盛夏を過ぎると、日差しは途端に秋の気配を帯びてくる。気温は高いままなのに、日差しの気配だけが色を変えるのだ。


 まだ日も高い時間帯であるというのに、瑞雲殿の廊下はすでにうっすらと影を帯びている。空気は蒸し暑いというのに、その陰り方だけで確実に秋が近付いているのだと分かるような気がした。


 その薄闇の中を進みながら、浄祐じょうゆうはギリッと奥歯を噛み締める。


『貴様、このみすぼらしい戦果はなんだっ!?』


 耳の奥にはまだ、先程叩きつけられた叱責がこびりついていた。


『私の甥だから校尉に取り立ててやったというのにっ!! 毎度毎度、なぜこんな体たらくなんだっ!! お前を部下に持つ私の身にもなってみろっ!!』


 この程度の戦になぜここまで手こずるのか。日程的にも損害的にも、もっと抑えることができたはずだ。こんな体たらくを陛下にご報告申し上げねばならない私の身にもなってみろ。


『お前がそんなに情けないから、あんな小童こわっぱが五大将軍最後の椅子に座ることを許すハメになったんだっ!!』


「……っ!」


 気付いた時には、振り抜いた拳が柱を叩いていた。ダンッという低い音は、誰もいない瑞雲殿の廊下の空気をわずかに揺らしただけで消えていく。


 ──そんなことを言うなら、お前が私の代わりに出陣してみろ……!


 確かに、浄祐が三十路半ばという若さで一兵団を動かせる立場に立てたのは、亀聯義れんぎ将軍の甥という立場があり、血族の中でも特に聯義の覚えがめでたかったからだ。だがそれだけの理由で何もかもを押し付けられるなどたまったものではない。


 ──そもそもらん紫藍しらんの五大将軍着任を阻めなかったのは、お前ら老いぼれの力が及ばなかったせいだろうが……っ!!


 五大将軍というものは、建国からしばらくはじゅうに連なる家の家長が就くものであったという。それが時代が降るにつれて五家の血を引く人間からそれぞれ一人将軍を立てるという形となり、やがては軍部を率いる者の称号となった。


 今でも五獣の血が優先されている一面はあるが、それでも五獣の血を引いていなければ五大将軍になれないという決まりはない。五家の将が揃わなければ、空いている席は適任者によって埋められる。現に鸞紫藍が将軍職を拝命するまで、その席は五獣に属さない老将によって埋められていた。


 その老将が病没し、席がひとつ空いたのが三年前のことだった。現存している五獣四家は、いかにしてその座に己の血族を座らせるか策を巡らせていたことだろう。


 だがその思惑は、皇帝によって退けられた。


【ようやく空いたか。これでようやく五大将軍を正しい形に戻せる】


 その一言により、よわい十五、従軍歴五年という、異端もはなはだしい将軍が生まれることになったのだ。


 ──実力も経験も足りていないとなれば、長くはたないと思っていたのに。


 着任した瞬間から、誰もが雛鳥の死を願ってきた。だというのにあの雛鳥は、五大将軍の誰よりも確実に、誰よりも早く戦功を積み上げている。


 この三年であの青二才が叩き出した結果は、逆にあいつの足場を固めさせることになってしまった。目障りなことこの上ないというのに、正面から叩き潰す口実が他の四家には存在しないというのが現状である。


 唯一救いなのは、皇帝が彼を重用している理由が『好意的に気に入ったから』ではなく『面白い玩具として気に入ったから』という点だけだろう。


 出陣頻度が高く、負担が重い戦場を任されることが多い鸞軍は、挙げてくる戦果もその分高い。


 だがそれは『気に入りの玩具がどこまで壊れずに持ちこたえられるか』と幼子が残虐に玩具を扱う心境のそれだ。労られることはなく、鸞軍は鸞紫藍の首が落ちるまで死の行軍を続けさせられる。


 だが持ち堪えている限り、あれの栄華は続くのだ。


 周囲から軽んじられることが多いというのに、鸞軍旗下は将への忠義も結束力も固い。浄祐の目で見ても、あの一軍が簡単に落ちるとは思えない


 そして鸞紫藍がいる限り、浄祐に光が当たることは決してないのだろう。浄祐に限らず、若手に分類される将校が日の目を見ることはないはずだ。全ての栄誉と注目を、鸞紫藍が一人で掻っ攫っていってしまうのだから。


