AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
5.寵姫(2)


 フィラティノア前妃エリシア。彼女は、地方都市の歌姫だった。
 歌姫、舞姫の類であれば、それはほぼ、春をひさぐことも生業としている、卑しい女性たちである。公然と売春をすることが憚られるような場所において、歌、もしくは踊りを看板として。それを『観賞する』との名目で客を募る。当然、演目が終了した後は、――いかがわしい行為へと発展することになるのだ。
 エリシアも、そういった女性たちの一人であった。
 フィラティノア国王に見初められたのは、まだ、舞台に上がる前。半人前の歌姫として、一座の花形の前座をつとめていたときのことである。当時はまだ王太子であった国王は、悪友たちと一夜の契りを求めて歓楽街に繰り出したときに、たまたま、舞台で歌うエリシアを見てしまった。そして、一目で恋に落ちた。
 恋、というほどの強い感情ではないのかもしれない。ただ、宮廷の女性たちとは異なる魅力を、美しい歌姫に感じたのかもしれない。
 彼は、座長にエリシアを譲ってくれるようにねだった。
 座長も、まさか相手が王太子とは思わなかったのだろう。

『この娘は、これからこの一座を背負って立つ娘です。お譲りするわけには参りません』

 強い調子で断ったという。
 それが、彼の気に障ったのだ。
 手に入らないとなれば、ますますほしくなる。彼は、エリシアを強奪したのだ。まだあどけない、十五歳の少女を強引に連れ去り、力ずくで我が物とした。

 そのあたりは、教えてくれとも言わないのに、古参の侍女たちから切れ切れに聞かされていた。
『あなたの母上は、卑しい歌姫でしたのよ』
 揶揄するような、哀れむような。女たちの言葉。
 その言葉はとりもなおさず、ディグルを通してエリシアに向けられていたのだ。国王の寵愛を受けて、正妃の座を射止めた歌姫。国王を篭絡した遊び女。侍女たちの陰口が示すように、宮廷内でのエリシアの立場は、決して安泰ではなかった。
 さすがに、歌姫を王太子妃にすることは出来ない。
 そこで、現国王――グレイシスは考えたのだ。彼女を侍女として傍に仕えさせる。そのうえで、しかるべき貴族のもとに養女として送り込み、正式に妻として迎える。
 側室としていれば、何も問題はなかったのかもしれない。
 しかし。グレイシスは正妃とすることにこだわった。
 当時、まだフィラティノアの基盤も今ほど安定はしていなかった。なればこそ、近隣諸国の姫君や、有力貴族の娘を妻に迎えることで、国家の基盤を磐石たるものにするべきなのだが。
 グレイシスのとった行動は、謎であった。
 なにが、そこまで彼を動かしたのだろう。
 なぜ、彼はエリシアに執着したのだろう。
 そして。そこまで執着した女性を、いとも簡単に捨てたのは。なぜなのだろう。
 ディグルの疑問に、答えるものはいない。――いないゆえ、慕情は募る。引き裂かれた絆ゆえに、より、エリシアを慕う。父を、継母を憎んでしまう。
(――カルノリアか)
 東の大国。母がいるというその土地に、思いを馳せる。
 父の願いが、神聖帝国の復興とアルメニアの併合であるならば。
 自分の願いは、母の名誉回復と、ラウヴィーヌの断罪であった。



