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エルナに導かれて訪れたのは、神殿の裏手にある倉庫であった。こちらは裏巫女たちの衣装や、夜の伽のための道具が多々置かれている場所である。一般のものは無論、裏巫女たちでも滅多に足を踏み入れることのない場所である。ここにやってくるのは、従者と呼ばれる専用の小者が一人。彼が鍵を開けなければ、中に入ることは叶わない。 それは、ルーラも知るところであったが。 「鍵を、持っていたのか?」 エルナはどこからか取り出した鍵を使って、いとも簡単に扉を開ける。彼女はいたずらっ子のようにぺろりと舌を出して、 「一回寝たら、合鍵渡してくれたのよ。ちょろいもんね。あの小者も」 しれっといってのける。これが、密偵の密偵たるゆえんだろう。ルーラは僅かに眉を動かした。 「気に障った? あなたも昔は似たようなことしていたじゃないの。神官長のお気に入りだったからさ。嫌な男とは寝なくて済んだかもしれないけど。でも、それなりに客は取らされていたでしょう? ねえ、ルナリア」 「エリィ」 咎めるように、ルーラは彼女の名を呼ぶ。彼女――正確には、男性ではない男なのだが――エルナは、くすくすと笑いながら、地下へと下る階段を指し示した。 「この下。覗いて御覧なさいな。面白いよ」 「……」 促されるまま、ルーラは階下へと降りていく。カビの匂いが鼻を突き、顔をしかめたのは一瞬で。すぐに表情を険しくした。 「貴様は」 じめじめとした薄暗い密室の中。天井から鎖で繋がれているのは、半裸の青年であった。鞭の如くしなやか、と言った形容が当てはまる若い肉体に刻まれているのは、無数の鞭の痕。それに、ルーラは見覚えがあった。これは、離宮に忍び込んだ彼を、使用人たちが鞭で打ち据えた痕である。 女性と見紛う甘い顔立ちの、下手なアルード弾き。 バディールと名乗っていた彼は、数日前にグランスティアの離宮を訪れていたではないか。しかも、彼はルーラの素性をあれこれと調べていたと聞く。まさか、ここまで。オルネラの神殿まで辿り着くとは。思いもよらなかった。 「アルメニアの密偵も、侮れんということか」 ルーラの言葉に反応してか。バディールは顔を上げる。彼は血に染まった唾を吐き出し、冷ややかな微笑をこちらに向けた。 「これは、ルーラ様。王太子殿下のご側室がこのようなところにいらっしゃるなど。場違いもよいところですね」 言葉の優雅さは失わず。ただ、裏に蔑みの色を強く表して。彼は語りかける。 「オルネラのご出身と伺いましたが。そうですか。あなたも、裏巫女でしたか」 くくく、と。バディールの喉が鳴る。 黙れ、と言ったが。彼は聞かなかった。 「フィラティノアの王太子殿下は、男色家ですか。どうりで、妃殿下が生娘のはずだ」 「貴様」 それを調べるために、彼は湯殿へ忍び込んだのか。クラウディアの身が穢れていないか、確かめるために。いな、それだけではないだろう。バディール自身、クラウディアに対して邪な思いを抱いているに違いない。そうでなければ、かつての主人の肌を覗くようなことはしないはずである。 「妃殿下には、指一本触れさせはしない」 命も身体も。彼の好きにはさせない。ルーラは鋭く彼を睨みつける。 「エルナ」 同時に、馴染み名を振り返ることなく呼びつける。「はいな」と、エルナは明るく返事をした。 「この男を殺せ」 「あらら」 壁に凭れて、楽しげに二人のやり取りを見つめていた裏巫女は、拍子抜けしたように肩を落とす。 「殺しちゃうんだ? つまらない。生かしておいて、アレコレ使おうと思ったのに」 彼女が一歩踏み出すと、いつの間にやってきていたのか。部屋の隅に蹲っていた男が、影のようにその後に続いた。この倉庫を管理している従者である。エルナがその肉体で誘惑したと言っていたが。果たしてこの心まで石で出来てしまったような、無口で無表情の男の中に情欲など存在するのだろうか。不審に思いつつ彼を見つめるルーラの前で、従者は小刀を抜き放った。多くのものの血を吸った刀は、鈍く曇り。蝋燭の明かりすら反射することはない。彼はその切っ先をバディールに向けた。 「……っ!」 彼の意図を察したバディールは、声にならぬ悲鳴を上げる。 「まさか」 ルーラも思わず口元を押さえた。 「その、まさかだけど?」 平然としているのは、エルナとかの従者のみである。彼らは、バディールを去勢するつもりだ。去勢して、裏巫女に。神殿の『遊女』にするつもりなのだ。 「神官長に話したらさ、そんな美形ならぜひとも裏巫女に加えたいってね。特にご希望されていたので、それならってことで話を受けたわけだ」
