AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
7.交錯(5)


「……?」
 言いようのない寒気を覚えて、アグネイヤは思わず自身の身体を抱きしめた。
「どうか、なさいましたか?」
 差し向かいで夕餉の席に着くルーラが、不審そうにこちらを見る。アグネイヤはちいさくかぶりを振って、
「なにも」
 短く答えると、ルーラの視線を避けるように俯いて。水の入った碗に手を伸ばす。入浴後大分経つとはいえ、温泉で充分に温まった身体である。そう簡単に冷えることは無い。そうだ。この悪寒は、寒さからくるものではない。
(クラウディア)
 彼女の身に、何か起こったとき。そのときに感じる衝撃だった。

 十四歳のあの日も、同じであった。
 アグネイヤの身代わりとなって、刺客の刃を受けたクラウディア。彼女が背を斬られた瞬間、アグネイヤも同じ痛みを感じた。
 それを、双子の不思議と人は言うけれども。
 それだけではない。それだけではない何かが、自分たちの間にはある。

(クラウディア)
 ざわめき始める胸を押さえるのは、楽ではなかった。けれども、ここで更に不審な行動をとれば、ルーラに、周囲の使用人に疑われてしまう。現に、ルーラは薄々気付いているのではないか。彼女の冷ややかなる青い視線は、徐々にその温度を下げているように思える。凍てつく氷の瞳、初めのうちはその中に温もりがあったけれども。今は、違う。
「妃殿下」
 呼びかける声にも、人の温かさはない。
「ご気分が悪いのではないですか?」
 ルーラが尋ねると、傍らに控えていた使用人も表情を曇らせる。
「床のご用意を致しましょうか?」
 彼女らの気遣いが、胸に痛い。自分は、この人々を欺こうとしている。彼女らの目の前で、ジェリオに殺されて。クラウディアは死んだと、そう思わせようとしている。
「すまない」
 先に休ませてもらう、と言って。アグネイヤは席を立った。使用人は、
「では、用意をさせていただきます」
 一礼して部屋を出て行く。その後姿を見送るアグネイヤに。ルーラがふと、何気なく呼びかけた。
「アグネイヤ殿下」
「なに?」
 振り向いてから、気付いた。これが罠だったということに。アグネイヤは眼を見開き、短剣に手をかけた。ルーラも静かに立ち上がり、一歩、アグネイヤの元に近づく。
「妃殿下は、どこにいらっしゃる?」
 低い声だった。これが女性の声かと思われるほどの、太い声。アグネイヤはびくりと身を震わせた。先程とは異なる悪寒が、背筋を這い登る。なぜか、ルーラの背後に男性の影を感じて。彼女は思わず後退した。
「どこで入れ替わった?」
 咎める声音に、アグネイヤはかぶりを振る。
「なんの冗談だ? わたしは、クラウディアだ。それ以外の何者でもない」
「愚かなことを」
 ルーラの双眸に静かな怒りが宿る。
「貴様が、妃殿下とは笑止」
「ルーラ」
「似ているのは、顔だけか。声だけか。何をしに来た、ここへ。妃殿下の命を奪うためか?」
「違う」
 思わぬ声が出た。アグネイヤは、はっと息を呑み、背後の扉を振り返る。先程の使用人の姿が一瞬脳裏を掠めた。
「わたしが、クラウディアだからだ。だから、私がここに来た。それだけだ」
「何を言う?」
 ルーラは聞く耳を持たぬのか。言葉は問いかけでも、その実何もアグネイヤの答えを求めてはいなかった。彼女はアグネイヤから目を逸らさずに、数歩後退し、扉の鍵を閉めた。カチャリと響く金属音が、アグネイヤに別の記憶を思い出させる。
「なにを、する気だ? ルーラ」
「無論、妃殿下の居場所を聞き出すだけだ。痛い思いをしたくなければ、今のうちに言うがいい」
 ルーラは扉に背を預けたまま、アグネイヤを睨みつけている。アグネイヤは、幾度も「違う」と否定を続けた。
「クラウディアは、私だ。わたしが本当は、この国に嫁ぐはずだった」
「なにを、愚かな」
