思えば、彼が自分を呼び出すばかりで、自分から彼を呼び出したことは今まで一度もなかった。


 呼び出しのふみも、らん将軍の伝令とうん長官を介していて、個人から個人へ呼び出しの文が飛んだことは一度もない。


 水辺を渡る風に髪を揺らしながら、涼麗りょうれいは今更ながらにそのことを思う。


「涼麗さん」


 その風の中にふと、穏やかな声が響いた。


「先にいらしてたんですね」


 いつもと同じ声。だが纏う響きが違う。


 そのことにグッと一度奥歯を噛み締めてから、涼麗は静かに声の方を振り返った。


 そして、自分の勘は正しかったのだと覚る。


「驚きました。あんな風に、文が生きた鳥みたいに飛んできたのは、初めてだったから」


 深い藍色の袍。シャラリと揺れる佩玉は、翡翠の円環の下におおとりが彫刻された水晶細工が輝いていた。


 左の腰に佩かれた剣の鞘には、極彩色の鳥が美しく象嵌されている。柄に通された水晶と藍色の房飾りが、黄季の歩みに合わせて優雅に揺れていた。片手に携えている茶道具一式だけが、以前と変わらない。


 水謝すいしゃにやってきた黄季おうきは、常の簡素な装いとは異なる装束に身を包んでいた。


 そんな黄季を真っ直ぐに見据えて、涼麗はゆっくりと唇を開く。


「帰還したと、聞いたから」


 茶道具を卓の上に置いた黄季は、左の腰から剣を外すと涼麗の向かいに腰を下ろした。その所作はどこまでもなめらかで、黄季にとってはこの装いで過ごす時間の方が『日常』であるのだと突きつけられたような心地がする。


「無事の帰還を、心より嬉しく思う。……らんらん将軍」


 涼麗のその言葉に。


 ばん黄季と名乗っていた青年は、どこかほろ苦く笑ったのだった。




  ※  ※  ※




「やっぱり、あの戦場に派遣されていた退魔師一行は、涼麗さん達だったんですね」

「知っていたのか」

「知っていた、というよりも、気付いていた、と言うべきですかね」


 黄季の言葉に涼麗が目を見開くと、黄季は眉尻を下げるように苦笑を浮かべた。見慣れた笑みに、涼麗は思わずそのまま黄季に見入る。


「あの距離で、あれだけ騒いでいたら、嫌でも気付きます。特に開戦前は、みんなピリピリしていて、いつも以上に五感が効きますから」

「お前以外も?」

「うちの将官達は、みんな気付いていたと思います。俺の知り合いだって通達が回っていなかったら、別働隊に取り押さえられていてもおかしくない状況でしたよ」


『今度から戦見物をする時は気を付けて』と言葉を添える黄季に、涼麗は思わずムッと顔をしかめた。


「あれは職務の一環だ。派遣を命じられなければ、戦見物など好きこのんで行くことはない」

「そうですか? まぁ、その方がいいとは思いますけども」


 涼麗の表情にか、あるいは言葉にか、黄季はクスクスと声を上げて笑う。


 だがそんな無邪気な表情は、すぐにかき消された。


「出立する直前に、薀魏覚ぎかく泉仙省せんせんしょう泉部せんぶ長官宛に文を出しておいたんです。……出しておいて、良かった」


 何かを諦めたように笑いながら、声に深い安堵をにじませる黄季に、涼麗はそっと息をむ。


 黄季がそんな儚げな表情を見せるのは、初めてだったから。


「涼麗さんと最後に顔を合わせた時点で、布陣場所は分かっていたんですけども。……虐殺を命じられたのは、陛下に出立の挨拶をしに行った時のことだったから」


 自分が虐殺戦を演じれば、戦場跡地が忌地いみちに堕ちることは目に見えていた。


 何せ自分にはすでに前科がある。都が置かれた現状をかんがみれば、虐殺戦は避けたいところだった。


だが一臣下として皇帝に直接命じられてしまえば、その命をたがえることはできない。一応『できることならば血を流さない道を取れないか』と進言を試みたが、皇帝は鸞将軍に反論を許さなかったという。


