日没を告げる鐘が鳴り響いてから、どれほど経ったことであろうか。
見回りの衛兵たちの足音も途絶えたところをみると、既に夜半は過ぎているころと思われる。
目を開けたまま寝台に横たわっていたクラウディアは、今一度辺りの気配を確かめてからゆっくりと身を起こした。息をつけば、目の前に白い霧がおりる。春が近いとはいえ、北国の夜はまだ冷え込む。彼女は一度身震いしてから、傍らの椅子にかけてあった上着を手に取った。それを肩に羽織り、床に足を着く。
「――っ?」
冷たい。危うく、声をあげるところであった。
次の間には、侍女たちが眠っている。彼女らに目覚められては、厄介だ。
クラウディアは慎重に寝台を抜け出すと、手早く服を着替えた。
「妃殿下」
密やかな呼び声。己を呼ぶその押し殺した声に、クラウディアは素早く辺りを見回した。
離宮の庭園。自室を抜け出ることができれば、そこまでたどり着くのは、わけもないことである。彼女は、ひとけのない廊下を息を詰めて走り抜けると、裏口からこの庭に降りてきた。先ほどまでちらついていた雪が、眠りにつく花々を白く染めている。そのうえを軽くはねるように、クラウディアは歩いた。
「遅れた?」
木々の陰から滑り出る人影に、クラウディアも声をひそめて尋ねる。
「いいえ。わたしも今参ったばかりです」
人影は、かぶりを振った。――雪明かりに浮かび上がる、細面の顔。月の雫を編み上げた銀の髪は、その顔を隠すように垂らされている。それでも、クラウディアはそこにいる人物が誰であるのか。はっきりと知ることが出来た。抑揚のない声、この、北国の空気のごとく凛と澄んだ気配。
ルナリア――王太子の寵姫である。
「ディグルに、何か言われたの?」
「いいえ。殿下は、なにも」
「私と会うこと、知っているんでしょう? あの男は」
「隠すことは出来ません。妃殿下にお会いすることは、申し上げています」
彼女の答えに、クラウディアは肩をすくめた。忠義なことである。これで男であれば。まごうかたなく、騎士の鑑であろう。ただし、こうして夜半に主人の正妻と人目を忍んで逢うことを除けば、の話だが。
「私のせいで何か言われたら、ちゃんと言い返してあげるからね。私は一応正室なんだから。それなりの権限はあるはずよ?」
冗談めかして言う言葉に、ルナリア――ルーラはにこりともしない。ただ、いつものごとく。渋い表情で歳若い正室を見下ろしている。
あの日から、ルーラは正式にクラウディアの稽古相手となった。
剣術、馬術。双方ともかなりの腕前を持つルーラは、クラウディアにとって申し分のない相手である。彼女のおかげで、退屈な花嫁修業も楽しいものに変わった。昼間は、楚々とした王太子妃として。夜は一人の騎士として。充実した日々を送っている。これも、それを許してくれているディグルのおかげだと思うと、いささか勘に障るものもあるのだが。この際それは考えないようにしている。
相変わらず、ディグルと逢うことはないが。ルーラを通して、彼のことは以前よりはだいぶわかるようになって来た。
たとえば。
現王妃ラウヴィーヌは、彼の実の母ではないこと。
前王妃は、二十年以上前、城を追われたこと。
(噂は、本当だったんだ)
嫁ぐ前、侍女たちが密やかに交わしていた会話の中に、その話もあった。
――フィラティノア国王の前妃は、卑しい歌姫。
美しい人であった、とは聞いている。ディグルの容姿から推し量れば、それも頷けるだろう。フィラティノア国王が、あの、野望のためにはすべてを犠牲にする男が。良家の娘との縁談をことごとく蹴って、花嫁に迎えた女性である。
だが。現王妃の登場で、事態は一変した。
国王はあっさりと王妃を捨てたのである。不義密通のかどで、彼女は王妃の称号を剥奪された。まだ幼かった王太子は、母の手から奪われ、宮廷に残されて。
(だから、性格悪くなったのかもしれない)
