一矢

「もーおー! 何っで僕達がこんな場所まで派遣されなきゃなんないのさぁーっ!!」


 貴陽きようの高らかな不満の声が、都の中にいる時は感じない埃っぽい風の中を流れていく。


 それに答えるのは、いつも通り冷静な慈雲じうんの声だった。


「四人中三人が陣を固定しなくても転送陣が使えるおかげで移動時間は実質ゼロ。実力者揃いだから規模が大きくても俺達四人で事足りる。実に理に適った人選だと思うんだが」

「正論が過ぎるよ慈雲んんんー!」


『そういうことが言いたいんじゃなくてさぁー!』と駄々をこねる貴陽に対し、『じゃあ何を訴えたいんだ、お前は』と慈雲が呆れたような声を返す。


 それだけを聞いていれば、常と何ら変わりのないじゃれ合いだった。


 もっとも、目の前に広がっているのは、と敵国、両軍の布陣が完了した戦場であるわけだが。


 ──風がきな臭い。


 戦場から少し離れた、周囲を一望できる崖の上だった。泉仙省せんせんしょうから涼麗りょうれい永膳えいぜんで発動させた転送陣で飛んできた一行は、沙那と敵軍が睨み合う現場を傍らから眺めている。


「『この戦で大量の陰の気の発生が予測されるから、その陰の気が都に影響を及ぼす前に全部まとめて浄祓してこい』って話だったっけ?」


 しゃがみ込んだ膝の上に両肘を乗せ、さらにその上にあごを乗せた貴陽が面白くなさそうに呟いた。崖をのぼってくる風に吹かれて、団子にまとめきれていない髪と緋色の袍がユラユラと揺れている。


 そんな貴陽に、慈雲が溜め息とともに答えた。


「だな。しかし都の中だけでも手ぇ回ってねぇっつーのに、外にまで退魔師が派遣されることになるとはなぁ」


 一行が軍部に出向いた日から、そろそろふた月が過ぎようとしていた。泉仙省と軍部が秘密裏に暗躍を始めた時はまだまだ初夏の陽気が強かったが、今では照りつける日差しが容赦なく大地を焼いている。


 それだけ陽気が強い季節の中にいても、都の気の流れはジワジワと悪化の一途をたどっていた。治安も悪化の傾向にあり、近頃は都の中でも頻発に暴動が起きている。


 ──誰かが言っていた。


『このままでは、いずれ乱が起きるだろう』と。


 そうなればきっと、この国は大きく揺れる。下手をすれば全てがひっくり返るだろう。


 ──極まった陰は、人々を凶暴化させる。こんな状況で乱の勃発を許せば……


 都のみならず、この国全域が焼ける。積み上げられる死はいかばかりのものか。対処を誤れば、沙那という国が丸ごと死と呪詛に彩られた忌地いみちに堕ちるだろう。


 それだけは、泉仙省に属する退魔師として避けなければならない。


「んもぅ。僕達、こんなことしてる場合じゃないと思うんだけども」


 ねたように呟く貴陽の顔は、存外真剣だった。スッと慈雲に視線を滑らせた貴陽は、軽やかな口調を保ったまま言葉を続ける。


「都の気の陰化の食い止め。増加する妖怪討伐依頼やら浄祓依頼やらへの対処。黒幕の特定。……どれも人手が足りてないわけじゃない?」

「せめて黒幕に近付けりゃいいんだろうけどな」

「難しいんじゃねぇの?」


 二人の会話に永膳が口を挟む。全てを小馬鹿にするような笑みを浮かべた永膳は、見下すような視線を戦場に向けていた。


「少しでも黒幕に関する情報が上がってりゃ、泉仙省から四鳥しちょうまで共有されてるはずだ。それが一切聞こえてこねぇってことは、現状どこも目の前の状況に対処するのに手一杯で、黒幕を調査してる余力なんてねぇってこった」


