AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
1.邂逅(4)


 宿に戻ったアグネイヤを待ち受けていたのは、思わぬ人物であった。
「あんたに、お客さん」
 宿の主人はそう言って、胡散臭そうに待ち人を顎でしゃくる。居酒屋も兼ねている宿の、一階の食堂。その片隅に腰を落ち着けているのは、この場にそぐわぬ華やかな雰囲気を纏った青年だった。衣服こそ簡素な旅人のそれであるが、彼の貴族然とした顔立ち、杯を傾ける優雅な仕草、なにより美貌と言ってよい整った面差しと黒檀の如く艶のある髪。若い娘であれば、ひと目で虜になってしまうであろうそのひとは、案の定周囲の視線を集めながら、それでも平然と質素な食事を平らげていた。
「珍しいお姿でのご登場ですね」
 悪童めいた笑みを湛えて、彼はこちらに向き直る。アグネイヤが顔をしかめるのと反対に、メリダは直立不動で青年を見つめていた。
「ちょっと、ちょっと、なに? あれ、あんたの知り合い?」
 脇腹を小突かれて、アグネイヤは渋々頷いた。本来であれば、知り合いとは思われたくない存在である。彼女は渋面のまま彼に近づき、その手に握られた杯を奪い取った。
「こんな時間から飲んでいるのか」
 嫌味を言えば、彼はふふんと鼻を鳴らして。
「そう仰るあなたも、先日はかなり聞こし召しておいでとか。酔って暴れた挙句、男と客室に消えたそうで。なんとふしだらなことか」
 いやみたらしく言葉を返す。これにはアグネイヤも声を失った。なぜそれを、と聞きたかったが。聞けば聞いたで逆に追及を受けることになるのは目に見えている。彼女は唸り声とも呻き声とも吐かぬ声を発して、ひらひらと手を振る青年の元に、杯を返却した。
「これはどうも」
 青年は優雅に一礼し、残った酒を全て飲み干す。それから、アグネイヤの背後に佇むメリダに、柔らかな笑みを向けた。
「そちらのお嬢さんも、ご同席されてはいかがです? 夕食、まだなのでしょう?」
「おおおお嬢さんっ?」
 メリダは目を白黒させて自分の顔を指差した。きょろきょろとせわしく辺りを見回すが、生憎周囲に女性は彼女しかいない。
「他にどなたがいらっしゃるというのです、美しいお嬢さん。――ご迷惑ですか? それとも、今夜は他にお約束でも?」
 歯の浮くような台詞、とはまさにこのような言葉を言うのだろう。アグネイヤは深く溜息を吐いて、青年の肩をつついた。
「バディール。いい加減にしてくれないか」
 乳兄弟にして、剣の兄弟子でもある彼の名を呼ぶのは、久しぶりであった。なにより、母后の密偵として諸国を遍歴しているこのふやけた男と顔をあわせるのは、かれこれ一年ぶりとなろうか。優男然とした見かけによらず、かれはこれでなかなかの切れ者のようで、常に正確な情報を得て帰国するという。アグネイヤの知る顔と、本来の彼の顔とは別物だと自分に言い聞かせてはいるものの。
 どうにも胡散臭い。
「なにか、大切な用があったんだろう? いいのか?」
 余人を交えても?
 アグネイヤの問うような眼差しに、軽く片目を閉じて応えると、彼は優雅に立ち上がりメリダの前で騎士の礼をとった。片膝をつき、メリダの手を取ると、その甲にそっと口付けを落とす。これだけでメリダは、傍目にも哀れなほどに赤面して。今にも卒倒せんばかりに目を潤ませた。
「失礼、姫君。こちらの姫君がどうしても二人だけで語りたいと仰るので。今夜は残念ながらあなたとはご同席できなくなりました」
「え、ええ」
「美しい方、またご縁があることを願って。今宵は下がらせていただきます」
 アグネイヤから見れば、気障で嫌味でしかないこの行為も、メリダにとっては夢心地なのだろう。眉目麗しい青年に声をかけられた、それだけで舞い上がってしまった彼女をその場に残して。
「姫君。これでご満足でしょう? さ、上の部屋へ」
 今度はアグネイヤの手をとり、まるで舞踏会会場を歩くかのように。軽やかなる足取りで階上へと向かったのである。
 その後姿は、さながら一枚の絵のようだった、と。後にメリダは語ることになるが。それは、あくまでも後の話であった。


