AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
3.魔手(5)


「時間があれば、お相手してやったんだけどな」
 ちょっと勿体ないことをしたか――ジェリオは、彼女を寝台に横たえて、息を吐いた。しなやかな肢体、滑らかな肌。熟した果実を思わせる乳房。全てが、彼を誘っている。アグネイヤは別として、なかなかこのような女性にめぐり会う機会はない。刺客などをやってはいるが、この女性、カイラもそれなりの階級の出なのだろう。
 ジェリオは裂いた敷布で彼女の手首を縛り上げ、寝台の脚に固定した。さらにはその両足も同じように縛め、これは扉に括りつける。これで、簡単には戸を開けることは出来ぬだろう。
 あまった布で、自身の患部の止血もすると、漸くここで人心地ついた。酒の一杯でも口に含みたいところだが。今はそんな悠長なことはしていられない。
「アグネイヤ」
 彼女を探さなくては。
 カイル、とカイラが呼んでいた青年。彼と共に逃走した、あの皇女はどこへ行ったのだろう。
「また、振り出しかよ」
 呟いてみるが、不思議と絶望感はない。この大陸を出ない限り、彼女のことは探し出す自信がある。根拠もない自信ではあるが、なぜかそう思えるのだ。
「運命の、導きってヤツか?」
 彼はそっと手の甲で自身の唇を押さえる。まだ、覚えている。アグネイヤの唇の感触を。舌の味を。仄かに香る、彼女の肌の匂いと共に。これを忘れぬ限り、彼女との絆は切れてはいない。愚にもつかぬ事を考えて、ジェリオは口元を皮肉げに歪めた。



 どこまで走り続けるのだろう。
 カイルの腕の中で、アグネイヤはぼんやりと考えた。彼はあの部屋の高さをものともせず、巨大な体躯とは裏腹に軽やかに路地に降り立った。そのまま息もつかずに走り出し、今の今まで脚色は一向に衰えなかったのである。
「どこに行くんだ?」
 時折そう尋ねてみたが、答えはなかった。理性が飛んでしまっているのか、それとも答える気がないのか。終始彼は無言であった。もっともありがちだと思えるのは、行き先を全く考えずに、ただカイラから、あの女性から逃げているということである。
 しかしその逃避行も、やがて終わるときが来た。何のことはない。転んだのである。足がもつれたのだろう。地響きに近い音を立てて、カイルの巨体が地面に倒れこんだのだ。それでも、アグネイヤを守るべく身体をひねったので。彼は奇妙な体勢でそこに転がってしまった。
「大丈夫か?」
 打ち付けた尻をさすりながら、アグネイヤが立ち上がると。カイルは寂しそうに笑った。命が尽きる前の馬のようだと、なんとなくアグネイヤが思ったとき、彼はもぞもぞと身を起こした。彼女は慌てて、それに手を貸す。
 重い。半端でなく重い。
「あ、ありがとう」
 照れたように彼は首をすくめた。これが彼の精一杯の感謝の意なのだろう。
「って。それ、僕の台詞だと思うけど」
 アグネイヤは苦笑する。彼があの場からアグネイヤを連れ出してこなければ、彼女はカイラの餌食になっていたのだ。
(ジェリオは平気かな)
 ふと、褐色の瞳の刺客を思い出す。彼のことだ。うまく切り抜けているとは思うのだが。そう考えて、彼女は顔をしかめた。なぜ、あんな男の心配などする必要がある? 彼は、もともと刺客なのだ。フィラティノアに依頼されて、彼女の命を狙う。
(フィラティノア?)
 アグネイヤはカイルを見下ろした。
「カイルは、誰に頼まれたの? 誰が、僕を殺せといった?」
 彼は小首をかしげた。眉を寄せて、うぅーん、と低く唸る。
「カイラ」
 ポツリと呟いてから。
「カイラが、頼まれた。俺は、ついてきただけ。よく、わからない」
 どこか遠くを見るような。夢見がちな瞳で答える。
 薬か何かで操られているのだろうか、この男は。そうとしか思えない反応をする。先ほどの残忍性も、今のどこか心を置き忘れたような言動も。薬物で精神を蝕まれた人間のそれである。医学の都であるミアルシァでは、薬で人の精神を操るすべを知る医師が多く存在すると聞いているが。あのカイラという女性もその方法を知っているものの一人に違いない。
 そうなると。彼らの雇い主は、ミアルシァか。また他に、敵が出来たのだろうか。
「俺、帰る。あんた、遠くに逃げてくれ。カイラが追ってこないところへ。追いかけそうになったら、俺が止める」
 カイルは、持ったままであったアグネイヤの短剣を差し出した。彼女がそれを受け取ると、ぎこちなく笑って。立ち上がろうとする。が。すぐによろけてその場に座り込んでしまう。どうしたのかと思えば。彼の足首は、かなり腫れ上がっていた。おそらく、路上に飛び降りたときに捻ったのだろう。そのまま走り続けたので、悪化したのだ。これでは歩くことも出来まい。今までは気力で走ってきたのが、それを失った今は立ち上がることすら、ままならぬのだ。
 かといって。アグネイヤ一人の力ではどうすることも出来ない。誰か、人を呼んでこなければ。
「大丈夫だ。俺は、すぐ元気になる」
 彼女を気遣わせまいとして、やわらかく微笑む巨漢を。その、頭を。そっと抱きしめてから。
「待ってて。すぐ、戻るから」
 言い置いて、彼女はその場を後にした。