「一緒に、旅行に行ってほしいのだけど」
 クラウディアの言葉に、ルーラは危うく茶を吐き出すところだった。

 毎夜続く、正室と側室の『密会』。その延長として、クラウディアはルーラを、朝の食卓に招待したのだ。これにはさすがに、王太子妃付の侍女たちも仰天し、何事が起こったのかと右往左往し始めたのだが。クラウディアの一喝で、おとなしく朝餉の支度を始めたのである。その、料理が出るまでの間。クラウディアは侍女の一人に言い付けて、バルコニーに飲み物を運んでこさせた。生乳(ミルク)入りの香茶である。肌寒い朝には、たっぷりと砂糖を入れたこの温かい飲み物が最高である。すっかり北方風のこの飲み物のとりことなったクラウディアは、毎朝侍女に頼んで、これを寝所にまで運んでもらっている。
「妃殿下。わたしを、寝室に招かれるのは――」
 露台(バルコニー)に行きましょう、と誘うクラウディアの言葉に、ルーラが難色を示した。クラウディアはかまわず、彼女の手を引いて私室に招く。女性にしては骨ばったルーラの手は、クラウディアのそれよりも一回りほど大きかった。その感触に驚いて、一瞬手を離した彼女を、ルーラは静かに見下ろして。
「わたしなどに、気安く触れてはいけません。妃殿下」
 言葉すくなに窘める。
「どうして?」
 首をかしげるクラウディアを、ルーラの困惑した視線が包み込んだ。
 言わずとも、察してほしい。そう、その目が言っているように思える。
(ディグルの、寵姫だから?)
 正室としての立場を考えてほしいと。ルーラは思っているのだろう。
「関係ないわよ。ルーラは、ルーラ。いまは、わたしの剣の師匠なんだから」
 クラウディアは微笑んで、彼女の背を押した。戸惑う側室を露台(バルコニー)に連れ出し、肩を並べて庭を見下ろす。小ぢんまりとした離宮の庭が、ここからであれば一望できるのだ。今はまだ、雪に覆われた部分もあるが。春が来れば、色とりどりの花が一斉に咲き出す。ごく普通の娘であれば、その光景に心奪われることもあるのだろうが。クラウディアが相手では、花も咲き甲斐がないように思われる。
「わたしの故郷はね」
 視線を、庭に向けたまま。彼女はルーラに語りかける。
「この季節は、もう花が咲いているのよ。それこそ、鬱陶しいくらい。宮廷のね、庭という庭に、赤だの黄色だの紫だの。宝石をこぼしたみたいに咲いているのよ。それを、侍女たちが摘んできてね。部屋に飾るの。――すぐに枯れるのに。変よね。どうせ枯れるなら、摘まなければいいのに。なんで、そんな無駄なことをするのかわからないのよね。わたし」
「――妃殿下は、……おそらく。いわゆる『女性』ではないのでしょう」
 ルーラもまた。彼女を見ずに答える。
「女性は、花が好き。そう、一般的に思われています。けれども、妃殿下はお嫌いのようです。そういう意味では、いわゆる『女性』ではないですよね」
「そうかもしれない」
 クラウディアは自嘲めいた笑みを浮かべる。
「わたし、どうも女性的なことは嫌いなのよ。刺繍をしたり、詩を読んだり、花を摘んだり、お喋りしたり。なんだか、つまらなくて。女の子って、なんであんなに恋の話が好きなのかしらね。それもわからない。ディグルもかわいそうね。私みたいなのがお嫁に来ちゃって。がっかりしているんじゃないのかしら」
「それは」
「まだ、アグネイヤのほうが良かったかもしれない。あの子のほうが、わたしよりもお淑やかだと思うし。ちょっとは女の子っぽいところがあるかもしれない」
「妃殿下?」
「まあね。あなたがいることは、ここに来る前から聞いていたから。ああ、だったら、わたしは形だけの奥さんだから。別にそう気負うこともないんだ、って。結構気楽に構えていたのよ」