 アグネイヤがバディールを案内したのは、先日から彼女がジェリオと共に逗留している部屋であった。懐が寂しいわけではないだろうに、ジェリオは頑なに別の部屋を取ろうとはしないのだ。アグネイヤの監視、ということも大きな理由のひとつだろうが。おりあればその肌に触れようという、宜しからぬ目的のためにそうしているのかもしれない。
 ここ数日は、忙しいと言って外出をしているようだが。そろそろアグネイヤの様子が気になって戻ってきそうな気配もある。
(バディールと一緒のところを見られたら)
 何を言われるか解からない。
 別段疚しいことはないのだが、なぜか間男を引き込んだ貴婦人のように落ち着かぬ気分になって。アグネイヤは部屋の隅、古ぼけた椅子に腰掛け、バディールを見上げた。
 できればさっさと話を済ませてもらいたいが。彼自身がここを訪れたとなると、そうもいかないだろう。考えれば考えるほど気が滅入るアグネイヤの心情をまるで無視するかのように、バディールは早速懐から書簡を取り出した。しっかりと蜜蝋で封印した、母后からの密書である。アグネイヤの名が書かれた表を見ると、自然緊張が走る。
「内容を、知っているのか?」
 問うまでもないが。バディールはあっさりと頷いた。
「想像はつきますよ、誰にだって」
 揶揄するような物言いに、アグネイヤは表情を曇らせる。
「いつまでも、殿下が不在なのは由々しき事態でしょう。弟も、いつまでも身代わりを勤められるものでもありませんしね」
「わかっている」
 アグネイヤは視線を揺らした。彼女に与えられた時間は僅かだ。本来であれば、十六歳の誕生日、その日までに帰還しなければならなかったのに。今の時点で、それは最早不可能となっている。
「一度、帰国なされますか?」
 申し出に、しかしアグネイヤはかぶりを振った。バディールが差し向けられた、ということは。アグネイヤが帰還すればその役目を変わりに彼が担うことになる。
「どうしても、僕の手で。この手で、けりをつけたいんだ」
 絞り出された声を、彼はどのように受け取ったのか。非情な人間だと。彼はアグネイヤを非難しているのではあるまいか。
「さすが、烈婦と謳われるリディア皇太后陛下の姫君」
 からかうような、冷やかすような一言が、彼の心情を語っていた。アグネイヤは受け取った封書を机の上におき
「もう少し、時間をくれないか?」
 表書きに視線を漂わせながら、バディールに願い出る。彼は苦笑を浮かべて。
「しょうがないですね」
 陛下には、そう伝えましょう。
 呆れた、といった呈で短く応える。
「ですが、決めるのは私ではありません。宜しいですか?」
 わかっていますね、と。彼は暗に仄めかしているのだ。アグネイヤは小さく頷いた。わかっている。これを望んだのは、自分なのだ。その責任は、すべて自分にある。もともと、今回の役目は、バディールに与えられるはずであったのに。横からそれを奪い取ったのは、他ならぬアグネイヤなのだから。
「陛下には、その旨お伝えいたします。最悪の場合は、お話したとおりになると思いますが。――宜しいですね?」
「廃嫡、か?」
 最も不吉とされるその言葉を口にして、アグネイヤは薄く笑った。
 継承権など、もとより欲してはいない。ただ、国のため。そのためだけに名ばかりの皇帝となることを甘受していたのだ。
「そして、約束をたがえたとして、フィラティノアはアルメニアに牙を向く。さて、予言通りになりますかね。皇女殿下」
 皮肉めいた物言いにも、言葉を返す気はなかった。双子誕生の折に、高名な占い師が語った『予言』。不吉なるその言葉が、彼女たちの周囲を絶えず取り巻いている。

 ――この姫は、永く世に名を残すでしょう。
 ――混沌を、呼ぶものとして。

 混沌、とは。
「乱世の口火」
 バディールが遠い目をした。二百年前、大陸北部を襲った戦乱。それに等しい未曾有の惨事が、大陸を、アルメニアを襲うのか。きっかけを作るのは、他ならぬアグネイヤ自身かもしれないし、双子の片翼・クラウディアかもしれない。
「ともあれ。要件は済みましたので、これにて失礼させていただきます」
 バディールは騎士の礼をとり、先ほどメリダにしたように、アグネイヤの手に口付けした。
「――随分と、血を吸いましたね」
 剣を振るうたびに無骨になっていく指を見て、彼はひとりごちる。
「言葉が過ぎるぞ」
「失礼致しました」
 彼は静かにアグネイヤの元を離れ、扉の前で一礼すると音もなくその向こうに消えた。かちゃり、と扉の閉まる音を聞いたアグネイヤは、机に頬杖をつき指先で件の封書を弄ぶ。この中に書かれていることは、読まずともわかる。与えられた任務の一日も早い遂行と帰還。継承者が長く所在をくらませることに対しての非難。それが恐ろしいまでの簡潔な文章でしたためられているのだ。
(母上)
 彼女も、本当に心の底から望んでいるのだろうか。実の娘たちが、姉妹で殺しあうことを。アグネイヤが、クラウディアを殺害することを。本当に、望んでいるのだろうか。
 無造作に封を開ければ、そこにはやはり想像通りのことが書かれていた。