 今回の措置は黄季にとって『皇帝の意にそむかず、かつ都の状況を悪化させない』という道を両立させるギリギリの立ち回りだったのだろう。


「……鷭黄季、という名前は、……その」


 諦観が滲む笑みと、深い安堵が潜む声。


 今まで見てきた黄季とはどこか違う、……このまま風に吹かれていたら、ある時突然フッと消えてしまいそうな。目の前にいるのに、なぜか違う世界の光景を見ているかのような。


 そんな透明な壁の向こうにいるかのような黄季を見つめていたら、ポロリと言葉がこぼれ落ちていた。その声は独白のように小さかったというのに、黄季はそんな涼麗の言葉にも律儀に視線を上げてくれる。


「だって、お前は、……鸞紫藍、で」


 まとまりきらないまま、形になりきらないまま、ポロポロと勝手にこぼれ落ちていく言葉は、要領を得ない上に頼りない。


 自分でも何が言いたいのか分からず、涼麗は途方に暮れたように視線を伏せた。それでも『何か』を訴えかけたい気持ちが、卓の上に置いた手にキュッと拳の形を握らせる。


「……どう、して」

「『鸞紫藍』という名前は、五大将軍の座に就くにあたって名乗り始めた名前なんです」


 そんな涼麗を柔らかく包み込むかのように、黄季は穏やかな声で告げた。ハッと弾かれたように涼麗が顔を上げれば、黄季はいそいそと持参した茶器を広げ、湯飲みに冷茶を注いでいる。


「本名が『鷭黄季』です。この辺りはちょっと、俺の実家の事情が色々と絡んでいて」


『どうぞ』と、黄季は茶器の片方を涼麗の前に置いた。ユラリと揺れた美しい淡緑色の水面は、今日も変わることなく涼やかだ。


「俺の生家が鸞一族本家であることも、俺が鸞の末代であることも、確かな事実なんですけども。でも現在の家名は鷭なんです。祖父の代に改姓していまして」


 何やら複雑そうな事情をごく簡単に説明した黄季は、自分の分の茶器を両手で持ち上げながら、遠慮がちに涼麗へ笑いかける。


「だから、どちらも『俺』です。……俺自身が鸞紫藍であるという事実を伏せていたことは、申し訳なかったとは思っていますが。俺自身が現場に潜り続けるためには、俺が鸞紫藍であることを伏せていた方が、都合が良かったから」


 ──『鷭黄季』は、偽りではなかった。


 黄季が言外に告げた言葉に、涼麗は小さく目を見開いた。同時に、あの戦場で自分が無意識のうちに考えていたことは、正しかったのだとも覚る。


 ──伏せていただけで、偽りを演じていたわけではない。


 自分が見ていたものも、黄季の一部で。……自分が黄季と過ごして心地良いと思えた時間も、偽りのものではなくて。


「……黒鸞こくらん、という呼称は」


 そのことがストンと胸に落ちた瞬間、またポロリと勝手に言葉がこぼれていた。


「謙遜だと、聞いたのだが」

「あぁ、それは」


『なぜそれが謙遜になるのか分からない』という疑問を、黄季は今回も正確に汲み取ってくれる。


 その上で黄季は、いつものように眉尻がふんわりと下がった苦笑混じりの笑みを浮かべた。


「鸞の成獣は、青を基調にした大変美しい羽を持つ瑞鳥なんですけども。鸞の雛鳥は、親とは似ても似つかない、とても醜い黒い羽をしているそうなんです」

「……つまりお前は、鸞は鸞でも、雛の鸞だと?」

「十五歳、従軍歴五年で五大将軍なんて、ピヨッピヨもいいところでしょう」


『本来ならば、鸞を名乗ることさえ値しません』と、黄季は表情を変えないまま言い切った。その語調は柔らかなままだが、言葉に含まれたトゲは鋭い。


 ──そういえば、以前言っていたな。


『黒鸞将軍が十五で将軍職に取り立てられたのは、家名が理由の九割』と、他でもない黄季自身が口にしていた。


 さすがにそれはないだろうと涼麗は思っている。


 仮にそれが本当であるならば、旗下の兵がここまで鸞紫藍に忠誠を誓うこともなければ、ここまで圧倒的な戦歴が積み上げられるはずもない。黄季には将軍職に取り立てられるだけの才がきちんとあったはずだ。