スタシア、という彼の乳母兼女官長は、王妃の分まで王太子をいつくしんで育ててきたというが。それでも愛情が足りなかったのだろうか。
「なにを考えておいでです?」
ルーラの問いに、クラウディアはあいまいに答えた。ディグルのことだといえば、彼女はよからぬ気をまわすであろう。それだけは、避けたかった。このまま。このままずっと。ルーラとの関係は続けていきたい。一人の人間を奪い合うような、そんな愚かなことはしたくない。
「ねえ、ルーラ?」
「はい」
青い瞳がこちらに向けられる。クラウディアは、一度言葉を切った。言おうか言うまいか。しばし迷ってから。
「――あなたは、いつからここにいるの?」
「殿下の、側室となった時期のことですか?」
間髪をいれずに返される問いに、クラウディアは小さく頷いた。
ルーラは、ふと視線をそらす。その横顔には、いつになく暗い表情が宿っていた。
「十五の、ときです。妃殿下」
「十五の?」
クラウディアが、フィラティノアにやってきた歳と同じであった。
十五歳――その歳からディグルのもとにあって。何年の歳月を彼とともに過ごしてきたのだろうか。
六年、いな、七年近くなる、と。ルーラは指折り数えていた。
「殿下は、命の恩人です。あの方がいらっしゃらなければ、私はとうに死んでいました」
「ルーラ?」
六年前。何があったのだろうか。どういう経緯で、二人は出会ったのだろう。
「申し上げておりませんでしたが。私は貴族ではありません。平民の出です」
そう言ったきり、ルーラは口をつぐんだ。これ以上の問いは受けない。そんな拒絶の意が込められているような姿。クラウディアも深くは追求しなかった。――このときは。
◆
また、ルーラはクラウディアのもとに行っているのか。
一人寝の床の中で、ディグルは苦笑した。どうやら自分は、妬いているらしい。妻に大事な寵姫を奪われていると――そんな風に考えるのは、おかしなことなのだろうか。
尤も、幼い妻は気づいてはいないはずだ。『ルーラのこと』に。彼女だけではない。スタシアも、宮廷にいるものも、誰一人として、ルーラのことを知るものはない。知っているのは、ディグル一人。今は、その事実だけが優越感に浸れる最後の砦であった。
ルーラとて、むやみにクラウディアに話すことはないだろう。おのれの素性を。
出来れば知られたくない事実である。ことに、近しい存在には。
(六年、か)
その間に、情勢は変わった。ディグルは妻を娶り、程なく正式に婚姻を結ぶ。
「俺が、おんなを――」
考えただけで、吐き気がする。妻など迎える気はなかった。しかし、父が結んだ愚かなる盟約によって。彼には幼いころから決められた妻があった。アルメニア第一皇女。盟約の時には、この世に影も形もなかった存在。出来ることなら、生まれてこないでほしいと願っていた。アルメニアに、皇女は必要ない。自分に嫁ぐために生まれる娘など、望みはしなかった。
けれども。彼の願いは、空しく消え去ることになる。
『アルメニアに、皇女殿下が誕生しました』
早馬の使者が告げた言葉。歓喜する父の傍らで、彼は眩暈さえ覚えた。
生まれたからには仕方がない。――死んでほしい。早く。花嫁となる前に。
呪詛は常に胸にあった。未来の花嫁の死を、強く望んだ。
(死なないのであれば)
殺せばいい。
いつからだろうか。その考えが、芽生え始めたのは。
アルメニアの、皇女は二人。どちらか片方が死んでも、生き残った者が花嫁となる。アルメニアが故意に約束を反故にしない限り、皇女は嫁いでくるのだ。それならばいっそ、二人とも死ねばよい。
『アルメニアの、皇女を殺せ』
父とはまた別に。ディグル自身も刺客を放った。
アルメニアとの縁組など、必要ない。あの国がほしければ、力づくで奪えばよいのだ。国力は、既にかの国と同等。国を滅ぼし、皇帝を殺害し、そのうえで『神聖帝国』復活を宣言すればよいのではないか。