 ――フィラティノア王太子妃クラウディアの暗殺を遂行すべし。
 ――任務終了後、疾く帰国せよ。

 もとより、これは定められたこと。フィラティノアに赴いたものは、正式に后となる前に殺害する。婚礼をあげずとも、フィラティノアに一度は縁付いた、その事実だけを周囲に確認させればよい。
「……」
 アグネイヤは一通り手紙に目を通し、それを勢いよく破り捨てた。窓を開け、流れる雪風にそれを放り出す。千切れた紙片が風に舞い、アグネイヤの心と共に母后の言葉を彼方へと運んでいった。



「なんだ?」
 足元にふわりと落ちた紙片。ジェリオは何気なくそれを手に取った。どこから飛ばされてきたのだろうか。雪催いの薄明るい夜空を見上げれば、他にも数枚。似たような紙片が舞っていた。
「どこの馬鹿だ。ゴミ撒くんじゃねぇよ」
 鋭く舌を打ち、手にした紙をくしゃりと丸める。
「つっ」
 が。よほど質のよい紙なのだろう。潰したはずの角が、指に当たった。もともと、紙は贅沢品である。目の粗い紙とはいえ、それなりの財力のあるものしか手にすることは出来ない。ましてや、これほどの上質紙を用いるものとなれば。
(皇女さん?)
 ピンときて、彼は紙を丁寧に押し広げた。細かく千切られたものの一部で、全文を推し量ることは無理であったが。

 ――王太子妃
 ――暗殺遂行

 その部分だけが目に留まった。

 ――で? ひとりでふらふらどこに行く気だったんだ?
 ――フィラティノア。
 ――あぁ? なんでまた、そんなとこに? あんた、正気か?

 数日前の会話が蘇る。そうか、と。ジェリオは心の中で手を打った。
「刺客に追われる嬢ちゃんが、刺客の真似事か」
 こいつはいい、と。彼は皮肉めいた笑みを浮かべる。
 見上げる窓の向こう、明かりの中にアグネイヤは一人物思いに沈んでいることだろう、自身の背負ったものと対峙しながら。彼女に若い娘らしい晴れやかな表情が見られないのは、そういった背景があるからなのだと。得心した彼は手の中の紙を、再び強く握り締めた。