 だが当事者がそこまで言うということは、何かしら表沙汰にはされていない裏事情があるのだろう。そこに口を挟める立場にない涼麗は、キュッと奥歯を噛み締めて胸中に渦巻く反論を飲み込むしかない。


「……どれだけ経っても、馴染まないんです」


 そんな涼麗の内心に、もしかしたら黄季は気付いていたのかもしれない。


 ふと、黄季の口から、先程までとはわずかに響きが異なる声がこぼれ落ちた。


「鸞紫藍って名前が。自分には、立派すぎるというか。……まるでよろいというか、……枷、みたいだなって」


 黄季は、どんな時でも姿勢を崩さない。


 中心に一本芯が通っていながら余計な力みがない伸びた背筋は、立っていても座っていても常に美しい。威圧感もなければ武とも暴とも縁遠い雰囲気を纏う黄季だが、その立ち居振る舞いを見れば黄季がいかに修練を積んだ武芸者であるかは分かる。


 そんな黄季は今もスッと背筋を正したまま座っていた。だがその視線は両手で支えた茶器に注がれている。いつでも真っ直ぐに涼麗を見上げていた黄季が、こんな風に視線を伏せたまま言葉を紡ぐのは初めてのことだった。


「……そうか」


 そんな黄季を前にしていても、涼麗にはかける言葉が見つからなかった。何か言わなければと心は落ち着きなく揺れ動いているのに、気の利いた言葉はおろか、ありとあらゆる言葉が出てこない。


 フツリと、沈黙が場を満たした。


 湖面を渡ってくる風だけが、二人の間の空気をわずかに揺らしていく。涼麗の前に置かれた茶器を満たした冷茶も、その風に微かな波紋を生み出していた。


「……氷柳ひりゅう


 その揺らぎを見るともなしに見ていた瞬間、だった。


 ポロリと、また、纏まりきらないままの言葉が、涼麗の唇からこぼれ落ちていく。涼麗が唐突にこぼした名前に、黄季が不思議そうに視線を上げた。


「私にも、真名とは異なる、呼び名がある」

「えっと、……確か、かく永膳えいぜん殿が、その名を口にしていたような」

「対としての私を呼ぶ呼び方だ。永膳しか使わない」


 涼麗が言葉少なく説明すると、黄季は分かったような、分からないような、疑問が多分に含まれた視線を涼麗に向けた。キョトンと首を傾げている辺り、ほぼほぼ理解はできていないのだろう。


「郭永膳殿は、涼麗さんの相方、でしたよね? お二人で『氷煉ひれん比翼ひよく』だと」

「私は、永膳の相方ではあるが、……それ以前に、永膳の所有物だ」


 涼麗が淡々と告げると、黄季はさらに首を傾げた。『所有物』という単語が涼麗自身にかかる意味が分からない、といった風情だ。


 ──そういえば慈雲じうん貴陽きようも、似たような反応をしていた……ような気がする。


 永膳が涼麗を指して初めてその表現を二人の前で使った時に、あの二人はそれぞれ、今の黄季と同じような反応を示したと思う。二人に関しては、もっと率直に嫌悪感を見せていたかもしれない。


 当時は、その感情を読み取ることができなかった。なぜそんな反応をされるのかも分からなかったし、それらに自分が何かを思うこともなかった。そこにある感情を理解したい思うこともなかった。


