物語の中心となる少女ニャアンの鬱屈と解放がわかりやすく描かれ、主人公マチュが戦闘には参加しなくても対立陣営に疑われる同時進行のサスペンスが密接にかかわっていて、全体的には第3話や第4話に比べて娯楽としてわかりやすかったとは思うのだが。
さまざまな経緯からマチュが対立陣営の少尉エグザベにかくまわれるようにロッカーに入れられるわけだが、単純にそのような場所のロッカーに小柄な少女ひとりならともかく大の男ひとりも入るスペースがあるようには見えない。
ロッカーが多数ならんでいるところで、追いかけていた官憲たちがマチュがどこに消えたのかと語りあう描写も、官僚主義への風刺や皮肉というよりも単純にマヌケなだけに見える。念のためロッカーをさがそうとする者がひとりくらいいそうなものだし、官憲がそうしないと考えるエグザベの判断も甘く見えて、せっかくのサスペンスが弱まっている。暗がりとはいえ間近で接触して疑っているマチュの容貌を確認するエグザベが、明らかに不審なマチュの態度に気づかないことも不自然。
もちろん物語の都合でキャラクターの勘が良くなったり悪くなったりすることはしかたないが、この描写は素直にマチュだけロッカーに入れて、その外でエグザベが様子を見るだけで自然になるだろう。少女を見なかったかと質問する官憲に対立陣営の少尉として否定しても一般人のふりで否定してもそれぞれ面白い描写にできるだろうし、官憲が近くで会話しているところであえて扉を開け閉めして着替えたり荷物を出し入れしたりするふりをして緊張感を高めてもいい。扉ごしの会話ならマチュの態度の異変に気づかなくてもおかしくない。マチュのアクセサリーから通っている学校にエグザベが気づいたり、小さな画面でクランバトルをマチュに確認させる描写も、のぞき穴のあるロッカー扉なので扉ごしでも可能だろう。
学園ラブコメなどで少年少女が掃除道具入れにふたりで入るような定番描写を、よく考えず終戦直後のロボットアニメに引いただけなのかもしれないが、それならばそれでもっとシチュエーションにあった描写を考えにてほしかった。