AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
5.寵姫(4)


 金属弦の奏でる、哀しげな旋律が広間に響いた。
 親指の爪大の小さな撥が、弦を弾くたびに、空気が震える。管楽器は、人の息吹を以て魂を揺るがすが、弦楽器は大気の力を、空間に存在する全ての精霊の助力を得て音を出すのだと。かつて、宮廷楽師から聞いたことがある。
 旅の楽士が奏でるのは、懐かしい南方の音楽。美しい王女と、剣闘士の青年との悲恋を歌い上げた、ミアルシァの古舞踊曲である。

 ――辛気臭い曲だから、私は嫌い。

 幼い頃、この芝居を見たとき。クラウディアは露骨に顔をしかめたものだった。アグネイヤは、「そうだね」と頷きながらも。――それは、奏者の腕もあったのだろうか――熱心に耳を傾けていたものだった。
「……」
 いま、かつての如く眉をひそめるクラウディアの傍らに、アグネイヤはいない。やや離れた場所、下座に位置する場所に席を取っているのは、ルーラ。王太子の寵姫である。無表情と評される彼女の白い面には、常の通りわずかばかりの感情も現れてはいない。けれども、曲に聞きほれているようなところがないことは、時折髪をかきあげる仕草でわかってしまう。
「お見事でした」
 一曲終了した折に、クラウディアは形ばかりの拍手を送る。楽士は黒い瞳を伏せて、深々と頭こうべを垂れた。
「次は、もう少し明るい曲をお願いするわ」
 軽く嫌味を籠めて、彼女は次曲を依頼する。
 旅の楽士に姿を変えた青年。乳兄弟であるバディールは、あの曲しか満足に弾けないはずであった。あれから、二年近く顔をあわせてはいないが。彼は飽きっぽい性分である。別の曲を習得しているとも思えない。
(楽士に成りすますなら、少なくとも五曲は弾けないとね)
 挑戦的に瞳を煌かせるクラウディアに、バディールは笑みを返した。並の女性であれば、瞬時に心奪われるほどの魅惑的な笑みである。彼は承知しましたと再びアルードを手に取り、
「それでは、アルメニア王女の歌を歌わせていただきます」
 撥を弦に押し当てる。
 アルメニア王国最後の王女、クラウディア。神聖帝国皇帝に嫁ぎ、自らも皇帝となった女性。帝国解体の後は、故郷へと戻り、静かな隠居生活を送っていた彼女であったが、その生涯は波乱に満ちたものだった。
 アルメニアでは人気のある曲だったが、神聖帝国傍系たるカルノリアや新興国フィラティノアでは、あまり好まれない曲である。現に、ヴァーレンティンも渋く表情を曇らせ、ルーラも小さく眉を寄せた。クラウディアも苦笑を浮かべたが、楽士はまるで意に介した様子はなく。滔々と長い物語を語り始める。
(相変わらず、嫌味ね)
 毒を持って、毒を制す。嫌味を持って、嫌味を返す。乳兄弟の性格は、変わってはいなかったようだ。ついでに、この大曲も習得していたようで、宮廷楽師には及ばぬが、それなりに弾きこなし、歌いこなしている。これにはクラウディアもほうと内心声を上げた。
(やるじゃない)
 けれども、それはそれとして。
 好みではない曲を長々と聴くのも骨が折れる。彼女はあからさまに退屈そうなそぶりを見せ、大仰にあくびをした。
「あら、失礼」
 それをわざとらしく取り繕うように、扇で隠す。
「妃殿下。お疲れでしたら、もう、床に就かれてはいかがです?」
 クラウディアの気持ちを察してか、ルーラが声をかける。こういうところ、彼女の助け舟は絶妙だった。
「そうね。ずっと馬を飛ばしてきたから」
 すかさず相槌を打つと、ヴァーレンティンは楽士に演奏をやめるように指示を出す。楽士は一瞬クラウディアに視線を向けたが。
「とんだお耳汚しをしてしまいました」
 殊勝に侘びの言葉を述べる。クラウディアは定石通りの礼の言葉を述べ、彼に相応の褒美を取らせるようヴァーレンティンに言い置いて部屋を出る。続いて退出したルーラは、侍女が扉をしめたあとクラウディアの背後で小さく息を吐いた。
「本当に、退屈そうでしたね、妃殿下」
「だって。つまらないでしょう、ああいう辛気臭い曲」
 それに、と。言葉を続けて。
「旅の楽士だから仕方がないけれど、あまり巧くはないし」
 バディールの技巧をけなせば。そんなことはないと否定をするかと思ったルーラは、
「御意」
 あっさりとクラウディアの言葉に同意する。
 これにはクラウディアも軽く目を見開いた。ルーラは、他人に媚びるような性格ではない。自身の考えを持っている女性である。たとえ、クラウディアが主人の正室だからといって、意に添わないものに対して簡単に同意はしないだろう。
 と、なれば答えはひとつ。
「ルーラは、アルードの心得があるの?」
 それしか考えられない。
 だが、ルーラはその問いには返事をしなかった。一瞬、唇を動かしかけたものの。咄嗟に思いとどまったようにかぶりを振る。
「失礼致しました。口が過ぎました」
 それきり、視線を逸らし。クラウディアを見ようとしない。何か気に障るようなことを言ってしまったのか。クラウディアは首を傾げて、彼女の様子を窺う。
 ルーラに、アルードを弾けるのかと尋ねたことがいけなかったのか。
 それとも、ヴァーレンティンが厚意で呼び寄せた楽士に、けちをつけるようなことをしてしまったことを恥じたのか。
 その、どちらとも取れるような態度である。
「――今日は、疲れたわ。剣の稽古、お休みしましょう」
「妃殿下?」
「私も、もう寝るから。ルーラも、休んで。疲れたでしょう? 私のお守で」
 そんなことはない、とルーラはかぶりを振るが、クラウディアは続こうとした言葉を無理に押しとどめた。扇の先をそっとルーラの唇に押し当て、
「そのかわり、明日はたっぷり付き合ってもらうわよ。覚悟しなさい」
 少女らしく微笑みかける。ルーラは幾分戸惑ったようであったが、小さく頷いた。