 ──確かに。


 こんな状況に陥ってから、すでにそれなりの期間が経過している。だというのに状況が改善されるきざしはない。明らかに状況に対して人手が足りていない証拠だ。


 ──軍部側も、状況は同じであると。


 協力を約束した黄季おうきとは、たびたび現場で顔を合わせている。それ以外にも、ちょっとした打ち合わせのために顔を合わせることもあり、今ではそれなりの交流を持つ間柄になっていた。かつての自分を思えば、そんな存在ができるとは信じられない状況だろう。


『実はしばらく、都を留守にすることになりました』


 黄季と顔を合わせたのは、二週間前が最後だった。共闘するようになってからここまで間が空くのは初めてのことだ。


『複数箇所かしょで戦があるそうで。五大将軍のうち、四人に皇帝陛下から出陣命令が降りました。俺も従軍するので、しばらく現場をご一緒できないんです』


 出陣、従軍、という単語を聞いて、初めて軍部の本領はそこにあるのだということを思い出した。


 温和で面倒見のいい性格や、武も暴も感じさせない柔らかな雰囲気のせいで普段意識することはないが、黄季は軍部に所属している一兵卒なのだ。都の治安維持のために警邏よろしく夜な夜な暗躍するのが本領ではない。将と仰ぐらん紫藍しらんに出陣命令が降れば、黄季も旗下の一人として戦陣に並ぶことになる。


『俺は不在にしますが、黒鸞こくらん将軍旗下の兵が全て出払うわけではありません。もしも俺が不在の間に軍部から協力要請があったら、変わることなく対処してもらえると助かります』


 もちろん、泉仙省側からの応援要請に軍部も応えます。ただ主力部隊は優先して戦地に出払ってしまうので、普段とはどうしても勝手が変わるかもしれません。


『軍部が対処している案件も、日に日に凶悪化しています。こちら側に怪我人が出る案件も増えてきました』


 泉仙省側からの使者として軍部を訪れた涼麗は、あの時、瑞雲殿から程近い庭園の水謝すいしゃで黄季と相対していた。


 泉仙省側の使者が涼麗、軍部側の代表が黄季に定まった時から、二人の打ち合わせにはその水謝が使われていた。


 程よく植栽に隠された水謝は、瑞雲殿の中よりも密談に向く場所だったのだろう。水辺を渡る風が心地よく、瑞雲殿で感じた圧とも無縁の場所だったから、涼麗としても打ち合わせ場所があそこに移ったのはありがたいことだった。


 黄季はいつも茶器やら冷茶やら茶菓子やらまで持参で打ち合わせの席を用意してくれていた。今から思えばあれは、口下手で警戒心も強い涼麗に必要以上の緊張を強いないようにという黄季の心遣いだったのだろう。


『どうかお気を付けて』


 ──気を付けるのは、お前の方だろう。


 きっと涼麗は黄季の口から『出陣』という言葉を聞くまで、どこかで意識がたるんでいたのだろう。黄季と過ごす時間を心地良いものだと感じてしまっていたから、忘れてしまっていたのだ。


 水面下で着々と進むこの騒乱がなければ、自分達が出会うことなどなかった。自分達がいつも顔を合わせるのは、きな臭い現場でのことだった。


 それを忘れていたからこそ、涼麗はあの瞬間、頭の上から冷水を浴びせかけられたような衝撃を受けたに違いない。


 ──なぜ。


 ふと胸中に滴るように広がった疑問に、涼麗は己の装束の襟をギュッと握りしめた。


 ──あんな心地を、私は。


 なぜあの瞬間、あんな心地を味わうことになったのだろうか。なぜ黄季が危険な場所に出向くということに、あんな寒気を感じることになったのか。


 ──あの、感情は……


「何とかなんないのかな、この状況」


 今までいだいたことがない感情を噛み砕くことができず、ぼんやりと意識を宙に遊ばせる。


 その瞬間涼麗の耳を叩いたのは、苦味が隠しきれていない貴陽の声だった。


「というか、正直言って、こんな状況で戦とかしてる場合じゃないと思うんだけど」


 貴陽に視線を落とすと、貴陽は真剣な表情のまま眼下の戦場に視線を向けている。


 貴陽自身は紆余曲折あって泉仙省泉部せんぶ所属の退魔師をやっているが、貴陽の生家であるこう家は『医の二極』と呼ばれる薬学の大家だ。


 代々医局大夫や御殿医を輩出してきた煌家は、国政中枢部にも独自の情報網を持っている。双子の妹とともに煌本家当主の地位にある貴陽は、涼麗達と同じ景色を見ていても、その中に違う意味を見出しているのかもしれない。