父は、体裁にこだわりすぎる。フィラティノアを興したときは、祖父と共になりふりかまわず侵略を続けたというのに。神聖帝国の帝冠だけは、無血で手に入れたいと思うのか。
もっとも、アルメニアに武力侵攻などすれば、他の国々も知らぬ顔は出来まい。特に、アルメニアとの縁深き国――現皇后の故郷でもあるミアルシァは、挙兵の報を耳にしただけで援軍を送るであろう。ミアルシァと、ダルシアと、そのほか南方諸国の連合軍を。
そうなれば、いかに大陸随一の軍備を誇るフィラティノアといえど、ひとたまりもない。カルノリアの動き如何にもよるが、かの国は、神聖帝国の末裔を自称している。戦が始まっても、おそらくは傍観しているであろう。他の国々の共倒れを狙って。
それを恐れたからこそ。父はカルノリアに連なる女性を、王妃として迎えたのではなかったか。カルノリアの帝室、エレヴィア家よりも古き血を持つ、『神聖帝国以前の血』。
(レンディルグ辺境候夫人、ラウヴィーヌ)
寡婦であった彼女を、フィラティノア国王は後添いとした。
フィラティノア現王妃。彼の母を放逐した、女狐。
――雪が、降っていた。
その光景は、今でも覚えている。
冷え切った石の回廊。そこをはだしで歩く彼の前に、その女性は現れた。蜜色の髪に、緑青の瞳。生粋のティノア人ではない。どこか、異国の血を受けた女性。美しい人だ、とは思った。幼心にも、彼女は美しかった。けれども、それは、宮女や女官たちに比べて、であって。
『こんばんは。殿下』
珠を転がす美声も、やはり同じ。比べるべき対象が、ここにはいない。
『今宵は一段と冷え込みますわね。どう、この頬の冷たいこと』
彼女は、彼の頬に触れた。白い指先は、ほのかに温かかった。それはゆっくりと彼の輪郭を辿り、やがて唇に触れる。微動だにせぬ彼に、妖艶なる毒の笑みを向けて。彼女は徐に唇を重ねてきた。
『なにをなさいます、――王后陛下』
慌てふためく女官の声も聞こえぬのか。彼女はじっくりと彼の唇を味わってから、身を離した。赤い唇の端で、桜色の舌が蛇のそれのごとく小刻みに蠢くのを見て。彼は気分が悪くなった。
何をされたのだろう、自分は。
何をしたのだろう、この女性は。
まだ、彼女の唇がこびりついているような錯覚を覚えて、彼は手の甲で己の口をぬぐった。と。白い肌に、一筋。赤い線が描かれる。口紅の色。血のごとく赤い、忌むべき色。
彼は後に知ったのだ。
あの日が、彼女がフィラティノア王妃の称号を得た日だということを。
そして。彼の母エリシアが、完全にフィラティノア王家と縁を断った日だということを。
◆
あの夢を見たあとは、いつも寝覚めが悪い。いつまでも生々しく、継母の唇の感触が残っているような気がして。彼は幾度も布で口元をぬぐった。二十年経った今でも、記憶は薄れるどころかますます色鮮やかに。毒々しく蘇ってくる。
『毒に、当てられたのですね』
後年、ルーラに言われた。
ルーラと出会い、彼女をはじめて抱いたとき。ディグルはそれまで誰にも言わなかったあの記憶を、忌まわしい出来事を。伝えたのである。
女の毒に当てられた。だから、自分は女を愛せない。アイセナイ――肉体的に。
漠然と、そう思った。ルーラの言葉を聞きながら。
継母は、その後も彼を誘惑した。
日々衰えていく国王を疎み、美しく成長を遂げていく息子によからぬ思いを抱いたのであろう。ことあるごとに、彼の前に現れ、挑発したのである。息子の中に、歳相応の劣情が宿っていると思い込んで。
「――お目覚めですか?」
衣服を整え、書斎に入ればそこにはもうルーラがいた。彼女は侍女に温かい飲み物を持ってくるように命じると、ディグルに向き直る。結わずに背に垂らした髪が、風を孕んでふわりと揺れた。そこに、彼女のものではない別の香りが混ざっていることに気づき、ディグルは僅かに眉を動かす。
