|
ルカンド伯謀殺、の噂は瞬く間に街中に広がった。
静養のため、北部の温泉地に赴く途中であった伯が、この街の別邸に立ち寄り。運悪く押し入った賊に命を奪われたと。『早聞き』――公正なる情報屋は伝えている。文字の読めぬ人々が多いこの時代、変事を伝えるのは『早聞き』たちの仕事でもあった。朝も早くから街頭に立ち、大声で街の異変を告げる。ここ暫く、祭に浮かれていたせいか、とりたてて事件もなかったことからすれば。ルカンド伯謀殺事件は、街の人々にとっては恐ろしくも興味深い事件であると同時に。『早聞き』たちには、今日を生きる糧でもあった。
「おそろしいこと」
更に事件の内容を詳しく知りたい、というものたちが、こぞって早聞きに小銭を握らせる。その額によって、知る内容も変わってくるのだが――大半の人間は、ルカンド伯が物取りに襲われたこと、抵抗したため夫人もろとも惨殺されたことを知っていた。しかも、その犯人というのが。
「若い娘というじゃないの」
情報を仕入れた商店街のおかみたちは、ここぞとばかりに話に尾ひれをつけて囃し立てる。
「怖いわねえ。女だからって、安心して部屋になんか入れられないじゃないの」
「これで、暫く娼婦の仕事もなくなるわよねえ」
「うちの宿六も、帰りが早くなるわ」
段々と話が俗なほうに移り変わっていくが。その間にも噂は人から人へ。あっという間に流れていくものである。
当然、それはイリアを初めとする、アンディルエの一座の耳にも入ることとなり。相手が相手だけに、イリアは胸苦しさに思わず声を震わせた。
「やっぱり、アグネイヤが殺したの?」
老婆に問えば、彼女は例の曖昧な笑みを見せ。
「さあ。どうかのう?」
確たる答えを返さない。
アグネイヤの身分がいかなるものにせよ。ルカンド伯を手にかけたのだとしたら。その罪は免れないだろう。いな、彼女の素性が素性なだけにその理由が何であれ、ダルシアとの間に亀裂が生じるに違いない。まかり間違えば、ルカンド伯と縁戚であるカルノリアとの間にも不破が生じることとなり、彼女の立場が非常に危ういものとなる。
「あたしのせいで、アグネイヤが」
追い込まれるのであれば。自分は、どうすればいい?
イリアは自身の肩を抱きしめ、身を震わせた。アグネイヤは、イリアを救うためにルカンド伯の別邸に向かったのだ。実際、イリアが捉えられていたのはカルノリアの公館だというのに。不運なるすれ違いが、誤解を生み。アグネイヤは取り返しのつかぬ事をしてしまった。
「イリア。汝は、婿殿を信じられんか?」
「ばばさま?」
「婿殿が、わけもなく人をあやめることの出来るおひとか。おぬしにはわからぬのか?」
「だって」
「逢ってまだ間もないから、などという言訳は聞かんぞ。アンディルエの巫女は、真実を見抜く眼を持つ。婿殿の魂が読めぬのであれば、まだまだおぬしに婆のあとは継がせられぬな」
やれやれ、といわんばかりに。老婆は肩をすくめる。イリアは憤慨して言葉を返そうと思ったが。唇を動かしかけて、やめた。
「婿殿の行方は、汝がわかるだろう? その手にあるものは、なにか。考えてみるがよいわ」
「……」
イリアは隠しから札を取り出した。幼き日から手に馴染んだ札。これで、彼女は幾つもの事柄を占ってきた。彼女が望めば、あらゆる未来が、この札によって導き出される。
「アグネイヤ」
彼女のことも。占えば、答えは必ず導き出される。
イリアは呼吸を整え、卓子の上に、札を並べた。最も簡単な、是か非かを占う独り占い。二者択一のそれは、簡単な分、集中力が必要である。イリアはあらゆる雑念を退けて、占いに臨んだ。