「泉仙省に協力してくれないんなら、せめて外交で何とか戦の回避くらいしてくんない? って感じなんだけどさ」

「気脈の流れなんて気にすんのは退魔師だけだ」


 そんな貴陽のぼやきを叩き切ったのは、またしても永膳だった。


「で、今の国政中枢部に、退魔師からの奏上を重んじる人間なんていやしねぇ」

うん長官も苦労するねぇ」

「ま、敵が目の前にいるんだ。『地脈が狂うので戦はしないでください』なんて言ってらんねぇわな」


 ぼやきながらも永膳と同意ではあったのか、貴陽はあっさりと会話を切り上げた。終始うっすらと小馬鹿にしたような笑みを浮かべている永膳も、フツリと口を閉ざす。


 崖を吹き上がる風は、強弱を変えながらも絶えず吹き続けていた。開けた平地にいる両軍の姿は、乾いた風が巻き上げる砂塵に微かに霞んで見える。沙那側にしても敵側にしても、視界は決して良くはないだろう。


「でもさ。最近そこかしこで戦が起きてるのに、何でこの戦場にだけ僕達が送り込まれたんだろうね?」


 現状で涼麗達がすることはない。涼麗達の仕事が始まるのは、戦が終わった後だ。ならば事が終わってから飛べば良かったのでは、ともチラリと思ったが、涼麗以外の三人がさっさと移動の準備を始めたのだから仕方がない。


 永膳の腹づもりは分からないが、貴陽は恐らく好奇心からの戦見物、慈雲は生真面目ゆえに状況を偵察したかったというのが開戦前にやってきた理由だろう。


「戦なんて、どこも死と恐怖が蔓延する陰の気の坩堝るつぼじゃない? ここだけ特別に対処が必要な理由って何なんだろうね?」

「言われてみれば、そうだな」


 貴陽が発した疑問に、慈雲が小首を傾げた。内容は真面目だが、二人の態度は雑談時と特に変わらない。猛華もうか比翼ひよくにとっては、雑談も議論も特に大差がないのだろう。


