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彼は一口リシャを口に含むと、露骨に顔をしかめた。
「なんだこりゃ。こんなの飲んだら、またゲロ吐くぞ。そんなに俺にゲロ浴びせたいか、あんたは」
一気にまくし立てる。
クラウディアはむっとして、青年から碗を奪い取った。呆気に取られる彼を尻目に、リシャを一気に喉に流し込む。これには、青年だけではない。周囲の客たちも一斉に眼を剥いた。
「大丈夫か?」
「大丈夫か、お嬢ちゃん」
店内がざわめく。けれども、当のクラウディアはけろりとした顔で、碗を卓上に置いた。
「ごちそうさま」
青年はぽかんと彼女を見つめている。顔立ちに似合わぬその間抜け面がおかしくて、クラウディアは思わず吹きだした。女性が酒を飲むことがそんなに珍しいのだろうか。それとも、先程彼が言っていた言葉に意味があるのか。彼女は卓子に頬杖をついて青年を見上げた。
「悪いけど、人違い。ついでに誰かを口説きたいのなら、他を当たってちょうだいな。わたしは、忙しいの」
茶店で酒を飲んで「忙しい」も何もあったものではないが。矛盾した自身の言葉を省みることなく。クラウディアは青年を見つめていた。彼はまだ目の前の光景が信じられぬのか。何か言いたそうな、それでいて落ち着かぬ態度をとっている。どうやら彼はまだ人違いだと言うことを認めたくないらしい。
「……」
クラウディアはそんな彼から視線を逸らし、もう一度店の亭主を呼んだ。前掛けで手を拭きながら現れた亭主は、
「少し、街を歩いてくるから。連れが戻ってきたら、待っているように伝えてね」
そう言って立ち上がるクラウディアの腕を、慌てて掴んだ。
「お嬢さん、あの、お代」
香草茶とリシャの代金。そうか、とクラウディアも気付いたが。生憎彼女は金子を持ち合わせていなかった。困惑気味に亭主を見れば、彼は「食い逃げか」とばかりに胡散臭げにこちらを見つめている。仮にも一国の皇女、この国の王太子妃が食い逃げなど出来たものではない。が、あとで宮殿から使いをやる、とは忍びゆえ口に出すことは出来ない。
「これでいい?」
耳に掛けられた飾り、そのひとつを外して卓上に置く。白金の台に紫水晶が乗せられたそれは、価格としては妥当なのだろうか。クラウディアには解からなかったが。亭主は唖然として彼女を見つめていた。
「じゃあ、あとで」
踵を返すクラウディアに、亭主は声をかけようとしたが。それを遮るものがある。先程の青年だった。彼は卓上から耳飾をつまみ上げると。
「いくらだ?」
代わりに代金を払うと言う。亭主は更に眼を見開き、複雑な表情で去り行くクラウディアと目の前の青年を見比べた。
◆
オルネラの太陽神殿。鄙には稀な、という言葉がよく用いられるが、この神殿はまさにその言葉が相応しい。いな、鄙だからこその巨大な建造物なのだろうか。その大きさは、離宮のひとつに相当するかもしれない。さすが南方から嫁いだ王女が建立させたものらしく、建築方法はアルメニアやミアルシァのそれに酷似している。祭壇のある主神殿の両翼は巫女の館となっていて、どちらかに裏巫女が客をもてなす部屋が設えてあるのだ。
「懐かしいでしょう?」
参拝客に混じり、神殿を見上げていたルーラに声をかけてきたのは、裏巫女の一人。そう思われる、薄物を纏った女性であった。北国には珍しい、艶やかな緑の黒髪、光りの加減によって赤紫に見える青紫の瞳。その豊かな緑の黒髪ゆえか、孔雀石の裏巫女とも渾名される彼女はルーラと肩を並べて神殿に目を向けた。
「あなたがここに来るとはねえ。正直、驚いたよ」
くすりと笑う裏巫女。その少女らしい仕草が癇に障って。ルーラは彼女の視線を避けるように心持ち身体を動かした。彼女から目を逸らし、小声で呟くように問いかける。
「頼みたいことがある」
「ああ、だろうね」
それでなければ、ルーラがここを訪れることはないだろう。裏巫女は頷き
「なんなりと。ご命令とあれば承りますわ」
貴族の令嬢のように膝を折って、小首をかしげる。ルーラは懐から取り出したクラウディアの書簡を裏巫女に渡し、
「これを。カルノリア第四皇女アレクシア殿に届けてほしい」
手短に要件だけを述べる。裏巫女は、「あらら」と眼を見開いて、封書の裏を見た。そこに書かれた名前、差出人であるフィラティノア王太子妃の名を認めると、彼女は奇妙に顔を歪ませる。
「妃殿下のお使い、ってわけ? あなたが?」
「悪いのか?」
「いや。悪いってことはないけどね」
恋敵じゃないの? と。裏巫女は付け加える。それに対して、ルーラは興味なさげにかぶりを振った。
