和暦手帳をお求めくださったみなさま、ありがとうございました。まだお手元に届いていない方も、到着までしばらくお待ちくださいませ。
最近、あれこれ作業しながらラジオのようにYouTubeの朗読を聞いているのですが、たまたま以前も聴いたことのある向田作品を聴いているとき、ふと心に思うことがあったので、ちょっと書いてみたいとおもいます。
きょう配信予定の七十二侯のコラム、第四候、土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)の補足として、お読みいただければ幸いです。
古い暦で、この第四候は、「獺魚祭(だつうおをまつる」でした。ニホンカワウソが絶滅してしまった今、
まったく実感のもてない光景になっていますが、
向田邦子の小説「かわうそ」の一節は、
獺祭(だっさい)が端的に表現されています。
「かわうそは、いたずら好きである。
食べるためだけでなく、
ただ獲物をとる面白さだけで
沢山の魚を殺すことがある」 ー向田邦子「かわうそ」より抜粋
カワウソはまるで祭りのお供えのように川岸にずらりと魚をならべる習性があります。川の水がぬるみ、カワウソが喜び勇んで魚をとっている。その光景を眺めることで、むかしの人々は春がきたことを知ったわけで、今はもう見ることのできないのどかな光景です。
といっても、向田邦子の「かわうそ」はかなりシュールな内容で、忘れたころに読み返してみると、またあらたに驚かされ、何度でも、いいなと思う小説です。
人間の抱える闇の深さ、愚かさ、あさましさ、滑稽さ。
人はすべてを飲み込んで、図々しく、たくましく、生きていくほかありません。
ところで私は今、向田さんの実家があった杉並に住んでいますが、以前は、向田さんの恋人が住んでいた中野の川沿い(おそらくかなり近所)に住んでいました。
中野に住んでいたのは30代のころで、
私のメンターは、風間完画伯でした。
連載の担当者として一年間、絵をとりに伺ったのがきっかけで、家にあげていただくようになり、家が偶然、近所だったのと、ご家族が気晴らしにでかけることを勧めていたこともあり、画伯の仕事が終わった夕方お迎えにゆき、ぶらりと散歩がてら中野駅にでて、いきつけの店で少しの料理とお酒を嗜むのが習慣で、無口な私は気の利いたこともいえない代わりに、可もなく不可もなくといったところで、同伴者に選ばれていました。その期間は十年近かったとおもいます。
そんな中で、何度かお聞きしたのが向田さんのこと。
風間画伯が向田さんと会うのも、やはりいつも中野だったそうです。年代を考えると向田さんが脚本家から小説家になりつつあった頃なので、恋人が亡くなられた後だったのだとおもいます。向田さんはどんな思いで中野駅に降りていらしたのかと思ったりもします。
風間画伯が『銀座百点』の表紙を描いていらした頃、
向田さんがそこに隔月で連載を始めたのが『父の詫び状』で、のちにこの「かわうそ」が収録されている『想い出トランプ』など、向田作品のいくつかの本の表紙は風間画伯の絵になっています。
向田邦子さんと会うときは毎週水曜日と決まっていた、
だから、水曜日が来るのが楽しみでしたね、と言ったあと、「あんたと話していても面白くないね」と言われたことを、私は時々、思い出します。
楽しみにならない自分はどうしようもなく、ただただ恥ずかしい気持ちでした。なにしろへんに取り繕ったり、つまらないことをいったりするとたちまち底を見られてしまうのです。
知っているといっても、じつは何も知らない、
見たといっても、何もみちゃいない。
見るのと、観るのは違う。
そんなことを思い知ることの繰り返しでしたが、「でも、まあ、あんたは姿勢がいいからね」と慰めてくれたこともありました。
ものを知らないのは仕方がないけれど、「物事に対する姿勢」が大事なのだ、という基本を教わりました。
風間画伯と向田さん、ごまかしの効かない人同士、
人の底をじっとみる者同士の大人の会話がどんなものだったのかはいまだにまったくわかりませんが、
今回、「かわうそ」の朗読をきいて、ふっとわかったことがありました。
私がわかっていなかったこと。
そういうことか、とぼんやり思いました。
風間画伯の生きた時代と、向田さんが生きた時代、戦争を経験した人の時代と、戦争の後遺症を負った人の時代。日本人はだいぶ幼稚化して、人としての成熟度はずいぶん遅くなっているのではないかと思いますが、
それでも年齢を重ね、人並みに理不尽を経験したりするなかで人間とは何か、自分はどう生きるのか、おぼろげながら浮かんできたりします。
なるほど私はさぞ、面白くなかっただろう、と思います。
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