「全神教趣大日本世界教とは」 川面凡児 | 瑞霊に倣いて

「全神教趣大日本世界教とは」 川面凡児

テーマ:信仰、御神業

 “凡児(わたくし)の唱道する全神教趣大日本世界教とは、不肖なる凡児の発明したものではない。唯、祖神の垂示を、現代的述語に訳して、全神教趣大日本世界教と称するに過ぎないのであります。おさんには、大おさん主義あり、権兵衛には大権兵衛主義あり。人類万有、其の自性を発揮し、其の輪郭を広大にするといふことは、人類万有、それ自身の自性である。一国として、其の国の大ならんことを欲するのは、国それ自身の自性である。自国を大ならしむるのは、他の国を導きて、より以上に感化し、同化せんとするに過ぎず。我に善良なる素質なくんば、他を感化し同化することは出来ぬのである。他も亦、感化し同化し来るものでない。我に善良なる素質あれば、他は自然と感化せられ、同化され来るものである。我が善良なる素質は、独り我の私し得べきものでない。均しく、彼の善良なる素質と、合体しつつ、相互いに感化し、相互いに同化するのである。然り、天地同根、万物一体なるが故に、我より善良なる動機を発すれば、彼等は、喜んで感応感動し、服従同化し来ると共に、相互いの輪郭は大となるのである。唯、我れ其の主動者たることを得ば、根本中心の国家となり得るのである。その善良なる素質とは、全き神の教えならでは、発揮することが出来ないのである。一角一片の教えにては、世界を感化し、人類を統一するの素質を発揮することは、出来ぬのである。我が国の如き、全き神の教えなる祖神の垂示を実行するものがあれば=その者は、よしや亜米利加人にしても、全神教趣大亜米利加世界教として、世界を統一する事を得るのである。又英吉利人にしても、全神教趣大英吉利世界教として、仏蘭西人にしても、全神教趣大仏蘭西世界教として、乃至、独人、露人も、全神教趣大独逸世界教、全神教趣大露西亜世界教として、いづれも、皆人類を同化し、世界を統一することを得るのである。何ぞ必ずしも、独り日本(やまと)民族に限りたる訳はない。怠るものは衰へ、努むるものは、必ず興るのである。

 故に我等日本民族は、怠る可からず、努めざる可からず祖神の垂示を発揮して、其の宗義は、世界のあらゆる宗教宗義に超絶し、其の哲学倫理道徳は、世界のあらゆる哲学倫理道徳に超越し、其の政治、法律、財政、経済等は、世界のあらゆる政治、法律、理財、経済に超絶し、其の文学美術も、陸海軍も、乃至、あらゆる理化学的発明、工業商業等も、世界のあらゆる国民民族に超絶する所がなくてはならぬとの自覚を有すると共に、実行すべきである。殊に最も注意すべきは、祖神が垂示し給へる神人合一の祭政一致である。

 神を離れては、宗教、哲学、倫理、道徳、政治、法律、財政、経済、文学、美術、軍隊、衛生、商工業等に至るまで、是れ霊魂なき外観の装飾に過ぎざるものとなる。奈良人形となるに止まるのである。何等の活気なく、生命なく、何等の威厳なく元気なきものとなる。神を離れたる宗教、哲学、倫理、道徳等は、永久に伝はることなきが如く、神を離れたる民族も、家族も、国家も、永続することは出来ないのである。希臘の末路は如何。羅馬の末路は如何。仏国の革命は如何。其の宗教、哲学、倫理の懐疑に陥ると共に、人心腐敗し、元気衰退し、国家も滅亡したのである。人類を同化し、世界を統一せんとする大国民は、其の根底に於いて、全神の教趣を離るべからざるものである。是れ祖神が夙に世界邦土の開闢と共に、其の意味を、子孫たる全人類に向かって、天啓垂示せられある所以なのである。故に凡児(わたくし)は、固より以て、取るには足らざる浅学無智なれども、其の子孫の一人として、已まんとするも、止むことお能はず、感慨鬱々として、自ずから其の分のある所を忘れず、其の垂示を現代的述語に訳出し、全神教趣大日本世界教といふと共に、御教主としては、窃かに、祖神より、歴代の天皇を仰ぎ奉り我が身の及ぶ限りの一分を実行しつつ、我が愚を捨てざる友あれば、相互いに共鳴実行し、一人つつ其の実を挙ぐべく、期待しつつあるのであります。”

 

(川面凡児述「建国乃精神 全」(稜威会)より)

 