◆
時は少し、さかのぼる。
ルカンド伯の屋敷での変事が、周辺の住民に気付かれ始めたころ。街の安宿の戸を叩くものがあった。
「なんだい、こんな時間に」
そのようなことを言ったつもりであったが。言葉の半分はあくびに消えてしまっていた。宿の主人は扉の向こうに佇む人影を見て、フンと小さく鼻を鳴らす。
「急の泊まりは、遠慮してもらうよ」
「そう、冷たいこと言うなって」
人影は、青年だった。それも、まだ若い。主人が胡散臭げに目を細めて彼の様子を窺うと、青年はその鼻先に小さな袋を差し出した。宿の代金だというのだろう。
「こんなはした金」
言って、突き返そうとしたのだが。袋の口からこぼれる黄金の光に、彼は思わず口をつぐんだ。公用金貨だ。それが数枚、小袋の奥で輝いている。主人は息を飲み、青年を見上げた。彼よりも頭二つ分ほど長身の青年は、壁に片手を着いて彼を見下ろしている。月明かりに映し出される髪の色は、黒――いな、褐色か。南方の商人もしくは、その用心棒といったところなのか――主人が思考をめぐらせていると、青年は
「泊めるのか泊めないのかはっきりしてくれよ。ダメなら他をあたらなきゃなんねぇんだからよ」
苛立たしげに催促をする。主人は「ああ」と頷き。青年を中に導くために僅かに身体をずらした。
「ありがとよ」
俗な言葉で礼を言い。青年はよいしょと足元から何かを抱え上げる。気付かなかったが、客は二人連れだったのだ。もうひとりは、小柄な少年で、酔ったのだろうか。ぐったりと青年にもたれかかっている。
「喧嘩だよ。喧嘩。女の取り合いでよ。弱いくせに向かっていくから、このざまだ」
薬草と包帯があれば、ありがたい――青年はそう付け加える。主人は無言で頷いた。
「――ったくよ。どこまで世話焼かせりゃ気が済むんだ。このお姫さんは」
ここしか部屋が残っていない、と。通されたのは地下の一室であった。じめじめとかび臭く、寝台にかけられた布団もどれだけ洗っていないのか。薄汚れていて気味が悪い。さすがの彼もこれには辟易したのだが。泊まれる宿があるだけありがたかった。
掛布をはぎ、その上に自身の上着を置いて。彼はつれの『少年』を横たえる。気を失った身体は何の抵抗もなく寝台にくずおれ、無防備な姿を彼の前にさらしていた。
「……」
男性ものの上着の前を開くと、しっとりとした柔肌が現れる。両の乳房こそ布に包まれてはいるが、その身体は少女のものであった。しかし、まろやかなはずの肩の曲線は、異様な形に腫れあがっている。脱臼か打撲か――どちらにせよ、傷を負っていることには他ならない。更に、肩口にも何かで抉られたような傷がある。彼は傷に障らぬよう上着を脱がせ、その左腕に指を這わせた。
「――っ」
遠い意識の中でも、痛みを感じるのか。少女は僅かに眉を寄せる。それが、別の行為を思い出させて。彼は小さく息を吐く。
「気絶しているときのほうが色っぽいぜ。皇女さん」
耳元に囁くと、声に反応したのか。睫毛が僅かに動いた。それから、ゆっくりと瞼が持ち上げられ。
「――ジェリオ?」
朱唇が彼の名を紡ぐ。
「お目覚めか? 皇女さん」
皮肉げな笑みが間近に迫る。アグネイヤはぼんやりとした頭で失神する前のことを必死に思い出そうとしていた。
「動くなよ。大分腫れてる」
ジェリオの手が、肌にじかに触れる。ひんやりとした掌が、指先が。そっとアグネイヤの肩口を掴んだ。それが、患部から熱を奪い取ってくれるせいなのか。アグネイヤは、熱い息を吐いた。