――南方の香料。アルメニアの貴婦人が好む香り。ウィレア。
クラウディアの移り香だろうか。そうに違いない。
「あれは、おまえをよほど気に入っているようだな」
ルーラの髪を手に取り、指先で弄びながら。ディグルは呟いた。我ながら、子供じみている。自嘲が薄く口元を彩った。
「退屈なのでしょう。妃殿下は」
ルーラの応えは、相変わらず素っ気ない。
見かけとは異なり、活動的なクラウディアは。離宮に押し込められていることを不満に感じている。彼女は何かと口実をつけては、外に出たいのだ。外に――できれば、市井に。ルーラを呼ぶのはあくまでも口実である。ルーラ自身、そう考えているようであった。
「夜半に庭を徘徊するのもか? 先日は、侍女が亡霊を見たと騒いでいたな」
昼間はひとの目があるので、剣術の稽古をするのは憚られる。夜、ひとけのない時分に裏庭にて稽古をつけてほしい。そう申し出たのはクラウディアのほうであった。簡潔に要件のみをしたためられた手紙を、王太子妃付きの侍女が持参したときは、さすがのディグルも呆れたが。
――承知した。
その一言だけを、同じ紙に書き添えて。同じ侍女に持たせてやった。
以来、王太子妃と側室の逢瀬は毎晩続いているらしい。
「今宵も、あれのもとに行くのか?」
「お召しがあれば」
「まるで、あれの側室のようだな」
口元を歪めるだけの苦笑に、ルーラは視線を揺らして応える。「否」と。そのあとに、あの抑揚のない声で。しかし、はっきりとした口調で付け加えるのだ。
「わたしの主は、あなただけです。殿下」
「忠義なことよ」
ディグルは彼女の顎に手をかける。ごく自然に、二人の唇が重ねられた。そこに、侍女がやってくる。が、彼女は知らぬふりをして、運んできた飲み物を、卓上に置いた。そのまま一礼して、部屋を辞す。
王太子とその側室の戯れなど。誰も気にとめるものはいない。気に留めることは、無粋なのだ。
「あれの片割れは、まだ見つからぬのか?」
思い出したように、ディグルが尋ねる。ルーラは、間髪をいれずに即答した。首を縦に振るのみで。
その潔さが好ましい。ルーラは決して言い訳をしない。
この一ヶ月、どうしたものかアルメニア皇太子――大公アグネイヤの消息が掴めない。セグでルーラの放った刺客とまみえてから、杳として行方を絶ってしまったのだ。刺客と行動をともにしている、ということから、うまく姿を隠したのかも知れぬのだが。
――古代紫の瞳をした美少女は、かなり目立つ。少年のなりをしていたとしても、必ず訪れる先々で騒ぎを起こすというのだから。今までは、足取りは掴みやすかった。
いかに剣筋がよく、機知に富んでいるとはいえ、所詮は小娘。しかも、世間知らずの皇女である。闇に葬ることは容易であるとの考えは、過ちであったのか。
クラウディアの行動を見ていれば、アグネイヤの動きもある程度推し量れると思っていたのであるが。
「俺は、甘かったようだな」
「殿下?」
アグネイヤとクラウディア。アルメニアの双子を侮っていた。あの二人は、普通の娘ではない。どこか、違う。どこか妙だ。
(普通の、『おんな』ではないか)
少なくとも、『彼女』とは違う。あの、継母という名の女狐とは。
「皇太子殿下の行方はいまだ掴めませんが。――エリシア様のいらっしゃるところは、ほぼ見当がつきました」
エリシア。その名に、ディグルの表情がこわばった。傍目から見てもそれとわかるほど、彼は動揺している。
「おそらく、カルノリアにいらっしゃるのではないかと。――引き続き、捜索を続けてまいりますが」
「わかった」
それだけしか、言葉が出なかった。
エリシア前王妃。三歳の時に別れたきりの、ディグルの生母。ラウヴィーヌの策略で貶められた、彼の女神。
かのひとの行方は、いまだ杳として掴めない。
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