 常夜灯に照らされた街を、彼女は市街の中心部に向けて走った。
 彼女たちがいたのは、街の外れ。宿を取っていた街の、隣の街に入ってしまったのだろう。目にする景色は、覚えのないものばかりである。この時代の街は、街自体が独立しているものが多く、その構図は市長の趣味が大きく反映しているのだ。ゆえに、近郊都市であってもひとつとして同じつくりの街はない。それぞれ、個性的に作られているのである。
 セルニダのように、帝都としての役割を持つ街ならば他にも例を見られよう。しかし、このように辺境ともなれば。土地土地の産物、商業、工芸などに大きく左右される。
 それでも、基本的には都市の中心部には貴族階級が住み着き、その周囲を同心円状に職人街・商人街が囲んでいくというのが一般的であったのだ。
 さすがにこの時間帯となれば、街を歩く人物も限られている。酔っぱらいか、もしくは酔狂な夜遊び貴族。貴族であれば、大概は高貴なる義務のために、難渋しているものを助けることとなっているのだが。道端に止めてある馬車一つ一つに声を掛けても、御者や従者たちに悉く首を横に振られてしまった。ここには、崇高な精神は存在しないのかもしれない。アグネイヤが諦めかけたとき。その目が、ひときわ目立つ馬車を捕らえた。
 黒塗りの車体に、金の紋章が埋め込まれている高級馬車。かなり上の爵位のものの持ち物であろう。これならば、と彼女はそこに近づいた。
「すまない」
 軽く声を掛けると、御者が何だというようにこちらに視線を向けた。彼は無遠慮にアグネイヤの姿を眺めると。懐からなにやら取り出して。
「向こうにいけ」
 野良犬でも追い払うように。喉の奥で呟いた。同時に、ぽい、と路上に何かを投げ出す。ちゃりん、と高い音がしたところを見ると、硬貨らしい。アグネイヤは驚いて、御者を見上げた。
「男娼に用はない。さっさと消えろ。目障りだ」
「男娼?」
 いわれて、アグネイヤは改めて己の姿を見下ろした。カイルに裂かれた服は、乳房こそ隠しているものの艶かしくはだけていて、それが春をひさぐものを連想させるのだ。暗がりの上、帽子を被っているので、少女だとばれることはなかったが。今までもそういった目で見られてきたに違いない。アグネイヤは憤りを覚え、御者を睨みつけた。
「違う! 怪我人がいるんだ。医者を呼んでくれないか?」
 彼女の言葉に、しかし御者は冷淡だった。
「もっとましな嘘をつけ。早く消えろ。今すぐにだ」
 蔑みの目を向け、こちらに向けて唾を吐く。それを身をひねってかわし、アグネイヤは視線を鋭くした。なんということだ。これが貴族に仕えるものの実態か。高貴なる義務を怠るばかりか、庶民に対して侮蔑の目を向ける。こんな連中がいる限り、国がよくなることはないのだ。貴族と生まれたものに仕えているだけで、自分も権力を得たと錯覚しているのだろうか。
(クズが)
 内心吐き捨てて、その場を去ろうとしたとき。ごん、と鈍い音が耳に響いた。
「え?」
 見上げれば。馬車の窓に人影が見えた。どうやら、この馬車の主か。若い娘のようであるが。目を凝らせば、闇に溶け入るぬばたまの黒髪が揺らめいているのが解かる。白い面の中でもの言いたげに輝く瞳は、瑠璃。黄昏のはかなさを思わせる瞳だというのに、力強く見えるのは、何故だろう。

 たすけて。

 少女の瞳が訴えている。見れば、口元には猿轡がかまされていた。加えて、ゆっくりと持ち上げられた両手。細く華奢な手首はきつく縛められ、それを解こうともがいたのだろう。痛々しい傷が白い肌にいくつもついていた。
 少女が、かどわかされているのだ。
 咄嗟にそう思ったアグネイヤは、馬車の踏み台に足をかけた。何事かと驚く御者には目もくれず、力任せに扉を引く。と、扉に凭れていたであろう人物が、一気に転がり落ちてきた。
「うわっ」
 思わず相手を抱きしめる形となり。アグネイヤは驚きを隠せないまま、正面からその少女を見た。
 彼女の腕に身を投げ出す形となった少女。どこの貴族の令嬢か。上質にして華美な衣裳を纏った彼女は猿轡越しに低く唸った。馬車の屋根から下げられた、燈火の明かりに浮かび上がったのは。黄昏の瞳を持つ、美少女であった。