「気持ちいいか?」
囁きに、アグネイヤが頷く。
「でもな。ちっと我慢しとけよ」
手に、力が込められる。悲鳴を上げそうになったアグネイヤの口を、もう一方の手で塞いだ。
「我慢しろ、っていったろうが。息とめて、歯食いしばれ」
言われた刹那。肩に激痛が走った。
「――っ!」
アグネイヤは身をそらし、苦痛から逃れようともがき始める。逃げる彼女を強引に捕らえて、ジェリオは両手で傷口を掴んだ。そこに唇を押し付け、こびりついた泥を吸っては小まめに吐き出す。傷口から雑菌が入ってしまったら、それこそ取り返しのつかないことになる。そんな気持ちからだったのだろうが。
「や……いやっ」
アグネイヤは本能的にジェリオの胸を押しのけようと、暴れていた。
それは、痛みから逃れるためか。それとも、恐怖からくるものなのか。
のしかかるジェリオの身体を必死で押し戻す彼女の表情には、そのどちらもが見て取れる。
過去に二度、ジェリオに襲われたときのことを思い出したのだろう。今のアグネイヤは、男装の皇女でも、凛々しき少女騎士でもなく。一介の小娘に過ぎなかった。
「結構腰抜けだな。皇女さんよ。もうちっと、骨があるかと思ってたぜ」
乱暴な手当を終え、患部に包帯を巻き終えたのち。ジェリオは呆れたように呟く。アグネイヤは憑物が落ちたようにぐったりとしたまま、半ば放心状態で彼を見つめていた。――否、視線は彼に向けられていても、その眼は彼を映してはいなかった。痛みと恐怖で恐慌状態に陥った、その挙句の脱力である。意識も殆ど飛んでしまっているだろう。ジェリオの予測通り。髪に触れても彼女は何の反応も示さなかった。
このまま、眠ればいい。
ジェリオは彼女の唇に、自身のそれを重ねる。これにはさすがにアグネイヤも抵抗しかけたが、優しく絡められた舌が愛撫を始めると、そのまますっと意識まで吸い取られたかのように目を閉じる。今度は完全に意識を失ったらしく、彼女は完全にジェリオに身を委ねていた。
「――」
唇を離し、彼はアグネイヤの身体を抱きしめる。
その気になれば、このまま口付けで彼女の命を奪うことも出来た。暗殺とは、なにも剣や毒を使うものばかりではない。痛みではなく、相手に快楽を与えながら魂を奪い取る方法もあるのだ。
(エルディン・ロウ)
大陸に名を馳せる、暗殺者集団。彼らに伝えられた技術は、幾つも存在する。
アグネイヤは、そのうちのひとり、――刺客として向けられた人物を返り討ちにしたという。一体、この小さな体のどこにそんな力を秘めているのか。それを知りたいと思った。
(ってのは、言訳か)
初めて唇に触れたとき、全身に甘い痺れが走った。戯れに奪った唇だというのに、なぜか心が震えた。だから、ほしいと思った。力尽くでもこの身体を奪いたいと思った。けれども。
できなかった。
嘔吐されたせいなのか。それで気が萎えたのか。
ならば、いまここで。無抵抗の身体を抱けばいい。
「――」
ジェリオは、アグネイヤの胸を隠す布をゆっくりと剥ぎ取った。帳の隙間からこぼれる、淡い月光。ぼんやりと浮かび上がるのは、白磁の肌。陶器のように滑らかだが、絹織物の如く繊細で。柔らかい。未熟な双丘は愛撫によって、いくらでも早き稔りを迎えるようになる。あの夜、確かにアグネイヤは彼の愛撫に反応していた。あのままことに及んでも、特に問題はなく二人は結ばれただろう。
ジェリオは初めて剣を交わした晩のように。迷うことなく手を伸ばし、アグネイヤの胸をそっと包み込んだ。
|