エルナの笑みを含んだ声が、地下室に響き渡る。ルーラはごくりと唾を飲み、引きつったバディールの顔から眼を背けた。
次の瞬間、耳を貫くのはバディールの悲鳴のはずであった。
けれども。
聞こえたのは場違いなまでに明るい、エルナの笑い声だった。ルーラは不審に思い、かつての同僚を凝視する。と、彼女は鈴を転がす美声で
「なーんてね。うそうそ。神官長には、この男のことは話してないわよ」
「エリィ?」
「面白そうだからね。いろいろ聞き出してみようと思って」
ミアルシァのこと、アルメニアのこと。アルメニアの現状は、とくに。
「皇帝陛下不在の国が、なぜ、倒れずに立っていられるのか。気になるでしょう? 皇后陛下が暫定的に即位すれば事は収まるのに、それもしない。かといって、皇太子殿下が早く戴冠すればと思っても、残念ながらその兆しは無い。おかしいと思わないかい?」
確かに。エルナの言葉にも一理ある。
元首を戴かぬ国が、なぜ十五年以上も存続し続けられるのか。廷臣や国民たちの間に、不平不満は無いのか。そのおおらかさがアルメニアの気風と言ってしまえばそれまでだが。実際現時点で政治を動かしているのは、皇后――もはや、皇太后と呼ばれるべきなのだが――リドルゲーニャと先代からの大臣たちである。その大臣たちが優秀であるという話も耳にしたことは無い。が、これだけ平安を保っていられるのだ。凡庸であるはずはない。
アルメニアには、なにやら公に出来ぬ秘めごとがあるのではないか。
ルーラならずとも、そう考えるだろう。
「その辺りを聞き出せば、面白いことになるんじゃないの?」
エルナはバディールに近寄り、小男から受け取った短剣の柄でその顎を持ち上げた。彼は怒りを含んだ視線をエルナに向けるものの。それ以上何も出来なかった。
「あたしがミアルシァ方面の楽士だって言ったら、結構簡単に信じちゃったのよね、この男。それとも、このあたしを欺けると思ったのかしら」
甘い甘い、と彼女は笑う。
フィラティノアの密偵の中でも、群を抜いて才気を発揮しているエルナである。彼女の裏をかくことなど、そう簡単には出来ぬだろう。それほどに、エルナという人物はしたたかであり。狡猾なのだ。
「悪いようにはしないからさ。少し、遊ばせてくれない? この坊やと」
こちらを振り返る赤紫の瞳には、暗い情念が漂っている。
ルーラは小さくかぶりを振り、
「生かしておいても、ろくなことはないと思うが」
同僚に忠告する。しかし、ルーラの言葉を聞くようなエルナではない。そのことは、重々承知している。
「王家に、そして、妃殿下に。ご迷惑がかかるようなことだけはしないでくれ」
それは、エルナに向けた言葉だったのだが。反応したのは、バディールだった。彼はエルナの体越しに、不敵な笑みを浮かべて。
「元裏巫女殿は、殿下に恋慕されたと見える」
蔑みの視線がこちらに向けられた。
男でもないのに。男性としての機能も誇りも失っているのに。今更、恋慕の情を抱くのか。それも、主人の妻に。彼の目はそう言っている。下卑た、嘲りの声無き言葉が、ルーラの心を深く抉る。
「貴様と同じ扱いをするな。汚らわしい」
吐き捨て、ルーラは踵を返す。そのまま一度たりとも振り返ることなく。彼女は倉庫を後にした。
そんなことに手間取ってしまったせいか。外に出たときは、とうに日は沈んでいた。日暮れまでには、離宮に帰ると言っていたのに。主人を裏切るような真似をしてしまった。ルーラは足早に先程の居酒屋に向かったのだが。
「いない?」
クラウディアの姿は、そこにはなかった。
「妃殿下――いや、義妹は? どこに行ったかわかるか?」
ルーラの問いに、亭主は「さあねぇ」と心もとない返事を繰り返す。が、ぽん、と思いだしたように手を打って。
「あんたの旦那さんか? あの子には似てなかったけど、なんだか知り合いらしいにーちゃんが来たけどね」
「男性が?」
ルーラは眉をひそめる。クラウディアがこの街を訪れたのは、初めてである。このようなところに知り合いなどいるはずがない。なにか、よからぬ連中に絡まれたのかと思ったが。
「代金もその人に貰ったから。――もう、先に宿に帰っているんじゃないの?」
「宿など」
とっているわけがない。
さらに言えば、クラウディアが先にひとりで離宮に戻ることなどありえない。
(妃殿下)
クラウディアが消えた。能動的にしろ、受動的にしろ。ルーラの眼の届く範囲から、消えてしまったのだ。隣国の花嫁、同盟国からの人質。その、大切な駒を、自身の落ち度で失ってしまった。
(いや)
それだけではない。それだけの存在ではないのだ。クラウディアは。
(妃殿下)