*戦前の古神道の大家、川面凡児先生(1862~1929)は、自らが体得された「祖神の垂示」を神国日本の指導原理とし、さらにそれを具体的に把握し実行するために「禊」の行法を復興・体系化され、全国を廻って多くの弟子たちを指導・養成されました。現在各地で行われている禊行は、ほとんどが川面流の禊で、さらに禊は合気道にも取り入れられ(合気道の『船漕ぎ運動』は禊行の『鳥船』です)、合気道開祖の植芝盛平翁も、『合気道は禊である』と言われています。川面先生の思想については、宮崎貞行著「宇宙の大道を歩む」(東京図書出版)に、以下のように紹介されています。

 

 “川面の思想は、古神道の宇宙観、霊魂観と神人合一法を西洋論理を用いて解き明かそうと試みた点に特色がある。例えば、荒身魂は肉体、和身魂は意識、直霊は最高意識ととらえ、人間は最高意識が受肉した存在であるから、すべての人間はその意味で「現人神」であると主張した。(天皇だけが現人神ではない、という主張は注目すべきである)また、天之御中主神を中心力、高御産霊を遠心力、神御産霊を求心力ととらえ、この三者のはたらきによって原宇宙が生成されたと説いた。川面は、古神道の神は、創造神ではなく、生成神であると考えている。創造神は、創造がある以上終末が訪れることを前提とした限定的な神であるが、生成神には、終末と見える現象はあったとしても、実際に終末はなく、永遠の生成発展があると考え、『古事記』の「天壌無窮」説を近代論理を用いて説明しようとした。川面の主張する日本民族の神は、一神にして多神、多神にして汎神であり、一神の躍動するはたらきの現れが、多神であり、汎神であるとし、この構造をもった神を「全神」と名づけ、自らの教えを一神教でも多神教でもなく、「全神教」と名付けた。この神のダイナミックな構造は、およそ二百年後には、西洋にも理解されるようになり、西洋は、多神と祖霊も祀るようになるだろうと予測している。ただし、神は、知性で論理的に把握しただけでは足りず、体感、体認、体験しなければならないと説き、そのために禊、鳥船、雄叫び、おころび、祝詞などの一連の身体作法を体系的に行う必要があるとしている。(彼が提唱した禊は、その一連の身体作法の一部にすぎない。)なお、天皇が宮中でおこなう祭祀と行法が、本来の魂しずめと魂ふりであり、川面の祭祀と行法は、それから派生した傍流であると位置づけている。”

 

*川面凡児先生の主張する大日本世界教とは、決して狂信的誇大妄想的に日本の宗教の優越性を主張するものではなく、それを全世界の人々に無理やり押し付けようとするわけでもありません。いわばこれは努力目標のようなもので、おそらく川面先生は、世界各国の国民が、それぞれに伝えられている神の教えに従い自国を善くすることに努め、互いの善良さに感化され合うようになれば、世界は精神的に統一されるということを説いておられるのだと思います。日本人は大日本世界教、アメリカ人は大アメリカ世界教、他の国の人々もそれぞれの国の世界教を目指すようになって、お互いに敬意を払い共に高め合うようになれば、いずれは各国間の戦争もなくなるかもしれません。もちろん、現実はそう甘くはないと思いますが、人類が崇高な理想に向かって一致協力することは神様の御意志にも適っているはずです。

 

*明日は天皇誕生日ですが、天皇陛下は日本国民統合の象徴となる唯一の御方であり、皇室は日本のすべての家にとっての本家です。そして天皇は宗教的な権威であり、リアルに霊的な存在でもあります。日本国民はたとえ信じる宗教が異なっていようと信仰心があろうとなかろうと、家族的な愛情によって天皇陛下と結ばれている限りは、誰にでも聖性へと至る道が開かれています。皇室を通じてこそ、自分の先祖を遡れば神に繋がることを実感することができますが、皇室のことを考えずしては自分の先祖の起源は江戸時代やせいぜい室町時代ぐらいで、とても神にまで遡るとは思えないでしょうし、ほとんどの人はそのようなことを考えたことすらないと思います。イギリス国王は英国国教会の首長であり、アメリカ大統領は就任式でジョージ・ワシントンの聖書に手を置いて宣誓しますが、これらの起源はたかだか何百年か前で、特定の宗教・宗派に限定されるものでしかありません。もちろん、それでも国民統合の象徴を持たない国や、中国や北朝鮮のような無神論の独裁国家に比べればはるかにマシですが、我が国の「万世一系の皇統」、そして川面先生が説かれる「祖神が垂示し給へる神人合一の祭政一致」ほどに、国家そのものに聖性を帯びさせるものではありません。日本の国体がいかに尊く素晴らしいものであるか、国民はもっと自覚すべきであると思います。