「だから、彼女はもうここへは来ない。来たとしても、クラウディアじゃない。彼女は、アグネイヤだ。アグネイヤ四世だ」
 ルーラが軽く眼を見開いた。
「アグネイヤ、四世」
 それは、次期アルメニア皇帝の名。
「わたしは、もうどこへも行かない。だから、わたしをクラウディアと認めてほしい」
 頼むから。
 アグネイヤは、その場にくず折れた。そう言うだけで、精一杯であった。他に、何を言えばよいのだろう。片翼であれば、もっとうまく言葉を紡げたはずだ。自分はどうして、こういうところまで不器用なのだろう。英知才気は全て双子の妹に譲られ、自身には何も残されてはいない。愚かなだけの――同盟国への人質としてだけの価値しかない、いずれ殺されるべき運命の皇女である。
 けれども、自分が死ぬことで周囲が安泰となるのであれば。それで構わなかった。命など惜しくはない。生きていても仕方がない。初めから、捨て駒でしかなかった自分など、本来はどうなってもいいはずだったのに。
 気付くのが遅かった。気付いたときは、全てが取り返しのつかぬ事になっていた。
 アグネイヤ四世が即位できずにいたのも。身代わりの羊が皇太子として居座っていたからに他ならない。アルメニアは、今でも待っているのだ。本物のアグネイヤの帰還を。思わぬ経緯で異国に送られてしまった、真の皇帝を。アルメニアは、母后は。いまでも、待ち続けているのだ。
「認めぬ」
 ルーラの声が、アグネイヤの耳を貫く。はっと顔を上げればいつのまにそこにいたのか。目の前に彼女が佇んでいた。ルーラは無造作にアグネイヤの頤に手をかけそのまま吊り上げるように彼女を立ち上がらせる。
「認めぬ。お前など。おまえは、わが主人の后には、相応しくない」
「……!」
 衝撃が走った。先程の恐怖とは違う。もっと、根源的なもの。自己の存在全てを否定された、その衝撃。アグネイヤは言葉を失った。ただ、吸い込まれるようなルーラの青い瞳を、黙って見つめるだけだった。
「気迫も気概も、全て妃殿下に劣ったお前など、わが国は必要としない」
 それが、ルーラのアグネイヤに対する評価であった。
(必要ない)
 アルメニアも、フィラティノアも。アグネイヤのことは必要としない。
 彼女はあくまでも、代用品。片翼の、影でしかないのだ。
「初めから、嫁いできたのがわたしだったら?」
 アグネイヤは、声を絞り出す。クラウディアではなく、先に自分がこの国にやって来ていたら。ルーラは、他の人々は。どう思ったのだろう。クラウディアに対するのと同じく、自分に気遣いを見せてくれたのか。それとも。
「自分で解からぬほど、愚かなのか?」
 それがルーラの答えであった。アグネイヤはゆっくりと目を閉じる。
(よかった)
 これで、覚悟が出来た。
 必要とされぬ人間が、この世から消えても。誰も何も言わない。悲しむことは無い。片翼が戻らぬ限り、自分がクラウディアだ。フィラティノアに嫁いだ、アルメニア皇女だ。ルーラには見破られたとしても、他のものには解からぬだろう。
「……」
 彼女はそっと短剣を抜き放った。不穏な気配に気付いたルーラが身を交わすと同時に。アグネイヤは窓に身を寄せる。蝋燭の明かりを受けた刃をゆっくりと回転させて、切っ先を自身の喉元に向けた。
「何をする気だ?」
 ルーラが眼を吊り上げる。アグネイヤは、静かに笑った。
「クラウディアが、死ぬんだ。ここで。フィラティノアに嫁いだ、アルメニア皇女が。ここで死ぬのさ」
 それは、宣告だった。
 もともとの運命。正しい采配。歪んでしまった軌道を、修正しただけだ。ここで自分が死ねば、全てが終わる。アルメニアとフィラティノアの確執も同盟も消えて。母国は自由になる。自由になって、正当なる皇帝を戴くことが出来る。
 代用品の皇女が一人、消えても誰も嘆かない。
(アグネイヤ)
 本来片翼が呼ばれるべき名。その名を心の中で呟いて。アグネイヤは刃を握る手に力を込めた。