「正室様のご命令、ってわけでもないでしょうに。――まさか、あんた妃殿下に惚れた?」
くすくす笑い出す裏巫女をひと睨みする。と、彼女は黙りぺろりと舌を出した。冗談よ、と媚びる笑いを浮かべて彼女は封書を懐にしまう。
「カルノリアに行け、ってことはついでにエリシア様の探索もしておけってことよね?」
彼女の問いかけに、ルーラは頷いた。
本当であれば、自らカルノリアに出向いて、前王妃の行方を捜したいところであったが。クラウディアを同行させていてはそれも叶わない。あのお転婆を絵に描いたような皇女は、放っておくと何をするかわからないだけに不安なのだ。危なっかしい、という意味での不安ではない。それとは別の、肉親の身を案じるような。大切なものを見守るようなそんな気持ちがクラウディアに対しては生まれてくる。
主人の正室だからではなく。クラウディアがクラウディアであるから。ルーラはあの異国の皇女を好ましく思っているのかもしれない。
この気持ちは、純粋なものだ。
ディグルや馴染みの裏巫女――エルナが言うような下世話なものではない。
現にこうしていても、クラウディアのことが気になってしかたがないのだ。
彼女を一人にしてしまって、本当によかったのか。けれども、密偵との接触の場に、異国の皇女を立ち合わせるわけには行かない。クラウディアを疑っているわけではないが。あの皇女には、こういった裏の世界を知られたくない。情報を得るためには、どのようなこともする――手を血に染めることも、身体を売るようなことも――汚れた世界を、その場所に身を置いている自分を、知られるのが嫌だった。怖かった。
(側室と言えど、所詮は愛妾。日陰の身)
蔑まれて当然の自分を、しかしクラウディアは慕ってくれている。あの清冽な瞳を、裏切ることは出来ない。
「ルナリア? どうした?」
エルナが顔を覗き込んでくる。あやしの瞳、と呼ばれる金緑石が、夕映えのなか蝋燭の明かりに照らされて赤紫に光った。
「なんでもない」
そろそろ帰る、と。その場を去ろうとしたルーラの背に、エルナの声が投げかけられた。
「アルメニア皇女繋がりで、面白いネタがあるけど。どう? 言っておいたほうがいい?」
意味深長な台詞に、ルーラの足が止まる。もうすぐ、日が暮れる。日暮れ前には、離宮に戻らねばならぬのに。その前に、クラウディアを迎えに行かねばならぬのに。
「なんだ?」
ルーラは、エルナを振り返った。
それを、後悔するとも知らずに。
◆
店の軒に、明かりが灯り始める。
日が沈めば、当然体感温度も下がってくる。露天商たちは名残惜しげに空を見上げたが、寒さには勝てぬらしく。そうそうに店を畳み始めた。かわって、表通りに軒を連ねる居酒屋は、時を告げる鳥の如く、にぎやかに呼び込みを始めるのだ。
オルネラには、裏巫女はいるが娼婦はいない。
裏巫女がいるから、娼婦がいないのだ。
ここでは、女性は売り物ではない。ある意味、女性が男性と対等に競える街でもある。その分、別の弱者が涙を流すことになるのだが。
異国の参拝客と共に神殿へと消えていく裏巫女の姿に、クラウディアは切ないものを感じた。裏巫女とは、去勢された男性である。少年のうちに男性としての機能を奪われ、女性化させられるのだ。作り物の女、人形、傀儡。裏巫女を指す言葉は数多あるが。そのどれもが悲しい。少なくとも、そう思えてしまう。
――聞くんじゃなかった。
幼い頃、無理矢理古参の侍女を問い詰めた自分が嫌になってくる。
何が嫌なのか。裏巫女という存在自体が嫌なのか。それとも、裏巫女を生み出す文化が嫌なのか。汚らわしいと思うのか。それはまだ、わからない。
クラウディアは重く沈んだ心を抱えたまま、雑踏の中を歩いていた。
気晴らしに、と思いつつ。小間物屋を覗いては見るが。なかなか気に入った品が見つからない。見つかったところで、金子を持ち合わせていない彼女には、買うことも出来ない。
(あとでルーラと一緒に見てみようかな)
ルーラも、こういった装飾品を身につけることはあるのだろうか。
見事な銀髪を結いもせず長く背に垂らした彼女は、首飾りも耳飾も、指輪すら身につけてはいなかった。装飾品は好きではないのか。それとも、ディグルが何も贈り物をしていないのか。気が利かない男だと、胸のうちで夫を罵りながら、クラウディアは自然と神殿に足を向けていた。
異国の地ではあるが、太陽神に自身と片翼の身の安全でも願おうか。
せっかく訪れたのだ。非公式でも参拝くらいは済ませておきたい。そんな気持ちからだったのだが。
(ルーラ?)