 宿の一階、居酒屋を兼ねた食堂に足を踏み入れた彼は、既視感と共に軽い眩暈を覚えた。
「人の女に手を出すんじゃねぇよ、この優男が」
 怒鳴り散らすオルセと、困惑顔の店主。おろおろと周囲を見回すメリダと。それから。
「これは失礼。先にお約束があるとは存じませんでしたので」
 嫌味かと思われるほど丁寧な口をきく青年。つくづく自分はこういった揉め事に縁がある――そう考えると頭が痛くなる。しかし今回絡まれているのは、縁もゆかりもない青年である。彼がどうなろうと知ったことではない。ジェリオは騒ぎを無視して、二階に上がろうと階段に足をかける。
「ジェリオ! ジェリオ、何とかしてよ」
 ところが、そうも行かなかった。血相を変えたメリダが、腕にしがみついてくる。彼女は潤んだ目をジェリオに向けて、必死に訴えていた。
「あのひと、オルセにのされちゃう」
 助けてあげて、とメリダは言うが。ジェリオにはまるで興味のないことであった。ちらりと青年を一瞥して、
「いいんじゃねぇのか? いい剣下げているようだし。そう簡単にやられることはないだろうよ」
 適当に彼女をあしらい歩を進めようとした。そのとき。
「ふざけやがって」
 オルセが抜刀したのだ。
 懲りもせずあの男は。――ジェリオが眉をひそめるのと。店主が「表でやってくれ」と叫ぶのと。青年が謎めいた笑みを浮かべたのは、ほぼ同時であった。
「……?」
 キン、と。一度、金属の触れ合う高い音がしたかと思うと、長剣が宙を舞っていた。それが回転しながら床に落とされる前に、白い腕がすぅとのばされ、器用に柄を掴む。
「被害は最小限にね」
 片目を閉じた青年は、いつの間に抜いていたのか。蝋燭の明かりを煌かせる白刃を芝居じみた仕草で鞘に収めた。その一連の動作はまるで舞を見ているようで。ジェリオもメリダも。店主も、当のオルセも。言葉もなくただ彼の動きを見守るだけである。
(剣筋が、見えなかった?)
 知らず、階段の手すりを掴む手に力が篭る。ジェリオは目を細めて青年を見た。簡素な旅姿の青年。わりに軽装に思えるのは、馬や馬車を使って移動しているからだろうか。黒髪黒瞳のその姿は、どう見ても南方の出身である。南方――と考えて、ふとアグネイヤを思い出す。そういえば、彼女の剣筋も、読みにくいものではなかったか。
「お目汚しをしたようですね。このあたりで、失礼させていただきましょうか」
 くすりと笑う青年は、先ほどまでの気障な雰囲気はなく、どちらかといえば寧ろ愛嬌があって親しみやすかった。彼は机の上にオルセの剣を置き、
「かなり傷んでいますね。職人さんに見ていただいたほうがいいですよ。これじゃ、野菜も切れやしない」
 懐から公用硬貨を数枚取り出す。これで修理をしなさい、といわんばかりの行為に、オルセも眼を吊り上げたが。
「ご迷惑をおかけしましたからね。今夜は、すべて私の奢りということで。みなさん、お好きなものをお召し上がりください」
 続いて出された袋一杯に詰められたアンディル金貨を見て、表情を一変させる。神聖帝国の時代より、大陸随一の信用性を誇るアンディル硬貨は、どの国でも喜ばれる通貨であった。店主もこれには相好を崩し、青年に更に酒や料理を勧めようとするが。
「わたしは、少し酒が過ぎましたので。もう失礼致します。みなさま、よい夜を」
 慇懃とも思える礼を残し、店を去っていった。
 最後にちらりとジェリオを見て、微笑んだような気がしたのだが。それは、あくまでも気のせいかもしれない。
「すてき」
「そりゃー、よかったな」
 恋する乙女さながらに、のぼせ上がったメリダを一瞥して。ジェリオはアグネイヤの待つ部屋に戻るべく一歩を踏み出した。



 まだ、頭が重い。
 ゆるゆると円を描く視界を避けるように、イリアは再び目を閉じた。気分の悪さも抜けきらず、下手に動くと吐き気を催す。せっかく作ってもらった薬湯が、寝台の傍らで冷めて行くのを申し訳なく思いながらも、彼女は身を起こせないでいた。
「気分はどうじゃな?」
 寄り添って看護をしてくれているのは、育ての親である老婆だった。イリアの属する旅の一座の長に当たる人物である。彼女は事実イリアの祖母でもあった。早くに亡くなった両親の代わりにイリアを育て、己の持てる全ての技量を孫に注ぎ込んでくれた人物である。
「だめみたい」
 ようやっと口が効けるようになった。そのことだけでもありがたいとイリアは神に感謝する。昨夜の占いで受けた衝撃は並大抵のものではなく。下手をすればそのまま魂を何処かに連れて行かれるところであった。
「まあ、無理もないからの。聞けば、その娘。古代紫の目をしていたそうではないか」
 老婆の言葉に頷きたくとも、首すら動かせない。なんとか動かしても大丈夫そうな人差し指をもたげて、ぱたぱたと二度振れば。老婆はそれを肯定と受け取ってくれたらしい。更に言葉を続けた。
「古代紫は、神聖帝国皇帝の証。我らが主の証。そして、イリアの占いの結果がそうなのであれば」
「見つけた、のね?」
「ああ」
 長年探し続けた、神聖皇帝。彼女らは、主となるべき皇帝を探して、長い長い旅を続けているのである。
「旅は、終わり?」
「さてな」
 老婆は曖昧な答えを返す。
「まだ、見つかっただけじゃよ。皇帝陛下が。――そして、イリアの『婿殿』がな」
 老婆がくぐもった声で笑う。婿、の言葉にイリアはうっすらと目を開けた。神聖帝国皇帝にして、イリアの婿となる人物。夕べ出会ったあの少女が、探し求めていたひとなのだ。
「アグネイヤ」
 心に刻まれたその名を呟いて。イリアはゆっくりと自身が導き出した占いの結果を反芻していた。


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