 それはきっと、涼麗の中に『感情』や『思考』と呼ばれるものがなかったからだろう。


 永膳の相方として泉仙省に出仕するようになり、永膳以外の人間と関わりを持つようになるまで、本当に自分は『ヒトの形をしただけの何か』だったのだろうと、今は思う。


「永膳は、己の所有物に、他人が関わることを嫌う」

「えっと。……所有物云々うんぬんは、とりあえず横に置くとして」


『何と言えばいいのか』という戸惑いを隠すことなく口を開いた黄季は、手の中にあった茶器を卓に戻すと涼麗に視線を置いた。


 そのことに、わずかに満足感のようなものが涼麗の胸に広がる。


「泉仙省の『比翼』というものは、対を重んじると聞いています。そういう話ではなく?」

「正しいが、それとは違う」


 泉部の退魔師は、攻撃をになう前翼と守備を担う後翼で対を形成して妖怪と戦う。


 互いに命を預け合って戦う様が互いに片翼しかない翼を預け合って飛ぶ比翼の鳥に似ていることから、泉部では対を誓い合った退魔師のことを『比翼』と呼び習わしていた。


 宣誓を交わし合った一対は揃いの意匠で赤青色違いの佩玉を下げ、やがてはその意匠から取られた異名で名を馳せることになる。


 比翼の絆は、確かに固い。割って入る者はありとあらゆる方法で排除されても致し方なしとされているくらいには、己の片翼は重んじられる存在だ。


 だが永膳が涼麗に向ける執着は、そういったものとは違う。


「私は元々、花街の裏路地で暮らしていた、名もなき浮浪児だった」


 涼麗が唐突に始めた身の上話に、黄季は無言のまま固まった。唐突すぎたかと涼麗は黄季の様子をうかがうが、とりあえず聞くべきだと判断したのか、黄季は拝聴の姿勢を取る。


「『花街の麗鬼れいき』と呼ばれていた私を討伐に来たのが、永膳と永膳の祖父だった。永膳は私を一目見て、なぜか気に入ったらしい。手酷く叩きのめされた私は、そのまま郭の屋敷に連れていかれた」


 永膳がなぜ涼麗に執着を示したのかは分からない。


 以前、『お前は圧倒的な虚無で、圧倒的な否定だ』『ヒトの姿をしていながら、ヒトになりきれていない』ということを口にしていたが、その意味を恐らく涼麗は今でも理解できていないのだろう。


 ただ、永膳は、『ヒトではない』涼麗に、酷く執着している。


 出会った瞬間から今に至るまでずっと。その異常とも言える執着のせいで、何人か人が死んだくらいには。


「名前というものは、存在を縛り、定義するための、一番のもといとなるしゅだ」


 涼麗が淡々と語る言葉に、黄季は無言のまま曖昧に頷いた。


 その『曖昧』に含まれた戸惑いは、話題がいきなり飛んだことに対するものだったのかもしれないし、涼麗が話す事柄が退魔師ではない黄季には難しかったからなのかもしれない。


「『花街の麗鬼』であった私を『てい涼麗』と名付け、定義付けたのが、そもそも永膳だった」


 その戸惑いを感じていながらも、涼麗は変わることなく淡々と言葉を続ける。


 どのみち、戸惑いを察していても、涼麗には分かりやすい話し方など分からない。涼麗にできることは、拙くも言葉を続けることだけだ。


「郭家で、私を自室に閉じ込めて、等身大の人形を愛でるように独占していた頃は、永膳も『汀涼麗それ』で満足だったのだろう。……だが、私を伴って泉仙省に出仕するようになってから、永膳は『汀涼麗』を独占できなくなった」


 自分以外の人間が涼麗と接触することを、永膳は酷く嫌った。そうでありながら永膳が涼麗を相方に指名して泉仙省に出仕する道を選んだのは、郭家の権力と対抗できる個人的な力を欲してのことだろう。


 歳が長ずるにつれて、永膳が涼麗に向ける常軌を逸した執着は問題視されるようになっていたから。あのまま郭家に閉じこもっていては、いずれ郭家の力で涼麗と引き離されると、永膳は危惧を抱いていたのだろう。