 グランスティアの名物といえば、名だたる景勝のほかに、もうひとつ。湯量豊富な温泉がある。保養地アーディンアーディンの白濁した湯とはまた違い、さらりとした透明な湯は、飲用としても好まれていた。最近体力が落ちたと嘆く国王グレイシスも、こちらの温泉の愛用者らしい。
「陛下もよくこちらにいらっしゃるのね」
 どうりで離宮とはいえ、設備が異常に整っているのかとクラウディアは納得した。夕餉に出された料理も、山の料理である鹿や兎の肉は勿論、湖の魚に加えてなぜか海産物まで並べられていた。とろりと煮込まれた汁物(スープ)は深いコクがあり、隠し味には貝を使っているという。それだけではなく、海草を粉末にしたものを取り寄せて、調味料として混ぜていると聞き、クラウディアは驚いたものだった。
「こちらの湯殿は、陛下がお使いになられますので、おそれながら妃殿下は王太子殿下の湯殿をご利用戴きたく」
 恐縮しきった女中頭に、いいのよ別にと軽く言い置いて、クラウディアはひとり湯殿に足を踏み入れる。介添え役の侍女が次いで入室しようとするのを押し留めて。
「ひとりでできるから」
 強めの口調で断りを入れた。それでも渋る彼女に、
「逃亡するわけじゃないから、安心しなさいとヴァーレンティン殿にもお伝えして。心配なら、扉の前で見張っていればいいでしょう?」
 軽く片目を瞑って見せれば、侍女は恥じたように顔を赤らめる。事実、彼女は女中頭にクラウディアの逃亡を防ぐよう、言い含められていたのだろう。
「そこは冷えるから。温かくしていらっしゃい」
 クラウディアは肩から外したショールを、侍女の肩にかける。カルノリア産の兎の毛をふんだんに使用した、貴重品である。侍女はこれにも驚いて、慌ててショールを外しかけたが。
「あがるまで、持っててちょうだいな」
 クラウディアに微笑まれ、勢いに押されたように頷いた。

