アルードの音色が、耳について離れない。
「……」
ルーラは寝台の上で幾度も寝返りを打つ。あの、脊髄を擦りあげるような騒がしい音。金属弦の触れ合う音が、好きではなかった。いな、好きではない、といった甘いものではない。嫌いなのだ。あの音は。
ルーラは床から起き上がり、脇机に置かれた壜を手に取る。中に揺らめくのは、琥珀の液体。眠れぬときの、友である。極端に甘い白葡萄酒を杯に注ぎ、彼女はそれを一気に喉に流し込んだ。味を裏切る強い酒――それが、胃を焼く感覚をしばし楽しみながら、ルーラは目を閉じた。
(下手な楽士を呼んだものだ)
不快感を、あの旅の楽士のせいにする。
ルーラが幼い頃耳にしていたアルードは、あのような下賎の音とは比べ物にならぬほど、高貴で美しかった。それこそ、宮廷楽師もかくやと思わせるほどの卓越した技術と、それを超える豊かな感情表現。楽にのせて紡ぎだされる、美しい声。
美しい、声。
――あなたも、そのうちに歌えるようになるよ。
微笑むその人の笑顔も、声に負けず美しかった。顔も、瞳も。髪も。
思えば、黒髪を美しいと思ったのは、その人が初めてではなかろうか。それまでは、なんと汚い色の髪なのだと。心の中で侮蔑していた。いや、わざとそう思うようにしていた。黒髪と青い瞳、黒髪と、黒い瞳――闇に愛されし人々の、暗い色合いを、何処かで嫌悪しなければ、生きていくことは出来なかった。
「……」
ルーラは、自身の髪を手に取る。滑らかな、絹を思わせる手触りの、銀糸の髪。美しいと、誰もが讃える髪。銀髪が主のフィラティノアにあってさえ、これほど質のよい髪の持ち主は、そういないという。
あのディグルですら、ルーラの髪を褒め称えた。癖のように一房手に取り、掌で弄びながら、時折そこに口付ける。
彼の繊細な指先を思い出し、ルーラは幽かに身を震わせた。そうして、静かに立ち上がり、窓辺に歩み寄る。木戸を押し開ければ、淡い月明かりが部屋に差し込んできた。眼下では、それに対抗するかのように、篝火が燃えている。
白い月明かりと、赤い篝火。ふたつの灯に照らし出された庭は、一種幻想的であった。遠く雪を戴く山並みも、童話の挿絵のように思える。
ふと、この景色をクラウディアにも見せたい衝動に駆られた。
あの、どこか冷めた異国の皇女は、この景色になんと感想を漏らすだろうか。
――きれい。
か。それとも。
想像すると、なぜか楽しくなってくる。
ルーラは手早く騎士の略装に着替えると、部屋を後にした。
「まだ、部屋に戻られていない?」
クラウディアの寝室の前に出向くと、そこには二人の侍女がいた。彼女らは砂糖菓子をつまんで雑談に花を咲かせていたが、ルーラの姿を目にすると慌てて口を噤み。直立不動となる。
「湯浴みを、されていらっしゃいます」
ルーラの問いに、首をすくめるようにして侍女の一人が答える。
「湯浴み」
そういえば、先ほどルーラもクラウディアに誘われたのだ。一緒に温泉に入らないかと。
――遠慮しておきます。
素っ気無く答えた後、後悔したが。クラウディアは気にも留めず、ひとりで湯殿に足を運んだのだ。侍女が一人付き添っているので心配はないと、年配のほうの侍女が口を添えたが、言った側から彼女は表情を曇らせて。
「それにしても、遅うございますね」
クラウディアが部屋を出たのは、もう半刻以上前になる。いくら、一般に女性が長湯とはいえ、温泉にそんなに長いこと入っていられるわけがなかろう。
様子を見てきましょうか、という侍女たちを抑えて。
「いい。私が行く」
ルーラは、ひとり湯殿へと足を運んだ。
なぜか、ひどく胸がざわつく。アルードの音を聞いたからだろうか。あの、嫌な金属音が、忌まわしい記憶を呼び覚ましたからだろうか。ルーラは軽く胸元を押さえ、大きく喘ぐ。こんな不快な気分になったのは、久しぶりだ。少なくとも、ディグルの元に来てからは、このようなことはなかった。
(あの楽士のせいか)
南方出身とひと目でわかる、黒い髪。限りなく黒に近い青い瞳。ミアルシァの容姿を髣髴とさせる、優男。女性に媚びる微笑が、無性に腹立たしい。
燭台の細い灯りが揺らめく廊下を抜け、人気のない階段を降りきった彼女は、冷え冷えとした廊下を足音を殺して進んだ。なにか、そうしなければいけないような。張り詰めた気配が辺りを覆っているような気がする。彼女は腰に下げた愛剣にそっと指をかけたまま、湯殿のある地下まで一息に駆け抜けた。