「――」
「だから。そういう意味では、気を使わないでほしいの。私に対しては。わたしは、そう、きっと。一生、誰も好きにならないと思うから。勿論、ディグルのこともね」
 そこで言葉を切って、クラウディアはルーラを見上げた。その気配を感じてか、彼女もこちらに顔を向ける。古代紫の視線と、青い視線が、ゆっくりと絡まりあった。ふたりは、互いの瞳の奥に己の姿を見つけ、そして。
 どちらからともなく、表情を和らげた。
「妃殿下こそ。お気遣いは無用です」
「いいえ。わたしは、お飾りだから。そのほうが、気楽だから。これからも好きにさせてもらうわ」
 クラウディアはいたずらっぽい笑みを浮かべる。
 そこに、香茶が運ばれてきた。
 二人はそれぞれ椅子にかけ、ほんのりと湯気が漂うその薫り高き飲み物を口に運ぶ。今朝の『香り』は、カルディミスタ。カルノリアの、薬草としても使用される植物である。
「で。ルーラにお願いがあるんだけど」
「何でしょう? 妃殿下」
 ルーラも、その香りを楽しみつつ。(カップ)に口をつける。その瞬間を狙ったわけではないのだが。
「一緒に、旅行に行ってほしいのだけど」
 クラウディアが漏らした言葉に、ルーラは香茶を吐き出しそうになった。それを押さえたせいか、彼女は激しくむせ返り、らしくなく取り乱している。その背を慌ててさすりながら、クラウディアは彼女の手から碗を受け取った。
「ごめんなさい、そんな笑えるようなことだった?」
 笑えるような話ではないのだが。
 ルーラは潤んだ目をクラウディアに向けた。
「どういう、ことですか? 妃殿下」
 側室を伴って、旅行に出向く――普通では考えられない行為である。部屋の隅に控えていた侍女たちも、クラウディアの突拍子もない申し出に、肝を潰したようだった。はしたなくも目を見開き、唖然とした様子で正室と側室――王太子のふたりの妃を見つめている。
「だって、わたしひとりでは、外に出してくれないでしょう? ルーラが一緒なら、外出許可が下りるみたいだし。それなら、ルーラが同行しないと困るでしょう?」
 困るといわれても、こちらが困る。
 ルーラの目はそう言っている。
「あなたも、いい加減疲れてこない? こんなところに押し込められていて。たまには外の空気を吸いたいと思わない? 思うわよね? わたしだってそう。こう、広い平原でね、馬を駆ってね。どこまでも走るのよ。泉があったら水浴びして、木苺があったらそれを食べて。時々、狩りもしてみたりして」
「――妃殿下。まさか、今までそのようなことをなさっていらしたのでは?」
「もちろん」
 クラウディアは屈託なく答える。
「木苺、食べたことある? 美味しいのよ、凄く」
「――妃殿下」
 そうではなく。
 と、言いたいのだろう。ルーラは額を押さえ、溜息を吐いた。
 一国の姫ともあろうものが、こともあろうに平原に遠乗り。しかも、泉で沐浴。果ては、狩り。この様子では、その場で火でも焚いて、獲物を解体して昼食にしていたのだろう。そんな光景をありありと脳裏に浮かべて、ルーラは更に深い息を吐いた。
「ともかく。わたしの一存では、決めかねます。殿下のご意見を伺わねば」
 漸く搾り出した声に、クラウディアは軽く頷いて。
「当然よ。あの男がうんと言わなければ、外に出してもらえないんだもの。そこはきちんとしておかなきゃ。ついでに、もし来たいのなら一緒に来てもいいって言っておいて。わたしは構わないから」
「妃殿下」
 それ以上、ルーラは何も言う言葉がみつからなかった。