主神殿の傍ら、そこに佇むルーラと。彼女の連れらしき人物を目にして。クラウディアは足を止めた。ルーラに親しげに話しかけている女性――あれは、裏巫女ではないか。薄物をまとい、手に派手なつけ爪をしている黒髪の娘。
(まさか)
ルーラが裏巫女と知り合いだとは。クラウディアが声をかけるか、躊躇しているときだった。
「どこ行くつもりだ、あんた」
背後から、腕を掴まれる。肌に触れる無骨な指に嫌悪感を催しつつ、クラウディアはゆっくりと振り返った。そこにいたのは、あの青年。茶店でであった、褐色の瞳の青年である。
「また、あなた?」
うんざりしつつ彼を見上げる。一体この青年は何者なのだろう。先程から自分にあれこれと絡んでくるが。よほどの女好きか、それとも黒髪女性が好みなのか。どちらにしろ、胡散臭いことにはかわりがないのだが。
「私がどこに行こうが、勝手でしょ? あなたの指図を受けるいわれはないわね」
クラウディアは彼の手を振り払う。――振り払った、つもりだった。けれども彼はクラウディアを離さず。逆に胸に抱き寄せようとする。これには彼女も驚いた。初対面で、ここまで強引な異性ははじめてである。クラウディアは固めた拳を青年の鳩尾に叩き込むべく、気合を入れたが。
「俺から逃げるつもりか? そうはいかねえんだよ、皇女さん」
「……?」
――皇女さん。
その呼びかけに絶句した。 皇女さん。
彼は確かにそう言った。それが何を示すか。わからぬほどクラウディアは愚かではない。瞬時に、彼は片翼と――アグネイヤとかかわりのあるものだと判断した。そうであれば、先程からの彼の奇妙な言動にも得心が行く。
薄々は気付いていたが、まさかアグネイヤもこの街にいるとは思わなかった。そんな偶然があるものかと、心のどこかで否定していたのかもしれない。
(甘かったのかもね)
片翼はああ見えて、かなり行動派である。思い立ったら行動しなければ気がすまない。それは、熟知しているはずなのに。
よりにもよって、この街で。オルネラで。片翼と再会することになろうとは。
「部屋にいろ、って言ったよな。俺は。どこへ行くつもりだ?」
青年は同じ問いを投げかける。彼とアグネイヤはどういった関係なのだろう。片翼の好みからして、このようにガサツな男を恋人にするとも思えぬが。旅の途中で知り合って。絡まれているのだろうか。
クラウディアはそれと気付かれぬよう青年の様子を観察する。
見た目はそれほど悪いほうではない。美形とはいえぬが、それなりに整っていて、精悍と言える顔立ちである。尻の軽い女性たちには、ウケがよいだろう。特に、宮廷の軟弱な男どもに飽きた貴婦人たちが、気まぐれにつまんでみたくなる類の容姿である。細身の外見に反して、筋肉もそれなりにありそうだ。先程掴まれた手の感触からしても、それは窺うことが出来る。
人妻である自分よりも、未婚の片翼が先に大人の仲間入りを果たしたのか。大いに悩むところではあったが。
「神殿よ」
出来るだけさりげなく。クラウディアは答えた。幸いなことにこの青年は、まだクラウディアと片翼の区別がついていないらしい。鏡の向こうとこちら側、と言われるほど酷似した容姿を持つ双子である。赤の他人が見れば、よほどのことがない限り見分けがつかぬだろう。しかも、この青年はアグネイヤが双子だと知っているのかも不明である。
「神殿? 何しに?」
彼は怪訝そうに眉をひそめる。
「参拝に決まっているでしょう、神殿っていったら。他に何するのよ?」