「妃殿下」
静かに声をかけるが、当然のごとく答えはない。湯殿と廊下を仕切る扉を開き中を覗けば、椅子にかけたまま一人の少女が転寝をしていた。これが、クラウディアに付き従った侍女だろう。あまりに心地よさそうに眠っている彼女を見て、ルーラは拍子抜けした。
(愚かな)
自分は、何を焦っていたのだろう。ここで、クラウディアに何かが起ころうはずがない。
――刺客に気をつけろと。あれにも言っておけ。
ディグルの言葉が、心に影を落としていたせいか。
それにしても、嫁いだ皇女を暗殺するなどアルメニアがそのように冷酷な国とは思えない。特に、双子の絆は並の兄弟よりも強いと聞く。もしも、クラウディアの暗殺令が出ていたとしたら、彼女の双子の姉妹であるアグネイヤが、黙ってはいないだろう。
そこまで考えて、ルーラはふとあることに気付いた。
クラウディアの双子の姉妹である、アグネイヤ。彼女はなぜか城を抜け、国を出て旅を続けているという。これを好機とばかりに、フィラティノアは刺客を送り続けているのだが。なぜ、彼女は危険を冒してまで、国を離れるのだろう。刺客付の姫ともなれば、どこにいようが命の危機があるには変わりないが。それにしても、無謀すぎる。無論、アグネイヤがそのようなこともわからぬほどの愚鈍な人物であれば、アルメニア攻略は赤子の手をひねるよりも簡単ではあるが。
クラウディアを見ていると、何かが違うような気がする。
双子は、その顔立ちだけでなく心も器量もすべて似通っていると聞く。どちらかが極端に劣ることはない――まるで鏡に映る虚像のように、そっくりであるといわれている。
アグネイヤも、クラウディアと似ているのだとしたら。あのじゃじゃ馬ともいえる王太子妃の分身だとしたら。あるいは――
(まさか)
行き当たった想像を、即座にルーラは否定した。ありえない。いくら姉妹でも。そこまで他人を思うことは出来ない。
「妃殿下」
ルーラは今一度、声をかけた。そこで再び違和感に襲われる。何かが違う、そう本能が確信したとき。がたりと音を立てて、侍女が椅子から滑り落ちた。
「……?」
それでも、彼女は眠っている。気持ちよさそうに。
いや。眠っているのではない。眠らされているのだ。薬によって。
「妃殿下」
ルーラは、扉を開け放ち、脱衣所を足早に抜けた。なぜか、耳元でアルードの紡ぎだす旋律が鳴り響いているような気がする。
滅びの娘クラウディア、神聖帝国最後の皇帝にして、女帝。
楽士の声が、不快な金属弦の音色に重なる。
◆
抜き放たれた剣は、優美な弧を描いた。バディールはクラウディアの前に膝を付き、切っ先を己の喉元に、柄を彼女に向けてこうべをあげる。
「何の真似だ?」
不快感を露にするクラウディア。彼女の言葉を受けても、バディールは平然とした態度を崩さない。
「わが主は、あなただけです。殿下」
「異国に嫁いだ私を、主人というのか?」
「それは、あくまでも建前のこと。わが主君は、あなたしかいらっしゃいません」
バディールは、常にない真摯な眼差しをクラウディアに向ける。
「ご決断ください。殿下。いえ。陛下」
「バディール」
窘める口調で名を呼ばれてもなお。バディールは態度を変えない。彼はまっすぐにクラウディアの古代紫の双眸を見つめ、はっきりとその名を呼ぶ。
「アグネイヤ四世陛下」
クラウディアが、痛みを感じたように眉を寄せた。彼女は剣の柄を握り、それをバディールから取り上げる。
「私に、何を決断せよと?」
剣を弄ぶクラウディア。蝋燭の明かりにほんのりと映しだされる彼女の姿は、さながら異国の巫女のようであった。信者の言葉に耳を傾け、かれの望みに対して答えを与える。神託の巫女。けれども、クラウディアは、かの巫女のごとく無表情ではなかった。怒りなのか、憤りなのか。陽気な皇女らしからぬ、暗い眼差しが、かつての守役を見すえている。
「どうぞ、ご命令を。偽りの皇太子を、クラウディア殿下を。葬り去るご命令を、この私に」
深く頭を垂れるバディール。クラウディアはふっと息を吐いた。
「クラウディアは、私だ。アルメニアにいる皇女こそ、アグネイヤ。未来のアグネイヤ四世にして、お前の主人となる。ここにいるのは、フィラティノア王太子妃」
「なりません、アグネイヤ殿下」
顔を上げたバディールの前に、クラウディアは剣先を突きつける。バディールは一瞬息を呑み、黒い瞳を見開いた。