 漸く、明かりが見えてきた。
 ジェリオは腕に抱えたままの皇女に、小声で呼びかける。
「皇女さん。もうすぐ、着くぜ」
 森の向こうに見える灯り。あれがクラウディアの逗留していると言う、グランスティアの灯りだろう。貴族の別荘地、ということで離宮ではなく別の貴族の屋敷かもしれないが――ジェリオは言葉を続けた。
「もう少し我慢しろよ」
 こくりとクラウディアは頷いた。頷いたかに、見えた。ジェリオは「よし」と答えると、加速するために馬の腹を強く擦り上げる。訓練された馬はそれだけで、彼の意を汲み空を飛ぶが如く駆け始める。
 途中、クラウディアは幾度も意識を失いそうになっていたようだった。けれども彼女はその度に強くジェリオの腕を握り締め、自身の気を保とうとしていた。歯を食いしばり、閉じそうになる瞼を必死で開けようとするその姿は、ある意味健気で痛々しい。
「根性あるよな」
 これは、クラウディアに向けていったものではない。独り言である。
 途中、添え木になるものを、と。森に立ち入って枝を折って来た。それで腕を固定している間も、痛いであろうに彼女は悲鳴ひとつ上げてはいない。下賎のものに弱みを見せたくないのか――考えて、ジェリオはかぶりを振った。この皇女は、そんな卑小な器ではない。単に気丈なだけだ。ことに自分に対しては、他人に対するよりも厳しい。
 さすがは、あのアグネイヤの双子の片割れである。強情なところは、一緒であった。
「先に、あの子が着いていたら」
 くぐもった、クラウディアの声にジェリオは耳を傾ける。
「あの子を殺すつもりなの?」
 アグネイヤを、フィラティノア王太子妃として。約定通り、刃にかけるのか。クラウディアは静かに問うて来る。ジェリオは苦笑を漏らし
「さあ、そいつはどうかな」
 曖昧な答えを返した。正直なところ、自分でもまだ決めかねている。今、彼の腕の中にいる皇女こそ、正真正銘のフィラティノアの后である。依頼を遂行するのだとすれば、彼女を殺害して。その首を依頼主であるアグネイヤに持参し、彼女と共にアルメニアに逃走する――それが、刺客の道理である。
「あっちの皇女さんを殺したら、あんたは俺のものになるんだぜ? この身体を、俺がいちから開発して。俺好みの娼婦に仕立てて、飽きるまで可愛がってやる」
「……」
「そういう約束だからな」
 下卑た笑いをわざと投げかけても、クラウディアは何も答えなかった。それは答えに詰まっている、というよりも、動じていないからなのだろう。やれるものならやってみろ、と。その眼は言っている。星明りを映す古代紫の瞳が、挑むようにジェリオを見上げた後、彼女は細い息を漏らした。
 呆れた。
 そんな呟きまで聞こえるような。駄々っ子に対するような態度である。
「それが、本心? だとしたら、つまらない男ね」
 だいぶ楽になったのか。クラウディアの声もはっきりとしてきた。ついでに、その台詞も。最初に出逢ったときと同じ、かなり棘を含んだものに戻っている。
「エルディン・ロウ、って。言われてたわね。あなた」
「それが?」
 ジェリオは僅かに目を細める。聞かれていたのか、という思いが胸をよぎる。なぜか嫌なものを耳にしたような気がして、ジェリオは口元を歪めた。
「こんな小娘の身体ひとつで満足するなんて。馬鹿みたい」
「あんた」
「男なら、もっと上を見るものよ?」
 まるで、全てを知っているようなものの言い方をする。
 ジェリオは、クラウディアに言いようのない薄気味悪さを覚えた。かつて、神聖帝国を動かしていたという、アンディルエの巫女。かの巫女は、こんな女性だったのだろうか。人の心を見透かし、望むものを言い当て、そのようなものなど一生お前には手に入らないのだと冷笑を以て宣告する。
「あなたが探しているのは、なに? 本当は、何がしたいの?」
 問いかけは、巫女の言葉を思わせた。
