スピッツの「美しい鰭」は、映画『名探偵コナン 黒鉄の魚影』の主題歌としても知られる有名な楽曲だ。私も好きなスピッツの楽曲の1つで、リリース当初から何度も耳にしていた。
ご存知のように、この曲のAメロは変拍子だ。私は学生時代にバンド活動に打ち込んでいたこともあり、8分の7が2小節続くという構造にも自然と気づいた。
流れるようなメロディーと草野マサムネの優しい歌声がいつも通り響く。しかし、その調和の中に、明確なリズムの「ずれ」が存在している。その違和感は不協和音とはならず、むしろ聴く者の心を捉える魅力として際立ってくる。
ふと思った。この変拍子のアイデアを、果たして生成AIは生み出せるだろうか?
もちろん、スピッツっぽい曲調を生成AIに頼むことは可能だ。実際、「スピッツ風のギターポップを作って」と指示すれば、それらしいコード進行やメロディを出力することはできるだろう。
だが、あのAメロのように「スピッツの文脈の中で変拍子を入れる」という判断が、AIに可能だろうか? 変拍子はスピッツの中でも珍しく、過去のデータだけを参照していれば、選ばれない構造だ。そこには明らかに、人間の「今回はこれがいい」と判断する意思が介在している。
そう考えたとき、もう一つ思い浮かんだのがピカソだ。彼もまた、文脈を逸脱した創造によって、美の定義そのものを書き換えた人物だ。
青の時代を経て、ピカソはキュビズムという新しい表現に辿り着いた。写実性や遠近法といった当時の常識から離れ、複数の視点や時間軸を1枚の画面に描き込むという構図。初めは理解されず、しばしば否定的に受け止められた。
これもまた、生成AIにできるだろうか?
過去を学び、その平均や傾向を予測する仕組みに、「逸脱を選ぶ意思」や「既存の文脈を壊す勇気」は宿るのか──そんな疑問が浮かんできた。
この問いは、単なる技術比較ではない。「人間の創造性とは何か?」という根源的な問題に、生成AIという鏡を通じて改めて向き合うための入り口であろう。
AIの創造は“予測”である
生成AIは、過去の膨大なデータを学習し、そのパターンから「もっともらしい」ものを生成する技術だ。そこには、明確な構造がある。たとえば言語モデルであれば、次にくる単語や文脈を統計的に予測し、画像生成AIであれば、過去に“美しい”とされた構図や色合いを再構成する。
ここにおいて、AIが出力する創作物の方向性を決定づけるのが「目的関数」である。最終的に「これは良い」と評価されるような出力を目指して、AIは学習を繰り返す。その目的関数は、しばしば「過去に高評価を得たかどうか」「大量のユーザーに好まれたかどうか」といった外的な要因に依存している。
言い換えれば、AIにとっての創造とは「過去の評価をもとに未来を予測すること」である。そこには確かに効率や再現性はあるが、“逸脱”や“ずらし”は自然には含まれない。
ここで、スピッツの「美しい鰭」のAメロに戻ろう。過去のスピッツの楽曲の多くが四分の四拍子であることを考えれば、生成AIが“スピッツ風の楽曲”を出力しようとしたとき、変拍子のAメロが選ばれる可能性は極めて低い。過去データに最適化される限り、それは“正解”ではないからだ。
同じように、ピカソのキュビズムも、当時の美術界における「良い絵」「上手い絵」の定義からすれば、あまりにも逸脱していた。つまり、それは“評価されにくい”出力であり、AIの目的関数に従えば生まれにくい構図だった。
もちろん、AIでも変拍子の楽曲やキュビズム風の画像を「偶然」生成することはあるかもしれない。だが、それを「良い」と判断して採用し、提示するためには、“過去の評価軸”ではなく、“別の軸”が必要になる。
そして、まさにそこに人間の意思がある。いま評価されないかもしれないが、自分はこれが面白いと思う、良いと思う──その判断を下す主体。それこそが、創造性の根幹ではないか。
AIの出力は確率的な「もっともらしさ」である一方、人間の創造性は確率の外にある“選択”ではないだろうか。
評価関数(社会の目的関数)と個人の目的関数のずれ
すでに説明したように、生成AIが過去のパターンに最適化された出力を行う以上、そこには「何を良しとするか」を定める関数、すなわち“目的関数”が存在する。そしてその目的関数は、多くの場合、「社会的に評価されたもの」に依存している*1。
ここでは便宜的に、社会的な評価基準を「評価関数=社会の目的関数」と呼び、創り手自身が信じる価値基準を「個人の目的関数」として使い分けることにする。
この二つの目的関数は、しばしば一致しない。むしろ創造の初期段階においては、ずれていることの方が自然であり、健全ですらある。
現代のデジタル社会では、この“社会の目的関数”が、しばしばネット上でのインプレッション数やエンゲージメント率といった短期的な指標に置き換えられている。とりわけマーケティングや広告の分野では、「多くの人に届いたか」「バズったか」が評価の中心に据えられがちだ。