「君は、あのときの」

 眩暈に似た既視感。アグネイヤは知らず、彼女の身体を抱きしめた。その口を塞ぐ猿轡を手早くはずし、縛られた両手を自由にしてやると。少女もまた。強くアグネイヤを抱き返した。
「やっと、お会いできた」
 恋する乙女のように、彼女はアグネイヤに甘い微笑を投げかける。
 二人の視線が薄闇の中で交差したとき、その絆を断ち切るように、御者の手がアグネイヤの腕を乱暴につかみ、彼女を引き摺り下ろした。
「男娼風情が。無礼な」
 路面に引き倒されたアグネイヤを庇うように、少女が御者の前に立ちはだかる。
「なによ、人攫いのくせして!」
 甲高い声で彼の非を罵ると、アグネイヤに手を差し伸べる。大丈夫、と問いかける瞳の向こう。アグネイヤが頷く間もなく御者の手が伸びるのが見えた。
「危ない」
 アグネイヤが声をかけるのと、少女――占い師イリアが振り返るのはほぼ同時だった。ふたりの少女の眼に映るのは、迫る御者の手。それは無造作に、品物でも掴むようにイリアを抱えあげると、乱暴に馬車に押し戻した。
「いや!」
 イリアの悲鳴を遮って、扉が閉められる。御者は馬車を出そうと、素早く一歩を踏み出したが。
「……?」
 夜の闇にぶつかったのか。弾かれたようによろめき、アグネイヤの傍らに派手に尻餅をついた。
「な、なにを」
 慌てて起き上がろうとするところを、今度は胸の辺りを巨大な足に踏みつけられて。彼は裏返された亀の如く惨めに手足をばたつかせる。アグネイヤは呆気にとられて、足の主を見上げた。褐色の肌の、心優しき巨漢は、いつの間にアグネイヤに追いついたのか。それよりも、ケガのほうはもう完治したというのか。どこもどうでもないというふうに。寧ろ、威風堂々とその場に佇んでいた。
 かつて、セルニダの宮殿の中で、このような蛮族を倒す英雄の彫像を見たことがある、とアグネイヤはぼんやりと考える。
「女を手荒に扱うのは、よくない」
 巨漢は呟くように言い。足に力を込めた。同時に、ぼき、とベキの中間のような音が辺りに響く。御者の肋骨が折れたらしい。彼は断末魔のごとき悲鳴を上げて、意識を手放した。
「カイル」
 無茶なことを、と。窘める意味も含んでアグネイヤがその名を呼べば。カイルは嬉しそうに彼女の前に膝を付いた。
「俺のこと、呼んでくれた。ありがとう」
 大きな掌が、アグネイヤの頬を包み込む。顔が近づけられ、ざらりとした舌が、アグネイヤの唇を舐めた。これが、彼ら流の感情表現だということはなんとなくわかるのだが。あまり喜ばしいものではない。彼女は複雑な表情でカイルを見上げ。それから、イリアに視線を向けた。彼女は自力で馬車の扉を開けたらしく、身軽に路上に飛び降りてきた。観賞用の小鳥のごとき優雅さで、ぽんとアグネイヤの側に降り立つと。彼女は小首をかしげてカイルを見上げる。
「アグネイヤの、従者の方?」
 問いかけに、カイルは困惑したのか。どんぐり眼をくるくると動かして、助けを求めるようにアグネイヤを見やる。アグネイヤは苦笑を漏らし、小さくかぶりを振った。
「違う」
 それ以上は、言えなかった。彼女を襲った刺客だが、何を思ったのか主旨がえをして助けてくれたことなど、言えるはずがない。
「ありがとう、カイル」
 もう一度礼を述べれば、カイルはまたアグネイヤを舐めるつもりか。ぺろりと舌を出してきた。それを遠慮がちに避けて、彼女は小さく微笑む。
「足は、もう大丈夫なのか?」
 この通り、と言わんばかりに、彼はその場で足踏みを繰り返した。獣人の一族、といわれるだけに、その生命力も回復力も、常人のそれとは異なるのだろう。安堵の息を吐くアグネイヤに、彼は今度は寂しげな目を向けた。
「ここで、さよならだ。俺、帰る」
 帰る――カイラの元に。
「そう、か」
 止めることは出来ない。名残惜しげにアグネイヤに頬を摺り寄せ、抱きしめようとする彼の髪を優しく梳き。彼女は
「元気で」
 短い別れの言葉を口にする。
 次に逢ったときは、また、敵同士だ。彼はカイラと共にアグネイヤの命を狙うのだろう。今夜のように、また気まぐれでアグネイヤを助けるとは限らない。初対面の折の、あの肉食獣こそが彼の本来の姿かもしれないのだから。
 去り行くカイルの後姿を見つめつつ。
「行こう。僕たちも」
 アグネイヤはイリアの手を取った。
 いつまでもここにいては危ない。イリアを捕らえた者たちが、いつ戻るか。それを考えると、落ち着いてはいられない。
「それなら、あのひとも――カイルも一緒に行けばいいじゃない?」
 イリアの言葉に、アグネイヤはかぶりを振った。それはできない。それだけは。今のカイルが、どれほど善人であったとしても。
「彼には、行かなければ行けないところがあるんだ」
 それだけを答えて、アグネイヤは口を噤む。イリアは不思議そうにせわしく瞬きを繰り返したが。アグネイヤに従って、夜の街を走り出した。


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