見上げた。その穏やかなまなざしの中には、涼麗への信頼が透けて見える。


「やっぱり、この大乱は、呪詛のたぐいが起こしているんですね?」


 涼麗は、とっさにその問いに答えることができなかった。ただ無言で、正面から黄季の視線を受け止め続ける。


「そしてその矛先は、皇帝一族に向けられている」


 だがいつだって涼麗の内心を的確に汲み取ってきた黄季には、それで十分だったのだろう。


 涼麗の中から答えをさらっていった黄季は、フワリと穏やかに微笑んだ。


「じゃあ俺に逃げ場はありません。俺は、誰が皇帝を裏切っても、最後まで皇帝の盾でいなくちゃいけないから」

「……っ、なぜ!」


 その表情と、言葉の全てに、涼麗はクシャリと顔を歪めた。


「分かっているならば、なぜだっ!? 皇帝に忠義を尽くしても勝ち目など……っ!!」

「言っていませんでしたっけ?」


 涼麗が言葉を荒げても、黄季は穏やかなままだった。


 あるいはその穏やかさは、諦観から来るものだったのかもしれない。


「俺、人質なんです」


 今度こそはっきりと苦笑を滲ませた黄季は、ついっと涼麗から視線をらした。


 対する涼麗は、愕然と目を見開いたまま、黄季の言葉を反芻することしかできない。


「人質……?」

「皇帝が、ばん家に、……かつて鸞を名乗っていた俺の家に、命じたんです。今までのように平穏無事に、世間から隠れて生きていきたいならば、俺を軍部に差し出せって」


 涼麗から顔を背けるようにうつむいても、黄季の声の調子は変わらなかった。ささやくような声音は春の日差しのように穏やかで、黄季が今、内心でどんな感情を抱えているのか、涼麗には測ることさえできない。


「鸞一族は、祖父の代に、全員揃って軍を辞しました。当時の皇帝に対して、思うところがあったそうです。先代の陛下は、本家以外の鸞一族が二度と都の土を踏まないことを条件として、鸞一族が『武の五獣ごじゅう』から退くことを許しました」


 本家が都に留め置かれたのは、都から追い出された他の鸞一族に対する牽制のためだったという。


 本家を手元に置いて監視し、人質とすることで、各地に離散した縁者達が決起して皇帝に歯向かうことを防ぎたかったのだろうというのが黄季の見解だった。


【武をもって国と関わるべからず】


 思うところがあって禁軍から退いた鸞一族は、家名を『鷭』と改め、一族が国に仕えることを強く禁じた。自分達が修めた武を人に教授し、人のために振るいはすれども、自らが国の刃となることだけは許さなかった。


 だがその禁令が、黄季にだけは適用されなかった。


『鷭の麒麟児』


 よわい幼くしてその武名を知られた黄季を恐れたのか。はたまた先代が手放した武力が惜しくなったのか。


 皇帝は鷭家に勅使を寄越し、黄季が十歳になる歳に軍部に仕官させよと命じた。その命に応じることが、当代の鷭家が自由のために支払う代償であると言い放ったのだ。


「俺がこの場所から逃げ出せば、代わりに家族が連れてこられます」


 静かに告げた黄季は、ゆっくりと顔を上げた。


 そこに浮かんでいた表情に、今度こそ涼麗は言葉を失う。


「きっと、一番上の兄が連れてこられると思うんです。その兄が死ねば、次の兄が」


 再び涼麗に視線を据えた黄季は、穏やかに笑っていた。


 ……死を覚悟した人間だけが浮かべられる、凪いだ水面のような笑みだった。


「だから俺は、ここにいなくちゃ」

「っ、黄季っ!!」

「他の誰でもなく俺じゃなきゃダメなんです。俺が戦場で死んでやっと、陛下の『鸞』への執着は消える」


 かける言葉が見つからない。自分の言葉のなさが、こんなにももどかしい。


『違う』『そんな言葉を求めているわけではない』と叫びたいのに、涼麗の中にはその思いのたけを載せられる言葉が存在しない。荒れ狂う激情が言葉にならないまま胸の内で渦巻くだけで、喉は締め上げられたかのように声を失っていく。