「ここって、特別重要な地脈が通ってるとか、そういうことも特にないんだよな?」


 慈雲の視線は、次いで涼麗に向けられた。その視線にチラリと慈雲を見やった涼麗は、一度地脈の流れを確かめてから首肯で慈雲に答える。


 涼麗からの無言の回答を受けた慈雲は、次いで永膳にも視線を投げた。


「今回、沙那側の総大将って誰なんだ?」

「お前が薀長官から説明されてねぇのに、俺が知ってるわけねぇだろ」

「四鳥の伝手ツテとかねぇの?」

「別に三華さんか四鳥五獣ごじゅうくくられてるからって、特別繋がりがあるってわけじゃねぇよ」

「ってことは、二極も?」

「そうだねぇ。煌家は情報戦も強いけど、特にこの戦に関しては聞いてないなぁ」

「涼麗、お前は?」


 永膳、貴陽と流れた慈雲の視線は、最終的に涼麗に向けられた。まさか自分にも矛先を向けられるとは思っていなかった涼麗は、無言のままパチパチと目をしばたたかせる。


「黄季殿から、何も聞いてねぇのかよ?」

「いや」


 五大将軍のうち四人に出陣命令が降されたという話は聞いたが、出陣先は複数あると言っていたし、誰がどこに布陣するかという話も聞いたわけではない。


 ──もしかしたら、あの中に黄季がいるかもしれないのか。


 そう考えた瞬間、あの寒気が再び背筋を撫でたような気がした。氷の手でヤワヤワと心臓を握り込まれるような感触に、急に気分が落ち着かなくなる。


「もしかしたら、あえてその辺りの情報は伏せてるのかもしれないよね」


 その瞬間、不意に貴陽が軽やかな声を上げた。


 思わず涼麗が視線を投げた瞬間、貴陽は両手を膝に置きながら立ち上がる。そのまま伸びをしながら戦場に視線を置いた貴陽は、何かを見定めるかのように軽く目をすがめた。


 そんな貴陽に、慈雲が問いを投げる。


「どういうことだ?」

「ちょっと待ってて」


 貴陽は胸の前で両腕を構えると、スイッと円を描くように両手を滑らせた。その中にシュルリと水気がこごり、まばたきをする間に一行の眼前には水鏡が浮かび上がる。視線を向けてみれば、その鏡面には沙那の本陣周辺が拡大されて映し出されていた。


 貴陽の術によって顕現した、遠見えんけん水鏡すいきょうだ。


「旗印も上がってないし、騎馬とか、重歩兵とかがわざわざきっちり外套を着込んでるでしょ? これって、よろいの形状から誰の軍なのかを判断されないようにしてるんじゃないかなって」

「なるほどな」


 本来ならば、将が布陣する場所には、誰がそこにいるかを示す旗が掲げられる。


 だが恐らく本陣だろうと思われる場所はおろか、戦場を広く見渡してみても、沙那軍であることを示す旗は見えるが、軍を率いる者が誰であるかを示す旗がどこにも見つからない。


 水鏡に映るのは、不気味なほどにしっかりと外套を着込んだ兵士の姿ばかりだった。


 上級将校が詰めていると思われる最奥の騎馬隊はおろか、突撃のために歩兵よりも前に並べられた先陣騎馬隊までもが、そこらの平民が着ていそうな草臥くたびれた外套に身を隠している。


 不意に、その戦列から影が前へ飛び出した。


「……!」


 水鏡にしばし視線を投じ、次いで戦場に視線を落としていた涼麗は、飛び出していく影に目を瞬かせた。遅れて他の三人も気付いたのか、貴陽の水鏡の焦点がその影に絞られる。


 その瞬間、水鏡の行使者である貴陽が意表を突かれたような声を上げた。


「え、騎馬?」


 水鏡に映し出されたのは、一騎の騎兵だった。


 疾駆する馬はよく鍛えられていると分かる黒毛の良馬だが、その背に乗っている人影は将校にしては小柄すぎる。外套に隠されているから容貌は一切分からないが、居並んだ他の人影と比較してみても明らかに二回り以上は小さい。


 恐らくだが、騎馬の主は本来ならばこの場で馬に乗れるような年齢の人間ではないのだろう。


「おまけに単騎って」

「この局面で敵軍に使者を送るわけもねぇし」


 両軍が睨み合う先へ飛び出してきた騎馬は、一切勢いを緩めることなく敵陣へ真っ直ぐに向かっていく。


 その行動の意味を計りかねているのか、あるいはたかだか一騎が飛び出してきたところで何もできはしないと考えているのか、敵陣は揺らぐことなく泰然と構えたままだ。


 そんな中で。


 不意に水鏡に映し出された人影が、外套の中から腕を伸ばす。その手の中には一体どこに隠し持っていたのかと目を疑いたくなるような長弓が握られていた。


「は? つのか? あの状態で?」

「たとえ弓を引けたとしても、そっからじゃどこにも届かねぇだろ」


 水鏡に見入る永膳と慈雲が、それぞれ呆れとも驚きともつかない声を上げる。


 一方、貴陽は人影が持ち出した弓を認めた瞬間、大きく目を見開いた。


「え。この局面で弓って、もしかして……!」

「は?」

「貴陽、お前、何か知って……」


 貴陽の言葉に二人が水鏡から貴陽へ視線を落とす。対する貴陽は慌てて両手を動かすと鏡の焦点を人影から引いた。


 その瞬間、騎馬の主の手元から矢が射ち放たれる。キュインッと鳥の鳴き声のような音を涼麗達の耳にまで響かせた矢は、急に広がった鏡の中の光景を切り裂くかのように飛んでいった。