 だが『郭家の外へ出る』という道を選ぶということは、同時に『涼麗が不特定多数の人間と接触する状況を許容する』ということにもなる。


 永膳は涼麗が自分を介さず世間に触れ合うことがないようにとしつけを徹底していたし、涼麗が世間に興味を抱かないようにも躾けていたが、それにだって限界はある。


 現に今、涼麗は慈雲と貴陽という近しい同朋を得ている。二人以外との交流は皆無とも言える涼麗だが、それでもその二人からわずかなりにも人間らしさというものを教えられた。


 今の涼麗は、郭の屋敷の最奥で囲われていた時よりも、はるかに人間らしい存在であると言える。


 その変化が、永膳はかなり早い段階から気に入らなかったのだろう。


「それが不満だったから、新たに『氷柳』という呼び名を定義して、独占できる私を作った」


『氷柳』という呼び名を他が使うことを、永膳は決して許さない。涼麗自身にも、永膳以外がこの名を呼んだら徹底的に排除しろと躾けた。


 そのことに、特に何を思うこともなかった。ただいつものように淡々と、永膳の意向に従った。


 だけど。


「……馴染まない」


 慈雲や貴陽が自分を呼ぶ『涼麗』という呼び声は、『自分』を呼んでいるのだと分かる熱が通っている。


 だが永膳が呼ぶ『氷柳』という呼び名は、それとは違う。


 それまでに涼麗の上に降り積もったモノを、一切合切削り取っていくかのような。涼麗を『お人形』に引き戻すための合言葉。


 それが『氷柳』という呼び名なのだろうと思う。……ここ最近、自分がそう感じているのだと、理解できるようになった。


「馴染まない、とは、……また違う、のだが」


 思うことをピタリと言い表せる言葉が見つからないもどかしさに眉をひそめながらも、涼麗は言葉を紡ぐことをやめない。そんな努力の仕方も、最近になって覚えるようになった。


 それは、きっと。


 それだけの労をってでもこの青年に伝えたい思いが、涼麗の中に芽生えたからだ。


 この青年にならば、伝えたいと。


 伝えたいことがあるのだと察すれば、涼麗が伝えきるまで待ってくれていて。伝えれば、受け取ってくれて。そして温かく血の通った思いを返してくれると知っているから。それを受け取りたいのだと、自分が感じているから。


 だから、今までずっと『お人形』に甘んじていた自分が、必死に『人』になろうと足掻いている。


「馴染むことを、拒否している、……の、かも、しれない」


 涼麗がぎこちなく紡ぐ言葉をどう受け取っているのか、黄季は軽く目をみはったまま涼麗のことを見つめていた。


 そんな黄季を見つめ返して、涼麗は黄季に問いを投げる。


「お前にとっての『鸞紫藍』も、そういうもの、なのだろうか?」


 黄季はしばらく無言のままだった。いつになく反応がない黄季にソワリと言葉にできない居心地の悪さが這い上がってくるが、それでも涼麗は黄季に据えた視線を逸らさない。


「えっと」


 その視線に根負けしたかのように黄季が口を開くまで、しばらく時間がかかったような気がした。あるいは、涼麗がそう感じていただけで、本当はほんの数秒のことだったのかもしれない。


「そう、なのかも? しれない、です」


 パチパチ、とまばたきをした黄季は、言葉を噛みしめるかのようにぎこちなく笑みを浮かべた。ゆるゆると視線を伏せた黄季は、手元の茶器に視線を置く。


「……そっか。馴染むことを拒否してる、かぁ」


 さらにホロリと言葉をこぼした黄季は、視線を上げると顔一杯に苦笑を広げた。


「それは、いつまで経っても慣れるはずがありませんね」


 そのどこか力が抜けた笑みに、涼麗の肩からもホッと力が抜ける。


 そうなってやっと、己の肩にいつになく力がこもっていたことを自覚した。慣れないことをしたせいで、知らず知らずの間に全身がガチガチに緊張していたようだ。


「なるほど。涼麗さんの言に沿って考えると、俺に鸞姓を名乗るように命じた皇帝陛下は、俺を『鸞紫藍』という名で縛りたいということですか」


 笑みを残したまま呟いた黄季は、茶器を手に取ると一口冷茶を口に含んだ。コクリ、と冷茶を飲み込んだ黄季は、茶器を手にしたまま『ふむ』と何事かを考え込むような風情を見せる。