なぜだろう。心が痛い。槍で貫かれたように、ずきずきと鈍い痛みが全身に広がっていく。ルーラは口元を押さえ、痛みを堪えるように眉を寄せた。
「その、男の特徴は?」
低く絞り出された声に、亭主はびくりと飛び上がる。
「特徴? って。南のほうの、出身っぽかったよ。髪も、眼も茶色だったし。色も黒かったし。でも、変だな」
亭主は何かを思い出したのか。不審そうに首をひねる。
「変だなあ。そのにーちゃん、カルノリアの訛りがあったような気がするけどな。変だよなあ。南の出身らしいのに」
「カルノリア?」
その言葉に、閃くものがあった。
「まさか」
ルーラが雇った刺客。エルディン・ロウのひとりである、その刺客は褐色の瞳と髪を持ってはいなかったか。セグの出身だといっていたが、なぜかその言葉には何処かカルノリアの訛りがあった。それが少し引っかかっていたのだが。
(まさか、あの男が)
ジェリオ、といったか。彼が、ここに。オルネラに来ているのか。オルネラに来て、クラウディアを見かけた。彼は当然、クラウディアがこのようなところにいるとは思わないだろう。と、なると。
アグネイヤと間違えたのだ。ジェリオは。クラウディアをアグネイヤと間違えて、何処かに連れ去った。
(妃殿下)
クラウディアが、危ない。ルーラは弾かれたように、雑踏の中へと足を踏み出した。
幸いなことに、北方に属するこの街で、褐色の髪と瞳はそれなりに目立った。しかも、容姿が端麗とまでは言わぬが、そこそこに整っている青年である。目にして覚えている売り子たちも多かった。彼女らの証言を総合して、ルーラは彼の宿泊していると思われる宿へと急いだ。
そこにクラウディアがいるという確証はない。けれども、どうしても行かずにはいられなかった。たとえ僅かな手がかりだとしても、無駄にすることは出来ない。それが、クラウディアに繋がるものであれば。
(妃殿下)
あのとき、エルナの言葉に従った自分を、心底呪った。彼女の言葉を無視すれば。こんなことにはならなかったのかもしれない。ルーラは強く固めた拳を傍らの塀に叩きつけ、心の中で幾度もクラウディアを呼んでいた。
漸く割り出した宿に辿り着いた彼女は、帳場で彼の宿泊している部屋を尋ねると一気に階段を駆け上がり――その部屋の扉を乱暴に開け放った。
「妃殿下!」
◆
日はとうに暮れたというのに、ジェリオはまだ戻っては来ない。おそらく、彼は言葉通りどこかの宿に女性を連れ込んでしけこむつもりだろう。その意味が、わかりたくもないがわかってきてしまう自分がなにやら切なかった。
彼は、自分にしたように、女性を扱うのだろうか。
情熱的に、時には素っ気無く。口付けを繰り返して。心を溶かして、時間をかけて体をほぐしていき――。
「……」
あの感覚を思い出すと、体が震える。
アグネイヤは、そっと己の体を抱きしめた。またしても、彼の愛撫に反応してしまった。心ではいやだと言っているのに。体はなぜか彼の求めに応じてしまう。
自分は、淫らなのではないか。本当は、ジェリオに抱かれたいのではないか。だから、彼はアグネイヤの隙を突こうとしているのだと。ふと、そう思ってしまうときがある。
鏡に映る自分の姿を見ると、言いようのない虚しさを覚える。
かつては、鏡像の如しといわれた、双子の片割れ。クラウディア――いな、双子の妹、『アグネイヤ』。彼女と自分は、もう似ていないのではないか。あの輝ける魂を持つ片翼と違って、自分は穢れてしまっているのではないか。
「……」
首筋に残る、ジェリオの口付けの痕。押さえる指先が僅かに震える。汚れているのだ、自分は。もう、二度と。片翼の前に立つことは出来ない。
(アグネイヤ)
一年前より自身のものとなった名を、呟いてみる。この名は、片翼にこそ相応しい。自分はクラウディア。滅びの娘。フィラティノアを滅ぼすためだけに生まれた、不吉な、不浄の娘。ミアルシァに疎まれる、呪われた娘。
鏡に向けて、手を伸ばす。触れる硝子に温もりは無く。虚ろな瞳の少女が、無言でこちらを見ているだけだった。
「――か?」
ふいに。表のほうが騒がしくなった。何事かと耳をそばだてれば、誰かが階段を駆け上がる音がする。ジェリオが予定を変えて戻ってきたのだろうか。そう思ったのだが。なにか、違う気がする。もっと、切迫した足音。心の乱れそのままに荒々しく踏み鳴らされる靴音は、男性のものではなかった。
「誰?」
不審に思い振り返るアグネイヤの目の前で。扉が勢いよく開かれる。
「妃殿下!」
切迫した声とともに現れたのは。
騎士の略装に身を包んだ、男装の麗人であった。
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