男子であれば、裏巫女と夜を共にすることも可能であるが。残念ながらクラウディアは、中身はどうあれ身体は女性だった。
「暗殺の成功でも祈るつもりか?」
「――暗殺?」
今度はクラウディアが眉をひそめる番である。
「祈るまでもねえよ。ちゃんと、仕留めてやる」
その代わり、と。青年は顔を近づけてきた。褐色の瞳が甘く揺れて、クラウディアの面影をその奥に映す。
「約束は守ってもらうからな」
息がかかるほど迫った彼の唇を避けて、クラウディアは身を引いた。あからさまに顔をしかめて、彼女は青年を睨みつける。鬱陶しい、そう呟く彼女を、青年は奇妙なものでも見るように見つめていた。いな、実際クラウディアの行動は彼の目には奇異に映ったことだろう。彼が片翼と話しているつもりであるならば。あの何処か遠慮がちで人を思いやりすぎる嫌いのある『妹』は、避けることなく彼の口付けを受けていたはずである。そうした後に、驚いて身をもぎ離そうと暴れるのがオチだ。
彼もそれを想像していたのだろう。あっさりと身を交わすクラウディアを見て、釈然としないものを感じているらしい。
「気安く触らないで頂戴。無粋な男は嫌いよ」
吐き捨てるクラウディアを見る青年の眼は、珍獣を見るそれであった。
それだけで、彼とアグネイヤの関係は手に取るようにわかってしまう。
(刺客、ね)
彼はアグネイヤに雇われた刺客だ。雇ったか、強引に雇わせたかは推して知るべしだが。彼はアグネイヤから暗殺の依頼を受けた。標的は勿論、
(わたし)
フィラティノア王太子妃であろう。この男の言動から察するに、報酬はアグネイヤの身体。これも、彼に求められたものなのかもしれないが。
(全く)
どこまで愚かなのだろう。どこまで甘いのだろう。片翼は。彼にクラウディアの暗殺を依頼しておいて、どこかで入れ替わって自分が変わりに殺されるつもりだ。やはり、アグネイヤはクラウディアとして、フィラティノア王太子妃として死のうとしている。
それがはっきりとわかった今、彼と共にアグネイヤの待つ部屋に乗り込んでいって彼女の横面を二、三発殴りたいくらいだ。いい加減、眼を覚ませと。
(皇帝としての自覚がなさ過ぎるのよね、あの子は)
フィラティノアへの花嫁としても教育された彼女である。自分の身を犠牲にすることを骨の髄まで叩き込まれたはずだ。まさか、嫁いですぐに暗殺されることなど考えることもなく。生涯を人質として、同盟の絆として。捧げる覚悟であったに違いない。母のため、片翼のため、祖国のために。
(甘えないで。今はあなたが、アグネイヤなんだから)
クラウディアは拳を固める。弱すぎる片翼のかわりに、目の前の青年を無性に殴りたくなってきた。けれどもそれは立派な八つ当たりである。クラウディアはすんでのところで思いとどまり、気持ちを落ち着かせるために数度深呼吸を繰り返した。
「帰ろうかしら」
「なんだって?」
「だから。部屋に帰ろうかしら、って言ったのよ。案内して頂戴。道忘れたから」
「はぁ?」
高飛車な物言いに、青年は面食らったようである。俺はこれから用事が、と言いかける彼を小突いて、
「どうせこんな街に娼婦なんているわけないわよ。そんなものより面白い物を見せてあげるから、さっさと案内しなさい。鈍い男は嫌いよ」
「鈍……」
何か言いかける青年を更に小突くクラウディア。彼女はふと思いだしたように。
「そういえば。あなた、名前は?」
問いかける。
今度こそ青年は、本当に言葉を失った。
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