「有ると思えば有り、無いと思えば無い。有っても無いと思えば無く、無くても有ると思えば有る」


 その上で黄季が呟いたのは、そんな呪文めいた言葉だった。唐突に紡がれた言葉の意味を理解できなかった涼麗は、黄季を見つめたまま無言で小首を傾げる。


「えっと、鷭家……というか、鸞家に伝わっている武芸の心得のひとつなんですけども」


 言葉にせずともその疑問を察してくれた黄季は、説明の言葉を求めて一度宙に視線をさまよわせた。


 しばらく言葉を探した黄季は、ふと手の中の茶器に気付くと、涼麗へ視線を戻しながら両手をわずかに掲げて茶器を示す。


「今、俺の手の中には、冷茶が入った茶器が実在していますよね?」


 黄季の言葉に、涼麗は小さく首を傾げてから頷き返した。


 確かに黄季が示す通り、黄季の手の中には茶器がある。その中には確かに冷茶も入っている。見たままの事実だ。


「そして今日の席には、茶菓が出ていません」

「確かに」


 言われてみれば確かに、いつも黄季は茶に菓子も添えて出してくれるのに、本日は菓子が出てくる気配がない。


 実は涼麗にとって、食事は必須ではない。


 かつて涼麗が『花街の麗鬼』と称された所以ゆえんは『周囲の霊気を吸い上げて活力に変えることができる』という特殊体質にある。


 そんな妖怪じみた機構を持ち合わせているおかげで、涼麗は食事をせずとも問題なく生きていける。そもそも永膳は涼麗が人間らしい営みをすることを全般的に嫌っているため、涼麗が食事を取ることはほぼないと言ってもいい。


 ただし、物が食べられないわけではない。慈雲達との付き合いで飲み食いはするし、味も分かる。


 そして黄季とこの水謝で茶会をするようになってから、自分は存外甘味を好むことを知った。より正確に言うならば、甘味に限らず黄季が提供してくれる食を楽しみにしている自分がいる。


「つまり今この場に、茶は『有』って、茶菓は『無』い状態です」


 涼麗の短い言葉に含まれた不満が、黄季には分かったのだろう。黄季は苦笑を深めると、手の中の茶器を卓に置く。


「でもその有無は、実存に基づいた認識なのでしょうか?」

「?」


 一度涼麗に悪戯いたずらをたくらむ子供のような笑みを見せた黄季は、茶道具を入れていた道具箱の底に備えられていた抽斗ひきだしを引いた。


 枡形に仕切られた浅底な抽斗の中には、可愛らしい茶菓が行儀よく収められている。


「茶菓は実は実在していました。でも、もしもこのまま俺が涼麗さんの前にこの茶菓を並べないまま持ち帰ったとしたら、涼麗さんにとってこの茶菓は『無い』という認識になります」