 そのことが。


「……っ、たかが鸞家の末代というだけで……っ!!」


 五獣筆頭とはいえ過去のこと。現に鸞家が復興したわけではない。『鸞』を名乗っているのは、現在鸞紫藍だけだ。


 だというのに、いまだに五獣を数える時は、今はなき鸞家が筆頭に置かれる。鸞龍麟鳳亀の並びは変わらず、世間から向けられる評も名の並びの順のままだ。


 目を向けられなければ、注目されなければ、出世栄達の道は開かれない。


『亀聯義の甥』という肩書きだけで上がれるのはここまでだ。今以上を望むならば、誰もが目をみはる戦果が必要になる。だが現状、どれだけの戦果を挙げてこようが、浄祐が評価されることはない。


 浄祐よりもはるかに年若く、はるかに大きな戦果を常に挙げてくる人間がいるのだから。


 鸞紫藍がいる限り、浄祐が評価されることはない。評価が上がらなければ、浄祐に次期将軍の座が回ってくることもない。聯義の旗下には聯義の実の息子も、他の亀家の人間も、将官として名を並べているのだから。


 ──やっと掴んだ好機だというのに……っ!


 分家の出というだけで。上に優秀な兄達がいたというだけで。


 たったそれだけで日陰に追いやられていた自分が、ようやく掴んだ栄達の道だった。


 その道が、ポッと出の血筋だけの小童に潰されようとしていて、誰が正気を保っていられると言うのだろうか。


「あいつさえ、消えてくれれば……っ!!」


 思わず怨嗟えんさの念が口からこぼれた、その瞬間だった。


「ほう?」

「っ!?」


 誰もいないはずだった瑞雲殿の廊下に、興味を引かれたと言わんばかりの声が上がった。


 その声に、反射的に浄祐は腰の剣に手を伸ばす。


「お前、鸞紫藍が気に入らないのか」

「何者だっ!?」

「そう殺気立つなよ」


 腕が立つ武人である浄祐をして、気配を掴めなかった。


 だが声の方を振り返れば、確かにそこに人影がある。


「お仲間だよ、お前のな」


 白衣びゃくえに身を包んだ、若い男だった。差し込む光の悪戯いたずらなのか、サラリと揺れる黒髪と浄祐を見据えた瞳に、暗く赤みが差しているように見える。


 整った容姿をしているが、顔に浮かんだ笑みはどこか禍々しかった。気配も隙もない様はおよそ常人とは思えないが、着込んだ装束は軍部のものではない。


 その腰元で、白色が強い翡翠の円環と、赤輝石を組み合わせた佩玉が揺れている。浄祐の見間違いでなければ、翡翠の円環に彫り込まれた意匠は虎と柳だ。


 ──この出で立ち……退魔師、か? 『虎に柳』の佩玉を持つ退魔師と言えば……


「俺はかく永膳えいぜん氷煉ひれん比翼ひよくの片割れで、次期郭家の当主だ」


 あっさりと名乗った男は、浄祐を見据えると笑みを深めた。


 虎が獲物を前にして笑うならば、こういう笑い方をするだろう。


 思わずそう連想せずにはいられないような笑みだった。


「俺も嫌いでな、鸞紫藍」


 浄祐から一瞬たりとも目をらさないまま、郭永膳と名乗った男はささやく。


 まるで妖魔の囁きのようなその声に心が騒いだのは、見つめた先にある永膳の瞳の中に自分と共通する感情を見つけたからなのかもしれない。


「教えてやろうか? 鸞紫藍の首を落とす方法」


 ──心底葬り去りたくて仕方がない。


 郭永膳は、鸞紫藍の名を口にした瞬間、その感情を一切隠していなかった。


 軍部で皆が鸞紫藍の名を語る時に、瞳の奥に湛えるそれ。浄祐の瞳にも今、その感情がなみなみと湛えられていることを、浄祐は自覚している。


 ──こいつの手を取れば、


 あの忌々しい小僧の首が落ちる。


 なぜか無条件に、そう信じることができた。


 できてしまった。


「……どうすればいいんだ」


 無意識のうちに、その言葉は唇から滑り落ちていた。


 その返答に、煉虎れんこを連想させる男は、満足そうに瞳を細めたのだった。

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