「たとえ、母上のご命令だとしても、聞くことはできぬ。決めたのは、私たちだ。今更、誰の指図も受ける気はない」
「なにをあなたらしからぬことを仰っているのです。――クラウディア殿下が、あなたを殺めるためにこちらへ向かっているというのに」
「なに?」
すっとクラウディアの目が細められた。バディールは、ここぞとばかりに言葉を続ける。
「フィラティノア王太子妃を殺害せよとの皇后陛下のお言葉を受けられて、殿下が御自ら刺客を買って出られました。あの方は、あなたのお命を狙っています」
「そう。あの子が」
呟かれた言葉。そこにどのような思いが籠められているのか。バディールは知る由もない。彼は更にクラウディアの心を変えるべく。言葉を継ごうとしたのだが。
「妃殿下!」
ふいに響いた声に、はっと背後を振り返る。戸口に佇んでいたのは、騎士のなりをした若い女性であった。さては、王太子妃の侍従武官か――警戒したバディールが、帯に差した短剣を抜き放とうとするが。
「やめなさい」
手の甲に触れる冷ややかな金属の感触に、思わず動きを止めた。
「動くと、二度とアルードを弾くことができなくなるわよ?」
くすり、と。クラウディアが笑う。その間に、ルーラが階段を駆け下りてきた。
「妃殿下、ご無事で」
幾分表情を和らげるルーラに、クラウディアは茶目っ気たっぷりの笑顔を向ける。
「気が変わったの、ルーラ? 一緒に温泉入るって」
緊張感のない台詞に、ルーラは拍子抜けしたのか。それでも、青い瞳に厳しい色を浮かべて、闖入者――バディールを睨みつける。
「不埒者が侵入したようですね」
刺客では、と抜刀しようとした彼女を抑えて。
「覗きよ、覗き。若くて美しい貴婦人を見たら、むらむらしたらしいの。危うく襲われるところだったけど、大丈夫。彼も反省しているようだし。鞭で百回くらい打ったら、森に放り出してあげてちょうだいな」
ね、と。軽く片目を閉じてバディールを見やる。
「仮にも一国の王太子妃を覗いたんだから、本当はこの場で即刻斬首だけど。私は心が広いから。よかったわね、覗いた相手がルーラじゃなくて」
結局。バディールには、クラウディアの言葉通りの処遇がなされた。
色白の優男が、全裸に剥かれて鞭打たれる様に、屋敷の使用人どもは絶句していたようだったが。若い小間使いたちは、きゃあきゃあ騒ぎつつ、遠巻きにその処刑を見守っていた。手で顔を隠しながらも、指の間から覗く――そんなお約束の行為も見受けられたと、女中頭は後に嘆いている。
「本当に失礼を致しました」
彼を呼び込んだヴァーレンティンは、恐縮しきって詫びの言葉を繰り返したが。
「いいのよ、気にしないで。何事もなかったんだし」
湯冷めをしてしまった、と小広間で香茶を啜りながら、クラウディアはのんびりと答える。高原で育った牛の乳がたっぷりと入れられた香茶は、離宮で飲むそれとはまた味が違う。格段に味の濃いその飲み物に恍惚となりながら、彼女は傍らに佇むルーラを見上げた。
「ありがとう、ルーラ」
「私が、なにか?」
訝る彼女に、クラウディアはいまひとつ、ルーラのために用意させた蒸留酒入りの茶を差し出して。
「心配して来てくれたんでしょ? 嬉しい」
「妃殿下」
顔をしかめるルーラ。その表情の中に、照れと、ばつの悪さと、気恥ずかしさが隠されているのを読めるのは、クラウディアとおそらくディグルくらいなものだろう。
「また、あんな変態が来たら困るから。明日は、ルーラも一緒に温泉入りましょうよ」
クラウディアの誘いに、しかしルーラはかぶりを振った。
「それは出来ません。たとえ、ご命令だとしても。それだけは、お受けすることが出来ません」
「ルーラ?」
「それでも、と望まれるのでしたら。私は、二度と妃殿下の前に姿を現すことはないでしょう」
「どういうこと?」
「そういうことです。これ以上は、申し上げたくありません」
言って、彼女はクラウディアから視線を逸らした。その横顔に、暗い影が落ちているように思えるのは、灯りの加減だろうか。
「……」
クラウディアはすっかり冷めてしまった残りの茶を喉に流し込み、小さく息をついた。
「秘密は、誰にでもあるものよね」
呟きを、どう受け止めたのか。ルーラはちらりとこちらを見たが、もう何も言わなかった。
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