「そんな意地の悪いことをするな」


『食わせろ』と不満を訴える涼麗にクスクスと笑い声をこぼしながら、黄季は菓子を取り分けるために菓子皿と箸を取り出した。


 何だかからかわれたようで面白くなかった涼麗は、ムスッと心持ち頬を膨らませながらもソワソワと菓子に視線を注ぐ。


「それでは、ここで質問です」


 そんな涼麗の視線を一身に受けながら菓子を盛り付け終わった黄季は、菓子皿を涼麗の前に置きながら小首を傾げた。


「今の涼麗さんにとって、茶は『有る』ものですか?」

「?」


 菓子皿に釘付けになっていた涼麗は、そこで初めて顔を上げて黄季を見遣る。


 ニコニコと笑う黄季の表情に含むものがないことを確かめた涼麗は、首を傾げながら先程確かめた『事実』を口にした。


「現に、あるだろう」

「実はもう『無い』んです」


 だが黄季が示した茶器には、確かに茶が入っていなかった。底を見せるように涼麗の方へ傾けられた茶器の中には、微かな水滴が残るばかりで冷茶の姿はどこにもない。


 その『事実』に、涼麗は思わず丸く目を見開いた。


「なぜ」

「涼麗さんが菓子に意識を持っていかれている間に、実はひっそり飲んでおいたんです」

「……?」


 確かに、黄季が菓子の入った抽斗を引き出した瞬間から、涼麗の視線は菓子に釘付けだった。


 だがたったそれだけの誘導で、対面した相手が茶杯を干したか否かにさえも気付けないものなのだろうかと、涼麗は真剣に黄季の茶器を見つめて考え込む。


 だが考えたところで、ないものはない。それは事実だ。


「つまり今、涼麗さんにとってこのお茶は『無いけれど有る』状態だったわけです」


 黄季はコトリと茶器を卓に置くと、冷茶が入った水差しを手に取った。表面に水滴が浮いた白磁の水差しが傾けられると、茶器には再び淡緑色の水面が広がる。


「だから、涼麗さん自身が『無い』と心の底から思うことができれば、『無い』ことにもできるんじゃないでしょうか?」


『何だか分かったような、煙に巻かれたような』と涼麗が黄季の言葉を反芻していると、不意に黄季が説明とは違う言葉を口にした。


『説明を終え、先程までの説明と絡めて話題が元に戻った』ということは理解できたが、結局何を言われているのか分からない涼麗は、再び首を傾げるしかない。


 そんな涼麗にも呆れることなく、黄季は噛み砕いた説明を加えてくれた。


「さっきの話です。郭永膳殿は、涼麗さんに『氷柳』という呪をかけることで、涼麗さんを『こうあってほしい』と縛ってるってことですよね?」

「ああ」


 ざっくりした理解だが、おおよそのことはあっている。


『やはり黄季は理解が早い』と感心していると、黄季は自分の菓子皿に菓子を取り分けるべく箸を構えながら、何てことないように言葉を続けた。


「その呪を、涼麗さん側でなかったことにしてしまうんです」


 だがその『何てことないような言葉』に、涼麗は言葉を失った。


「あるいは、意味を変えてしまうとか」

「意味、を」

「涼麗さんにとって、『好意的に受け入れられる名前である』と思えるような、別の意味を上書きする、とか」


『具体的なやり方は分かりませんけども』と黄季は笑った。


 その笑みがあまりにもいつも通りの黄季で、涼麗は無防備に黄季に見入ってしまう。

 ──永膳絶対君主がかける呪を、上書きする? ……お人形が?


 汀涼麗は、郭永膳によって定義された。郭永膳によって創り出された。影響を受けていない部分など、どこにもない。


 命じられれば、受け入れるしかない。意見することも、歯向かうことも、拒否すらも許されなかった。


 その関係が、当たり前すぎて。慈雲や貴陽でさえ、涼麗達の関係性に眉をひそめながらも、その状況に疑問を呈することはなかった。


 言葉という呪を扱う退魔師だからこそ。永膳がどのように涼麗を縛り、どれだけ絶対的な力で支配しているか理解できるからこそ。


 あの二人は永膳に対して物申すことはあっても、涼麗側に『永膳の支配を抜け出せ』と言ってくることはなかった。できるはずがないのだと、思われてきた。


 ──そんなことが、許されるのか?