 ジェリオは知らず、息を呑む。心を探られるのは、不愉快だ。しかし、この娘に言われると、なぜか全てを告白せねばならぬような。そんな衝動に駆られてしまう。
「俺は」
 クラウディアの視線が揺れる。
「殺したいヤツは、一人だけだ」
「そう?」
「親の仇を探している」
 沈黙があった。
 クラウディアは何を思ったのか。いっとき、軽く目を閉じる。女性のそんな姿を眼にしても、なぜか情欲はわいてこなかった。アグネイヤと同じ顔だというのに。不思議とクラウディアには異性の匂いが感じられない。
 この娘は、本当に人間なのだろうか。
 人をたぶらかすという、森の精なのではないのか。美しい少女に化けて、男の情欲を煽り、その精を喰らい尽くす魔物。
 矛盾した思いを抱いて、ジェリオは思わず苦笑を浮かべる。魔性であれば、性欲を覚えるはずだ。
「相手は、貴族なのね。それとも、王族かしら?」
 クラウディアは眼を開いた。再び、冷めた視線がジェリオに向けられる。
「さあな」
 これ以上、言うつもりはなかった。ジェリオは彼女から眼を逸らす。小さな敗北感が胸を焦がしたが。彼はそれに気づかぬふりをした。
「話はここまでだ。ついたようだぜ?」
 蹄鉄の響きを耳にした門番たちが、早くも誰何の声を上げていた。硬く閉ざされた鉄扉の前、槍を構えた巨漢が不審そうにジェリオを見上げる。こんな夜更けに何用だといわんばかりの表情だ。けれども、王宮からの早馬かも知れぬと考えたのだろう。まずは丁寧に名と用件を問うてくる。
「フィラティノア王太子妃殿下のご帰還だ」
 言うなり、ジェリオは馬上から飛び降りた。
「妃殿下?」
 と。二人の門番は顔を見合わせる。何を馬鹿な、とでも言いたげなその表情から、ジェリオは既にアグネイヤが離宮に入ったことを知った。
「……」
 思わず舌打ちする彼の頭上から、
「冷たいわね。自分たちの主人を忘れたの?」
 涼やかな声が響いてくる。驚いて見上げれば、クラウディアが馬上にしゃんと背を伸ばして座っていた。傷の痛みなど微塵も感じさせぬ、凛とした態度にジェリオは唖然とした。声をかけようにも言葉が出てこない。
「開門。それがだめなら、ルーラを呼んできて頂戴」
 二人の門番は、一斉にクラウディアを見上げる。
「失礼」
 手にした灯りを掲げて彼女の顔を確認すると、幽霊でも見たかのように「ひい」と揃って悲鳴を上げた。
「ひひひ妃殿下っ?」
「そんな、馬鹿な」
 大の男がらしくなく震え上がる様を見て、クラウディアはまた、先程のように息を吐く。わかったのなら早く門を開けなさいとばかりに、ずい、と馬を前に進めた。その迫力に圧されたのか。門番は掠れた声で中の同僚に声をかける。

「開門」

 門が開くのももどかしく、ジェリオは馬に飛び乗った。途端に力が抜けたのか。クラウディアの体がぐらりとかしぐ。それを片手で支えて。ジェリオはもう一方の手で手綱を取った。
「無茶するんじゃねぇよ」
 咎めるように声をかければ。クラウディアは色を失った唇をかすかに歪めた。
「あら? 誰のおかげで、中に入れるのかしら?」
 この皇女、減らず口も達者のようである。ジェリオは肩をすくめ、僅かに開いた門の間隙を縫うようにして馬を走らせる。さすがに離宮内は街道とは違って、舗装もきちんとなされてはいるが。傷を負った身には、馬上の揺れはきついだろう。彼は離宮の入り口近くまで辿り着くと馬を止め、自身は先に飛び降りて。クラウディアの身を気遣いながらその身体を抱き上げた。
「アグネイヤより重いな」
「失礼ね。衣裳の重量よ」
 ごほっ、と再び彼女が咳き込む。
 地面に叩きつけられた衝撃で、骨が折れたのかもしれない。その骨が、内臓を損傷しているのだとしたら。ことは一刻を争う。ジェリオはなるべく彼女に負担をかけぬよう極力静かに。けれども足早に玄関(エントランス)へと近づいた。


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