「だから、俺は」

「……私は、嫌だ」


 そんな中でようやく絞り出せたのは、そんな幼稚な一言だけだった。


「氷柳さん」

「私は嫌だ」


 涼麗の短い言葉に、黄季がまた困ったように眉尻を下げる。


 そんな幼子をなだめるかのような表情に、涼麗はグッと奥歯を噛み締めてから吠えるように口を開いた。


「なぜお前だけが、そんな理不尽に従わなければならないんだ」

「氷柳さん」

「お前は私を理不尽から掬い上げた。私をこんな真人間にしたのは、お前だ」


 そう、全ては、あの仄暗い夜のこと。


 赤くぼんやりとした光と、濁った目をした連中が周りを埋め尽くしていたあの場所で、この雛鳥だけが無垢な瞳を自分に向けた。


 それまで暗がりにしか居場所がなかった己を光の下に引きずり出し、穏やかな時間をくれた。


 涼麗がただの人形でも、氷でできた造花でもなく、感情が備わった人間であることを教えてくれた。


 涼麗の周囲にあふれていた色の名前を教えて、向けられる感情の温もりを教えて、それらの受け取り方を示してくれた。


 涼麗だって、自分の心をいだいて、自分の足で駆けていけることを。


 他の誰でもなく、黄季が教えてくれた。


「お前だったんだ。お前が教えてくれたのに……っ!!」


 それなのに、そんな黄季自身が、誰よりも強固に暗がりに繋がれていて。その足枷に、心も未来も希望も潰されてしまっている。


 黄季が涼麗に注いでくれたものを。示してくれたものを。


 他でもない黄季自身が、諦めることが当然であるとされている。黄季自身がそう認めてしまっている。


 そういう感情を、価値観を知ってはいても。


 自分にそれらが向けられることはなく。適応されることもなく。


 仮に向けられたのだとしても、それらを自分は受け取ることができる立場にはいない。


 とうの昔に、黄季はそう覚ってしまっていたのだろう。


 ──そのことが、こんなにも。


 こんなにも、こんなにも。


「……氷柳さん」


 不意に、己の頬に温もりが触れた。ハッと我に返れば、涼麗が取った手とは反対側の黄季の手が、そっと顔の輪郭をなぞるように涼麗の頬に触れている。


「あの夜、あなたに出会わなければ良かった」


 その指先は、あくまでどこまでも慈しみに満ちているのに。涼麗を見上げた黄季は、どこまでも柔らかく、心底嬉しそうに微笑んでいるのに。


 黄季が口にしたのは、まごかたなき拒絶の言葉だった。


「そうすれば俺は、死にゆく定めをただ受け入れることができただろうに」

「黄季」

「これが今生の別れです、氷柳さん」


 頬に添えられた指先が、涼麗の目元からこぼれた雫を優しくすくい取る。その動きで初めて、涼麗は自分が泣いていたことに気付いた。


「あなたにそこまで思ってもらえて、幸せでした」


 同時に、ポツリとこぼされた言葉に、涼麗は目をみはる。


 だが涼麗がほうけていられたのはそこまでだった。


曲者くせものだっ!!」


 あれだけきつく握っていたと思っていた手が、呆気ないほどスルリと振り解かれる。ハッと我に返った瞬間には、パンッと空気を割るかのような黄季の大喝が周囲にこだましていた。


 将軍として戦場に指示を轟かせる黄季の声は、どんな時でもよく響く。ましてや今は人々が寝静まった夜中だ。黄季の声を遮るものなど何もない。


「哨戒担当者は何をしているっ!? 曲者だぞっ!! 早く来いっ!!」


 黄季の怒号に応えて、複数の気配がこの部屋に集まってきているのが分かる。バタバタという足音の大きさからして、涼麗に残された時間は少ない。


「行ってください」


 涼麗の考えを肯定するかのように、黄季が小さく囁いた。


「……っ、黄季!」

「上手く誤魔化しますから、行って。廊下を奥へ進んだ先、一番奥の細い扉が、外へ繋がる隠し通路になっています。裏手に出るから、そこからなら誰にも見咎められずに泉仙省へ戻れる」

「……っ!!」


 本能は撤退を訴えて足を後ろへ下げる。だが胸の内で渦巻く激情が、まだここに残りたいと訴えていた。


 そんな涼麗に、一瞬だけ黄季が泣き出しそうに顔を歪める。だがそれでも黄季は、瞬きひとつだけで己を立て直すと鋭く涼麗を見据えて命じた。


「早く!」

「っ」


 その声に叩かれるように、涼麗は身を翻して扉に手をかける。


 最後に見えた黄季の顔は、そんな涼麗の行動に満足したかのように、穏やかに笑っていた。

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