 できるか、できないか、という問題ではない。


 まずは『退魔師としての常識に照らして考えた時に、そんな真似が許されるのか』という部分からして問うべきだ。


「涼麗さんは、沙那さなで最高峰の腕を誇る退魔師の一人なんですから」


 だというのに黄季は、ふんわりと笑ったまま、こともなく涼麗に告げる。


「きっとできるんじゃないかなと、思うんですよね」

「私、が?」

「だって、涼麗さんだって、一人の人間じゃないですか」


 ポンッと、本当に何でもないことのように、黄季はその一言を告げた。


 その言葉が、どれだけ衝撃的なものなのか。日頃涼麗の周囲を固めている面々が耳にすれば、どれだけ驚かれる一言なのかも知らないまま。


「甘味に喜んで、意地悪に怒る。確かに涼麗さんはお人形さんみたいに綺麗な人だけど、俺には最初からあなたはただの人間に見えましたよ」


 実に当たり前のことを告げるかのように。心の中の温かさを両手で掬い上げて差し出すかのように。


 黄季はふんわりと笑ったまま、そう告げた。


「だから、嫌なことは嫌って、周りに言ってもいいんじゃないですか?」


『少なくとも、おん慈雲殿やこう貴陽殿には、届くんじゃないですかね?』と続けた黄季は、涼麗の手元に置いた菓子皿と同じ配置で菓子を盛り付けた皿を自分の前にも置いた。


 同じ水差しから、揃いの茶器に同じ茶を注いで。揃いの菓子皿に同じように取り分けた菓子を、ともに食す。


 その行動こそが、黄季の言葉が本心から紡がれたものだという証明になっているような気がした。


 だって、こんな真似を、人は『お人形』を相手には取らないから。黄季の心遣いは、最初から温かかったから。


 ──だから。


 そう、だからこそ。


 その温もりの象徴になった外套を涼麗は手放せずにいた。再会を望みもした。柄にもなく使者役など引き受けた。


 彼の前でだけ、涼麗はずっと、ヒトでいられたから。


「……氷柳、と」


 それが分かった瞬間、また言葉が勝手にこぼれ落ちていた。


「呼んでみて、くれないか」

「え?」

「氷柳、と。……お前の声で、呼ばれてみたい」


 突然の申し出に、黄季はキョトンとした表情のままパチパチと目を瞬かせた。


 だが涼麗が覚悟の眼差しとともに静かに視線を据えると、ふんわりとした笑みが黄季の顔を彩る。



 紡がれた声音は、その笑み以上に柔らかかった。


 同時に、少し弾むように、その声は涼麗の耳に響く。


「っ……」

「どうでしょう? 印象、変わりそうですか?」


 ──同じ、名前、なのに。


 息が詰まって、勝手に胸が震えたような気がした。だがそれは決して不快なものではない。


 同じ名前を、違う声が呼んだだけなのに。


 その響きから生まれる感触が、真反対と言えるほど違う。


 ──今、初めて。『氷柳』という呼称で『私』が呼ばれたのだと、感じられた。


「……もう一度」

「氷柳さん?」

「うん」

「氷柳さん」


 温かいと、思えた。


 自分から全てを削ぎ落とし『お人形』に戻すための呪。冷たいとばかり思っていたその名前が、彼の声に乗った途端にフワリと柔らかな光を纏う。


 その感触を噛みしめるかのように、涼麗はそっとまぶたを落とした。


 ──この響きは、嫌いじゃない。


 この新しい響きがこの名前に宿るならば。涼麗の呪縛を解き放ってくれたこの声が、この名前を呼んでくれるならば。


 あるいは、黄季の言う『上書き』も、可能なのかもしれない。


「……『氷柳』の名前を、お前に預ける」


 静かに瞼を上げると、黄季は変わることなく微笑んでいた。


 その笑みを真正面から見据えて、涼麗は生まれて初めて、己の望みを告げる。


「代わりに、変わらずお前を『黄季』と呼びたい」


 涼麗の申し出に、黄季はわずかに目を瞠った。


 だがその驚きはすぐに溶けて、心の底から嬉しそうな笑みが顔中に広がる。


「はい」


 答える声は、何かの思いを噛みしめているかのような響きがあった。涼麗が様々な思いを噛みしめてから言葉を切り出したように、黄季も何かを深く噛みしめていたのかもしれない。


「俺も、嬉しいです」


 その笑みと、言葉の響きに。


 麗しく整った容姿以上にその表情のなさを『まるで人形のような』と揶揄やゆされることが多い己の顔に、微かな笑みが浮いたことを、涼麗は自覚した。

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