ある極限の想像をしてみた。仮に、死刑囚が男女合わせて1万人存在し、近く死刑が執行されることが決まっていたとする。だが突然の出来事により、地球上に善良な市民がたった一人しかいなくなった状態となってしまったとしたら――この状況では、たとえ死刑囚であっても死刑の執行はできなくなる。
なぜなら、仮に死刑を実行してしまえば人類は滅亡してしまうからだ。ここに、私は“組織の論理”というものの原型を見る。
個人が多少犠牲になっても、それによって「組織が守られる」「全体が維持される」のであれば、それが正しいとされる――今の社会には、そんな前提が静かに、しかし深く根付いているように思う。
組織を守るという論理。それは、時に「真実」や「正義」よりも優先される。ひとたび組織のイメージや信頼が損なわれれば、内部に属する多数の人々の生活や地位、関係企業や社会全体に波及する恐れがある。そのため、組織防衛は最優先事項となり、逆に言えば、個人の苦しみや訴えは“些細なこと”として扱われてしまう。
しかし、果たしてそれでよいのだろうか?
個人の痛みを無視して成り立つ組織は、果たして健全なのだろうか?
私は、正義とは単に「大多数にとっての利益」ではなく、「少数であっても真実を尊重すること」だと思う。けれど今の社会では、組織と個人を天秤にかけ、組織のほうが重ければそれが正義であるかのような錯覚が常識化してしまっている。
それは静かな暴力であり、倫理の摩耗だ。
声を上げた者が排除され、沈黙する者が守られる構造が温存される限り、私たちは“正義”の顔をした組織の中で、自らの感覚を麻痺させながら生きることになる。
私は、そうはなりたくない。
だから、私はこの文章をここに記す。たとえそれが誰かに届かなくても、今この時代に、個人が正義を問い続けていたという記録が残れば、それでいいと思っている。
最近のメディアを賑わせている事件とは、そういうことなのだとおもう。