「さて」

 ひとり、湯殿に残されたクラウディアは。周囲に人の気配がないことを察して、服を脱ぎ始めた。さらさらと正絹の帯が清らかな音を立てて解かれ、程なくして光沢のある部屋着が床に落ちる。別段、肌をさらすことに恥じらいはないが。
「見られて嬉しいものじゃないわね」
 ひとりごち、彼女は露になった背に手を回した。
 そこには、醜い傷跡がある。白い肌の上に走る、太い線。右肩から左脇腹へと斬り付けられた跡だった。十四歳の少女の命を奪いかけた忌まわしい傷。
 ひと目を気にするのは、この傷のせいである。
 彼女は大きめの布を肩から羽織り、ゆっくりと階段を下りた。もうもうたる湯煙の向こう。いくつもの奇岩が顔をのぞかせる。地下の洞窟に湧き出した温泉、というのを体験したことがない彼女にとって、この光景は興味をそそられるものだった。
「野性的じゃない」
 くす、と微笑み羽織っていた布を肩から落とす。彼女はそっと足を湯につけて、その加減を探った。白い指先が動くたび、漣が起こり、同心円状に広がっていく。
 それほど肌に刺激を感じないことを確認して、彼女はするりと湯の中に身体を滑り込ませた。
「気持ちいい」
 湯が、柔らかく肌にまとわりついてくる。クラウディアは思い切り手足を伸ばし、歓声を上げた。
「ルーラも、くればよかったのに」
 就寝前に湯浴みをしてはどうかという誘いを、なぜかルーラは断った。先程の言葉を気にしているのか、それとも湯は嫌いなのか。これもどちらとも判断しかねたが。結局クラウディアだけが湯浴みをすることになり、屋敷の地下に設けられたこの湯殿にやってきたのである。

 ――こちらの湯は、美肌の湯としても有名ですよ。

 女中頭の言葉通り、湯を弾く肌に輝きが増したような気がする。ここで肌を磨いてどうするのだ、と自嘲気味に笑う自分に嫌気がさして。そろそろ上がろうかと立ち上がりかけたときだった。
「……!」
 ギイ、と。扉の開く音がした。クラウディアは咄嗟に件の布を引き寄せる。それを豪快に湯に沈め、細く引き絞ると両端を手に持った。
「肌を隠すかと思いきや、武器を作るとは。呆れた皇女様ですな」
 くすくすと笑う明るいその声は、誰あろうバディールのものであった。彼は入り口の扉に背を預け、不遜な態度でクラウディアを見下ろしている。
「あの子は? まさか、殺したんじゃないでしょうね?」
 脳裏を掠めるのは、湯殿の番をする少女。赤い頬の、純朴な田舎娘の顔が胸に蘇る。クラウディアの鋭い視線をものともせずに、バディールは大げさにかぶりを振った。まさか、と乾いた笑いを浮かべて。
「少し、眠っていただきました。手荒な真似をするのは、私の趣味ではありませんから」
「どうだか」
 クラウディアは口元を歪める。
 美麗な顔に似合わず、バディールは冷酷な男だ。任務とあらば、躊躇いなく人を手にかけることができる。それが、たとえ身内だとしても。
「――意外な展開ね。あなたが来るとは思わなかった」
 クラウディアの言葉に、バディールは肩をすくめる。
「お言葉の意味がわかりかねますが?」
「とぼける必要はないでしょう。あなたが刺客なの? アグネイヤじゃなく?」
 単刀直入の問いに、バディールは眉を動かす。
「私を殺しにきたのでしょう? そうじゃなくて?」
 クラウディアは正面から彼を見据えた。
 やはり、指令は出ていたのだ。フィラティノア妃となる自分を暗殺せよとの指令が。予想では、片翼の身を案じたアグネイヤ自身が、危険を承知で乗り込んでくると思っていたのだが。
(さすがにそこまで、あの子も軽率じゃなかったみたいね)
 アグネイヤは、大公――皇太子として、時期皇帝としての自覚を持ったのだ。それを思うと頼もしくもあり、寂しくもあった。
「さすがは、殿下。聡くていらっしゃる」
 バディールは満足げに頷き、組んでいた腕を解いた。壁に押し付けていた背を離し、ゆっくりと階段を下りてくる。その、芝居がかった仕草を見つめつつ、クラウディアはこくりと息を呑んだ。湯船のすぐ前――クラウディアの間近に辿り着いた彼は、優雅に一礼して剣に手をかける。
 岩をくりぬいた燭台、その中で蝋燭の炎が静かに瞬いた。


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