しかし、そのような指標に最適化されたクリエイティブは、必ずしも本質的な創造性を伴わない。むしろ、すでに確立された表現様式やテンプレートに寄りかかった“模倣”や“最適化”に留まりやすい。
だからこそ今、創り手に求められるのは、短期的な承認や反応に惑わされず、自らの目的関数に忠実であり続ける姿勢である。
たとえば、ゴッホは生前にほとんど評価されなかった*2。彼の個人の目的関数は、色彩に心理的・道徳的な重みを込め、人間の情熱や内面の苦悩、自然の本質を独自の手法で表現することにあった。それは、当時の社会が良しとしていた穏当で写実的なスタイルとは大きく異なっていた。
当時の主流は印象派に代表される穏やかな表現だった。ゴッホのように強い感情を込めた筆致、鮮烈な色彩、激しい構図は、画商や批評家にとっては“逸脱”と見なされ、評価の対象にはなりにくかった。
しかし彼の死後、20世紀に入り現代美術が発展していく中で、ゴッホの作品はその先駆けとして再評価されるようになった。つまり、当初は評価されなかった個人の目的関数が、時間を経て社会の目的関数と一致するようになったということである。
現代のデザインの分野においても、同じことが起きている。2013年、AppleはiOS 7で従来のスキューモーフィズムを捨て、フラットデザインに大転換した。立体感を廃したそのビジュアルは、「のっぺりしていて押しづらい」「ユーザビリティを損なう」と批判された。
Microsoftもその1年前にWindows 8で「Metro UI」を導入していたが、こちらもまた市場からの反発が強かった。だが、結果的にはWebやモバイルのUIにおいて、フラットデザインが標準的な選択肢となった。
ここでも、評価関数(社会の目的関数)──「操作しやすさ」や「視覚的親しみやすさ」といった評価基準が、「多デバイス対応」や「レスポンシブ性」「タイポグラフィ重視」などへと、時間とともに書き換わっていったことがわかる。
創造とは、必ずしも“今”の社会に評価されるために行うものではない。個人が持つ目的関数と、評価関数(社会の目的関数)が一時的にずれていても、未来の社会がその価値を受け止める可能性はある。
むしろ、創造の本質はその“ずれ”を恐れないところにあるのではないか。
創造とは目的関数の再設計である
生成AIは、「今あるもの」の延長線上に「次にありそうなもの」を描く。
だが、本当に創造的なものは、「次にあるべきもの」を選び取ることでしか生まれない。そこには、単なる予測を超えた“意志”がある。
それは目的関数の再設計に他ならない。今の評価基準をそのまま受け入れるのではなく、別の基準を自ら立てる。たとえ現時点で評価されなくとも、自分の中にある「良さ」を信じて表現する。そうした行為こそが創造なのだ。
この視点で見ると、創造とは本質的に「不整合」と向き合う営みである。
社会の目的関数と個人の目的関数が重なる瞬間ばかりではない。むしろ、最初は重ならないことの方が多い。
だからこそ、創造には勇気が必要になる。誰にも理解されない可能性を抱えながらも、自分の判断を信じて進む。そのプロセスにこそ、人間の創造性の源泉がある。
では、そのような“意志ある目的関数”をどのように持ち得るのか?
それには、次のような複合的な姿勢が必要だ。
- 現在の評価軸を相対化する視点:今評価されているものが絶対ではないと知る
- 中長期の視点を持つ構え:短期の反応に一喜一憂せず、時間とともに評価が変化しうることを理解する
- 問いを持ち続ける習慣:「なぜこれが良いとされるのか?」という問いを繰り返す
- リスクを取る意志:今の正解を一度手放す勇気を持つ
加えて、「ずれ」を育てる環境も重要だ。常に正解を求める場では、目的関数を再設計するような創造は生まれにくい。安全圏を外れて考える余白、違和感に立ち止まる時間、評価されないことを恐れない文化──そういったものが支えになる。
AIが過去の評価から「正解らしきもの」を導く存在であるならば、人間は「正解を壊してでも、意味を見出す存在」であるべきだ。
創造とは、まだ評価されない何かに対して「これは面白い」と言える勇気。
そしてその判断に、世界がいつか追いついてくるかもしれないと信じる信念である。
生成AIの出現は、人間の創造性の定義を再考させる契機となった。しかし、これは創造の終焉を意味するものではない。むしろ、表現にかかるコストが劇的に下がったことで、私たちは「何のために創るのか」という本質的な問いに、これまで以上に深く向き合う時代を迎えていると言えるだろう。
過去の最適解としての“正しさ”ではなく、まだ評価の定まらない“面白さ”をあえて選び取る──そのような選択こそが、生成AI時代における人間の創造性を示すものとなるのではないか。