 

「人は祖にもとづき、祖は神にもとづく。故に人の道たる報本反始を貴ぶ。報本反始、是れ祭祀の由りて興る所なり。」

(出口王仁三郎聖師)

 

 

* 「霊界物語」の中でも、「禊の神事」の大切さについては繰り返し述べられ、また伝染病は悪霊の仕業であるとして、病気が流行った時には必ず禊を実践すべきであると説かれています。ただし、かつてある信徒が出口聖師に、「今流行っている禊をしたいのでさせて下さい」と申し上げたら、「禊は神様に対して不敬である。禊をするにふさわしい人間がおればやらせる。どこにおるのじゃ!」とかなりの剣幕で叱りつけられたという話があります。罪穢れを清めることができるのは、あくまでも神様だけであって、自力でできることではありません。もし禊を行いさえすれば自動的に罪穢れが無くなる、つまり神様に頼らず自分の力で罪穢れを清めることができると考えている方がいれば、それは大変な考え違いであり、神様に対して御無礼でしかありません。

 

*川面凡児先生は、熱心な浄土真宗の信徒であった母親が亡くなられたときは仏式で葬儀を行われています。先生によれば、日本に仏教が伝えられ広まったのは、日本の神々がそのようにお計らいになったからだということです。

 

・禊を行じて(川面師の高弟、高木兼寛先生(東京慈恵会医科大学の創設者)の体験)

 

 “この禊の行を含めて、彼が宗教に求めた願いは、「宇宙森羅万象からの声(教え)が聴きたい。宇宙からの声をよく了解したい。宇宙からの教えにまじめに従いたい」ということであった。そして、禊の行によって直接、「宇宙の声」を聴くことができたのであるが、さらに彼は、多くの間接的な声も「宇宙の声」として聴いていた。そのなかには、神道もあれば、仏教もあれば、キリスト教も、儒道までも含まれていた。彼によると、その教える宇宙の声はすべて共通で、「キリスト教もお釈迦様も孔子様も皆お友だちで、その趣は同じこと」なのであった。彼にあっては、宇宙にあまねく実在し、唯一なるものの声を聴き、それに従って生きたいというのが最終的なのぞみであった。”(P181~P185)

 

(松田誠「脚気をなくした男 高木兼寛伝」(講談社)より)

 

*戦前は「禊」は今も全国各地で行われていますが、そのうちの一つ、伊勢にある「神道大和教総社・禊之宮」は、直弟子であり伊勢外宮の宮司でもあった巽健翁によって創設された禊道場で、私も昔講習を受けに行ったことがあります。この禊之宮については、芥川賞作家である三浦清宏氏の著書「見えない世界と繋がる 我が天人感応」(未来社)の中で詳しく紹介されていますが、ここにしかない特別な「おみくじ」があり、それのために遠くから参拝される方もいらっしゃるそうです。

 

 

・霊界の高級霊シルバー・バーチからのメッセージ

 

 “―――霊界には今後イエスのごとき人物を地上へ送ることによって更に奥深い啓示をもたらす計画があるのでしょうか。

 

さまざまな民族の必要性に応じて、さまざまな手段が講じられつつあります。忘れてならないのは、現在の地上はますます複雑さを増し、相互関係がますます緊密となり、それだけ多くの通信回路を開かねばならなくなっているということです。各民族の異なった気質、習慣、思想、生活手段や様式を考慮に入れなくてはなりません。通信の内容もその国民の生活環境や特質、民族的習性に合わさなくてはなりません。それをその国民の言語で表現せねばならず、その他もろもろの制約があります。が、啓示の由って来る究極の淵源はみな同じです。」

 

(アン・ドゥリ―編「シルバー・バーチの霊訓」(潮文社)より)

 

*世界各国、各民族にはそれぞれに適した宗教のかたちがあります。当然、日本民族には日本民族に適した宗教があり、外来の宗教によって日本の国体が否定されるようなことなどあってはなりません。仏教が日本で変化したように、外来の宗教の方を日本の国体に合わせねばなりません。

 

 