 そのせいもあるのだが。
 彼女にしては珍しくすごすごと引き下がり、クラウディアの言葉をそのままディグルに伝える羽目になった。これにはディグルも呆れたようで。
「さすがのルーラも、アルメニア皇女にかかっては、形無しらしい」
 苦笑を浮かべて外出許可を出したのである。
 しかし。ことはそううまく運ぶものではない。
 事態を知ったスタシアが、例のごとく注進に訪れたのである。
「殿下、よからぬ噂を耳にしましたが」
 芝居の忠臣宜しく、ここぞとばかりに部屋にやってきた彼女を見て、ディグルは更に辟易した。長い付き合いではあるが、どうもこのお節介ともいえる女官長の存在は、時に疎ましくなることがある。ディグルのことを思って、良かれと思って苦言を呈しているのだろうが。小さな親切大きなお世話というか。ディグルの感性からしてみれば、ことごとく的外れなものなのだ。今回もまた、異国から嫁いだ妃を蔑ろにしたばかりか、側室をつけて保養の名目で宮廷から追い出す、そう思ったのだろう。スタシアの顔を見れば、彼女の言わんとしていることは一目瞭然である。
「どういうことですか、殿下。殿下は同伴されないのですか? よりによって、ご側室に警護を任されるなど。なんということでしょう」
 手巾(ハンカチ)を噛み千切らんばかりに嘆く乳母の姿に、ディグルは掛ける言葉がなかった。何を言っても、彼女は聞こうとしないだろう。そればかりか、ルーラを外して、ディグルとクラウディア、二人の旅行を、と勧めるのが関の山である。ここは泣かせるだけ泣かせて、疲れた頃を見計らって追い出そう。
 そんな彼の思惑など知らぬ気に、スタシアは長椅子(ソファ)に倒れこんで、さめざめと泣き崩れている。
 ディグルは彼女を部屋に残し、ひとり廊下へと足を踏み出した。と、そこへ折悪しくルーラがやってくる。出立時刻が決まったら知らせるように言い置いていたことを思い出し、ディグルは苦い笑みを浮かべた。
「お出かけですか?」
 淡々と問いかける側室にかぶりを振り、ディグルはちらりと背後を振り返る。それだけで、ルーラは全てを察したらしく。表情をやや曇らせた。
「女官長殿には、大変申し訳ないのですが」
 白々しい前置きを述べて。彼女は不在期間と外出日程をディグルに告げる。
「行き先は、どこにした?」
「当初は、アーディンアーディンを予定しておりましたが」
 アーディンアーディンは、貴族たちの療養地である。いくつもの別邸が立ち並び、狩猟場としても名高い街だった。温泉もあって、気候もいい場所であるから、王族の忍びにもよく使われるところであるが。クラウディアはそれを断ったらしい。
「ですので、グランスティアの離宮に致しました」
 グランスティアは、アーディンアーディンに次ぐ景勝地である。こちらは、どちらかというと人里離れた隠れ里といった風情があり、芸術家に主に好まれる土地である。地理的にもアーディンアーディンより更に半日ほど首都より遠い。その分、国境を接しているアルメニアに近くなる。
「そのまま、逃亡する気ではあるまいな」
 悪戯な問いかけを向けると、
「そのようなことはありません」
 即座にルーラは否定した。否定してから、自身でも驚いたように、彼女は目を見開いた。
「随分とあれに肩入れをする」
 皮肉を込めて言葉を掛ければ。ルーラは「いいえ」とかぶりを振った。
 その様子がどことなく腹立たしくて。ディグルは更に、嫌味を向ける。
「情が移ったか? あの娘に?」
「そのようなことは」
 ありません、と言いかけたルーラは、そこで一度口を噤んだ。青い瞳の奥に、複雑な感情が揺らめいている。ルーラのこのような表情を見るのは初めてだ。ディグルは胸の奥で、何かがチリチリと焦げる音を聞いた。
「妃殿下に、好意を抱いていることは確かです。ですが、それ以上のことはありません」
 平素の抑揚のない口調でルーラは言う。
 彼女の言う『好意』がどのようなものか。わかるだけに、ディグルの苛立ちは募る。
「あれに、思いを寄せても。叶うことはないぞ」
「わかっています」
 これにもルーラは即答する。
「肉欲や性欲の類ではありませんから。ご心配なさらずとも宜しいでしょう。わたしは、ひととして。あの方に惹かれ始めているのかもしれません」
「やはりな」
 ディグルは気だるげに髪をかきあげる。それから、つと手を伸ばし。ルーラの頤に指をかけた。ルーラは逆らわず、彼のなすがままに身を任せている。この後に起こる事態を予想してか、彼女はそっと半眼を閉じた。
 けれども。
 ディグルは彼女に口付けを与えなかった。
 無言でその顔を見つめてから。ふいと視線を逸らし。彼女に背を向ける。
「殿下」
「楽しんでくるといい。アルメニアの刺客には、用心して置くように。――あれにも伝えておけ」
 ディグルの後姿に、ルーラは深く礼をする。近衛騎士の最敬礼――そんな仕草を覚えたのは、いつの頃からだろうか。自身に染み付いた慣習に苦笑を浮かべるルーラを、ディグルは決して振り返ろうとはしなかった。


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