 その勢いと飛距離に、永膳と慈雲が目を丸くする。


「……は?」

「ちょっ、これ、普通に人力で引いた矢だよな!?」


 疾走する馬の上から放たれたとは思えない勢いで空を裂いた矢は、敵陣の前衛を軽々飛び越えると、敵陣奥深くに吸い込まれるように消えていった。


 その飛距離は、どう考えてもただの弓と矢で出せるものではない。


「ただの弓と矢、ではあるんだけども」


 その光景を見つめたまま、貴陽は顔を引きらせた。


「噂が本当なら、今の一射で相手方の総大将の首が落ちた……と思う」

「は?」

「『が巻き起こす風は、絶対』」


 貴陽がささやいた言葉に、今度は永膳が顔をしかめた。慈雲も慈雲で何か知っていることがあったのか、ジワジワと表情が驚きに染まっていく。


「多分、今のが、『死の託宣』って呼ばれてるやつだ」

「……まさか」

「いやいやいやいや。……それが本当なら」


 三人は愕然がくぜんとした表情で水鏡に視線を向け直す。


 一方、三人に構うことなく水鏡に見入っていた涼麗は、騎馬の主が馬を走らせたまま次々とやぐらの上の見張りを射落とし、進軍を指示する太鼓を割り、三基あった櫓を壊滅させる瞬間を見つめていた。


 さらに敵陣の奥に二本の矢を送り込んだところで、騎馬はようやく足を止める。


 なぜかその姿から、目を離せなかった。


「敵陣に向かって、沙那の総大将が……五大将軍の一角に座す人間が、自ら単騎で特攻仕掛けたっつーのかよっ!?」


 慈雲が絶叫する中、貴陽が再び騎馬の主へ焦点を寄せる。


 その瞬間、まるでこちらの視線を察したかのように、馬上の人物が草臥れた外套を剥ぎ取るように脱ぎ捨てた。


 涼麗が予想した通り、騎馬の主は線の細さを残した青年だった。だが外套の下に隠されていた深い藍色の外衣も、その下に覗く藍色を帯びた鎧も、決して下級兵士が纏えるような代物ではない。


「……っ」


 だがそんな外見の不釣り合いよりも涼麗の目を引いたのは、敵陣を冷たく睥睨へいげいする青年の面立ちだった。


「……黄季?」


 水鏡に映し出されていたのは、最近交流を持つようになった顔見知りのものだった。纏う雰囲気と圧は天と地ほどの差があるが、涼麗が彼の顔を見間違えることなどあるはずがない。


 あの夜、酒家街で涼麗を暴漢から助け出し、その後協力関係を約束した相手。常に喜怒哀楽を素直に表し、コロコロと表情を変える様は、感情が希薄な涼麗をしても好ましいものだと思えた。


 礼儀正しく、柔らかな雰囲気で。決して付き合いやすい性格ではない涼麗にも、そっと寄り添うように接してくれる、とても良くできた性格で。ふと思い出す記憶の中では、いつだって少し困ったように笑う顔がある。