・キリスト教と日本文化

 “幼児洗礼を授けてもらった私は、とくにこれといった問題もなく大学時代を迎えることとなった。大学二年の私は、以前から関心のあった「日本文化とは何か」、「日本人の思惟方法とは」というテーマが、いくらか客観的にわかってくるようになると、「日本文化ないし日本人の思惟方法とキリスト教」という問題で悩み始めた。
 今日に至るまで、一般に日本文化に対してキリスト教が真に対決したことはないと思う。当時の私は、日本文化を受け入れるとキリスト教的には生きていけない、また逆に、キリストに倣った行動をとれば日本文化とことごとくぶつからざるを得ないので、テルトリアヌスやタティアノスのように、「日本文化をまったく無視すべきではないか」などと真剣に考えるようになった。
 ところで私は他方において、信仰が潜在的に植え付けられている点についてははっきりと自覚していた。そして、自分の信仰が、自分の学問に、さらに大きく言えば、日本の社会に役立つものであるのかどうか、いろいろ思いめぐらしていた。手当たり次第に本を読んでみたし、その道の第一線の人にも手紙を書いていろいろ教えを受けた。またアレクサンドリアのクレメンスのように、師を求めて諸外国を飛び回るわけにはいかなかったが、国内では、日本人・外国人を問わず、自分の師を求めてあちこち訪ね回った。
 そして、蒸し暑い夏の夕方、私は東京の三畳の間借り部屋で、「これだ!」というものを体験したのである。後でわかったことであるが、クレメンスの回心告白と一致していた。「〈みことば〉は人となって、わたしたちのうちに宿った」ことによって、絶対者はわれわれ一人一人すべてと、また個々のすべての文化と、すでに一致しておられるのである。
 日本文化にも、すでにロゴスの種子が蒔かれているのだ。そのことはクレメンスも語っているように、ギリシャ人にはギリシャ人的に、シナ人にはシナ人的に、そして日本人には日本人的にすでに知られているのだ。さらに、巡礼の旅の体験を通してクレメンスも述べていることではあるが、信仰が主体的に文化と関わることによってこそ、信仰が自己の意味内容を認識するものだと見なしたのである。”(久山宗彦:法政大学教授(比較宗教学))

(久山宗彦「ナイル河畔の聖家族」フットワーク出版より)

 

 

・「万教帰一」について 〔出口王仁三郎聖師〕

 

 “愛善苑で唱道する宗教帰一は各宗教を一宗教に統合するの意ではない。各々の意志想念が違っているように各々の宗教も違っているのであるから、大きな目で見た場合は名称は神であろうが、佛であろうが、キリストであろうが何でもよいのである。すべての宗教団体や思想界が宗教の本質、すなわち信真と愛善に帰一したならば、回教でもキリスト教でも精神と精神とは宗派、民族、国境を超えて統一結合されたことになるわけである。

 

(「愛善苑」昭和21年12月1日号より )

 

 

 “皇道大本の真髄、変性男子と変性女子の、天賦神業を了解せむとするには、第一に皇宗皇祖の御遺訓皇典古事記の言霊解と、大本神霊学の実習、基督教の聖書と、佛教の経典、老子経、儒教等を神佑の下に至誠を以て、大活眼を開き心読すれば、容易に神界の経綸、天下の将来を窺ひ知ることが出来るので在ります。然るに偏屈、頑迷、小心の者は、只一方にのみ心を傾けて、大局に眼を注がぬから、何時まで研究しても、大本の教理が了解出来ずして、日に日に迷宮に入りて、狼狽するようになるので在りますから、寸暇あれば老子や基督や佛教の典籍を参考として一応通読され度いもので在ります

 其の上で皇道大本の神諭を研究すれば、大抵の見当は付くもので在ります。近くは本月発行の公論雑誌を一読あれば、神諭の実に尊く、神慮の忝(かたじけ)なき事を納得する事が出来ませう。又た特別に耶蘇の聖書は好(よ)き参考書でありますから、未だ聖書を読まない方々に一読あらむ事を希望いたします。”

 

(「神霊界」大正8年12月15日号 王仁『随筆』より)

 

 

 “かつて東京において浅野和三郎氏が心霊科学協会なるものを知名の士を集めて創立したときに、出口聖師は一部の信者の誤解を解くために、次のように「神の國」誌に書かれたことがある。

「大本の教は決して宗派ではありませぬ。又既成宗教のごとく教祖の示現のみを以って唯一の宗旨とするのでもありませぬ。教理や経典や儀式や信条と種々の鉄条網を張りまわして人間の生きた霊を拘束したり殺したりするような所でもありません。それ故に、大本にはキリスト教も仏教もその他各国の宗教信者も集まってきて、互いにその霊性を研き、時代に順応したる教義を研究する所であります。信者の争奪に余念なきソコイラの宗教とは大いにおもむきが違っております。如何なる宗教の教義も思想や主義も抱擁帰一して世界人類相互の向上発展のために活動している聖団であります。云々」

 

(「神の國」昭和29年1月号 桜井重雄『真の自由と平安と幸福』より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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