 嘘がつけるような人間だとは、思えなかった。

 だが『らん紫藍しらん将軍旗下の一兵卒で、ばん黄季と言います』と名乗ったはずである人物は今、明らかにその名乗りとは違う姿をさらしている。


 その姿に呆然と見入る涼麗の視線の先、水鏡に映し出された黄季は、敵陣を見据えたまま、弓を握った左腕を高く上げた。


 まるで天を衝くかのように掲げられた弓は、一拍の間を置くと敵陣へ向かって振り下ろされる。


 その瞬間、沙那軍から大地を揺るがすようなときの声が轟いた。


 ──違う。あれは、私に嘘を言ったわけではない。


 その姿に、涼麗の心の中にポツリと言葉が落ちた。


 ──事実を、伏せていたのだ。


 外套を脱ぎ捨てた沙那軍が、敵陣に向かって突撃を始める。その流れをさらに煽るかのように、進軍を指示する太鼓が狂ったように打ち鳴らされた。


 対する敵軍は、進軍の太鼓も撤退の鐘も鳴らされない。鳴らす物もなければ鳴らす者もいないというのもあるが、指揮系統が完全に麻痺しているようだった。前衛に配備された者は、戦おうと動き出す者、その場に硬直してしまった者、怖気づいて退却しようとする者でゴチャついてしまっている。


 そんな混乱の群れの中へ、藍揃いの鎧に身を包んだ先陣騎馬隊が突っ込んでいく。烏合の衆を蹴散らす様は、もはや戦とは言えない一方的な蹂躙だった。


 その段階になってようやく、沙那軍本陣にユラリと旗が掲げられる。


 砂塵に霞む空に掲げられたのは、藍地におおとりが染め抜かれた旗だった。


 沙那の武を司る『五獣』が一角にしてかつての筆頭、鸞家の将軍がこの軍を率いていることを示す旗だった。


「……まさか」

「あの子が、……あの子自身が、鸞紫藍だった……?」


 慈雲と貴陽も、その光景に言葉を失っているようだった。一方永膳は、一度表情を失ったのち、ジワジワと好戦的な笑みを顔中に広げていく。


「……薀長官が、この場に僕達を派遣するわけだよ」


 混乱の最中にあっても、まだ敵陣の旗を視認できるだけの能力は残っていたのだろう。ようやく掲げられた旗を目にした敵軍の中にさらに動揺が走ったのが、傍目でも分かった。


「長官は、知ってたんだ。……ううん、もしかしたら、あの子から、直接連絡を受けてたのかもしれない。この戦場を受け持つのが鸞将軍だって」


 その光景に、貴陽が震える口元を引き締める。その上で紡がれた言葉には、どこか怯えが含まれていた。


「その上で、ここで行われるのが『戦』じゃなくて『虐殺』だってことを、長官は予想したんだ。だからこの戦場にだけ、僕達を派遣したんだ……!」


 苦く紡がれた貴陽の言葉が、耳に入ることなく体の表面を滑り落ちていくような心地がする。


 よわい十五にして将に奉じられ、三年が過ぎた今でも負けはなし。


 無血開城から、殲滅戦まで。皇帝から命じられた通りに流れを運ぶ戦の天才。


 彼が皇帝に命じられて演じた大虐殺は、その恐怖のみで複数国から降伏をもぎ取ったという噂まである。それがいかに凄惨な現場であったかは、場にこびりついた恐慌と死によって周辺一帯がわずか数日で強大な忌地と化したという事実が物語っていた。


 その旗印が翻る様だけで敵軍が撤退を決め、鸞紫藍が放つ矢はどれだけ離れていても一射で必ず敵軍の将を仕留める。


 そんな伝説じみた存在が……


 ──あの黄季だと言うのか?


 自分が知っている『鷭黄季』と、噂で聞く『鸞紫藍』があまりにも結びつかない。


 涼麗は言葉を失ったまま、水鏡に映し出される黄季の姿を見つめていた。


 だがそんな涼麗の内心とは裏腹に、自身を追い抜くように突撃していった全軍を見据える黄季の瞳は、『剣弓武神』の噂通りにどこまでも冷めていた。




 数刻も経たないうちに、戦は沙那の圧勝で終わった。


 藍揃えの一団は、敵に敗走すら許さなかったらしい。戦場となった土地には、徹底的に踏みにじられた敵軍の亡骸がむごたらしく残された。


 その亡骸から生まれる濃厚な陰の気と、空気を染め上げた恐怖は、急速に地脈を陰に傾ける。涼麗達が派遣されていなければ、一日ともたずに忌地に堕ちたことだろう。


 その全てを、涼麗達は必要最低限の言葉を交わし合うだけで、粛々と浄祓していった。

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